by 丁
彼女、桐香は三年ぶりに故郷の土を踏んだ。田舎のプラットホームには黄葉したイチョウの葉が敷き詰められている。木製の無人駅舎を出て、砂利道を歩く。懐かしい感覚。見渡せば、黄金色の海。重い穂をつけた稲の海。涼しい風に揺られ、心地よさそうにそよいでいる。
「桐香ちゃん!」
ホッカムリをしたおばさんが、稲の海辺から手を振っていた。
「おばさん」
桐香は嬉しそうに駆け寄った。乾いた用水路を挟んで向き合えば、おばさんも相好を崩している。久美おばさんは桐香を子供の頃から知っていた。
「元気かい?」
「はい」
明るく答える桐香。彼女が故郷を後にして早六年が経っていた。ここ三年は海外に遊学していた関係で一度も帰省していない。
「よかったねえ、元気そうで」
おばさんは何度も、よかったねえ、と繰り返した。この小さな村では誰もが知っていた。桐香の過去を。彼女は少女だった頃、暴行を受けたことがある。犯人は中学の下級生たちだった。田舎の学校のことだから、警察には通報されなかったけれど。
彼女は犯人を恨むことはしなかった。むしろ同情したくらいである。この村では過去に何度も陰惨な事件が起きている。人の心に巣食う病。人間の暗い側面を如実に見た気がした。少年たちはその犠牲者だった。そして桐香は精神医学に志したのだった。
その半月後。桐香は実家の一室を改造し、村人のセラピーを始めた。彼女の家は豪農、と言ってよく、お金に困る事はなかった。家業を継いだ兄はそんな妹を誇りに思っていたらしい。桐香の専門は精神科だったが、ちょっとした治療くらいは出来たので、小さな診療所は大盛況だった。村人たちは、「天使がやって来た」などと囁き合った。
*
そんなある日、事件は起こった。
ある村人が殺されたのである。畑の中にある納屋で死体は見付かった。その頭には幾つもの穴が開いていた。無数の穴から流れ出した血が敷き詰めた藁を染め、凄惨な有様だったと言う。その中年の男、啓次郎は久美おばさんの夫だった。飲んだくれとして有名で、よく家族に暴力をふるった。村人たちは「罰が当たった」などと言い合った。とはいえその事件が村人たちに与えた衝撃は決して小さくはなかった。
すぐさま自警団が組織され、見回りに当たることになった。この村には警察署がない。消防署や役場さえなかった。桐香の診療所にも警備が着くことになり、一人の若者がやって来た。
彼は桐香と二人きりになるなり、その足下にひれ伏した。がっしりとした体躯を丸め、地面に潜り込もうとでもするかのように蹲っている。彼は十年近く前、桐香を輪姦した少年の一人だった。
「誠君…」
桐香は誠を助け起こした。
「いいのよ、あなたのせいじゃないわ」
その白い手で誠の顔をはさみ、焼けた額に優しくキスする。白衣に包まれた細い両腕で誠の振るえる肩を抱く。嗚咽する誠。背中をとんとんと叩く。そして泣いている誠に、「大丈夫」と繰り返した。
もう陽は暮れていて、窓の外には青い闇。部屋にはたった一つの裸電球がぶら下がっているだけ。オレンジの明かりの中、二つの影が抱き合っている。
*
そのまま数日が過ぎた。とりたてて変わったことはなく、村人たちは自分の仕事を黙々とこなしていく。そんな当たり前の時間が過ぎていく。桐香もまた同じで、午前中は患者の自宅を廻り、午後に何人かの外来に治療を施す生活を送っていた。ただ、これまでと違ったのは助手が付いていたこと。ボディーガードの誠は何処へ行くにも一緒で、次第に治療を手伝うようになっていた。
そんなある日、午前の往診の帰り道。まだ十一時にもならない頃だった。その日は鉛色の曇天で、空気さえ黒く濁っていた。二人して早足に、砂利さえもない土の道を行く。そのうちに薄い白乳色の靄が立ち込めてくるのだ。
「あら?」
桐香が掌を空に向けるまでもなく、雨粒が落ちてくる。それは白衣にポツポツと、心持青い染みをつくる。
「先生」
誠がそう告げた。言わずとも知れたこと、夕立だ。おりしも傘を持っていない。迂闊と言えば迂闊な話だった。だが後悔は先に立たない。次第に雨足が強くなり、白衣の染み広がっていく。
辺りを見回せば、刈入れを終えた田んぼが広がるばかり。幸いにも納屋が一つあった。誠がそれを目敏く見つけ、桐香の腕を捕らえて駆け込んだ。
狭い納屋の中には一束の藁が積まれており、腐りかけた板の壁から弱い光が漏れていた。
「びしょ濡れだわ」
桐香は白衣を脱ぎ、ぱたぱたとはたいた。透き通ったカッターシャツに肌が張り付いている。闇に浮かび上がる肉色の曲線。
誠はその姿に鼓動が高鳴るのを感じていた。鼻腔から忍び込む雨の匂い。それは脳の神経を痺れさせている。
「嫌ねえ」
桐香は白い鼻梁にしなを作った。
不意に、誠が獣じみた声をあげた。額には脂汗が浮き、丸い双眸はジャッカルのように光っている。
