梔子夜伽

by きみよし藪太

 むせ返るような梔子の香りに空気が染まる。夜は閉じて眠るとばかり思っていたけれど花は緩やかに深く乳白色に濁る息を吐き続けているようで、月の光だけが零れる中に目には見えないその存在を確実に誇張していた。
 いくつもの梔子の垣根が続くその家に、男は居た。肺を病んでいるのか、ひどく痛々しげな咳をする。それは夜になると一段と回数を増し、喉を切るように重たく鋭い音で闇を裂いた。何度かは血を吐いているのだろう。伏せり続けている男は人に移る類の病持ちであるのか、彼に付き添うものはひとりとしていなかった。時折、昼間の明るく男の咳が少ない時分にだけ食べる物が届けられる。
 青白い肌に、無精ひげさえもう伸びなくなった肉のない顔。生気がないせいかこの世の者ではないような静かな雰囲気を纏っていて、病に犯されていてもまだ女のような美しさを漂わせている。昔は小さな芝居小屋で女形をしていただとかいう話を聞いた事が、あるような気もする。落ちぶれて蔭間になっただという事も。真意の程は分からない、特に後者の話は。どちらかといえば相手にされなかった女達のやっかみによる噂話に過ぎないだろうが、どんな話も実はそうかもしれないと思い込ませるだけの陰は持っている男だった。
 流れる風を追いかけるように、梔子の香り。
 暗闇でその花の香りに踊る如く、揺れる影がひとつ。
 狭くはない男の家の半分をぐるりと囲っている梔子の垣根の下で、白蛇は静かに伏せる男の方を毎夜、見詰めていた。
 運命のいたずらで、一度だけ女に生まれた事のある蛇だった。男とはその時に添い遂げようと約束したにも関らず、それを果たされないまま死んだ女。来世こそは、来世こそはと信じ続けて、けれども手違いから一度だけ人として生まれただけの蛇は次の世もその次の世も、ただ蛇として生まれ落ち死んでゆくしか出来なかった。それでも、いつの時も男の傍に蘇る。前世の記憶を引きずり続けているのは蛇だけのようで、男にはひとつの欠片としての記憶も持たなかったが、蛇はそれでもいつかはまた生まれ変わりあの日の約束を果たせるのだろうと信じていた。
 しかし、生を受ける度に男の寿命が短くなってきている。
 このまま下手をすると男の存在そのものが消滅してしまい、二度と生まれ変わる事など出来なくなってしまうのではないかと考えると、蛇は胸を掻き毟りたいほど切なくなるのだった。このまま次の世に望みを繋ぎ続けるより、この世で関係をどうにかしてしまった方が良いのではないだろうか。
 自分の身を女に変えるか。しかしそれには力が足りなすぎる。月の光と山の清い水、千の恨みと百の純粋な魂を必要とするからだ、それを手に入れなければ女の姿には変われない。そんなものを手に入れる為に這いずっている間、男の病がひどくなって死んでしまったりしては何の意味もない。
 悩み、胸を痛めていても時間が過ぎ行くばかりで、蛇はひとり焦るけれどもどうしようも出来ないでいた。自分の死を覚悟で、男の病魔を飲み込んでやろうか。この世でたとえ望みが果たせずとも、次の世に期待を繋ごうか。その願いが、また虚しく絵空事で終わってしまうのを知っていながら、白蛇は寂しくそんな事を考えてみる。
 男の咳がまた夜の闇を裂いている。
 揺れる、梔子の香りに蛇はむせ返るようだ。
「……このいとしさをどうしようか」
 紫色の舌をそっと伸ばし、花を食む。
 いつまでも見守るしか出来ない心など、いっそ消滅してしまえば安らかなるものを。
「このいとしさを……」
 男の咳に合せて首を振るのか、降り注ぐ雨に似て花の香りが零れる。
 柔らかな少女の白き首に似て、頼りなげにさらさらと揺れる。


 男は夢を見ていた。最近毎晩のように見る夢だ。
