by TOMOMI
私の知る限り、世を捨てて敢えて神に仕える道を選ぶものには二通りの人間がいる。
真に神を信じる者と、己の罪から逃げ込む場所として選んだに過ぎない者だ。
私は明らかに後者だった。
自分の犯した罪に背を向け、神にすがる振りをして生きてきた。しかしどんなにすがろうと、神は私から遠ざかるばかりだった。当り前だ、私は神をどこかで疑っていた。純然たる信仰を私は持ていなかった。しかし、口に出す信仰という言葉は、全てを正当化してくれた。私にとって、それは現実逃避に他ならなかった。
幼い子供は皆天使だという。しかし、私はかつて、そんな純白の存在であり得たことはなかった。親さえも私を悪魔と呼んだ。
私の最初の記憶は、額から血を流す母の驚愕した顏。手にした金槌は父の仕亊道具であった。何に癇癪を起こしたか、私はそれで母を殴りつけていた。それでも私を落ち着かせようと抱き締める母の顎から、私の額にぽとりぽとりと血がしたたり落ちた。それは私の二度目の洗礼。その後、私の人生は血で覆われることとなる。
私は幼いときから自分の中の嵐を押さえられないでいた。吹き荒れる風は思考力を吹き飛ばし、網膜は赤い霧で覆われた。
嵐は突然やってくる。身の内を突き抜ける破壊衝動。周りのもの全てを破壊したくなる。
私の伸ばした手から身をかわして逃げる小猫、遠くから聞こえる笑い声、振り向きざまにふれあった視線にも。
全てのものが私の神経にちくりちくりと針を刺した。
気づけば荒い息をして拳とシャツが血に染まっている。何をしたのか自分では良く分かっていなかった。ただ全身の血が一気に冷めていくことと、何処かから聞こえる女の笑い声だけは覚えていた。
只でさえ、私逹一家は余所者だった。気候の穏やかな田舎町にありがちな閉鎖性。
たとえば髪の色、肌の色、言葉や習慣。
祖父譲りの濃い髪の色と、異様に高い背丈だけでも私は街の異分子だった。
冷たい目をしたまま殴りつける私に級友達はもちろん、両親さえもが私と距離を置くようになった
私という息子を持ったおかげで、両親はいつまでも共同体には加えてもらえない。
「ベイセルが来たぞ!!」
町中の子供達は私の姿を見るなりそう言って逃げ出した。私は拳を握り締め、黙って彼らの後ろ姿を見つめる。
母親は子を庇い、道往く大人たちでさえ、見て見ぬふりで通り過ぎてゆく。
笑顏を作ろうとしてみても、頬の筋肉が引きつるだけ。私は笑い方を知らなかった。
かわいげのない子供だと言われた。傷だらけの拳を見詰めては、深いため息をついた。
誰も私を愛さなかった。愛に飢え、苦悩に満ちた少年時代。
笑うことも、泣くことも諦め、ただ時が過ぎてゆくのを待った。
その頃からすでに、私の眉間には深い皺が刻まれていた。
彼らは私を恐れた。しかしそれ以上に私は彼らを恐れていたのだ。
人が生きる限り、必ず他者との関わりを持たなければならない。私にはそれが耐えられなかった。私が誰かを傷つける時、それは私が誰かに傷つけられる時。
ひたすら神に祈った。このままでは自分はおかしくなってしまう。
私は十二歳で、私を苛立たせる世界に背を向けた。
周囲の人間の安堵の溜め息を後背に受けながら、私はこの石の搭に飛び込んだ。私は神に救いを求めたのだ。
私は一人、冷たい石の壁にもたれて考え続けた。神は何故私を助けては下さらないのか。祈りは本当に届くのか。救いは人間の功徳によってではなく、神の至高の恩寵によってのみえられるという。
