by 夜長
風ばかりが強くて、昼の熱気をはらんでいた夏草がその熱を右に左にゆさぶられ、全て放出させられた後の夕方。
私は、時々目に刺さるうっとおしい前髪を後ろにはねあげはねあげ、川べりの道を歩いていました。
川べりの道は深い草におおわれ、草はまるで怒っているようで、激しく倒れたり起きあがったりして私をおびえさせました。
どこから来てどこに行くのかわからない、不気味なごうごうという音に包まれて、長い長い暗い緑の道を、私は、たった一人、目的も忘れて歩いていました。
上流から下流までゆうに1つの県をまたぐその川べりの道を、どのくらい歩いたでしょう。私は何かの気配にふと目を上げました。すると、一人の少女が 向こうから歩いて来るのが見えました。
視線が合う距離まで来ると、少女は心細そうな、すがるような、でも、空洞のように光を吸い込む底知れぬ深い闇のような目をして、立ち止まり、私を見つめました。
「どうしたんだい?迷子なのかい?」
あまりに不安げな少女の表情に、私は彼女にむかって風に負けないように大声で話しかけました。彼女は目を細めましたがそれが風のせいなのか、 私の言葉を見つめようとしたからなのか、私には判断がつきませんでした。
私は小走りに彼女のそばに寄ると、口内に侵入してきてほほをゆらすほどに吹き付ける風をはき出すように「ま い ご かい?」ともう一度彼女にたずねました。
彼女は光のない澄んだ瞳でじっと私を見つめると、少し首をかしげました。
その瞳は、私が、この風の中でそんなに目を開けたらすっかり乾いてしまうのではないか、と、心配するほど大きく見開かれていました。
私は、今度は彼女の背の高さまで腰を落とすと、右手を額のところにかかげて、風をさえぎりながら、ゆっくりと
「ま い ご かい?」
ともう一度たずねました。
彼女は、動物のように感情の見えないきれいな目をして、私を少し上目づかいで見上げると、右手をのばし、人差し指と中指と薬指をゆるくそろえ、それを私の口元まで運んできて、ゆっくりと口唇をなぞりました。
そして、右手はそのままで、左手の指を一度全部にぎると、ひとさし指だけを一本ぴょこりと立てて、せがむような目をしました。
私はもう一度、今度は少しかすれた声で「まいごかい?」と機械のようにたずねました。
私の言葉は私の耳にさえほとんど届かず、風にさらわれてゆきました。
少女は、私がたずねている間、右手の指で私の口唇の動きをゆっくりとなぞっていました。しかし、なにか得心したような顔をすると土手のむこうを指さし、突然走り出しました。
私は耳をごうごうと打つ風の音を聞きながら、ただほうけたように、少女が白いワンピースのすそをひるがえして走り去る様子を見つめていました。
その日、私は家に帰ると彼女の幻影に悩まされました。
ベッドに横たわりぼんやりしていると、音のない世界に浮かんでくるのは、あちらにこちらに風になぶられている緑の背景の中の彼女のシルエットと、その白くてかわいらしい輪郭の中の不思議な黒い瞳、そして、風になびく白いワンピースでした。
そして、唇には小さくて冷たい・・・しかし、ふっくらと柔らかい、彼女の指の感触が生々しく蘇ってくるのでした。
気晴らしに音楽を聞いても、いつの間にか頭の中は彼女のことでいっぱいになり、彼女のすそのひらめきのリズムを乱す音は私をいらつかせるだけでした。
私は、いつしか音楽もテレビもいつも、ぼんやりと見つめている天井の模様さえ頭の中から しめ出して、この世の黄金律のような彼女の動きを何度も何度も反すうして、いつしか浅い眠りにつきました。