 梔子の花を千切っては捨て、千切っては捨てする女の夢。たわわに実る稲穂のような豊かな黒髪を、丁寧に梳いているのかひどく美しく光らせ、その人は花に指を伸ばす。ひどく白い指、それは冷たい月の光を思わせる。
 千切っては捨て。
 千切っては捨て。
 千切っては、捨て。
 花は悲鳴の形に近い姿で地に落ちる。花の香りはいつしか血の匂いに摩り替わり、男は金縛りにでもあったかのような重たい身体を必死で動かして、女に声をかける、もうやめてくれ、梔子を毟らないでくれ、その花は、その花、は。
 突然喉を開き切るような咳に見舞われた。
 血を吐くと覚悟して、背を丸め、胸を庇い咳をする。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 数を思い浮かべていられるならまだどうにかなるが、立て続けだと意識まで薄れる。覚醒すれば痛みがひどくなるような気がして、男は自分がまだ夢の中に居るのだと思い込もうとする、これは夢だこれは夢だ、これは夢だから、ただの夢、そう、この痛みも。
「……ああ、」
 胎児の姿勢を取り、自分をなだめてようやく咳の勢いが収まるのを確認すると、男は静かに息を吐いた。大きく呼吸をすれば、いつまたあの咳を繰り返す事になるか分からない。
「ああ……、」
 いつからだろう。
 この身体が上手く生きて行けなくなってしまったのは。もう死期が近いのかもしれない、腕も脚もひどく細くなった。魂自体もやせ細っていると考えていいだろう。もう、未練もないのだ、この世には。
 未練も、ないのだ。
「……梔子、が」
 月の光に淡く輝く梔子の花が、庭へ目を向けると自然と視界に映った。あの香りはどうしてこうも濃く強いのだろう。まるで、あの花だけが自分に、死ぬ事を許さないようだ。季節が過ぎれば枯れ果て、裸の木々になってしまうあの花は、けれどもどうしてかあの匂いだけをずっと残し続けている。気のせいかもしれない、気のせいに過ぎない、そうだとしても。
 いつまでこの世に生き続けるのだろう、と男は考える。彼の父が妾に産ませた唯一の男児だったせいで、死ぬ事も許されずほぼ幽閉に近い形で広いだけの家に住まわされ、病が移らぬようにと誰も近づかない。
 自嘲気味に唇を持ち上げたけれども、再び出始めた咳のせいでそれは中途半端に終わった。胸を押さえ、隙間風のように漏れる呼吸のみでどうにか息をしていると、意識も遠くなってくる。死ぬ事は恐くない。恐いのは忘れ去られる事だ、生きた証も残せぬまま存在していた事実さえうやむやになる事だ。
「今も、似たようなもの、か」
 無意識にも庭の方へ手を伸ばすと、そちらに意識も向いた。ふと気付けば、垣根の下でうごめくものが見える。
「……なんだ、」
 白く浮かび上がるように、何かが動いている。
 静かに声をかけると、それは驚いたように小さく空気を揺らした。どうやら、白い蛇であるらしい。
「蛇か。蛇でも見舞ってくれるのはお前だけだ、可愛いものだな」
ふと目尻が下がる。何か食べたりするのならくれてやりたいが、蛇が何を食べるものなのか、さて分からない。鼠だの鳥の卵だのを食べるような気もするが、桃だの杏だのを食べる蛇もいたような気がする。その前に、夜は具合が悪くなるので起き上がるのも困難なのだが。
「またおいで、あまり近づくと咳が移るかもしれないけれどね、気をつけてまたおいで、うちの垣根は良い香りだろう」
 白蛇は首をくうっと持ち上げ、金色の目をきらきらとさせて男を見ていた。気味が悪いなどと蛇を言う人も居ようが、男はただ自分を尋ねてきたかのような蛇を可愛いと思っていた。
「……思い込みもここまでくると笑い話だな」