秋の驟雨は降り続け、道を泥沼へと変えていく。桐香は不思議そうな目で、迫ってくる誠を見詰めていた。
がたん。
桐香は土の上に押し倒された。手にしていた白衣はひらと舞い、藁の上に横たわった。
「誠君?」
驚愕の表情を浮かべる桐香。しかし誠は意に介さない。瞬く間にシャツが引き千切られ、ガラスのボタンが転がる。立方体の空間に生臭い吐息が木霊していた。
「誠君?」
誠はその声に応えない。熱に浮かされたような表情を浮かべ、何かに憑かれたように女体をまさぐっている。
(ああ、この人も…)
桐香は溜息を吐いた。先日まで己が罪に慄き、改悛を誓っていた青年。その同じ人間が、今はさらに罪を重ねようとしている。はだけた胸に歯を立てる誠。獣道に堕ちたかのように目を光らせている。
これが、人の「業」。
誠の頭を腕に抱いて、桐香は囁いた。
「今、助けてあげるね…」
桐香は知っていた。こういう人には「悪い霊」が憑いていて、それが意に反した罪を犯させるのだと。空気中に漂う悪い霊は、時として鼻や口から人体に入り込む。それは脳の中にとぐろを巻き、人を罪へと駆り立てるのだ。
彼女はその細い指を、誠の口に滑り込ませた。空いているほうの手だ。誠は夢中になってそれを舐めている。爪の先から付け根までを貪るように。桐香は腕の中の頭を見た。今、この中に悪い霊が巣食っているのだ。そう思うと可哀想でならない。
桐香の眼は潤み、視界は霞んだ。半化粧の頬を涙の雫が伝い落ちる。
彼女はおもむろに頭を抱く手を離した。そしてタイトスカートのポケットから、細い錐のようなものを取り出す。肘で誠の背を押さえ直し、穂先を後頭部にゆっくりとあてがう。
きりきりきり…
鈍く光る刃が、誠の頭蓋に食い込んでいく。それは南米のインディオの秘術だった。
誠は予期せぬ事態に括目し、逃れようとして身を捻る。しかし、動けない。ただ手足をバタバタとさせるばかりだ。喉の奥深くに入った指が声帯を押さえているため、悲鳴さえ出せない。
「大丈夫…」
桐香は誠を慈しむかのように胸に抱く。万力で締め上げるかのように。
頭蓋骨を貫いてしまうと、穂先を捻るようにして引き抜く。誠はびくん、と跳ねる。もっとも、逃れることなどできはしなかったが。瞬間、血が噴出す。それは桐香の白い手に掛かり、また、誠の襟足を染めた。赤く濡れた鋼の先には白く、ねっとりとしたものが着いている。
「頑張ったわね…」
桐香は傷口にそっと口を着け、赤い舌をさらに赤くして舐めてやった。抱きすくめるようにして、とても優しく。だが誠の安堵は束の間だった。次の瞬間、桐香が信じられない力で穴を吸い始めたからだ。
悪い霊を「吸い出す」ために。
ずちゅ、ずちゅ、ずちゅ…
声帯を押さえられた喉から、悲鳴にならない息が漏れていた。痙攣する手足が地面をむしっている。その焦点の合わない目には乳首がめり込んでいる。
遠目に見れば、雨宿りを口実に睦みあう恋人同士のようだっだけれど。
桐香はやがて口を離した。吸い出した血と脳細胞の一片を吐き捨てる。
「よかった! 少し治ったみたいね」
すっかり大人しくなった誠に微笑む桐香。そして次の穴を開けに掛かる。今度は膝枕で。もう押さえつける必要はなかった。
穏やかな雨は降り続けていた。
*
桐香が村に戻って一年近くが経った。
夏の盛り、蝉の声。見渡す限りの青田。見上げれば青空に入道雲。
「いい天気だね!」
白いワンピースの桐香は、振り返る。麦藁帽子から垂れた黒い髪が揺れている。そして誠青年にこぼれんばかりに笑いかけた。車椅子の誠は焦点の定まらない目で引き攣るような笑みを返している。
「もお」
桐香は誠の、だらりとぶら下がった腕を取る。そして灰色の唇にキスをする。後遺症は残ったけれど、誠は「全快」したのだ。息をしていないし、心臓は止まっていたけれど。
「しゃんとして」
そう言い残して診療所を後にする。
彼女はこれから往診に向かうところだった。
一本道で頭に包帯を巻いた、よろめく少年たちとすれ違い、久美おばさんの家に着く。
「先生!」
久美おばさんは上機嫌で出迎えた。
「さあさ、こちらです」
縁側に案内されると、そこには啓次郎さんが横になっていた。すっかり干からびていたけれど。
「先生のお蔭で、うちの人も大人しくなって…」
桐香は鞄から防腐剤を取り出した。刷毛でたっぷりと患者、啓次郎に塗った。漏斗で口や耳にも注ぎ、腹腔にも注射する。
「しばらく日光浴させてあげてください」
そういうふうに告げ、おばさんの家を後にする。
さあ、病院には患者さんたちが待っているのだ! 毎日三十人の患者に防腐剤を塗るのは重労働だったが、苦にはならない。それにもうすぐ秋だから、スプレーと注射だけで済むようになるだろう。
ずいぶんと静かになった村に、変わらぬ蝉の声が響いていた。
〈完〉