by きみよし藪太
確かに多少怪しかろうとなんだろうと、安くてできれば腕の良い医者を教えてくれ、と言った覚えはある。
「……でも、冗談にしか思えねぇよ」
上手く深呼吸ができなくなったのが一週間ほど前。変な咳が出るので風邪を引いたのかと思っていたら、次の日には吸っても吸っても肺まで空気がきっちり入ってこないような、中途半端な呼吸しかできなくなっていたのだ。ちょうど大学で同じサークルに入っている奴が、肺に穴の空く病気で去年入院したこともあり、なんだか怖くなって友達に病院を紹介してもらったはいいのだけれど。
「レントゲン撮って見ましょう、ああ君、患者さんを隣のレントゲン室へ」
聴診器を僕の胸に当てていた医者のその手は、灰色のやわらかな毛でびっしりと覆われている。最初はコスプレかと思った、子供の患者を怖がらせないためとか、そういう。ひくひくと鼻を動かしている、白衣の医者はどこからどう見ても等身大のうさぎだ。本物の、うさぎ、ピーターラビットみたいに服を着て立っている。
「じゃあ秦野さん、こちらへどうぞぉ」
うさぎの医院、というのがこの病院の名前だった、でもまさか医者自体がうさぎなんて、誰が想像するというのだろう、しかし他の患者はそれを少しも不思議に思っている様子はなかった。
「秦野さあん、」
「ああ、はい、」
呼ばれて看護婦さん――今は看護士さんって言うんだそうだけど、味気なくてその呼び方は大嫌いだ――の方を向くも、こちらは多分白衣の代わりなんだろう、ピンク色のバニーガールの衣装を纏って白い編みタイツを穿いているお姉さんがにっこりしてくれるので僕はますます混乱する。ご丁寧にお尻にはまあるい尻尾。すらりと長い脚は棒みたいに細いわけじゃなくてちゃんと筋肉が適度についている理想的なシルエットで、ちょっとくらくらしてしまう。胸なんかはちきれそうにむちむちだ、くっついている尻尾を触ってみたいという衝動と同じくらいの強さで、もしくはそれよりもうちょっと強い衝動で、その胸に顔を埋めてみたい、と思ってしまうのは健全な青少年として仕方のないことだろう。とろりと眠たげな大きい目と、ぽってりした唇。本当にこの人は看護婦さんなのだろうか。隣の部屋へ連れて行かれて、では上半身だけ裸になってくださあい、なんて言われた、違う種類のお店に来ているみたいで、脈を図るとか心電図をとるとかじゃなくて良かった、と赤い顔して真剣にほっとする。
「……あの、」
「はあい、何でしょう。ああ、心配なのねぇ、うちの先生がうさぎちゃんだから。初めてきた患者さんはみんな心配するんですよぉ、でも大丈夫ぅ、ああ見えても腕は確かですからぁ」
もう何度も同じ質問を繰り返されているのだろう、看護婦さんは僕が何も言わないうちにさっさと――でものんびりと喋っていた、その舌っ足らずな発音は余計に他の店を想像させた――疑問に対する答えを口にして、用意ができたら呼んで下さいねぇ、と部屋を出て行ってしまった。腕が確かだろうと、人間をうさぎが診る、というのはどうなんだろうと思うのだけど、考えてみればペットを診る獣医さんは相手が犬であれ猫であれハムスターであれ亀であれ、人間の医者がつくんだからそれの逆だと思えば。
「……思っても嫌だな、大体どこの医大出てんだよ」
用意できました、とそれでも声をかけると、機械の前で息を止めさせられレントゲンが撮られる。服着て診察室へお戻り下さい、と言われたので戻ったら、もううさぎ先生はできあがったレントゲン写真を覗き込んであるのならそこら辺であろう眉の辺りにしわを寄せていた。
「秦野さん、」
「あ、はい、え、……穴でも空いてました?」
おそるおそる聞いてみると、うさぎ先生は首を横に振る。電気仕掛けのうごくぬいぐるみみたいで可愛らしい。
「穴は空いてないんですけどね、あなた……肺に釣り針が」
「……は? 釣り針?」