 蛇が自分を尋ねてくるわけがないだろうに、とうっすら笑う男は、もちろん本当に蛇が彼を尋ねてきているなどとし知らずにただ、白い蛇を可愛い可愛いと、思っていた。


 あの人が、わたしに気付いた。
 あの人が、わたしに。
 けれどもあの消えかけている魂の焔はなんだ。
 白蛇はある日意を決した。あの病魔を自分の体内に吸い取ってやろう。死んでもまた、生まれ変わるだろうこの記憶を引きずって。もしかしたら来世では健康な男に逢えるかもしれない。それとも。それともあの男を、あの身を蛇に変えてしまおうか。後から零れた想いに、蛇は慌てて首を振る。それでは意味がない。一度女に生まれた時にあの男から貰った快楽、その記憶を蛇は甘く甘く身体に刻みつけていた。もう一度、あの柔らかな肌で、男に触れてみたい、触れ合ってみたい。だから、蛇の身では駄目なのだ、どうしても。鱗の冷たい身体では。
 蛇は考えた末、夜だけで良いから女の姿に変われるようにと望む事にした。そうしたら、あの咳を吸い込んでやれる。完璧に化けなくても良いのなら、やり方はもっと簡単になる。心を決めたのなら後は実行に移せば良いだけで、白蛇は四つの夜を跨いで生まれたばかりの女の赤子を三人、つるりつるりと飲み込んだ。そして月がその姿をまったく消してしまう新しい晩に、魚も住まない清水の湧き出る山の奥深くへ潜り、月が弓の形になる日まで目を覚まし続け、祈る。山の神がひとりでも蛇を気に留めて姿を現したところで、願い事をすればいい。代償として生命の半分ほどか生け贄の魂でも求められるだろうが、それはまたどうにでもなる。
 祈りを続ける蛇の前に現れたのは、色の白い鹿の形を取った山の神だった。
『何を祈るか』
「この身を、人の形に変えて欲しく祈るのです」
『それはまた、何故に』
「どうしても添いたい男が、ひとり」
『人、か』
 低く響く神の声は白蛇の背に苦しいほどの重圧を加え、それでも蛇は俯く事なく視線を逸らす事なく白い鹿を見詰め続けた。
『願い、叶えてやろう、その代わり、』
 来世で現世の記憶を引きずる能力を奪うぞ、と言われ、白蛇はその時だけ視線を少しだけさまよわせた。それでは、次の世で男を想い続ける事が出来なくなってしまうのか。ああ、それでも。あの魂の消滅を考えるよりは、運命があるというのなら何度でも、記憶はなくとも、出逢い続けるだろう。それだけで、充分なのかもしれない。
『それでも夜のうちしか人の姿を取る事はできない』
「……構いません」
『そんなに焦がれているのか』
 鹿はひゅうと首を上げて月を仰ぎ、濡れたように輝く瞳に光を映した。
「焦がれ……」
 光が広がってゆく。鹿の見詰める月から、零れ零れて光が。それが山全体を覆うほどになり、眩しくて目が開けていられなくなるまで、蛇はずっと、男の事を想っていた。ずっと、ずっと。
「……ああ、」
 水のせせらぎで我に返ると、蛇は女の身体に変わっていた。金色の目と夜の間しか人の姿になっていられない事を除けば、ほぼ完璧に近い。
「人の姿……」
 色の白い女となっていたけれど、月は既に薄く消えかけ、陽が上る頃なのかうっすらと東の空が白々している。夜を待とう、はやる気を押さえ蛇は思った。これで男に逢える、これで男の近くに寄れる、これで男の病を吸い取ってやろう。女の姿は消えかける月と同じく透明になりはじめている。次の月を待とう。そとて男に逢いに行こう。
 蛇はもうそれだけで幸せに酔いしれそうな身をしっかりと、両腕で抱きしめてみた。


 梔子の花が揺れる。風もないのにその花は強い匂いを放ち、どうしようもなく心の奥をざわめかせる。梔子、その実は秋になると橙色に染まり、染料に使用されたりするのだけれど、けしてその口を開かない。固く固く、つぐんだままなのだ。だから、口無し、とも綴られる。口無し。口が聞けたとしたら、さてどんな歌でもうたうのだろうか、あの記憶を刺激するような柔かく、強い香りの果てに。