眠りは浅く浅く、それは、その日歩いた川べりの道を踏み外し、まるで川の中をもがきながら歩いているかのようでした。道は暗く、水は浅いのに、その底のねばねばとした泥は底知れぬほど深く、一足ごとに急いで次の足をぬかなければ、二度とはい出ることのできない闇の中にひきずり込まれそうで、私は唇の外には決して出ない「うんうん」といううめきをのどの奥でくり返ししながら、おそろしく長く思える時を過ごしました。
そして日の出と共にゆるゆると目を開け、じっとりと汗にぬれた、まるで機械のような重い体をなんとか起こし、頭をかかえました。
その時、私は、暗い暗い、闇のような夜を過ごしたら、彼女のあの天使の羽のような白いワンピースを自分にとり込まなくては とりかえしがつかない、そんな気がしたのです。
私はなんのあてもなく、またあの川べりの道にいました。
彼女と出会った場所を憶えているわけもなく、ただただ前日のように、朝つゆに濡れて足に重い草をかき分けながら歩きました。
そして、どのくらい歩いたか、私はまた再び少女の前に立っていました。
今度は午前の清らかな大気の中で。
彼女は私に気がつくと、私をぼんやりと見上げました。
「やあ」
私はできるかぎりの優しい笑顔をしてみました。
「また会ったね」
声はなんだか少し震えていました。
少女は思い切り背のびをして、また右手の指で私の口唇にふれようとしました。私ははっとかがんで、彼女の指が触れやすいように自分の口元をそばに持っていってやりました。
「また、会ったね。」
最後の音をゆっくりと発し終わった時、にっと笑うと、強く押しつけられた中指が口の中にするりとすべり込んできました。私は反射的に口びるをすぼませ それを軽く締めつけました。
小さく冷たい弾力のある指を口に含むと、私は泣きたいほど心臓が苦しくなり、苦痛に顔を歪ませました。
彼女は私をぽかんと見上げると、私の口から指をぬいて、また、あわてて、前の日と同じほうに走ってゆきました。
私は彼女を見送りながら口唇をかみしめました。そして、歯をゆるめ、口唇を舌でゆっくりとなぞりました。彼女の指があったその場所は、海のような味がしました。
そして、また意味のない時間が過ぎ、気の狂いそうな夜も明け、次の日も、私は少女に会いに出かけました。
暑くもなく寒くもない曇り空なのに、私は惨めにずぶ濡れになった気分でした。
たった二回の逢瀬なのに、もはや彼女がいないと、全ては涙を流さずに泣いて過ごしているような、全く無意味で、ただただ消耗するだけの時間でした。
また残酷に無数の草を踏みしめ進む時間が始まり、私は一足一足歩む度に、確かに彼女に会える、というあてがない絶望感に、自分が踏みしめている足下の草に合わせて、少しずつ自分の命も消えてゆく思いがするのでした。
ああ、しかし、私は再び彼女と会うことができたのでした。
私は、素早く、しかし、感動のありったけを込めて、この世の偶然を支配しているなにかに心の中で礼を言うと、今度こそ少女を逃がすまい。もし万が一逃がしてしまっても、彼女の家を見つけるまではどこまでも追っていこう。そう決心しました。
そして、ガンガンと頭の中いっぱいに鐘が鳴り響いているような異常な興奮を抑え、できるだけ優しく作り笑いをすると、彼女のそばに近づきました。
「よく会うね。」
少女にとっての「優しいお兄さん」ならこう言うであろう。という口調をイメージして落ち着いて発したつもりの言葉は、ニワトリが首を絞められたようなみっともない甲高い声でした。
だめだ、だめだ、失敗だ。きっと警戒されるに違いない。私は完璧な失敗に頭を垂れました。・・・それでも、やはり少女の反応が気になって、そっと彼女の表情を盗み見しました。
少女はぽっかりと開いた目を、瞬きもしないで、ただただ私のほうに向けていました。その目からはなんの表情も読み取ることはできませんでした。