医者の専門用語だろうか、それならそんな単語出されても分かんねぇよ、とこっちも困った顔をすると、白黒のレントゲン写真をライトアップした壁に突き刺して見せてくれた。
「ほら、ここに」
「……あ、」
白っぽく浮かび上がった僕の肺の中に、確かにフック船長の片手のような釣り針らしきものが映っている。
「な、なんですかこれ!」
「釣り針です」
「え、それって専門用語ですか、ちょっと、僕釣り針なんか飲んでませんよ!」
「釣り針を飲んでたら胃に入ってるはずですよ。秦野さん、あなた魚ですね」
「は……?」
「釣り上げられるときに抵抗して糸を切っちゃってですね、多分にそれが肺の方に回ってしまって、残ってしまったのだと」
「……あの、冗談は、」
冗談なんかではないですよ、とうさぎの医者は怖い顔をした。
「秦野さん、上手く深呼吸ができなかったり変な咳が出るのは当たり前です、あなたは魚なんですから、陸にいるのが不自然なんですよ」
「冗談はよしてくださいよ、じゃあなんですか、僕に海へ帰れって言うんですか!」
興奮しすぎたせいか、僕は咳き込んでしまう。医者はすぐに穏やかな顔付きに戻って、大丈夫ですから、と僕の目を見て言った。
「今はいい治療法がありますから、心配しないで下さい」
こいつの頭を治療した方が早いんじゃないかと僕は思う。もっと早いのは、人間の病人は人間の医者に診てもらうのが正しいのだとここを飛び出すことだ、でもそうしたらどうやって保険証を返してもらおう。
僕の心配顔など気にした様子もなく、うさぎの医者はカルテに何か書き込みながら告げた。
「人間に恋することですよ、そうしたらあなたも人間になれます、ただしその恋は成就させて下さい。人魚姫、知っているでしょう? あれが世界で第一号目の患者なのですよ、残念なことに結果は最悪なことになってしまいましたがね。でも恋が成就すれば大丈夫、あなたも立派に人間になれます、肺呼吸ができるようになって、深呼吸だってし放題ですよ」
「も、もしも恋が実らなかったら?」
「海の泡ですよ、もちろん」
「マジで!?」
うさぎ先生はちっとも表情が変わらないので見ていて怖い。言うこといちいちに真実味がありそうな、でも顔がうさぎなのですべて「うっそぴょーん!」で片付けられてしまいそうな。
「あ、あの、」
「はい、なんでしょう?」
恋しなければ騙し騙しこれから陸で生きていけるんですか深呼吸を諦めて、と聞きたかったのだけれど、なんかそれも恰好悪い気がしてやめた。代わりに、看護婦さんのことを聞いてみる。
「あれって、先生の趣味なんです?」
「はい? ああ、白衣のことですね、」
あれは白衣じゃなくてレオタードみたいなものだと思うけれど。
でもうさぎちゃん先生は僕の作った変な顔に気にも留めず、うさぎの病院ですから、とだけ答えた。ちっとも答えになってなかった。
水曜日は前の日と違って一限から授業がある。大学で取れる資格はすべて取っておこうかと考えたせいで受けてしまった、司書の資格を取るための「情報社会における図書館のあり方/現代図書館論」などというかったるい講義に出るために第三講義室へ行くと、うさぎの医院を紹介してくれた有田がすでに来ていた。僕の姿を認めると、片手を上げて隣へ来いとジェスチャーする。
「有田、なんだあの病院!」
おはよう、も言わずに僕は文句を口にした。一瞬怪訝そうな顔をした奴は、すぐに納得の表情になり、なんか問題でもあったか、と逆に聞いてきた。
「いいだろう、あそこの看護婦バニーちゃんで」
「あんなふざけた病院があるもんか、なんで医者がうさぎなんだよ!」
「医師免許持ってるからだろ、腕は良いぞ、風邪引いたりすると俺、あそこ行くもんね」
で、お前の呼吸困難なんだって、と聞かれて、僕は口篭もる。