信仰とは神の不変の愛を信じることであると。
祈るだけで救われるのならば、世界中の人間が幸福であるはずだ。
今の世界を見るがいい。何処に絶対的な幸福があるのだ。人々は病に苦しみ、自分とは無関係の争いで死んでゆく。神の与えたもうた試練だというのなら、神は人を愛してなどいない。
私は考え続ける。自分の罪を。そして願い続ける。救いの来る日を。
あれから二十年。今でも私の苦悩は変わらない。ちょっとしたことで我を忘れ、その都度年若い牧師たちを打ち据えた。
私のそんな態度が、他の者には規律に厳しい頑固者として映るらしい。誰もが私の前では人形のようにぴたりと動きを止め、口をつぐんだ。私に見咎められれば只ではすまないことを誰もが知っていたから。
私は深い溜め息と共に、目を閉じて誰ともなしに呟く。もう慣れた・・・と。
ゆっくりと上げた視線の先に、ふき取り忘れた黒い染みが目に留まる。
昨日の私の罪の跡。
私が鞭打った少年の、引きつった顏が目蓋に浮かぶ。ただ余所見をして私にぶつかったというだけで気を失うほどの責めを受けてしまったあの少年。
頭に血が上った私を誰も止めてはくれなかった。
腕だけが意識を持ったように、手にした鞭を振り下ろし続ける。少年の背中が裂け、衣が血で染まるまで私の手は止まらなかった。少年の謝罪の声も、周りの者の止める声も耳には入らない。
我に返れば、目の前の痛々しい傷跡と周りからの刺すような視線に、私は後悔の念に駆られその場を走り去る。
─────また・・・やってしまったのか・・・
自室にこもり、石の壁に頭を打ち付ける。何度も何度も。壁には赤黒い染みがこびりつき、もう拭っても取れはしなかった。二十年間の私の後悔。
私は声を殺して泣いた。
何のための二十年だったのか。私は只無駄に年月を過ごしてきただけだったのか。
私の折檻により、逃げ出した若者もいた。自分で命を絶ってしまったものもいた。その都度私はこうして自らを傷つけ、去っていった者に懴悔した。
私のこの行動と、威圧するような高い背丈、そして眉間に刻まれた深い皺が私を一人孤立させていった。
私を慕う者などいない。
しかし孤独は救いでさえあった。
誰も側にいなければ、私は誰も傷つけない。
自然と私は部屋に引篭りがちになった。
柱の影から聞こえてくる忍び笑い。背後に響く乾いた足音。それすらも私の心を苛立たせる。世界の全てに敵意を持たせる。誰かが私の事を笑っているのではないか。
戸口に潜むものを怖れた。
疑心暗鬼になり、誰も信じられなくなる。敵意は己の怖れる心。
ただ私は脅えていただけかもしれない。
「あの人は、何故ああも激昂しやすいのでしょうなぁ。」
「ヒステリーが許されるのは女だけでしょうに。」
「いや、あれはヒステリーなんて可愛いものじゃぁないでしょう。案外趣味でやっているのかもしれませんな。」
「それはそれは・・・。」
下卑た笑い声。私は柱の影で一人唇を噛み締めた。
この年になって、自分で自分の感情を抑えられないなんて情けないことだ。
しかし、断じてそんな倒錯的な趣味など持ってはいない。持ってはいないが、そう見られるような行動をとっているのか。私は情けなさに体が震えた。
(それも神の御意志なのでしょう)
遠い昔、生涯で只一人の友が口にした言葉が思い出された。
その夜、私は極彩色の夢を見た。
