by ジャンゴ五郎
『くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ……』
頭の中で奇妙な声が響く。不快、ひどく不快。
それを振り切るように、安治不或は窓際に置かれた机でノートに方程式を記す。
大学への受験……もう落ちるわけにはいかない。
チリチリとした焦燥感が心の奥で焔をあげ心が燐のように燃やされていく。
薄暗い部屋の電灯に蛾が一匹舞い込んで来て、それが羽のジジジという音と電灯にぶ
つかる音をたてる。
開けっ放しにしている窓からは、熱風と腐った溝の匂いが流れてきた。
それが鼻先に染込み気分が悪くなる。ドロドロとしたものに感覚さえ冒されていく気
がしてしまう。
とはいえ、窓を閉めるわけにもいかないのだが、この暑さはいかんともしがたい。
クーラーでもあれば少しはましだろうに。
先ほどから或のベッドでゴロゴロしていた妹の名事が起き上がる。
小学校の水泳部で焼けた褐色の肌は、嗚呼、それは、嗚呼、まるでこの薄暗い部屋に
溶け込むようだった。
『すぐつふくつでふ、てふてふいるみるんるるいえ』
頭の中であの声が、あの声が、あの声が呼びかけるようだった。
「お兄ちゃん」
「あ?」
「お兄ちゃんってば」
「あ?だから何だよ」
「もう、お兄ちゃん」
「……さっさと寝ろよ」
或は名事(なこと)の呼び声を無視してノートに数学の方程式を書く。
名事は名事で或のベッドに座りつまらなそうに頬を膨らませた。
「お兄ちゃん……」
「少しは静かにしてろ」
「だって……」
名事は足をプランプランさせる動作をやめた。
蛾があいも変わらず、羽音をたて、或のペンの音、時計の音が混ざり合いリズムを刻
む。
いつまで、いつまで、この時が続くんだろう。夜がなぜこんなに長いんだろう。
名事はしばらく黙っていたが、
「お兄ちゃん」
今度は少し甘えるような声で或を呼んだ。
或はそれを再び無視する。
ふわり。ゆっくりと、布が或の見つめるノートの上に落ちた。
「……お兄ちゃん、私、今、全裸だよ」
或は落ちてきた布を手にとって見る。
布に残る体温の感触……それは名事のさっきまで着ていた白地に青縞ストライプの下
着だった。
ふいに或の心臓がリズムを刻みだす。ひどく乱れたフラストレーションミュージッ
ク。
それが蛾の電灯にぶつかる音や時計のリズムに混ざりビートを早めていく。
「名事……」
呟いた或の乾いた唇に汗の雫が流れ落ちた。
「お兄ちゃん」
名事がゆっくりと、背後から或の首に腕を回し抱きつく。
柔らかな肌の感触。甘いミルクのような幼い香り。熱を持った肌。妹の褐色の幼い肢
体。乳房。幼い未成熟な乳房。るるいえなぎなふんたるふうふうふ。
「お兄ちゃんが水泳教えてくれたんだよ。勉強だって……」
「……」
「つまんないよ。お兄ちゃん全然相手にしてくれないんだもん」
「名事」
ビート。心臓のビート。蛾の羽音。時計の機械音。腐った風の吹きつける音。混ざり
合う不協和音。名事の声。
ねやねやるいえるうるうるふれいうぇ。
「もっとね、色々教えてよ」
瞳、純粋で真っ直ぐな瞳。逆らえない。獣欲。
「名事……」
押し倒した。ベッドの上に。妹の幼い肢体を。食らいつく。青い果実に。赤くなる前
に。汚した白いもの。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん……あうぐすつふっりえうるいや」
嗚呼、全て目まぐるしく回転して、クルクルとクルクルとうういえあうあうふん。
「名事……名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名
事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名
事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名事名
事名事名事名事名事名事名事名事名事名事事名事名事名事……」
混ざり合って、熱も気だるさも色も世界も音も何もかも混ざり合ってるうあくるつる
る。
溶け合って、
「お兄ちゃん、世界は終らないの」
回転して、
「お兄ちゃん、……うるうるみるがなふん」
嗚呼……世界が、全てが。
……。
…。
安治不或は窓際に置かれた机でノートに方程式を記す。
最早、何のためにノートに方程式を記しているか忘れてしまった。
チリチリとした焦燥感が心の奥で焔をあげ心が燐のように燃やされていく。
薄暗い部屋の電灯に蛾が一匹舞い込んで来て、それが羽のジジジという音と電灯にぶ
つかる音をたてる。
繰り返す終らない夜。永遠の夜。
『くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ……』
そうノートに記す。嗚呼、これは、これは……。
「お兄ちゃん」
或の肩に頬をのせ微笑む名事。
これは方程式だ。この世界を支配するロリータの方程式。終らない夜の方程式。永遠
に繰り返すの為の方程式。
永遠のロリータ。
くつるふきむいるふん、ねやねやくつるふ……名事。
了