 昼間使いの者が運んできた、もう既に固く冷えている粥を口にする元気もなく、男は蒲団の上に横たわっていた。
 梔子の、甘い香りに誘われるように、月は柔らかく傾いている。
「……誰か、そこに?」
 ふいに人の気配を感じ、男は声をかけてみた。物盗りだとか、そういった者でも命を惜しいとは思わない男には関係がない。殺されても、やっと死ぬのかと思うだけだろう、この家は広いだけで金目の物がある訳ではない。腹立ち紛れに生命を奪われても、どうせ余命は幾ばくもないのだろうから。
「……誰、」
 相手からの声はない。梔子の香りだけが強く揺れている。
 では何かの動物の気配だったのだろうか、と男が気にするのを止めようとした時だった。ただでさえ、言葉を発するのは辛いのだ、喉を刺激すると咳が止まらなくなるので。
「お身体は、」
「……使いの、方ですか」
 どこからの使いだというのだろうこんな夜中に、と自嘲気味に笑おうとしたら咳が出た。後はそれが続くのみ。肉を切る痛みが、内側から鋭くのぼる。何かの塊を口から生み出すのかと思われるような大きく苦しい咳に、眩暈がするのを通り越して意識が遠ざかる。
 固く目を閉じ、喉の裂ける痛みに耐えながら咳を続けていると、背に誰かのぬくもりを感じた。
「ああ……、」
「……無理して口を開かないでください」
 静かな感触で、男の背はそろそろと撫でられる。少しずつ、女の熱が服を通して肌に伝えられる。赤ん坊をあやす母の手のように。何度も繰り返し撫でられていると、咳が少しずつ弱く収まってゆくのを感じた。痰が絡んだような咳と咳の感覚が次第に長くなる。
「……すみません」
 助かりました、と男は女の手を止めさせた。
「……あなたは、」
「記憶にはないでしょうが、遠い昔にお逢いしたことが」
 小さく、けれども艶やかに笑う女に、男はぞくりとするものが背を走るのを感じた。色の随分白い女だ。目の色が金色に見える気がするのだけれど、月の光しか差さない室内の事なので、角度の問題なのかもしれない。真っ赤な唇は紅の色だろうか。髪の豊かに黒く光る様は、いつかの夢を思い出させた。そう、いつか見た、あの夢の。
「……幻、ではなく?」
「わたしが? あなたの幻だと?」
 ではその背を撫でたこの手も幻なのでしょうかしらね、と柔らかく笑われて、男は小さく俯いた。確かに。あの苦しい咳を止められたのは、背を撫でてくれた女のおかげだ。
「……けれどもこんな夜中に、」
「月の昇っている間しかお逢いできませんので」
「……物の怪だとか、あやかしの類のような物言いを」
「……そのようなものかもしれませんよ」
「まさか。まさか、そんな事があるわけが。ほんの戯れを口にしただけです、その、」
 ご自分で幻かと申されましたのに、と女が目を細めた。細めたその目から、そして零れ落ちたのは大きな大きな涙で。
「どうしまし、」
 驚いた男が最後まで言い切らないうちに、女は体当たりをするように男の方へ手を伸ばしてきた。そのまま、半身だけ起こしていた男の身体に抱き付いてくる。
「あの、」
 ますます驚いた男は、自分の手をどこに置いて良いのやら心底困り、それでもしばらくしてからそっと、女の身体を支えるためにその細い腰に手を回した。
「……逢いたかった。ずっと、ずっと逢いたかった。本当に、何度この場面を夢に見た事か」
 遠い昔に逢ったのです、その時から気の遠くなる時間の川を泳いでただあなただけを見ていたのです、女は泣き声のまま男の耳元で柔らかく告白し続ける。