四方を熱帯の緑の葉に覆われ、所々に真っ赤な花が咲いていた。
湿った風が私を包み込む。密度の高い濃厚な空気、強すぎる花の香りは人を不安にさせ、不快にさせる。高すぎる気温と湿度は思考能力を麻痺させ、必死で閉じ込めておいた記憶を引きずり出す。
沸騰した脳みそで僅かばかりに抵抗してみる。無駄な努力とわかっていながら。
出口のない緑の牢獄。私は捕らえられた鳥のようだ。
足が地に張り付いたように動かない。私は息苦しさに髪をかきむしる。指に絡み付いた髪は糸ミミズのようにうねり出す。吐気のする不快感。喉の奥に引っかかった悲鳴。世界は歪んで狂っていく。
視界いっぱいに広がる緑の洪水が回転する。世界は私を中心に廻ってゆく。
力いっぱい見開いた私の眼に、美しい虹が見えた。
虹?いや違う、ふわふわと漂い、増殖するあの光。七色の球体がはっきりとした意志を持って私の方に近づいてくる。
両の腕に鳥肌が立つ。背中に毛虫がはうような不快感。
駄目だ。あれは良くないものだ。
来るな・・・こっちへ来るな・・・
チクチクとむずがゆい頬の感触に目を覚ます。前髮を揺らす湿った暖かい風。
ゆっくりと開いた目蓋の向こうには、見知らぬ景色が広がっていた。
ここは何処だ
石を積んだ壁は何処に行ったのだ。私の割れた額から染み込んで消えなくなった赤黒い染みは何処に行ったのだ。
私はまだ、夢の中にいるのだろうか。
頬に付いた砂粒がさらさらと落ちてゆく。
目の前に広がる緑の洪水。幾重にも重なる巾広の葉陰に原色の花が咲き乱れる。絵の具をそのまま塗り込めたような、赤、黄、白、紫。不思議な形をしたトロピカルな花々。マングローブの根は生き物のようにくねり、絡み合う。全てがその存在を主張し、風景の中に自分を切り取る。甲高い鳥の声は何処から聞こえてくるのか。
緑は心を癒す色。しかし、この熱帯の緑は人を威圧する。汚れた身で踏み込むな、と拒絶する。
振り向けば、何処までも青い海。薄い碧から濃い藍へのグラデーション。白い波が静かに泡立つ。
いつか本で見た、南の楽園そのままに。
砂浜の所々には私の背丈ほどもある白い自然石。
私が触れるとそれはざらざらと音を立てて崩れていった。
私は屈み、日の光に反射してきらきらと輝くそれを一粒舌の上に載せてみる。刺すような塩の味がした。
私は砂浜に座り、打ち寄せる波を見つめた。
ここは何処だ?繰り返される同じ問い。
私が産まれて一度も見たことのない海。テレビのブラウン管の中にしか存在しなかった美しい海。なのに何故こんなにも懐かしい気持ちになるのか。身躰の中には海があるという。海から全ての生命が産まれたという。その所為か・・・いや、そんなものは考えてはいけない事だ。命は神が作ったもの。科学の進んだこの時代に、神話を信じるというのも難しい。ふと、母の顏が浮かぶ。彼女は密かに、北欧の古い神々を信じる人だった。しかし、いくら彼女でもこの微温い海の上に、マナナーン・マクリルの姿を思い浮かべることは出来ないだろう。
兎に角熱い。黒い修道服の襟が汗で湿る。白い砂浜が日光を照り返し、密度の濃い空気には汗の蒸発する隙間はないようだ。汗はただ流れ落ちる。朦朧となる意識を心地好く思いながら、取り止めもないことを考えた。
これはやはり夢なのだろうか。だとすると、これほどの暑さは何だろう。火事で身を焼かれているのだろうか。それでもなお、私は眠っているのか?