あなたは魚で、元々えら呼吸なのだから陸上で肺呼吸ができないのは当たり前で、でも人間に恋をしてそれが成就すれば人間になることができるので病気が治りますよ、と言われたなどと、どう説明すればいいのだろう。もちろん、そのまま言われた事を繰り返してもいいけれど、僕が実は魚だったんだと知られたら気味悪がられないだろうか。別に、自分が魚だなんて、これっぽっちも信じているわけではないけれど。
「なんか、恋でもしろって」
「なんだ、青春期の気のせい的病気か」
「なんだよそれ」
「息苦しい気がするってやつ、お前好きな子でもできた?」
「できてたら恋しろって言われないと思うぞ。なあ、あの医者本当に本物か? 信用していいのか、騙されてるだけのような気がするぞ」
俺ちっさい頃から通ってるしうちの家族も行ってるし親切で良い病院だぞ、と有田は当たり前のような顔をしてさらりと言うので、それ以上の文句は言えなくなってしまった。医者がうさぎでも、なんの疑問も抱かない家族はいるのだと感心するような驚くような、しかもそれが自分の友達なのだから類友、というものを考えれば自分だってあの医者を信じる資格があるのではないかと思えてきてしまう。
「あれ、なんで秦野、スリッパなんか履いてんの?」
脚を組んだ時に、でかでかと大学の名が入っている水色のスリッパを見られて聞かれる。
「昨日の夜、雨降っただろ、」
僕のアパートからは大学の正門より裏門の方が断然近い。しかしコンクリート舗装してある正門の道と違って、裏門の方は粘土質の土がそのままになっている道で、雨が降ると水はけが悪く、水溜まりができやすい。朝、遅刻しそうになっていた僕は、何も考えず普段通り裏門から飛び込んで、水溜まりに思い切りはまったのだ。
「靴下もジーンズもびしょびしょでさ、靴と靴下は仕方ないから部室で乾かしてもらってんだけど」
「お前もなんつうか、おっちょこちょいな奴だな」
うるさいよ、と有田を殴る真似をすると、すぐ近くに座っていた女の人が驚いた顔をしてこちらを見たので、僕は気まずくなる。図書館の司書の資格を取りたい人間はほとんどが女の人で、時々男も混じるけれど「本が大好き!」みたいな、ちょっと暗そうな奴ばかりがこの学校では多い。僕や有田みたいに、授業受けてるだけでくれる資格があるんだったら貰っておこう、という奴はどちらかというと少ないようだった。
よぼよぼのおじいちゃん先生がチャイムの鳴り終わった二、三分後にやってきて、そこで一斉に私語がやむ。誰も喋らないのに僕だけが有田に話し掛けるわけにもいかず、テキストを広げた机に両手で頬杖をついて、僕はぼんやりと黒板を眺める。耳に入ってくる授業の内容はもう片方の耳から抜けてしまうばかりで、僕が考えていたのは昨日の病院で言われたことだった。確かに診察料は高くなかった。千円を超えなかったし、薬も特に出されなかったし、けれどあなたは魚です、と言われてどうすればいいというのだ。恋をして成就すれば人間になれる、と言われても、僕は今人間の姿をしている、肌だって別に鱗で覆われているわけでもなく、首のところにえらがあるわけでもない。魚です、と言われても。水泳だってものすごく得意でもないし、大体肉食より魚食の方が好きなのだ、共食いしていることになるのだろうか。人魚姫は王子様に恋をして、声を失う代わりに魔女から二本の脚を貰ったけれど、僕には最初から脚もあるし、声だって普通に出る。
「……狐にでも化かされたんか」
「ん、なに、消しゴム忘れた?」
「あ? いや、全然違う、ひとり言、気にしないでくれ」
思っていたことがつい口に出てしまっていたらしい、有田が消しゴムを差し出してきた。どんな聞き間違いだ、と思いながらも、それを断る。
結局授業など少しも耳に入らず、当然のように頭にも残らないまま一時間半が終わってしまった。居眠りもできなかった。考えていたのは人魚姫の話ばかりで、そういえば子供の頃あの話の理不尽さに怒った記憶がある。命の恩人を間違えた馬鹿な王子に恋をしてしまったために、自慢の美しい声どころか最後にはその生命まで失ってしまう人魚姫。
