by かんぞう
季節の変わり目を告げる箒(ほうき)で掃いたような筋雲が高い空に浮かんでいた。見上げる山々から聞こえるミンミンゼミの声も、力無く感じるようになった。
紗知は、息を潜めて小屋の陰から、空を窺っていた。ムクドリたちは、リンゴ園を見下ろす高台にある畑の脇に立っている杉の並木に留まり、けたたましく鳴いていた。何匹いるのだろうか?紗知は数えてみたが、枝や葉の影を飛び回るのでよくわからない。二十羽はいるみたいだ。ムクドリたちは、じっちゃんやケン兄ちゃんが、大切に育てたリンゴをねらっているのだ。
ムクドリは、ケン兄ちゃんのしかけた罠にはまるだろうか・・・・紗知は心臓の音がいつもより大きく感じた。
やがて、その中の一羽が、リンゴ園に向かって滑空を始めた。紗知は、ごくりとつばを飲み込んだ。
ムクドリは、リンゴの木の枝に止まると首を器用に曲げて実をついばんだ。クチバシの縁から白い実がこぼれ落ちるのもお構いなしにガツガツと突いている。
それを見た別のムクドリが、数羽、リンゴ園に向かって飛んできた。
このままでは、リンゴが全部食べられてしまう。
紗知は、気が気ではなかったが、ケン兄ちゃんの仕掛けた罠が効いてくれれば、ムクドリたちを撃退できるだろうと、小さな手を握り締め、次の瞬間を待った。初めにつつきはじめたムクドリが「ピー」とかん高く鳴くと、足を踏み外したかのようにまっすぐに落下した。
それを感じたムクドリたちは、ピーヨピーヨと狂ったように一通り鳴いてから、恐怖に駆られているかのように山の方へ飛んでいく。
二番目にリンゴをつついたムクドリが空中でバランスを崩して、杉の並木の向こうに落ちていくのが見えた。
バカなムクドリたち。ケン兄ちゃんやじっちゃんが、一生懸命作ったリンゴを、お前らなんかの餌にするものか。
紗知は、小屋の陰から飛び出して、落ちたムクドリに駆け寄った。
ムクドリは、翼で体を起こそうとするが失敗し倒れたかと思うと翼を意味もなくばたつかせた。体を時計回りにクルクルと回転させるだけだ。ムクドリの胸が、大きく膨らんだりしぼんだりしている。ムクドリは、意味もなく鱗が生えたアシでクルクルと宙を引っ掻いたあと、ひゅ、ひゅいーと鳴き声を上げるとクチバシから泡を出し、ほとんど動かなくなった。
紗知は、ムクドリの体に触れてみた。まだ、暖かく、心臓が脈打っているのが指先を通して伝わってきた。ムクドリが、フルフルと下半身を痙攣させたと思うと胸の鼓動がどんどん小さくなっていくのを感じた。
ムクドリは、昨日突いて穴を開けたリンゴをまた突く性質がある。それを利用したケン兄ちゃんの勝ちだった。ケン兄ちゃんは、前日に突かれたリンゴをそのままにして、その傷口に農薬を塗っておいたのだ。
透明な青い水。コップに入ったその薬液は、それを通して見る世界を真っ青な世界に変えた。とてもキレイだと言った紗知に、ケン兄ちゃんは「これは、劇薬だよ。さわっちゃダメだ」と言って、リンゴの果肉に塗り込んだ。
そうとは知らないムクドリは、まんまと、昨日、味を覚えたリンゴをついばみ、死んだのだ。
紗知は、鳥が死んだのを確認すると、戦果を早くケン兄ちゃんにしらせたくて家に向かって農道を駆け下りていった。
古い電信柱を何本か渡して作った丸木橋を渡ると、清らかな淀みで少年たちが水遊びをしているのが目に入った。紗知を見つけた少年の一人が声をかけた。
「よう、サチ、どこへ行くんだ」
一本欠けた前歯をのぞかせ、坊主刈り少年が川の中から笑っていた。西川屋の亮太だ。紗知より一つ上の六年生で、この集落の小学生の男子のボス的存在だった。と言っても、小学生の男子は五人しかいないのだが。
「しらん」
紗知は、そっぽを向いて家への道を歩き出した。
「サチよう。泳げるようになったか? 五年にもなって、泳げないなんてなさけねえぞ」
と、はやし立てる。
紗知は、振り向いて、両手でメガフォンをつくり口を大きく開けて怒鳴った。
「泳げるよー。谷川は、冷たいから入らないだけだ。足が吊って溺れ死ぬぞ」