「逢いたかった。本当に。やっと願いが、想いが、ああ、やっと、やっと触れられた、本当に、逢いたかった、ずっとこうしてあなたと、」
「……人違いでは、なく?」
「間違えたりするものですか、もうどれぐらいあなただけを見ていると思っているのですか?」
 あなたが思いつく時間より長い長い時を、わたしはあなただけ見ていたのですよ、と女は言う。もしかしたらこの女はあの世の使いなのではないかと、男はぼんやりと思った。自分を迎えに来たのではないか。先ほどから咳はすっかり止まっていた。日々苦しくなり起き上がる事も困難だった胸の痛みが、今は嘘のように引いている。もしかしてもう、自分は死んでいるのではないのだろうか。
「逢いたかった……」
 女の涙で男の肩が濡れる。
 人違いかもしれない、と強く思ったりもしたのだけれど、しかし女があまりにも嬉しそうに泣くので、男はそれならばしばらく人違いの人物になってやろうかと考えた。震える背を、今度は男が撫ぜてやる番だ。左の手をそのまま腰に、右の手をゆっくりと女の背に走らせる。
 女からは、いい香りがした。
 そういえば人を抱いたのはどれぐらい振りだろう。女の細い身体はどちらかといえばひどく冷えているかのように低い体温だったのだけれど、それでも人の熱は人の熱だ。
「ああ……、」
 やがて、女が男を振り仰いだ。
 真っ赤な唇が。
 吸い込まれるように、誘われるように、男は顔を近づけてゆく。
「ずっと、こうしたかった……」
 潤んだ瞳のまま、女はそっと瞬きをし、男の唇が重なってくるのをゆっくりと、待っていた。


 この頼りなさはなんなのだろう。
 白蛇である女は切なくなりながらも男の腕にすがりついた。
 細い腕。枯れてしまった茎のように、静かすぎて悲しい。
 それでも男の吐息は熱を込めて女の肌にそっとかかり、露出した部分の肌に触れられるとその手の平は優しく暖かかった。
 唇を重ねて、舌を深く深く挿し入れる。男の身体に根付く病を吸い取ってしまうように。時間はあまりないのだ、月が昇っている間だけ。陽が顔を出してしまえば、この身はまたちっぽけな白い蛇に戻ってしまう。
 男に巣食う病だけを吸い取ってやればいいと、最初は考えていた。それは本当の心だった。それでも、唇を合せていると触れているのが布越しでは我慢がならなくなってくる。
 ぬくもりは分かりやすい愛だ。
 縁際の水が弾みで零れるぐらいの、そんなすれすれまで湛えられた想いの感情がないと、人は触れ合ったりしない。
 少なくとも、男は。
 少なくとも、白蛇である女は。
 男の手が女の乳房に触れるのと、女が男の唇を噛むのとはほぼ同時だった。
「いっ、」
 血が流れるほどではなかったのかもしれない。男はしばし顔を離して相手を不思議そうに見ていたのだけれど、その手は女の胸から離れなかった。
 痛みに触発されたのか、また、咳が出始める。そうするとさすがに男は手を離して自分の口を覆った。女はその手に自分の冷たい手を重ねる。
「なに、を、」
 喉を裂く痛みを伴う、こじ開けるかのような咳が男の思考を揺らす。
きりきりと刻まれてゆく喉の痛みが、男の生命をも削り取るかのようで。
 女はそれに構わず男の手をもぎ取るかのように唇から引き剥がし、自分の唇を重ねてゆく。咳を、吸い込む。
「わたしに、」
 その病の元を。
 わたしの身体に、その巣食う病を。
「いけな、い、」
 途切れる呼吸とくちづけと、切れた喉からの赤い血が。女は舌を伸ばして、男の口内に染みる血の味を舐め取る。吸い込んで、深く、少しずつ、その病が女の身体へと移るように。土に染みる雨のように、水墨の滴が紙に滲んでゆくように、少しずつ。
「わたしを、抱けばいい……」
 男の咳を飲み込んで、女は微笑んだ。
 わたしを抱けばいい、そしてこの世で朽ち果ててもいい、わたしを、抱けばいい。