もしかしたら、この子は白痴なんじゃないだろうか。そんな疑いが湧いて大きく一つ深呼吸をすると、奇妙なことに、私はすっかり腹がすわりました。
私は、少女の左横に立つと、優しく両肩に手をのせて腰をかけるように促しました。少女は無抵抗に土手の芝生の上に腰を下ろしました。
「君はどこの子?よく会うね。」
私は右隣の少女にゆっくりと語りかけました。
すると、彼女は私の言葉が終わるのも待たずに、かぶせるようにこう言ったのです。
「わたし、めがみえないの。」
私はぎょっとしてまじまじと少女の横顔を眺めました。
そうか・・・。そうだったのか・・・。
彼女の、美しいただ見開かれているだけのような瞳は、視力がない故。あの、私の口唇をなぞる蠱惑的なしぐさも、視力がない故、の仕業だったのです。
少女は、そのあまりに美しい飾り物の瞳をこちらに向けると、私の言葉を待っているような表情をしました。私はその表情のかわいらしさと、そのなにも映さないような瞳の魅力と、胸が締めつけられるほどにかわいそうだという思いとが頭の中でめちゃめちゃに入り交じって、思わず少女の頬を両手で包むと、そのまぶたの上に乱暴に口づけをしました。
私は、少女が一瞬身をこわばらせるのを感じました。
しかし彼女はすぐに力を緩めるとくすくすと笑って、私のなすがままに身をゆだねました。私はなんだかかーっと身が熱くなって、彼女のまぶたにめちゃくちゃに口づけをすると、私の絶え間ない攻撃にぎゅっと閉じたそのまぶたの合わせ目に舌を差し込みました。
彼女はびくっとしました。
私は彼女のまぶたの合わせ目をとがらせた舌先でこじ開けると、そのまま上まぶた側の合わせ目をゆっくりとなぞりました。
彼女の瞳は指先と同じ海の味がしました。
そして、また再びまぶたに今度は優しく優しく口づけると、彼女の肩に両手を添え、そっと体を離すと彼女が目を開けるまで待ちました。
少女は、私が離れる気配を感じると、蝶がゆっくりと羽化するように、その瞳を開きました。私が口づけたほうの瞳はまつげがぐっしょりと濡れていて、光がその先にキラキラと反射して、彼女が一つ瞬きをすると、まるで、小さな星が飛び散るようでした。
彼女は、その何も映さない瞳でじっと私を見つめました。その瞳は挑むような、成熟した女の目つきでした。
ああ・・・。
私は、もう彼女の瞳から逃れることができない自分に気づきました。
私は彼女を抱きしめると、再び彼女の瞳に口唇を近づけ、開いた口ですっぽりと片目をおおい、また舌先で彼女の瞳をこじ開けました。そして、ゆっくり、ゆっくり、舌先でその合わせ目を開いてなぞりました。
「くすぐったい?」
私が口唇を離して小さな声で聞くと、彼女は私の腕の中で少しぐったりした感じで
「ううん・・・。なんか・・・へんなかんじがする・・・。」
と、頬を紅潮させて息を弾ませながら、かすれた声で言いました。
私はその様子に我を忘れ、彼女の瞳にむしゃぶりつくと、そのゼラチンのような不思議な感触の眼球をなめ尽くさんばかりに、長い長い間愛撫を続けました。
それは、右目、左目と交代交代に時も忘れて続けられました。
「ねぇ・・・。おしっこ・・・いきたい・・・。」
少女のかすれた囁き声で、私ははっと我に返りました。
「ご・・・ごめん。」
なんだかとてつもなくいけないことをしていたような気分になり、私があわてて手を離すと、少女は向こうを向いてぱっと立ち上がり、にこっとこちらを振り返ると
「さようなら。」
といい、白いワンピースをひるがえらせて、いつものほうに走ってゆきました。
私はただただしびれた頭で「彼女のワンピースはどうして芝生に座っても真っ白なんだろう。」なんてつまらないことを考えながら、追いかけることも忘れて呆然と後ろ姿を眺めていました。