「ばっかじゃねえの。冷たいから気持ちいいんじゃん」
亮太は、そう言うと、川の向こうの淀みにある崖のくぼみにまで泳いでいった。崖のくぼみは、大きな岩が掘れて屋根がかかったようになっている。何百年もかけて川の流れが削ったものだろう。そこにちょうど長いすのような出っ張りがあって、何人かで腰掛けることができた。その真中には、社があった。社と言っても、箱に屋根がついているといった方がいいくらい小さいものだ。
亮太が対岸のくぼみに手をつくと、先に座っていた少年たちが、「ここまで来てみろ」と騒ぎ立てた。
少年たちは、社の中に機械の部品やらガラスのビンやらを入れておいて、それを宝だとか言って守っていた。そこには、マジックペンや木炭なども入っていて、対岸に泳ぎ着いた者は、清流で磨かれた岩肌に、それで自分の名前を記すことができた。
今年の紗知は、まだ名前を書いていない。泳げないわけではないが、あんな冷たい川で泳ぐのはアホらしいと思うようになった。そんなことをしているうちに夏休みも残り少なくなってしまった。
紗知は、プイッと、少年たちに背を向け、スタスタと歩いていった。
家を見下ろせる坂の上まで来ると、農舎の前で、賢司が肥料袋を軽トラックから降ろしているのが見えた。
紗知は、ケン兄ちゃんと大声で呼びながら、坂を駆け下りていった。
「紗知、危ない!転ぶぞ!」
賢司は、肥料袋を地面に落とすと、手で止まるように合図をしてくれている。紗知は、そんなケン兄ちゃんが大好きだった。
「ケン兄ちゃん!やったよ。ムクドリのヤツ、死んだよ!もう一匹も逃げようとしたけど、上の畑の上に落ちたよ」
と、賢司の腰に抱きついた。
「なんだ、紗知。リンゴを見張っていてくれたのか。ありがとうよ。これで、ムクドリも当分来ないだろう」
賢司は、右手で紗知の頭を撫でながら白い歯を見せた。
紗知は、頭の上の賢司の指に自分の指を絡ませる。
間接のない短い指。ケン兄ちゃんの右手の指は、第二関節から先がない。去年の秋にコンバインに挟まれて失ってしまったのだ。それでも、ケン兄ちゃんは、箸を器用に使うし、農作業も要領よくこなすことが出来た。紗知は、ケン兄ちゃんの短い指が好きだ。そんな特別なところが好きだった。
「人間は、何かを失うと、何かを得るものだ。それが良いものか悪いものかは、その人しだいだ」と父親が、指を失ったばかりのケン兄ちゃんを励ましていたのを聞いたことがある。ケン兄ちゃんは、指の先を失って、わたしが指を絡ませる手を得たのだと紗知は思った。その前のケン兄ちゃんの手は、大きくてごつごつしていて、さわると自分の小さな手は潰れてしまいそうだと思っていたのだ。こんな風に手を絡ませることなど考えもしなかった。
「ケン兄ちゃんは、頭がいいなあ。村の人があんなに困っていたムクドリを、簡単にやっつけてしもうた。やっぱり、大学でならうん?」
紗知は、賢司の顔を見上げて言う。
「いいや。大学では、そんなことを教えない。人間にもよく効く薬は、鳥にもよく効くということだ。あとは、鳥の習性を利用するんだ」
「すごいなあ。ケン兄ちゃんの発明なんだ」
「発明というほどじゃあないなあ」
賢司は、頭をかきながら、白い歯を見せて言った。
「そうだ。紗知。兄ちゃんは、これから、駅まで、お客さん迎えに行ってくるから家で待っとれ」
賢司は、最後の肥料袋を下ろすと、車庫の方へ歩いていった。乗用車のエンジンがかかる音がしたのを聞いて、紗知は、倉庫の中に入って行った。
倉庫の中は、肥料袋や農薬の袋が積まれていて、体を横にしないと前に進めないほど狭い。紗知は、肥料袋の上に横になると、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。粉っぽい薬の臭いが肺に入ってくる。
『中枢神経の軸索、シナプスに働き神経膜のイオン透過性を変化させる。その結果、反復興奮を起こしけいれん、興奮状態を呈し死に至る』