 始まりと同じ唐突さで咳が止んだ。
 男はゆっくりと瞬きをして、そして吸われていた唇にそっと、指で触れた。
「あなたは、」
「何も聞かなくていいでしょう、わたしはわたし、ただ、あなたの為に、あなたに逢う為に、何度だって生まれ変わった、ただそれだけ」
 手を伸ばす。
 お互いの輪郭を確かめるように。
 縛って、と女は告げた。
「……縛る?」
「どこにも行かないように、魂がここに在り続けるように」
「……どこかに、行ってしまう?」
「あの月が、陽の光に照らされたら」
 こんなに誰かを抱きたいと思った事は初めてかもしれません、と男は小さな声で言った。
 女の肌は月の色と同じ白だった。
 男はその胸へと顔を埋め、落ち着く、とひとことだけ呟いた。


 花の香りが揺れる。誰に嫉妬しているのか、明白なほど動揺して。
 花の香りが震える。自分の方を向けと主張したいのに恥じらう娘のように。
 花の香りが、花の香り、が。
 恥じらうように、その枝を少女の細腕の如く揺らすのだけれど、ふたりは気付かない。
 男の中で、小さく縮んでしまっていた欲望に、白く強い火が点いていた。女は紅い唇で誘う。着ている物を脱ぎ去ってしまえば、男の身体は痛々しく痩せ細っていた。それを生娘のように男は恥かしがったのだけれど、女は男の頭を自分の胸の位置でしっかりと抱きかかえ、何を、と微笑んだ。
 鼓動の正しく力強い音が、耳に流れ込む。
「それでも、恥かしい、あなたのようなお綺麗な人に、」
 こんなみすぼらしい身体を晒すのは、と男は両手で顔を覆う。
 その姿はまだ小さな子供を辱めているようで、女は子宮の辺りからどうしようもなくうねる熱が上がってくるのを、否定出来ない。
 逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて時間の長い長い川をひたすら泳いできた、そのすべての欲望を纏めてしまえばよく発狂しないものだと女は自分に感心してしまったほどだ。
「あなたが、縛らないのならわたし、が」
 着ていたものを縦に細く切り裂いて、その白くか細い指先のどこにそんな力が隠されていたのだろうと男を驚かせながらも、女は彼の手を取る。
「もう、離したりしない……」
 男の上にまたがり、女は男の腕を縛ってしまった。
 女は自分の姿が人のものと変わっているのも忘れ、その身を静かにくねらせる。男のものにそっと唇をつけると、そのまだ柔らかな部分に舌を伸ばした。包み込むように熱を移すように、舌先でこねているとそれは熱く力を増してくる。
「い、や、」
 かすれた男の声は妙に色を付けてくる。
「いや? 本当に? 本当に、いや?」
 どうしてこんなにも吐き出される言葉は甘く染まるのだろう。
「……本当に、いや?」
 男がそっと首を振る。微かに、右、そして左。
 彼の肌に余す所なく唇を押しつけ、女は呪文のように喉の奥で唱え続ける。もっと、もっと、もっと、わたしを欲しがれば良い。もっと、もっと、もっと。今宵生まれる星のように輝きを秘めて、その想いが燃え上がるように胸の奥へ刻み付けられれば良い。わたしを、もっと欲しがるように。身体へ、愛を刻み付けて忘れられないように。
 横たわる男にまたがり、女は静かに腰を落とす。
 愛しさが蜜となり溢れているとするのならば、この身体を包む熱の理由も痛いほどよく分かるというもので。
 ゆっくりと腰を沈める。
 先に声を上げたのは、男の方だった。
「……あつ、い、」
 無言で、女はひとつだけ頷く。
 髪が風もないのに揺れるごとく広がる。
 あつい、と再びゆっくりと一音ずつを区切るように言い放ち、男は不思議そうな顔をする。
