by つぶら
今の世の中何だってありだとは思ってはいたけど、まさか、百円ライターに火をつけられるなんて、思ってもみなかった。
ちょっとテレビの方を向いた隙に、耳元をカチッとやられた。
全くもって、これは刺激的な体験だった。
…ドキドキした。
以来寝ても覚めても、あの百円ライターの「カチッ」という響きが耳から離れない。
少し乾いた、無垢な音。まるで孤独を鳴らしてるような響き。自分の体にそんな音があったなんて、少々驚きだった。そして何よりも、百円ライターが僕の耳元にそっと触れたときのあの、背筋がぞくぞくするような感覚。
妻に耳を噛まれるときよりも、生まれて初めてキスをしたときよりも、もっとずっとドキドキした。甘く痺れるような、まるで体中に電気が走るみたいな感じが、あれからずっと忘れられない。
あの日以来時々、妻の目を盗んで、僕は百円ライターとの悦楽にふけるようになった。
指先でそっとくすぐるようにすると、彼女の体が悦びに震えるのが、全身から伝わってくる。
そんな彼女の四角い、乾いた体を、僕の少し湿った手の平でするりと撫でると今度は、あの火をつけられたときに似た感覚が、僕の体中を駆け巡る。それで僕はすっかり嬉しくなって、百円ライターの小さな体を手に取り、その冷たい皮膚にそっと口づける。
時々、僕の愛撫に応えて、あの日みたいに百円ライターが僕の体に火をつけ返してしてくれることもあったけれど、何度されても、その行為にあの時ほどの歓喜はなかった。
足りない、足りない。
より強い快楽を求めて、僕はあれこれと百円ライターをいたぶり続けた。それは僕の今までの人生にはない、刺激的な日々だった。
けれど、多くの背徳的な行為がそうであるように、僕と百円ライターの蜜月もまた、そう長くは続かなかった。
終わりは、何の前触れもなくやってきた。
それが告げられたのは、彼女がガスを使いきってライターとしての価値を失ってしまったときでも、僕が彼女を弄び過ぎて彼女の体を壊してしまったときでもなく、重い買い物袋がどさどさと落ちる音と、妻の悲鳴のような声がしたときだった。
「何をしてるの!!」
そのとき僕たちはちょうど、火をつけないままに百円ライターのフリントホイールをくるくると回すという、彼女のお気に入りの愛撫に興じていた真っ最中だった。
傍から見れば、ただそれだけのことをしていただけだったのに、多分妻は、女の勘というヤツでそれ以外の何かを感じ取ったのだろう。
僕と百円ライターは、まるで悪戯を見咎められた子供みたいにかしこまって床の上に座ると、しゅんとしていた。言い逃れはできない、と思った。
「何をしているのかって、訊いてるのよ!」
妻のヒステリックな叫びにも、僕たちはただひたすら黙りつづけていた。すると妻は、つかつかと僕のそばまでやってくると、
「こんなもの!!」
そう言って百円ライターを取り上げると、思いきり窓から放り投げた。くるくると回転しながら表に飛び出していった彼女は、ベランダのコンクリートに叩きつけられると、あっけなく割れた。
それで、僕たちの蜜月は終わりだった。
以来僕は、煙草を吸うときには、使い捨てではない、オイルライターを使用することにしている。妻にあらぬ疑いをかけられるのが面倒だったし、何よりも、また彼女のようなライターに出会ってしまうのが、嫌だったのだ。
新しいヤツは、手入れは多少面倒くさいけれども、丈夫で火力が強くて、僕が煙草を吸うためにはたいそう役に立ってくれている。けれど、こちらが話し掛けてもうんともすんとも言わず、ましてや僕に火をつけてくれるなどということは、決して無い。
新しいライターで火をつけられた煙草を吸いながら、僕は今でも思い出す。あの失われてしまった百円ライターのことを。
僕と百円ライターの、あの甘く退廃的な日々と、密やかに続けられた、あの官能。
時々街で、彼女と全く同じタイプのライターを見かけることがあるけれど、僕は絶対に、手に取ることはしない。何故ならそれは、彼女と同じ姿形ではあっても、決して彼女ではないからだ。
あの百円ライターを失ってから、ようやく気がついた。笑われるかもしれないが、僕は彼女に恋をしていたのだ。
了