それも、良いかもしれない。このまま覚めない夢を見続けるもの悪くはない。
ここは誰もいない場所。切望し続けた一人きりの場所。
波の音だけが静かに響く。
ここが何処だろうが構わない。もしも夢ならば、私は一生目覚めたくはない。
寄せては返す波の間から黒い影が揺らめいた。
ゆらゆらと身を揺らしながら、影が海の中からあがってくる。自分と同じ黒い修道服が水を含んで重たげだ。乱れた髪の間から青白い肌が覗く。
ゆっくりと上げられた懐かしい顔。会えるはずのない、死んでしまった友が潤んだ瞳でそこにいた。
「会いたかったよ、ベイセル。」
「トゥルソ・・・」
トゥルソの光り輝く前髪から落ちた滴が私の額に降りかかる。私は立ち上がることも出来ずに、ただ彼を見あげていた。先程までの暑さは何処へいったのか。ぞわぞわと鳥肌が立つ。私は凍り付いたように身動きがとれなかった。
太陽を背に、トゥルソの金の髪が輝く。細い指で前髪を掻き上げる仕草は昔のまま。空洞になった左の眼窩から血膿の雑じった水が流れ、頬を伝った。
「恨み言を・・・言いに来たのか?」
私の声は震えていた。彼も私の仕打ちに耐えきれず、自ら湖に身を沈めた一人だった。
その優しい微笑みと儚げな容姿は多くの者に親しみをもたせ、年若い者逹は彼を兄のように慕った。
仲間たちは何かに付け、同年である彼と私を比較する。それがどんなに私を傷つけるかを知っているから。
羨ましかった。その穩やかさと笑顏は、私が幾等望んでも得られなかったもの。
「憶えていますか?二人でよく物見台から街を見下ろしましたね。強い風が吹き、心地好かった。余り話はしなかったけれど。」
封印した記憶が蘇る。そう、あれは私が一番忘れたかったこと。
搭の上の物見台は私逹二人の聖域だった。
金の髪を風になびかせる美しい横顏を、私は凝乎と見詰めていた。
お前にはつまらない時間だったろう。何も話さぬ私の横で、ただ微笑んで傍にいるだけだった。
慈悲深いお前は気付いていなかっただろう。それが哀れみだということを。
慥かにお前は優しかった。
ふくよかだった頬の肉がおち、背丈が伸びるにつれ、おまえの周りを人が囲む者は増えていった。。誰に対しても分け隔てなく接する姿を、誰もが微笑んで見ていた。悩める者の良き相談相手となって、私のことをかまう暇などなくなっていった。
そしてもう、物見台には来なくなった。
あの夜、そう彼が姿を消した夜、お前は私の部屋へ来た。蒼冷めた顏をして。
お前と二人で向き合うのは何年振りだったろうか。
何があったのか、それは知らない。ただ黙って私の胸で泣いた。
それが無性に許せなかった。周りの全てから愛され、慕われているお前が苦悩するということが。何年も放っておいた私の胸でなぜお前が泣くのか。
泣きたいのは私だった。
私はお前を突飛ばし、手元にあったベルトで打ちのめした。
声を上げず、悲しげな瞳で打たれるままになっているその姿が、悪いのはお前だと言っているようで苦しかった。胸の苦しさはそのまま、鞭の強さとなった。
あの時私は何と言ったのか。お前を罵倒した言葉を、私は思い出せない。耳の奥がキーンとして、涙が止まらなかったこと以外には。
足を引きずるように部屋を出ていったお前は、そのまま湖へ向かったのか。
だとしたら・・・。
「私が自らの命を絶ったのは、私の弱さ故です。私は生きるという事に耐えられなくなった。貴方の所為じゃない。」
「しかし・・・」
「それでも貴方は私のために泣いてくれた。私は嬉しかった。」
優しい言葉。でも、何かが違う。
「嘘だ、そんな事思ってもいないくせに。おまえを殺したのは私だ。私なんだ。」
慰めを求めたお前を突き放したのは私だ。そんなに悲しかったのか。そのまま湖に身を沈めるほどに。
なぜ私がお前のために苦しまねばならないのか。これ以上私にどうしろというのか。
震える拳にありったけの力を込めてトゥルソを殴りつけた。殴る以外に感情の吐き出し方を私は知らなかった。
私の拳がトゥルソに触れたその瞬間、楽園に響き渡るガラスの割れる音。煌めく光の雨。
私の血塗れた拳の先に友の姿はなかった。
トゥルソがいたはずの砂浜には、無數の破片が太陽の陽射しを反射して、きらきらと輝く。一つの破片は緑を映し、もう一つの破片は青い海。しかし、その何処にも美しい友の姿はない。私は呆然と立ちすくんだ。
甲高い笑い声が響きわる。
大きく枝を広げたマングローブの支柱根の上で、半裸の少女が微笑んでいた。
手にした果実は真紅の宝石。木漏れ日に反射しきらきらと光る。少女はそれに口をつけた。まっ白い歯が赤く染まる。