「どうし、て、そんな顔、を?」
 そんな溶けてしまいそうな顔をしては駄目です、と女は手を伸ばし、男の頬を撫でた。つるりと、すべらかな感触に、くすぐったいのか唇が笑いの形を作る。
「あっ……」
 甘い声が、こぼれる。
 ひとつこぼれれば、もう後は静かに繋がり転がり落ちてゆくだけだ。
 やがて男は空気をそっと動かすように、女を下から突き上げはじめた。
 声が、声が。
 蜜にまみれて、だらりと甘くなる。
 白い肌を体温で染め合いながら、長くて短い時間をたっぷりとかけて、ふたりは同じように声を絡ませ合いながら、互いに果てた。


 甘い梔子の香りが闇の中で揺れた。
 女はそのまま眠り込んでしまっていたらしい身体を眠りのどろりとした淵から無理やり引きずり起こすと、ふと周りを見回した。まだ月は高い場所にある、多少傾きかけてはいたとしても。
 ほっとして隣で死んだように目を閉じている男の胸に頭を落とした。
 鼓動が規則正しく、ひとつずつ耳に流れ込んでくる。
 舌を伸ばして女は男の肌に触れてゆく。唇を尖らせて、人肌の感触を確かめてゆく。閉じられた瞼に、温かな頬に、冷たい鼻先に、静かな首筋に、女の匂いが残る指先に。先ほど縛っていた手首にはそれでも濃く紐の跡がついていて、女はそのすじをそっとなぞる。唇を押し当ててみる。男は微動だにしない。女は少し戯れの心を抱き、男の手首に歯を立ててみた。ちり、と張りの緩い歯ざわりがする。それでも男は動かない。女は悔しくて前の歯に力を少し込めてみた。それでも、まだ。
「……喰ってしまうよ」
 くすり、と笑い声の隙間からそう漏らしても、男は目覚めない。
 規則正しい心音は続いている、それなのに。
「……ねぇ、」
 小さな声で呼びかけてみた。
「……ねぇ、」
 再び。
「……ねぇ、」
 次の声は少し大きく。
 四度目の声を上げようとした時、ざわりと梔子が騒いだ。揺れて、女は背中に嫌な予感を走らせる。
「目を、覚まして、」
 梔子の匂い。
 甘く濃く、狂暴なまでに誘うその、匂い。
 後で謝れば良い、と決心して女は男の腕に噛み付いた。そうしないと、彼がこの先二度と目を覚ます事がなくなるような気がしたから。
 思い切り噛みしめる彼の腕は、そのうちに裂けて血が溢れるのではないかと思われたのだけれど、男は目覚めない。必死で歯を立てる女の口に、やがて何かが転がり込んできた。
「……これは、」
 何の冗談だろう。
 何故、口の中に。
「梔子の……花?」
 小さく白い花が、女の唇からこぼれた。
 嫌な予感が先ほどよりももっと強く、女の背中をのぼってゆく。
「ねぇ、」
 首筋に噛み付いて、蛇の姿を思い出して喰い千切ると。
 こぼれたのは白い花。
「待って、」
 自分でも何を待たせようというのか、それでも女はそれしか口に出来ない。
 女が喰い千切った男の傷から、溢れるのは梔子の、花。
「どうして、どうして、なにが、」
 慌ててその傷を手で押さえても、ゆっくりと花はこぼれ続ける。
 白く、小さな花が。
 花、が。
「いや、いや、いやあ、どうして、何故、いや、いやあ……」
 首を振ると髪が揺れた。梔子の匂いが闇の中で攪拌される。
 女はふと背後に気配を受けて振りかえった。
 そこにいたのは。
 白い髪の娘で。
「駄目……」
 女はどうしようもない気持ちで娘に告げたのだけれど、表情のないその子は静かにふたりを見詰めているだけだった。
「駄目、……駄目、この人を連れて行かないで、駄目、やっと、やっと結ばれたのに」
『……それは、幻影』
「……幻、影?」
 女は娘の唇がひとつも動いていないのに、その声が頭に響いてくるのを感じていた。そして知ってしまう、彼女もまた、人の形をした違うものだと。