「まつしょうきゅうびちゅうすう神経のじくき、しなぷすに働き神経マクのいおんとうすぎせいを変化させる。その結果、はんぷくこうふんを起こしけいれん、興奮状態をたいし死にいたる」
紗知は、心の中で、呪文のようなことばを反復した。
ケン兄ちゃんの大学の本に書いてあった農薬の解説を盗み読んだのだ。
読めない漢字や知らない言葉があって意味は分からないが、神経が興奮して、死んでしまうということらしい。死んでしまうほどの興奮ってどんなだろう。
どんどん、つぎつぎとやってくる突き上げる衝動で、意味もなく叫んだり、体を動かしながら、自分の意志ではどうすることもできず、最後にはぶるぶる体を震わせながら、死んでしまうのだ。あのムクドリのように。
紗知は、自分の身にそれが起こったことを想像し、身を震わせた。紗知は、こういう想像が好きだった。想像すると、体の中心が熱くなって、汗をかく。
紗知は、冷たいビニールの袋の上で、空想の中にのめり込んでいく。
自分の体にまぶされた農薬の粉は、体内に染みこんで、神経を狂わせる。お腹が熱くなり、手足が勝手に動き始め、悲鳴を上げたいけど悲鳴にならず、意味の無い言葉が口からあふれる。手、足、腰などが筋肉の限界を超えて激しく動くので、体中がねじられて痛い。そのうち、神経と筋肉自体が疲れ果て、口から泡を吹いて死んでしまうのだ。
なんて恐ろしい死に方なんだろう。病気で死ぬより怖い。
ケン兄ちゃんは、みんな、知っている。
知っていて殺しているのだ。と、紗知は、思った。
ケン兄ちゃんの声が聞こえた。
紗知は、倉庫の中で眠ってしまったらしい。
外に出てみると、日差しがまぶしく目を開けるのがつらい。
ケン兄ちゃんと、女の人が立っていた。
紗知の知らない女の人だった。紗知は、目を細く開けては閉じながら、女の人を観察する。
白いハットをかぶり、長いフアフアな髪をたらし、ほっそりした体に黄緑色のワンピースの裾が涼しげに風に揺れていた。
この辺りの人じゃないなあ。と紗知は思った。ケン兄ちゃんの大学の友達かもしれないなどと考えていると、「紗知あいさつをしなさい」と賢司に言われてしまった。
紗知は、「こんにちは、はじめまして」と言うと、「こいつ、寝ぼけている」と賢司が笑った。
「この人は、和泉裕子さん。大学の研究室でいっしょだった」と賢司が言った。
「こんにちは。紗知ちゃんね。これから、お世話になるから、よろしくね」
と裕子が言った。
透き通った品のよい声だと紗知は思った。
紗知は、胸の中で入道雲みたいな塊がつかえてムカムカするのを感じた。見れば見るほど綺麗な人だった。アカヌケテイルとかビジンだとか、こういう人のことを言うのかなあと今まで漠然としていた単語の意味が急に具体的な形になって目の前にあらわれたようだ。
ケン兄ちゃんとは、どういう関係なのだろう? 友達・・・・こいびと・・・・まさか・・・・結婚するとか・・・・紗知は胸のムカムカがひどくなって、吐き気までもよおしてきた。
「紗知ちゃん、顔色が悪いみたい」
裕子が、屈み込んで知紗の顔を覗き込んだ。
「これ以上近づかないで・・・・」と、紗知は心の中で叫んだ。
「裕子さんが綺麗だから、緊張しているのさ。さっきまで、元気で裏山を走り回っていたんだから」
と、賢司が言った。
「ケン兄ちゃんのバカ!」と、紗知は、心の中で叫ぶと、倉庫の中に走りこんだ。
胸いっぱいに農薬の臭いを吸い込んで、肥料袋の上に体を投げた。
「ケン兄ちゃんがあの人と結婚するはずがないじゃないか。手をつなごうにも、ケン兄ちゃんの右手には指がない。あの短い指は、わたしの物なんだ」
と小さな声でとなえると、心が落ち着いて心臓の鼓動が小さくなって行くのを感じた。
紗知が、倉庫の戸を開けると、亮太が、小学四年生の子分を二人従え紗知の家の方を窺っているのが見えた。三人は、ドラム缶の影に隠れているが、後ろから近づいてくる紗知に気づかない。
「三人で何、覗いているの?」
急に声をかけられた亮太がビクッと肩を上げ驚いて振り返った。
「なんだ。紗知か・・・・びっくりした」
亮太は、歯が欠けた口をあけて笑った。