脚を組んだままの姿勢で長時間居たためか、授業が終わった頃にはすっかり片足が痺れてしまい、立上がろうとした途端によろけた。思わず手をついたのがまずくて、そのまま机の上に出されていた有田のリュックを指先が引っかけ、チャックの開いていたそれは中身を飛び出させて転ぶ僕にお供してくれる。しかも僕は机の足で後頭部をいやと言うほど打ち、あまりの痛さに頭が真っ白になってから目の前が真っ暗になってしまった。
「おいー、秦野ぉー」
有田の馬鹿にしたような声と、他の生徒のくすくすと笑う声を耳が拾う。じんじんと痛む頭が本気で痛くてしばらく声も出せずにうずくまっていたけれど、痛みに慣れてくると僕がぶちまけてしまった有田の荷物が視界に飛び込んできた。
教科書とゴムで一括りにされたペン類とノートに財布、それに林檎。つやつやで多少歪な形ながら真っ赤できらきらしている赤い果実。
「ああっ、昼飯のデザートが……。おい、秦野、大丈夫か起きれるか」
笑い声のままで安否を気遣われても嬉しくなく、僕はわざとその場に転んだまま黙っていた。すると有田が急にしゃがみこんで来て、眠ってるなら王子がキスしてやるぞ、とまた笑った。
「わっ、大丈夫だから、やめろよ!」
「いやーん、拒否されちゃった、切ないわぁ」
わざとらしい有田のオカマ言葉にまた周囲が忍び笑いを漏らす。
「誰が王子だ、ジジイみたいな顔しやがって!」
「失礼な、ちょっと年より大人びた顔してるだけじゃないか」
有田が王子でそのキスで僕が目覚めるとしたら、まるで眠り姫じゃないか。それともオプションで林檎がついてきたので、白雪姫だろうか。やめてくれよな、と僕はずきずき痛む後頭部を撫でさすりながら起き上がる。
頭にたんこぶを作った御伽噺はあっただろうか。
「おい、マジで大丈夫か? なんなら保健室行くか?」
「……別に頭切れてたりするわけじゃなさそうだし、大丈夫だって」
「じゃ、まんま次の講義室行くか?」
「あ、その前に靴乾いてるかだけ見に行ってくる」
名前だけ登録してあるようなトレッキングのサークルで、窓を開けると日当たりのいい場所に棚が置いてあるのでそこへ乗せてきてあるのだ。
「じゃ、次は田中のババだから遅刻しないで来いよな」
「あー、あん人の授業か次……」
靴が乾いているといいのだけれど、と後頭部を知らず知らずまた触ってしまう。どうもこぶができているようで、僕はため息を吐きながら講義室を出て、有田とは逆方向に背中を向け合い、また後で、と別れた。
トレッキングとかするだけだし部員減少で存続の危機だから名前だけでも貸してくれ、と言われて入ったトレッキング部の部室は、大学の部室棟と呼ばれる建物の一階の一番端に存在している。トレッキングってなんだと聞いたら、ちょっと山道を歩く長めのハイキングだ、と言われ、歩くのは嫌いじゃないから名前だけじゃなくてちゃんと参加するよ、と言ってしまったら、二度登山をさせられた。それからは名前だけの幽霊部員にしてもらってある。
十五分しか休み時間がないので多少小走りで部室に駆込むと、中には中身が詰まった寝袋が転がされていた。
「なんだこりゃ……って、ぎゃっ!」
ビニール紐と麻紐でぐるぐる巻きにしてあるので、中身がなんだかちっとも分からなかったそれはいきなり僕の目の前でびくりと跳ねた。縛られているためそんなに大きな動作ではなかったのだけど、まさか動くものだとは思っていなかったせいでつい大きな声を出してしまう。
「だっ、誰か入ってるんですかっ、」