褐色の肌は濡れて光り、その肌の上を漆黒の豊かな髪が流れ落ちる。大きな黒い瞳を輝かせて少女は私を見つめた。
「意気地なし。」
ほっそりとした手で丸くふくれた腹をなぞる。微かに膨らんだ胸とは対称的に、異様に膨らんだその腹部は紛れもなく孕み女のそれだ。薄い布を巻き付けただけの身躰が蛇のようにゆっくりとくねる。
この女は誰だ?トゥルソは何処だ?私はどうしたというのだ。
めまぐるしく変わる状況が私の感覚を麻痺させていた。少女の慇懃な態度に腹を立てる余裕もない。
もういい。これは夢なんだろう?もう目を覚まさせてくれ。
頭を抱える私に、柘榴で赤く染まった指を甞めながら言い放つ。
「その鏡がお前の心をうつしていただけ。まさか、割るとは思わなかったわ。本当のトゥルソは今ごろ冷たい土の中で、蟲に食われながらお前を呪っているわ。」
いなくなって一月もしてから、水から引揚げられた彼の浮腫んだ紫の顏。ぽっかり空いた左の眼窩から、あの時も血膿の雑じった水が流れ出た。
自分に向けられたその顔が、今にも口を開いて呪詛の言葉を吐くのではないかと怖かった。
辺りは静まり返り、誰も何も言わなかった。しかしその静寂が却って私を責めていた。必至で自分に言い聞かせた。私の所為じゃない。トゥルソが死んだからといって、何故私が苦しまねばならないのだ。
「お前の所為じゃないと言われたかったのね。馬鹿じゃないの?お前の所為に决まっているじゃない。」
あの美しかったトゥルソが、誰もが目を背けるくらい醜く腐れ果てていた。誰から愛され、そして私を苦しめたトゥルソはもう何処にもいない。私はあの時心の底で笑わなかったか。その姿を見て、私は密かに勝利を味わったのではなかったか。
「お前は多くの者達を傷つけた。肉体も精神も多くの血を流し、そして相手の悲しみと憎悪を掻き立てた。憎悪するのは罪よ。では憎悪をさせたお前にはもっと罪があるのではないの?罪はすべてお前にあるの。私がお前を裁いてあげるよ。ここはお前の贖罪の地だから。」
高らかに笑う少女の声を、私は悲しみと共に、諦めに似た気持ちで聞いていた。
どんなに神に仕えようとしても、やはり私は許されざる罪人なのか。彼女は神の使いなのか?
「あなたは・・・誰なんだ?」
「私は神ヨグの娘。」
誇らしげに答える少女は重そうな腹を庇いながら太い根の上に立上った。
「違う、全能の神はただ一人。」
神など信じてもいないくせに。自分の言葉に憤った。それでも、そんな聞いたこともないような異教の神の使いに裁かれる謂われはない。この場から逃げるか。しかし何処へ?
「お前のいう神が、何をしてくれた?お前の悩みを救ってくれた?」
「それは・・・」
「逃げようとしても無駄よ。お前は私のもの。お前が知りたがっていたことを教えてあげられるのは私だけよ。それは選ばれたものだから。遺伝子情報につけた印。一つ多いYの文字。隣人を傷つけずにはいられない者の印。」
私は逃げようと背を向けたままの姿勢で凍り付いた。
「罪と後悔の念にたっぷりと浸るようにプログラムした私たちの家畜。私はお前を収穫に来たの。」
何を言っているのだ?馬鹿げたことだ。これ以上関わってはいけない。帰るのだ、私の静かな日常へ。
「古の都に大量に集めて飼育場を作ったりもしたわ。あれはあれで一度に収穫できて楽だったけれど、あいつらには味が今一歩。罪と快楽ばかりで味気ない。後悔と悲しみということを知らないのだもの。だからそれはもう止めたわ。」
砂浜に点在する塩の柱。あれはそういうことなのか。では、私の受けた教えはどうなるのだ。
「お前のその身は血に汚れている。その命は憤怒の罪に染め上げられ、お前の影はお前に傷つけられたものたちの恨みと怒りで真っ黒よ。すばらしいわ。それでいてまだ神にすがり付こうとしている。愚かで素敵だわ。理想的な贄ね。」
少女は赤い果実を食べ続ける。口の端から零れ落ちる赤い粒は丸い腹の上を転がる。
「私の子。私一人で作ったの。罪と他者の血を染み込ませたお前のその命、その身体、それが必要なの。私は時間を、そして空間を駆け巡り、印を授けたものたちを収穫するの。」
「私を食べるというのか?」
「吸収するだけよ。」
悪魔。
その言葉だけが私の頭に渦卷いた。私は悪魔の家畜。下等な獣。人らしく有ろうと悩み続けても無駄だったわけだ。こんな悪魔に呪われた身躰を、神が救ってくださる筈もなかったのだ。思わず笑いが込上げてきた。頬を涙が伝う。
堪えようと空を見上げたとき、私の頭上で極彩色の鳥が羽ばたいた。
少女の嘲笑のように、鼓膜を破るような高い聲で鳥が鳴く。
光が私を包み込み、自分が結晶となってゆくを感じた。
ハレルヤ!