「なんだって・・・・人の家を覗いておいて、なんだとはなんだ!」
紗知に詰め寄られた亮太は、後ろ頭をかきながら視線をそらして言った。
「なあ、お前のところに東京から、すげえ綺麗な女の人が来たって聞いてさあ。見に来た」
「ああ、裕子さんのことね」
紗知は、さも知った風に鼻の穴を亮太に向けた。
「賢司さんと結婚するんか?」
「誰がじゃ!」
紗知は、亮太の胸倉をつかんだ。
「なんで怒るんだよ。紗知。賢司さんの大学の人だろ」
「そんな話は聞いてないもん。きっと、いいとこのお嬢様だよ。観光旅行か何かのつもりで来たんじゃないかなあ。ケン兄ちゃんは、誰にでもやさしいから」
と、紗知は、自分で話していて、皆、自分の想像でしかないことが悲しくなってきた。
「そうか、なら、よかった」と亮太は鼻の下をこすりながら、ニッと笑った。
「よかったって・・・・なにがよ」
亮太の意外な反応に紗知は、目を丸くしながら聞いた。そうだ、結婚しない方がよいと考えている仲間がいたのか・・・・理由は反対な気もするけど・・・・と紗知は思った。
「へへへへ・・・・」
亮太は、手にもっていたブリキのお菓子箱を知紗に手渡して言った。
「これ、俺からのプレゼント。東京から来た美人の姉さんにわたしてくれよ」
「なに、これ。へんなものが入っているんじゃないでしょうね」
「大丈夫だよ。俺からのあいさつがわり。あ、振ったりするなよ。壊れやすいから」
亮太は、何か悪だくみでもあるようにニタニタ笑っていた。
「男子は、綺麗な人を見るとすぐこれだから」
と、紗知が、呆れ顔で言った。
どうせ、こいつらの宝物といったら、その辺のガラクタでも集めて何か作ったんだろうと紗知思い、「うん、いいよ」と言った。
「あ、来た来た。美人だ!美人!・・・・紗知、たのむ」
亮太が、拝みながら、ドラム缶の影にしゃがみこんだ。
紗知が、ため息をつきながら振り返ると、ちょうど、家の中から、賢司と裕子さんが出てきたところだった。
紗知は、ブリキの箱を揺らさないように注意しながら、賢司と裕子のところに歩いて行った。
「これ、裕子さんに・・・・」
「あら、紗知ちゃん。なにかしら? ありがとう」
と言って、フタをあけた瞬間、きゃっと悲鳴をあげ、裕子は箱を落とした。
ブリキ箱は、ガンガンと大きな音をかけて転がり、逆さになった。中から、出てきたのは、太ったガマガエルだった。ガマガエルは、二、三歩のそのそ歩くとボテッと一回ジャンプして、ゲーゲーと鳴いて見せた。
裕子は、賢司の胸に飛び込んで冷や汗を流していた。
「こらっ!紗知!いたずらにもほどがあるぞ!」
賢司は、目を吊り上げ、紗知を怒鳴りつけた。
「エッ、カエル!裕子さんが・・・・ケン兄ちゃんに抱きついちゃった・・・・ケン兄ちゃんにしかられた・・・・いったいどうなったの・・・・」
紗知は、混乱したが、すぐにこの事態から逃れる方法を発見した。
紗知は、賢司たちに、くるりと背を向けると、腹から搾り出した声で
「こらあああぁぁぁぁっ」と叫びながら、ドラム缶の方へ駆け出した。
亮太たちは、やばい!と逃げだした。
紗知は、全速力で、亮太たちを追った。
走りながら、紗知は、さっきの亮太のあわてた顔を思い出して、可笑しくなった。
一番、足の遅い子分のシャツに、紗知の指先がかすった瞬間、可笑しさに吹き出してしまい、捕り逃がしてしまった。
息をきらせて、膝に手をつきながら、後ろを振り向くと、賢司と裕子も、大声で笑っていた。紗知も、思いがけない援軍を得たのかもしれないと思い、呑気なケン兄ちゃんたちを逆さに見ながらほくそ笑んだ。
山の稜線に日が沈む。ヒグラシの声に草むらの虫の音が混じり、涼しい風が夜露の臭いを運んできた。醤油や味噌の臭いがしてくると夕飯は間近だ。
「夕飯の前に、裕子さん、風呂に入ると良い。疲れただろう」とじっちゃんが、すすめた。
裕子は、頭を下げて、後で良いですからと遠慮していたが、賢司の両親が帰ってくる前に入るように言われ、紗知の方へ笑顔を向けた。
「紗知ちゃん、いっしょに入ろう」