次の日も、私たちは待ち合わせも何もない逢瀬を楽しみました。
私たちが、このような野球場さえ持っている広大な川べりの道で出会えるのは、まさに運命とお互いの強い意志の力・・・そう・・・お互いの・・・に違いない。と、私は確信していました。私は、だれに聞くことなく、この少女は出会った時から自分のものであるはずだ。と思っていました。
生まれつき、母親似だ。と言われる美貌を持ったおかげで、私は女性に不自由したことはありませんでした。と言うよりも・・・むしろ、私の容姿に引かれ寄ってくる女性が後を絶ちませんでした。幼少のころから特に年上の女にからかわれ、嬲られて、私は心の底では女性不信と言っていいような感情を育てていました。
そんな私にとって、少女は陳腐なのですが、天使のように見えました。
四度目の逢瀬でまた前回のように彼女の瞳をひとしきり味わったあと、興奮さめやらぬ私は、その小さいももいろの口唇にくちづけてめちゃくちゃにむさぼりたい衝動に駆られました。そして、少女の口唇に自分の口唇を近づけました。すると、彼女はその気配を察して
「だめ。」
と、私の執拗な瞳への愛撫に興奮した声で絞り出すように言うと、身を引きました。
「どうして?」
私は情けなくなるほど懇願するような口調で言いました。
「だって・・・おばあさまが言ったんですもの。」
「なん・・・て?」
「『いきものにつばをあたえてはいけない』・・・って。おにいさん・・・私のお口にお口をつけようとしたんでしょ?」
「ど・・・どういうこと?」
少女は、自分がいろいろな生き物を飼っていること、そして、それらが非常によくなついていること。そして、それらの生き物になぜか唾液を与えるのが好きなこと。でも、ある日、それを祖母に見とがめられたことなどを話しました。
「おばあさまはね、『いきものは、つばをあたえられると、そのあいてからはなれられなくなる。』っていうの。きずなっていうのができちゃうんだって。でも、たぶん、それほんとうだとおもうの。だって、みんな、わたしととてもなかよしなんだもの。インコだって、おさかなだって、ちょうちょうだって、みんなとってもわたしのいうこときくのよ。」
少女はそういうと、話の間にだいぶ落ち着いてきたのか、いたずらっぽく微笑みました。
「だからね、おにいさんはわたしのおくちにおくちつけちゃだめなの。」
「どうして・・・さ。」
「だって、ねこちゃんとか、みんなみたいに、わたしのいうことなんでもきくようになっちゃうのよ。」
「でも・・・、お口とお口をつけて、私のつばも君にあげたら・・・どうなるさ。」
「んー。わからない。だって、そんなことしたことないもの。でも、たぶん、おにいさんがわたしのいうこときくようになるだけだとおもうの。きっと、そう。」
私はなにかぞっとするものを感じた瞬間、それを遙かに凌駕する、甘美な感情がわき上がるのを感じました。
「じゃまたね。」
私が恐ろしいような感情に陶酔しかけた時、少女は素早く立ち上がると、またいつものほうに走っていきました。
「あ・・・ちょっと・・・ねぇ!」
私は声を出すのがやっとでした。
どうしていつも彼女を追いかけることができないのでしょうか。
その日、家に帰ると、私は少女のことを考えました。
少女は先がうすももいろをした真っ白な小指の先にちろりと舌を出すと、唾液をそこに落としてゆきます。舌は透明な糸を引いてまたかわいらしい唇の中にしまわれます。
少女はその指先に盛り上がった液体を鳥かごの中に差し入れます。
鳥が寄ってきて、初めそれをついばむように味わうと、くちばしの先がもどかしいと、くちばしを横倒しにして、横から舌を出して落ちつきなく狂ったようになめます。