『その人を愛したのが、あなただけではない、話』
「……あんたも、なの?」
『その人をずっと見ていたのは、あなただけでは、なく』
 その魂がもう擦り切れてしまっているのを知っているのはあなたでしょう、と娘の声は響く。耳ではなく、頭の中へと。
「……あんた、庭の、」
 月の光に娘が柔かく放つ香りは、そう、それは。
「庭の、梔子……」
『あの人の魂はもう擦り切れてしまった、あなたの見ていたのは私の造っていた影』
 あの人の、記憶。
「嘘よ!」
『それ以上彼の姿を崩しても?』
「嘘よ、だってさっきわたし達は睦み合ったわ、嘘よ、嘘、うそ……」
 分からないのなら、と娘が左手を上げる。
 それは、月の方角へ向けて。
「いや、いやよ、駄目、駄目なの、駄目よ」
『もうそれは、ずっと昔の記憶』
「この人は生きているわ!」
『……梔子は愛されたのです。ずっと、ずっと長い間。だから、彼の魂が消えてしまった時、寂しくて寂しくて私は影を作ってしまった、愛され続けている幸せな記憶を延々と紡いでしまった』
「駄目、お願い、やめて、」
『もう、終わりにしましょう』
 ざん、と花びらのこすれ、重なる音がした。
 女は必死で男の身体にしがみついていたのだけれど、意味などひとつもなかった。
 充満する窒息させられるような香りの中で、男の身体は小さな小さな幾つもの梔子の花となって崩れた。
「いやあっ、」
『あなたもまた、その人を愛したかもしれない、けれども私もずっと、ずっと愛していた、愛されていた……』
「どうして、」
『私の力も、もう残っていないから』
 指差された庭へと女は視線を向ける。
 そこに、枯れ始めている梔子の垣根が見えた。
「……何故、さっきまであんなに香りが」
『もう、あの人が居ないこの世に生きる事に、疲れてしまったから』
 女は男だった梔子の花を両手でかき集め、抱きしめようとするのだけれどそれは腕からこぼれてしまうばかりで。
 どんなにどんなにかき集めても、男の姿は戻らない。さっきまであんなに温かかった、あの身体も今は朧げなる記憶の残骸に成り果てている。
『さようなら、同じ人を愛したあなた』
 娘がゆっくりと笑う。
 初めて、表情が崩れた。
「待って、じゃあわたしは何を見ていたの? わたしは愛していたと思っていた、けれどもそれは違ったの? あの人の魂を間違えていたの? わたしの愛は本当ではなかったと、」
 言うのかしら、と最後は言葉じりを濁しながら女は呟く。
 梔子の娘は静かに首を振った。
「わたしだって、生きてゆく意味などないじゃない……」
『さようなら、』
「どうしてそれを告げるのがあんたなの……」
 涙は落ちなかった。ただ、視界をゆらりと揺らしただけだった。
 あの人のいないこの世界で、どうやって生きてゆけと。
「ねぇ、愛しているのよ……」
 女は梔子の残骸を抱きしめて何度も繰り返す。
 愛しているのよ、愛しているのよ、愛しているのよ、愛しているのよ。
 愛しているの、それなのに。
「わたしは間違えていたと言うの……」
 娘の姿がゆっくりと薄れはじめる。
 梔子の匂いも、それに引かれてゆくかのように微かながら散ってゆく。
「愛しているのに……」
 月が沈むまでの時間はまたあるのに、と女は呟いて、何度も何度も梔子の残骸を抱いていたのだけれど、やがて静かに立ち上がったかと思うと、そのままふらりと庭へ出た。
 その手に、小さな梔子の花を握り締め。
 最後に細い声で愛しい男の名を呼んだような気がしたのだけれど、その声は誰の耳にも届かないまま空気に溶けて、溶けきった時にはもう女の姿はなかった。



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