恐る恐る近付いて顔の付近を覗いてみると、ひとつ年上の先輩が真っ赤な顔をして詰め込まれていた。タオルで猿轡まで噛まされている。犯罪かと思って慌てて周りを見回す。荒らされた形跡もなさそうだけど、元々汚い部室なのでよく分からない。先輩をこんなにした犯人がどこかに隠れている様子はなく、巻き添えをくらって僕まで同じ目に会いそうな様子もないので、急いで寝袋のチャックを開けて口のタオルを外した。先輩は中でも手脚を縛られていて、ひどく異様だ。
「どうしたんっスか!」
「……や、山の掟を、」
「山の掟?」
「み、みんなで、分け合わなくては、ならない、食料を……」
「は?」
「俺がひとりで食っちまったもんで……」
何を言っているのか分からなかったけれど、とりあえず手脚を自由にして持っていたお茶のペットボトルを渡してみる。
「飲みかけですんませんけど、」
キャップを外すが速いか、先輩は一気にお茶を飲み干して長い長いため息をついた。一体どのくらい簀巻き状態で放っておかれたのだろう。
「いやあ、秦野が来てくれて助かった! 朝からこんなんでさ」
まだ赤い顔をしたままの先輩が笑う。
「何したんですか」
「やー、しの屋の鯛焼きって美味いじゃん?」
「はい? しの屋の鯛焼きは確かに美味いですけど、……先輩、話が見えないっすよ」
「高木がさ、しの屋の鯛焼き買ってきたんだよ、今朝。トレッキング部みんなで食ってくれって持ってきたんだけど、朝は俺しかいなくって。で、腹減ってたしさ、黙ってりゃバレないと思って食っちまったんだよ、全部」
「……ちなみに、いくつ?」
「十七つくらいか?」
朝から鯛焼き十七つとは。想像しただけで口の中が甘くなって、う、となってしまう。
「……で、恨み買って簀巻きっすか」
うんうん、と先輩は頷いて、空になったペットボトルを指差した。もうないっすよ、と答えると、露骨にがっかりした顔を作る。
「はー、山の掟だよ、採れたものはみんなでちゃんと分け合って、ひとかけらはちゃんと山の神様に残しておかないとな、罰が当たるんだよな」
「あ、どっかで聞いた話っすね」
「あれ、秦野知らない? 龍の子太郎の話」
母親がヤマメだかイワナだかを人数分食っちまって、祟りで龍にされたもんで、反省を込めて自分の子供の太郎と身体ぶつけて山削って湖だかを作ったって話、と言われて、なんとなくそんな昔話があったような気になってくる。
「またそういう話かよ……」
「うん? なんだ?」
「いえ、こっちの話ですけど、あ、先輩、人魚って肺呼吸ですか、エラ呼吸ですか?」
「は? 人魚? なんだそれ、どんな謎かけだ?」
「あ、別にそういうんじゃないんですけど、あっ、」
ふと時計を見ると講義開始時間の三分前だった。
「うわっ、次田中の講義なんっすよ、ちょっと俺、行ってきます!」
図書館経済学の田中は遅刻と欠席を同等に扱う口うるさいおばさん先生で、他の講義は遅刻三回で欠席一回とするのにこいつの時だけは遅刻一回でもう欠席扱いにされてしまう。けれども前期・後期と一度も遅刻、欠席のない生徒にはそれだけで単位をくれるという噂もあり、司書資格には必修講義なのでできるだけ楽して取っておきたいのだ。
結局靴も靴下も乾いていたのかいないのか分からないまま部室を飛び出した。仕方がないので帰りにでも取りにこよう、でもまた先輩が簀巻きになっていたら嫌だな、と思いつつ。
本館に戻って、四階までの階段を一気に駆け上がる。一段抜かしなど悠長なことはしていられないので、一度に三段くらいを飛び越してみたりする。
息を整えるのなんて教室に入ってからでいいや、と思うので、肺が悲鳴を上げるのも気のせいにしていたのだけれど、三階の踊り場で上から悲鳴が聞えたので、その時はさすがに立ち止まってしまった。
「な、に、」
見上げたところにピンク色のパンツ。は? と思っていたら、それこそ映画だのドラマだのみたいに恰好良く荷物を放り出して両手を広げて、なんてしている暇もなく、僕のところに女の子が降ってきた。ラピュタのシータみたいにスローモーションではなかった、直接、ドンッ、という感じで、投身自殺の人に上から降ってこられて死んじゃう通行人ってこんな感じなのかな、なんて衝撃を受けた時にちょっと、なんだか呑気にそんなことを思った。痛みを感じる前までは。