少女はそれを愛しそうに見つめて、事が終わると満足げにため息をひとつついて部屋に戻ります。
そして、水槽に近づくとそこに覆いかぶさるようにして小さな口を開けます。しばらくすると少女の口から透明な液体がゆっくりと流れ落ちます。
その液体は泡を含んで、水面に漂います。
先ほどから少女の訪れを察知してあわただしく口を水面に出していた金魚がそれを見つけて、また狂ったようにぱくぱくとそれを吸い込みます。
少女はまた満足げにそこを去ります。
少女が手を大きく振ると、部屋のどこからか蝶々が舞ってきます。蝶は彼女の白いワンピースの肩にとまります。少女は、インコの時にしたように小指の先に唾液を滴らせると、肩にとまった蝶に手のひらを近づけます。蝶は、手のひらに移り、もう口吻を伸ばしきり、それを別の生き物のように・・・まるで老人がつえをつくようにぺたぺたとあちこちにさまよわせています。そして、少女の指先の唾液を探り当てると、その液体に口吻を差し込みじっと身動きしなくなりました・・・。
そこまで考えると、私はもうたまらなくなって、ズボンに手を伸ばすと、ベルトを引き抜きました・・・。
次の日、少女を捜してさまよい歩いている間、私の中では奇妙な感情が交錯していました。
それは、彼女を思い自慰した自分を恥ずべきものだ。と思う感情と、彼女に唾液を与えられることを思い絶頂を迎えた自分を、彼女の取り巻きの生き物たちの一員になったように誇らしく思う気持ちとでした。
そして、私はまた少女の瞳をむさぼりました。
視力がないためか、時々寄り目のようになるその黒目には本当に不思議な魅力がありました。彼女の瞳は、いつも、まるで絶頂を迎えたあとの、魂が抜けたような女の瞳でした。
そして、彼女が清らかであるべき少女であることが、また、その瞳のエロティシズムを増しました。最も肉欲から遠く、私に最も肉欲を思わせる女。それが彼女でした。
その気になればどんな男でも支配できるようなその頼りない体。でも、だれにも支配されない、自分だけの世界を見つめ、何も映さないその瞳。その瞳は逆説的に全ての男を支配する瞳なのです。
・・・それから、もう何度彼女と会ったでしょう。数え切れないほどの逢瀬を重ね、それでも唇に指さえ触れずに、狂ったように瞳をむさぼり、想像の中で数え切れないほど彼女を汚した私でした。
「ねぇ、君の名前・・・そういえば・・・なんて言うの。」
今更、と思われたことでしたが、その日、私はふと彼女にたずねてみました。
「知りたい?」
彼女は私のほうを見ました。
ちょうどその時、彼女の瞳に逆光が反射し、きらりと輝きました。そして、不自然な角度で私を見ようとした瞳は、片方が真ん中で、片方が変に片寄っていました。
恐ろしく整った彼女の顔立ちの中で、そのアンバランスさが奇妙に生々しく、私は、思わず彼女の肩を強くつかむと、芝生の上に押し倒していました。
「あ!だめ!だめ!」
少女顔を左右に大きく振りました。髪がばさばさと乱れました。
彼女は私のしようとしていることが本当にわかっていたのでしょうか?それとも、ただ押し倒されたことが怖かったのでしょうか?それとも・・・私が口づけしようとしている。そう思って、それだけを拒絶しようとしたのでしょうか。
気がついたら、私は怒声の中羽交い締めにされていました。
「やだ!この子目が見えないの?こんな子になんて事を!」「変態!」
様々な蔑み、罵りの声の中、私は取り押さえられ、芝生に顔を押しつけられました。芝生がちくちくと頬を刺しました。
ああ、私は、彼女に何をしたんだ?口づけまではできた。した。したはずだ。でも、この口の中に溢れているのは私の唾液だけだろうか?口唇は触れただけだろうか?いや、確かに、あのかわいらしい口唇をむさぼったはずだ・・・。でも、でも・・・確信が持てない・・・。