と、両手を前に出し、手のひらを紗知の方へ向けて言った。
紗知は、断る理由もないので、うんと、うなずき、こっちだよと裕子の手を取った。
裕子が服を脱ぐと、白熱灯の下でオレンジ色に染まる肌が立体的に浮き彫りなったのを見て、紗知は息を飲んだ。
目を丸くしている紗知に、裕子がどうしたのと首を傾げ聞いた。
紗知は、「色が白いですね」と作り笑い。
「この夏は、研究室に籠もりっきりで、電子顕微鏡ばかり見ていたから・・・・全然、日にあたっていないの。紗知ちゃんは、日に焼けているねえ。いっぱい泳いだの」
と、裕子は、紗知のTシャツを脱がせながら言った。
「ううん。泳がなかった。川の水は冷たいから」
と紗知は言ったが、ほんとうはケン兄ちゃんの側にいる時間が惜しくて、学校のプールにさえ行かなかったと言う方が正しかった。
「ふうん。賢司さんは、やさしい?」
「うん、やさしいよ」
と、素直に答えてしまって、ちょっと、まずいかもと紗知は思った。
風呂場に入っていく、裕子のシルエットは、美しい女性の形をしていた。紗知は、お母ちゃんとも違う、これが大人の女の人なんだなあと、頬を赤く染めていた。
風呂は、古いつくりの五右衛門風呂で、底板を沈めて入る。
裕子は、こういうの初めてなのと喜んだ。
裕子の綺麗な丸い乳房に小さな可愛い乳首を見て、自分の胸のあばらを見て、かなわないと紗知はうつむいた。
真っ白な蛾が一匹、電球にあたり、湯船に落ちた。
蛾は、湯面に落ちると、まるで初めから生きていなかったようにピタリと動かなくなり、体の回りに白い鱗粉の輪を作った。
「あ、毒蛾?」と、紗知が言うと、「大丈夫。ヒトリガよ」と裕子が手でお椀を作り、蛾をすくって湯船の外へ流した。
「窓が開いているから、入ってくるんだ」と紗知が戸に手を伸すと、せっかくだから、電灯を消しましょうと、裕子が言った。
電灯を消し、裕子に抱かれて湯船に入る。お湯があふれ湯気が立ち上った。
「ほら、紗知ちゃん」
裕子が窓の外を指さす。
半月が空に昇っていた。
「上弦の月よ。七日月ね」と、裕子が言った。
「三日月とか、の七日?」
「そう、たぶん、今日は、昔の七月七日。七夕よ」
「ふうん」
「昔の人は、空に浮かぶ、月の船と、天の川を見て、七夕のお話を思いついたんでしょうね」
「へえ、わたし、七夕は、雨が降りやすいから、ああ言う話が出来たのだと思ってた」
「昔の人は、そんな意地悪じゃないわよ」
と、裕子は、口を三日月型に笑った。
紗知は、少し後ろめたく感じて、口までお湯に沈め泡を吹いた。
「ほんとうに、天の川を渡るための船みたいだなあ」と紗知は思った。
紗知たちが風呂から上がると、ちょうど、両親が勤めから帰ってきた。
賢司が裕子を紹介し、丁寧なあいさつをかわすと、家族六人と裕子の七人で、飯台を囲んで夕食をとった。裕子が賢司の隣に正座していた。いつも、紗知がいる席なのだが、今日はじっちゃんの隣だ。
訪問者に、すこし緊張気味の食卓だったが、いろいろな質問に屈託無く答える裕子の態度にしだいにうち解けていった。
裕子さんは、ケン兄ちゃんと同じ大学で研究室が同じだ。一つ後輩の裕子さんは、夏休み期間中の農家訪問のレポートを書くためにうちに来た。なぜなら、裕子さんの家は農家じゃなくて、東京の住宅地にあるからだ。明日から、早生のリンゴの収穫が始まり、それを手伝うのを楽しみにしている。紗知が裕子について知ったことは、こんなことだ。
賢司は、去年のコンバイン事故で指を切断したことを迫力満点に語った。とにかく、機械作業は、気をつけるにこしたことはないと笑いながら言った。
じっちゃんは、昔、害虫を集めて殺すための誘蛾灯に入っていた青酸カリを川に流して、魚を捕った話をした。ばっちゃんが途中でやめなさいと言ったが、最後まで話した。青酸カリを川にぶちまけると、ヤマメやイワナがプカプカ浮いてくる。流れてくるそれを下流にいて拾うのだが、青酸にやられて、足の皮がむけてくることがあったと笑いながら言った。不思議なことに、その魚を食べても、腹をこわさないのだそうだ。マムシが自分の毒で殺したネズミを食べても腹痛を起こさないのと一緒だと言って、大きな口を開けて笑った。