「痛ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「きゃぁぁぁぁぁっ、ごっ、ごめんなさっ、」
階段を上りかけていたとかではなかったのが幸いしたのだろう、踊り場の平地にいたので僕は落ちてきた人にぶつかられて大きく後ろにしりもちを付きつつ倒れた形になった。尾骨を打ったらしい、背筋をしびれるほどの痛みがびりびりとまっすぐに走って頭へ抜ける。それで恰好悪いことに、思わず、ぎゃっ! と叫んでしまった。目が飛び出る、だとか、髪が逆立つ、とか、そういう表現はまさにこういう時の為の表現なのだ、と思ったけれど、本当はちょっと間違っているのかもしれない。
しかし、こんなに大声を出した後でも深呼吸ができないのは、喉元が気持ち悪くて仕方がない。
「っ痛たた、た、っと、そっちは、だいじょぶ?」
「はあい、大丈夫でぇ、あ、れ?」
予鈴が鳴ったのはその時だった。僕は自分でも信じられない勢いで立上がり、吹っ飛んだ荷物を拾って階段を駆け上がった。打った尻の痛みも感じるのを忘れて。
「あの、」
「悪いっ、この講義だけはヤバいんだ、行く!」
「い、痛みとかはぁ、」
急ぎ過ぎてスリッパの片方が途中で脱げた。でも気にしていられなかった。どうせスリッパなんて片方落ちてたって、誰かが拾って来客用下駄箱なんかに戻しておいてくれるだろう。戻してもらえなくても、それはそれで仕方がないのだ、スリッパの運命まで気にしていられない。
「あのぅー、」
後ろでぶつかってきた女の子の声が追いかけてきたけれど、僕は振り向かなかった。こういうのを出会いとして、恋人を作る人間なんかもいるのだろうけど、どうも僕にはそっち方面の運も才能もないらしい、哀しすぎる。
前言撤回。
田中の授業にギリギリどうにか間に合った僕が講義を終えて出た廊下で会ったのは、さっき階段から降ってきた女の人だった。多分。顔なんかちゃんと見ていなかったので分からなかったけれど、彼女の右手にスリッパが掴まれていたので、きっとさっきの人なんだろうと見当をつけただけだ。でも、それは当たっていたみたいで、彼女は僕の顔をちらりと見てからすぐに足元へ視線を落とし、何かを確認するとまたにっこり笑って僕の顔へ目線を戻した。
「よかったぁ」
ぽってりした唇は真っ赤で、その左斜め下にひっそりとついているホクロが、とてもいやらしくていい感じだ。眠そうな目もこれがまた、とスケベ親父のようにじろじろと見つめてしまってから、僕はこの人をどこかで見た事があると感じた。どこでだろう、つい最近の記憶のような。
「さっきの人ですよねぇ、秦野さん」
「えっと、さっき階段から降ってきた人ですよね、身体大丈夫ですか、って、あれ、なんで俺の名前……」
一緒に出てきた有田が肘で僕の脇腹を突付く。いつナンパしたんだよ、と言いたそうな視線を送ってくるけれど、ナンパはしてない、パンツを見せてもらって痛い目に合わされただけだ。
「分かんないですぅ? んふふ、今日は制服じゃないから。ほら、」
右手にスリッパを持ったまま、彼女は頭の上に両手を掲げて、ひょこひょことうさぎの耳のような動きをした。それから、お尻に手をやって、丸い形を作り、尻尾のようにぴこぴこと動かして見せて。
「あっ、うさぎの病院の看護婦さん!」
「うふふふ、そうでぇす、当ったりぃ」
「なんでこんな所に?」
聴講生なんですよぅ、とバニーちゃんがにっこりした。
「生涯学習論の」
そういえばその講義をしている佐々木教授がとても有名な人だったことを思い出した。確か学校案内パンフレットにも載っていたはずだ。しかし、と失礼なことを考えてしまう。こんな風俗の店にでも勤めていそうなお姉ちゃんが看護婦でしかも真面目に大学の聴講生もやっているなど、人は見かけによらない。