その一つ一つの結晶からたくさんの私が溶け出していった。たくさんの私は七色の光に包まれてかつてないほどの至福感を味わった。
私はもう苦しまなくても良いのか。これで終わりになるのか。もう・・・どうでも良い・・・
どうでも良いのか?本当に?
頭の中で火花が散った。
勝手に决めるな!
私の命だ。たとえ泥のような罪を被っていようとも、私は私だ。こんな見知らぬ女の言いなりになる道理はない。
私は愛されたかった。だからこそ、人を傷つけずにはいられないこの身を呪ってきた。
もういい。誰にも愛されなくても良い。誰を傷つけようと、誰に怨まれようと私は生き続けてやる。
神もいらない。救いもいらない。
自分の力で生きるんだ。
溶けだした私が再び一つとなり、吸い込まれて行く先にあの少女がいた。真っ赤に染まった口を開いて。身躰中が熱い。今私はかつてない充足感を感じていた。
私はもう悩まない。そんな無駄なことはしない。
突然、金色の影が私の行く手をふさいだ。私を止めようと言うのか。やめろ、もう私にかまうな。お前はおとなしく、蟲に食われていろ。
トゥルソ・・・。
「どけ─────!!」
私はその影を弾き飛ばした。
全身に針を突き刺さされたような痛みが走る。皮膚の全ての毛穴から、一気に焔が噴き出した。
焔は私を包み込み、うねり広がっていく。フレアを起こし、世界を赤銅色のに浸食してゆく。七色の光の玉が熱で膨張し弾け飛んだ。弾けた端から破片は溶けてゆく。
私は声高らかに腹の底から笑った。これが笑うという事か。腹の底が熱くなる。マグマが私の中にある。命の焔だ。私には力がある。もう何も恐れはしない。何という解放感だ。
脳が溶けそうだ。
「なんなの?どういうこと?」
女の引きつった顏が間近に迫ったとき、頗割れた空間の狭間から巨大な影がうごめいた。
視界いっぱいに広がる巨大な手のひらが少女を包み込む。
私の身躰は闇のように漆黒の手に弾き飛ばされた。
薄れ行く意識の中で、地響きのような笑い声と女の舌打ちする音が微かに聞こえた。
世界は熱風に溶け、マグマと炎に包まれた。
世界が冷え切った頃、私は堅いベットの上にいた。
夢だったのか。
いや、腹の底の熱い固まりは消えず、むずむずと燻っている。
私は解放された。あの灼熱の焔の中で、厚い殼が剥がれ落ちた。
私は力を得た。今まで私はただ救いを求めるばかりだった。得られる筈のないものを捜して地を這続けてきた。
待っていても救いは来ない。いや、救いなどというものは始めからから存在しない。
人を傷つけずにはいられない運命。それならば、それで良いではないか。それでも生きる術はあるはず。
愛されることを諦めれさえすれば。
その日の内に修道院を出た。僅かばかりの金と着替えだけを持って。誰も止める者はいなかった。あたりまえだ、私はここでも異分子だった。
皆が遠卷きに見つめる中、私は晴々とした気持ちで門を出た。
私は何があっても生き続けてやる。
もう、人を傷つけることなど、怖くはない。地を這い、襤褸布のようになっても、この拳一つで生き続けてやる。