両親が仕事の話をしだしたり、裕子や賢司が大学の難しい話をしたりしてきたので、紗知は、満腹感と疲れから大きな口を開けてあくびを一つしてしまった。
両親は、「紗知は、もう寝なさい」と言った。時計を見ると、もう九時を回っている。ちょっと早いとも思ったが、退屈していたところなので、紗知は、黙って立ち上がった。
「紗知、お休みなさいは?」
母親に言われて、紗知はおやすみなさいと頭をちょこんと下げて二階に上がった。
紗知は、賢司の本棚から農薬の本を持ち出し自分の部屋に入った。布団を敷いて、腹這いになり、本を開く。
難しい本で、字がビッシリ書いてあった。
「中?神経シナプス後膜のブロッキングによる神経?断作用により麻痺死亡させる」
「イミダクロプリドはニコチン性アセチルコリン受容体に作用し、神経伝達を遮断すると考えられている。本剤に暴露されると有機リン剤やカーバメート剤のような異常興奮とは異なり、麻痺、し緩症状を起こして死にいたる」
「体の表面に付着した分生子が発芽し発芽管が宿主の表皮、クチクラを貫通して、体腔内に進入する。進入後、菌糸が体液中で増殖し、各組織、期間に進入し、栄養分を奪取することにより、死に至らしめる」
意味が解らない呪文のようだと、紗知は、楽しくなって唱える。
シンケイシナプスボロッキングイミダクロプリドアサチルコリンカーバメート・・・・
虫や鳥にとっては、死の呪文だなあ。
紗知は、倉庫からくすねてきたメソミール水和剤の袋を開けた。ムクドリを殺した劇薬だ。ばっちゃんが、畑の野菜に虫がついたとき、使うため少しだけ置いてある。ケン兄ちゃんの話だと、触っただけで毒が体の中に浸透するという。この薬に冒されるとコリンエステラーゼが、アセチルコリンを加水分解することを阻害される。何のことかよく解らないが、異常に興奮して、あのムクドリのように悶え死ぬことになるのだろう。
紗知は、袋をコップの口に当てトントンとたたく。良く晴れた空の色をした粉が、コップの底に降り積もっていく。別のコップに水を汲んできて注ぐと空色の粉雪は、透明な水を青い空気のように染めた。
なんて、綺麗な水なんだろう。この水を浴槽に浸し、裕子さんを入れたらどうなるだろう。紗知は想像してみた。
裕子が裸で、脱衣所に立っている。裸体は、月光に照らされたかのように蒼白くほのかに光を放っているようだ。
裕子は、紗知が誘うがままに、青い液体が満たされた桶に足を入れる。長い足が、月の船のような白くてまあるいお尻が、珊瑚の砂漠のお腹が、白桃のような胸の丘が、透明な青に染まっていく。
首まで毒液につかった裕子は、そこで罠だと気が付き、大きな目を見開いて紗知の顔を見つめる。
立ち上がろうとするが、うまく立てなくて、風呂おけの中でひっくり返り、水しぶきを上げた。水滴は月光の色に光ながら、裕子の手足の踊りのに合わせて、乱れ飛んだ。
いつ終わるともない青き水と月光のダンスに見とれる紗知は、あることに気が付く。
水が黒くなってきている。すると、ダンスが止み、裕子の姿があらわになった。
裕子は、口から、黒い墨のような液体をはき出していた。
まるで内臓を全部はき出しそうな勢いで、「げええっ!げええっ!」と何度もはき続ける。きっと、コリンエステラーゼが、アセチルコリンを加水分解することを阻害されたために異常興奮状態に陥って、肝臓や腎臓まで、吐き出さないといけなくなったんだと紗知は思った。
裕子は、お腹がペチャンコになるまで、黒い水を吐き出すと、満足そうな顔をして、風呂おけに溜まった墨汁の中に身を沈めていった・・・・。
紗知は、体の中心と言うか、お腹の真ん中と言うか、背中とお腹の真ん中あたり、つまり、お腹の奥の方が暑くなり、汗ばんでいた。こんなことを考えたら、ケン兄ちゃんにしかられるかなあと、罪悪感が頭をかすめる。
「紗知ちゃん・・・・」