「なんでさっきはあんなところに?」
「この靴履いてたら、」
階段踏み外したんです、と指差された彼女の足元に目を落とすと、いかにも歩きにくそうなピンヒールが見えた。
「あのさ、看護婦さんなんだから、もうちょっとそういうのって気をつけたら?」
「あっ、失礼ですぅ、そういうのって差別ぅ、職業差別ですよぉ」
「でも人に怪我させちゃ駄目でしょ」
えっ、と短い声を上げて、彼女の表情があっという間に真剣なものになる。
「どこか怪我させちゃいましたぁ?」
きびきびと喋っているつもりなのだろうけれど、この語尾を必要以上に伸ばすのはどうにかならないだろうか。
「いや、尻打っただけだけど……、」
でもこの真剣な、ちょっと潤んでる目はどこかそそられる感じで、いい。
彼女はずっと握っていたスリッパに気付いたらしく、慌てて僕の足元に置いた。有田が大袈裟に頷いて納得している。それでこいつは今の講義中片方だけ裸足だったのか、と。
「あのぅ、」
「はい?」
差し出されたスリッパを履こうとした時だった。
「あたし、責任取りますからぁ」
「はぁ?」
うさぎの医院のバニーちゃん看護婦はさっきの真剣なままの顔で僕を見ている。何の話かと思っていたら、いきなり腕を引っ張られた。彼女は有田に、この人ちょっと借りますぅ、と言って、僕にはなんの許可も取らずに勝手に歩き出した。そんなに乱暴に歩くと、またきっと転ぶだろう、そして今度は腕を掴まれてる僕も一緒に転ぶのだ。
「なんかシンデレラのようなそうでないような」
有田が呟いたのが耳に入って、また御伽噺かよ、と僕はうんざりした。
「あのさ、バニーさん、どこまで行くつもりなんすか?」
階段を引きずられながら危なっかしく下ってゆく途中で、僕は聞いてみる。
「俺、スリッパだから校外は出られないんすけど」
「えぇー、あーっ、」
そこで突然足を止められてしまったので、僕は彼女にぶつかり、階段を落ちそうになった。慌ててふんばる。階段を転げ落ちるのは蒲田行進曲だっただろうか、でもあれは御伽噺じゃない。
「じゃあー、どこでお話しましょう?」
「……腹減ってるんですけどね、学食とか行きます?」
「学食の場所、知らないですぅ」
「俺が知ってますぅ」
彼女の真似をしてみたけれど、気付かれなかったようだったので、特にフォローもせず今度は僕が先頭に立った。僕の靴はもう乾いているのだろうか、部室に顔を出したかったけれども、また簀巻きにされた先輩がいたりすると嫌なのでそれは後にすることにした。
「あたしのぉ、先祖が悪いんですぅ」
昼時の学食は比較的空いていた。普段あまり利用しないのでなんとも言い切れないのだけれど、どうもあまり味がよくないらしく、よっぽど金のない人間以外は購買部でパンでも買った方がまだマシだと思っているらしい。また、学食購入者以外は食堂使用禁止になっているので、スペースを使用している他目的の人間もいない。
「先祖? ……あの、霊感商法とかならお金ないんで、壷とか買えないけど、」
「壷なんか売りませんよぅ!」
憤慨したみたいに言われてしまったので、勢いで頭を下げてしまった。すんません、と付け足す。
彼女の前にはネギとかまぼこ一枚だけが浮いているうどんが、僕の前には肉どころかジャガイモやにんじんのカケラすら見えないカレーが置かれていた。両方とも水色のプラスチック容器に入っている。見た目も食欲も関係なし、みたいな感じだ。味より先に食器をどうにかすればいのに、と思う。
「あたしの先祖ぉ、人魚に、脚あげたって人物なんですぅ」
「……は?」
「あたし、魔女の子孫なんですぅ」
「……えっと、前世占いとか?」
「だから、秦野さんって人魚なんでしょ、だからえっとぉ、ごめんなさいってことで、責任取るっていうかぁ、」