それから月日が経ちました。あの事件は、少女が逃げてしまったことで、なんとなくうやむやになってしまったようです。
少女が逃げたことで、取り押さえた手が一瞬ゆるんだすきに、私も逃げました。
だれも追っては来ませんでした。そもそも、広い広い土手の中でたまたま私たちの行為を見つけた人間が騒いで、そこから寄ってきたのは、野次馬半分の烏合の衆ばかりだったのでしょう。
さすがに数日は、誰かが警察に訴えたのではないかという恐怖に支配され、電話が鳴るのを恐れましたが、一月が経ったころには、それもなくなりました。
ほとぼりが冷めたころ、私はあの川べりの道に行ってみました。彼女のことは、毎日狂ったように考えていました。気がつくと、玄関でウオーキングシューズを履いている、などということが何度あったかしれません。夜中に発狂したようにイライラと部屋の中を歩き回ったり、朝な夕なに泣きじゃくったり、慢性的な不眠に身も心もぼろぼろになりました。
でも、もし捕まってしまったら彼女とはずっと会えなくなる。それがただただ怖く、私はこの道に踏み出せずにいました。
そして、今日、興奮しながら、一歩川べりの道に足を踏み入れた瞬間、私は今までに感じたことのない気配を感じました。
そう、なんとなく、全てのものに歓迎されているという不思議な感覚です。草も、空気も全てが愛に満ちているような気がしました。そして、しばらく歩いていると、妙に虫がとまってきました。初めは羽虫ばかりで、気持ちが悪くて払っていたのですが、そのうちに蝶々がふうわりと私をめがけて飛んできた時、私は全てを悟りました。
「ああ、お前達も彼女に魅せられた仲間なんだな。」
彼女は、私がいない間も毎日ここに来ていたんでしょうか、退屈まぎれに自分の唾液を草に、虫に、飛んでくる鳥に与え、私を待っていたんでしょうか。本当のことはどうだかわかりません。でも、この川べりの道に感じる不思議な感覚は、間違いなく本当です。
そして、ここの全てのものが、彼女の体液を受けたとするならば、私もやはり、あの口づけの時にやはり、彼女の体液を体内に取り込んでしまったに違いありません。
あ、向こうから彼女がやってきます。私に気づいたのでしょうか、見えない瞳をめいいっぱいに見開いて、転びそうになりながらこっちに駆けてきます・・・。
少女は、私の近くまで駆けてくると、全体重をかけて抱きついてきて、私は思わずよろけて彼女を抱えたまま芝生に倒れ込みました。芝生がちくちくと体を刺しました。
「ばかね。ばかね。」
彼女はそういうと、私にめちゃくちゃに口づけました。私は、彼女の唾液で口の周り中べたべたになりながら、
「おいおい、口づけはだめじゃないのかい。」
とせいいっぱい大人ぶって、弾む息を落ち着かせながら言ってみました。
少女は、私から顔を離すと、その瞳で、私の瞳のあるあたりを捕らえました。彼女の瞳は濡れていました。そして、瞬きをする度にしっとりと濡れたまつげが輝き、それに押し出された水滴が頬に流れ、私に降り注ぎました。彼女の瞳が私の唾液ではなく、自らの涙で濡れているを見るのは初めてで、私は「目が見えない人でも泣くんだ。」と奇妙に感動しました。
彼女は口を開くと私の問いに答えました。
「ばかね。あなたはとっくにわたしのものじゃない。」
彼女の周りを、黄色い蝶と、白い蝶がぐるぐると飛び回っているのを見た瞬間、彼女の顔が覆いかぶさってきて、その長い髪が私の顔の周りを覆って、そして、この世には彼女の顔しか見えなくなりました。
見えることと見えないことはよく似ている・・・。
私は微笑むと、ゆっくりと目を閉じました。
了