紗知は、名前を呼ばれてドキリと顔を上げると、布団を抱えた裕子が見下ろしていたので、ビクッと体を震わせた。
「ごめんなさい。驚かせちゃった?お姉さんと今夜は、いっしょに寝ようか?」
「お姉さんじゃないよう」と、紗知は、心の中で舌をだしたが、後ろめたさが、「うん」と、うなずかせた。
「紗知ちゃんは、素直だね。いいお父さんとお母さんと、おじいちゃんとおばあちゃんと、お兄ちゃん。うらやましいわ」
裕子は、布団を敷きながら、話しかける。
細い腕と綺麗な指でシーツを整える。
紗知は、それを見ながら思った。
「裕子さんは、綺麗だ。頭もよくて、みんなともすぐに仲良くなってしまうほどいい人だ。ケン兄ちゃんも、好きになるだろうなあ」
紗知は、胃の裏側に真っ赤なマグマが煮えたぎっているような気がした。
裕子さんは確かに綺麗だけど、こんな細い腕じゃ、リンゴ三個も抱えられないだろう。さっきのカエルの時だって、大声を上げて驚いていたではないか。色も白いし、これから始まるリンゴの収穫作業なんて手伝えるはずもないじゃないか。毛虫に驚いて、リンゴのかごをひっくり返したり、みんなの前で恥をかいて、東京に逃げ帰るのがオチだろう。
などと、裕子のとなりで考えている自分が、何かとてつもない悪い人間に思えても来る。
「ねえ、紗知ちゃん。明日のリンゴの収穫、紗知ちゃんも来でしょ。いろいろ教えてね。わたし、初めてなんだ」
と裕子が耳元でささやいた。
「うん。だいじょうぶだよ」
と、紗知は、裕子に背を向けたままで答える。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
紗知は、自分の言葉に自分でうなずきながら、布団の中に身を縮込めていった。
山から吹き降りてくる風が、早く採ってくれと言わんばかりに赤いリンゴを揺らしていた。
裕子は、風が強いねと目を細めて、高い空を見上げた。
裕子は、髪を後ろに束ね赤いトレパンに白いTシャツを着ていた。
昨日のエレガントなワンピースも綺麗だったけど、今日の軍手をした裕子さんも綺麗だと紗知は思った。でも、そんな格好だけで、急斜面のリンゴ採りは、出来ないよと心の中で、笑っていた。
手が届く高さは、収穫が終わっていたので、賢司が、三本足の脚立に上り、剪定ばさみでリンゴを切り離しす。
裕子は、何も聞かずに、空のプラスチックコンテナを抱えて、賢司の下に走り、リンゴを受け取った。
機敏に動く裕子に、紗知は、すっかり当てがはずれて、口を開けたまま、ぼんやり立っていた。
賢司は、短い指で、剪定ばさみを器用に使い、次々とリンゴを裕子に渡す。裕子は、足下の新聞紙を敷いたコンテナの中に、素早くリンゴを綺麗に並べていく。
少し離れたところで、じっちゃんとばっちゃんが、同じ作業をしているのが目に入った。これでは、ケン兄ちゃんと裕子さんが、気のあった中のいい夫婦みたいではないか。紗知は、負けるモノかと、キョロキョロと辺りを見回して、仕事を探した。しかし、これと言って、手伝えることが見つからなかった。
大人が本気で仕事を始めたら、子供が出る幕などないのかもしれない。
昨晩も、紗知のいないところで、どんな話をしていたのだろう。
紗知は、ケン兄ちゃんの大学での生活もしらない。裕子さんは知っている。
自分の知らないところで、動いている世界があることに紗知は、立ちすくみ、ぼんやりと裕子の姿を眺めているしかなかった。
一つ目のコンテナがいっぱいになると、紗知は、待ってましたとかけより、コンテナに駆け寄り、トラックま運ぼうと手をかけた。
「重いよ。気をつけて」と裕子。
「だいじょうぶ」と、紗知は、コンテナを持ち上げた。
次の瞬間、コンテナの底の網の目に木の根が引っかかり、紗知の右手がはずれ、コンテナは傾き、さらに逆さになった。中に入っていたリンゴが、果樹園の斜面を転がっていく。
「だいじょうぶ?ケガはない?」
紗知の手を取ろうとした裕子の手を叩いて、紗知は、裕子をにらみつけた。
こんな顔をするつもりは無かったと紗知は思ったが、どうして良いのか解らず、ほっぺたを膨らますことしかできなかった。