「……バニーさん、あなたあんまり頭良くないでしょう」
「えぇー?」
さすがに院長を本物のうさぎがやっている病院の看護士さんというかなんというか。
「それだと、話おかしくなりますよ」
「なんでぇ?」
「今回は魔女、関係ないです、僕は声の代わりに脚貰ったりしてませんし、あのうさぎ先生が言ったのは病気の直し方の例としての人魚姫であって、俺が人魚なんじゃないですから」
「あぁーっ!」
「大体、責任取るって、何するつもりだったんですか……」
うどんの容器に箸を突っ込んだまま停止してしまっている彼女は、しばらく口を開けたまま僕の顔を見ていたりした。こちらも困ってしまって、まさかひとりでカレーを食べるわけにもいかずに、一緒になって停止してみる。
ようやく彼女が口を開いたのは、たっぷり一分以上が経過してからだった。
「……そっかぁ、ええっと、じゃあなんて嘘つけば良かったんだろぉ?」
「……あの、嘘つこうとした本人の前でそういうこと言うのやめて下さいよ、俺なんか騙したってなんになるんですか、壷なんか買いませんよ」
「壷なんか売らないもんー! 違うよぉ、あたしは秦野さんが好きなだけなんだもん」
今度は僕がカレー皿にスプーンを突っ込んだまま、絶句する番だった。
「……は?」
階段から落ちた時に、彼女も頭かどこかを打ったのだろうか。
「……だって、昨日会ったばっかで、」
「だってぇ、気になっちゃったんだもん、昨日あなた病院でぇ、山上大学の学生って言ってたでしょお? だから、本当はわざわざ来たんだもんー、聴講生なんて嘘なんだよぉ」
「マジで!?」
あんなにすらすらと生涯学習論の聴講生などというから、まんまと騙されてしまった。そういう嘘は上手につけるくせに、と僕はため息をついてしまう。
「……すごい行動力というか無鉄砲というか、」
大体俺のどこを好きになったんですかあんな短い接見で、と聞いてみれば、バニーさんはにっこり笑って、顔、と答えてくれる。ビジュアル系バンドの中に必ずひとりはいる、「ハズレ」みたいな顔の男だよね、とよく言われる僕は、バニーちゃんが世間とはちょっとズレた好みをしているんだろうな、と思う。
「じゃあ、あの階段から降ってきたのは……」
「あれは偶然なのぉ、びっくりしちゃった、運命ぃ、とか思ったのぉ」
「……痛い運命だったなぁ」
「んんん?」
「あ、いや、」
階段から降ってくる運命なんて御伽噺はあっただろうかと考えてみるけれど思いつかない。もしかしたら、これから僕が新しく作る御伽噺なのかもしれない。
「でも、恋をすればぁ、また深呼吸ができるようになるって病気ぃ、ちょっとロマンチックですよねぇ」
確かに女の子が好みそうな病気だけれど、そもそも僕はあのうさぎの先生をまだ信用し切れていないのでなんとも言えない。でも、もしもバニーちゃんとうっかり恋をして、それが成就しなかったら僕は泡と消えるのだろうか、それとも恋をしたのは彼女からみたいなのでこれはカウントされないのだろうか。
「深呼吸ねぇ、」
深呼吸がしたいが為に恋をするっていうのもどうだろう、と思いつつ、僕は安い学食のカレーにスプーンを預ける。
「秦野さん、人魚王子ですよねぇ」
「人魚王子?」
「人魚なのにぃ、あたしには王子様なんだもん」
王子様なんて目の前で言われるとものすごく照れるということを、僕は生まれて始めて知った。ついでにたまたま見てしまった彼女のピンクのパンツも思い出してしまう。不謹慎というか、失礼なのかもしれないけれど。
「ええっとさ、じゃあとりあえず、」
君の名前を聞いてもいいかなバニーさん、となんか恥ずかしい気がして頬を赤らめながら言ってみると、彼女がにっこり笑う。恋なんかしちゃったら逆に照れちゃって深呼吸どころじゃないんじゃないかな、なんて思いながらも、僕はつられてにっこりしてみた。
了