「紗知、お前には無理だから、他で遊んでいなさい」
と賢司が、脚立から降りてきた。
紗知は、足下に残ったリンゴを三個、コンテナに投げ入れると、走ってその場を離れた。
農道の坂を勢いよく駆け下りていく。
ピンクの花をつけたタデを踏み散らし、黄金色に輝くススキの穂を千切りながら走った。
紗知は、丸太橋のところで、足を止め、息を整えながら、川をのぞき込んだ。川の底には、緑や茶色の石が散らばっている。紗知は、ポケットから、昨日の残りのメソミール水和剤の袋を取り出した。袋の口を止めてあるゴムを外すと、逆さにして振った。メソミール水和剤は、風に巻かれながら、清流に落ち、水中で青い煙になりながら消えていく。
「みんな、死ぬかもしれない。魚も鳥も・・・・」
紗知は、ハッとした。下流には、亮太達が泳いでいるかもしれない。
紗知は、橋を渡り、川に沿って走った。
川の中に亮太達が見えた。
「亮太ーっ!川から上がってーっ!」と紗知は叫んだが声が届かない。
紗知は、川に飛び込み、流れに乗って泳いだ。その方が走るより速いと思ったからだ。
八月の終わりの川は、思ったより冷たく手足がしびれた。
夏休み、ケン兄ちゃんの側にいたくて、川で泳がなかったので、今日が初めての水泳だなと思った。
紗知は、不意にふくらはぎに痛みを感じ、自分の意志とは別に体が反転した。鼻の中に水が入り込み、焦って、水面に顔を出したと思い息を吸い込むと、まだ、鼻は水中だった。水が肺に吸い込まれてきて、苦しさに体が硬直した。
罰が当たった。死んでしまうのは、鳥でも魚でも亮太でも裕子さんでもなく、わたしなんだ。体をどう動かして良いのか考えがまとまらない。動かそうにも、自分の意志とは関係なく動く体。ほんの十センチ上の水面がひどく遠い世界に思えた。水の中の世界は、無色透明でもなく、水和剤のブルーでもなく、かすれたエメラルドのような色だ。視界を自分が藻掻いてつくる泡が塞いだ。もう、泡しか見えない。
ごめんなさい。もう、しませんから。しらない呪文を唱えたりしませんから。と、心の中で叫んだ。
紗知は、腕を捕まれ、強い力で水上へ引き上げられた。紗知の腰が落ちたところは、岩の窪みの社の脇だった。
目の前に亮太の顔があった。歯が欠けた口が笑いながら言った。
「サチ、何、無茶してんだよ。水が冷たいのだから、準備運動くらいしてから泳げよ」
「ん、あ、あ、ありがと・・・・」
「サチ、泣いてんのか?」
亮太は、ニヤニヤしながら声をかけた。
「泣いてなんかないよ。水が冷たくて、鼻水が出た」
紗知は、咳き込みながら答える。
「ったく、汚ねえなあ。とりあえずこれ」
亮太は、社の扉を開け、中からマジックを取って、紗知にわたした。
「これ?」
「ここに名前を書けよ。これで四年以上は、全員書いたことになる」
急流で磨かれた艶のある岩肌には、この集落の小学生四年生以上の五人の名前が書いてある。五人とも、夏のはじめに書いたため、消えかかっていて、名前を知っていないと読めないくらいだった。
「お前さ、来年、六年だろ。五年生は、サチしかいないからな、次の夏休み、よろしく頼むわ」
亮太は、紗知の肩に両手を乗せていった。
「そっか、亮太も、来年は、中学生なんだね」
紗知は、鼻水をすすりながら、ため息混じりに微笑んだ。
「何、ため息なんかついて、ほんとうは、いやなのか?」
「ううん。なんか、ホッとしただけ」
「へんなやつ」
紗知は、体をねじり、真横にいる亮太を真正面から見つめて言った。
「うん、来年は、一番先に名前を書くし、準備体操もする」
そして、中学生になって・・・・大人になって・・・・そして・・・・
紗知は、見上げた。
大きな樫の木が、無数の葉をざわざわと揺らしている。
木々の枝の隙間から、わずかに覗く空に向かって手を伸し、そのまま川に飛び込んだ。
「おい、紗知、準備体操!」
亮太が叫ぶ。
水面から、顔を出した紗知は、「来年するよ。今年はこれでおしまい」と手を振って答えた。
了