by 夜長
蒲田には、長く細くつづく暗い川があります。そこの辺り一帯は、人間国宝がすむ竹藪に囲まれた家があったり、薄暗い公園があったりと、まるで駅前の喧噪が別の町であるかのように、ひっそりとして、寒の気がただようところです。
その川沿いの道を明るい商店街に向かって歩くたびに、私は、その遠さと、心細さと、遠くのネオンにけぶる赤い月に、今にもしゃがみ込み、泣き出しそうになります。そして、そのたびに、この人通りの少ない道には、誰も私を助けになんかこないことに気づき、ただ、一つの「歩き続ける」という選択肢に、思わず目まいするのです。
あなたと私が出会って最初にいっしょに歩いたその道は、本当にあなたによく似ていますね。
これから私が、言葉を尽くしてあなたに伝えたいことは、ただ「本当にあなたを大切に思っている。」ということです。それは、出会ったときから一生をかけて・・・と決まっていたことです。
「私にはこの人以上に大切に思える人はいない。」その予感は決して間違いではありませんでした。
でも、考えてみると、私とあなたが本当に幸福だったのは、出会って2ヶ月ほどでしたね。私は、今、その、たった2ヶ月の間では伝えられなかった私を、どうやってあなたに伝えていこうか、身もだえて続けています。(あなたは、ある時からどんどんと私に心を閉ざしてしまいましたから、幸せは私よりもっと短かったのでしょうか。)
私が、もうあなたなしではいられなくなったある日、あなたは、こんなことをいいました。「本当はずっと前から知っていた。初恋の相手だ。」と。私は、大人になって初めてあなたと出会い、恋に落ちたと思っていました。
古い写真を調べると本当に、あなたの面影のある少年がすまして写っていて、私は、なんだか胸がいっぱいになりました。それまで、名前も知らなかった写真の小さな男の子は、その時から、私の本当に大切な人になりました。そして、その時から、私はあなたの過去も未来も愛そうと誓ったのです。でも、きっとあなたには伝わらなかったのでしょうね。
きっと、私が悪かったんですね。
それにしても「恋人」としての別れは本当に早いかったですね。まるで、大した理由もなくつきあった恋人同士のようですね。
私はあなたと別れてから、また、もとの生活に戻りました。愛のマゾヒストたちとの甘くただれた生活です。私は彼らを罵倒し、無償の愛の蜜におぼれ、わめきちらしました。
昔からの奴隷もいますが、そういう人との出会いは、不思議と絶えないものです。
例えばある時は、妹と友人と個室の店に飲みに行きました。その後、友人が、男友達を連れてきました。その男は初めて会う男で、たくましくすらりとしていました。が、一目見ただけで、そいつのどうしょうもない性向はありありとわかりました。私はその男を蹴り倒し、四つん這いにさせました。妹の前でそんな暴力的な場面を見せるのは初めてでしたが、その時の私は、妹と友人の受ける心のダメージを想像し、彼女たちをも間接的にいたぶらずにはいられないほどの気分だったのです。初めその男は驚き抵抗しました。「わかってんだよ。こういうの好きなんだろう。」と言っても驚きの表情が顔に張り付いています。どうやら、その時までそういう扱いをされたことがなかったようです。仕方ないので、矢継ぎ早に言葉を浴びせました。「まだわかっちゃいないようだけど、本当のあんたはこういうの大好きなんだよ!」だんだん、表情が変わってきました。私は言葉を浴びせながら、男の腹を蹴り上げ、靴で背中を踏みにじりました。男の顔は上気していました。
最後に男は、私の右足を両手ですくい上げるように持ち上げ、靴をなめ始めました。その時、物音にはっと妹の方を見ました。彼女・・・彼女はうつむき、嘔吐していました。(つまらない男のことに、こんな説明をするのはもったいなかったですね。)
そして、私は手に入らないものを求め初めました。男に愛され、なんの不自由もない美しい女を見つけてはからかい、体を求めました。(なぜなら、私には、未だに女の愛が本当に手にはいるのかどうか、はなはだ疑問だからです。)例えば、ある時は、知らない店で一人で飲んでいました。その時は、ただ飲みたかっただけで、なにも下心はありませんでした。 しかし、美しい女が一人はいってきました。私は、いつものように女をからかいはじめました。私が好きなのは、髪が長く、残酷に前髪を切りそろえた女たちで、その女もやはりそうでした。私は、その女の隣にすわって、グラスをもてあそびながら、こういいました。「ひとり?」「ええ」女も、グラスをもてあそびながら答えました。黒いノースリーブから伸びている、まっしろい腕は、しっとりと、は虫類の動きを見せていました。そして、ちょっと私から視線を外した横顔は、まつげの長さをまざまざと見せつけていました。その後は、少したわいもないことを話して、二人で店を出ました。
私の好きな女たちはこのように物わかりがいいのです。しかも、こういう女の多いこと・・・。
先に出た女の後ろ姿は、昼に存在する事を想像すると痛々しくなるような、奇跡の造形でした。私は、彼女のあのしろいうでの感触を想像して、いつもの部屋を思い浮かべました。そこの広いスイートは2つの部屋に仕切ることのできる私のお気に入りで、私は、そこに女を連れていっては、ドアを閉め、幼いかくれんぼ気分に浸るのです。どうせ最後には片方の部屋しか使わないのに・・・。
女をそこに連れていくと、ちょうど一階のレストランがオーストラリアフェアーをやっていました。「カンガルーを食べてみたいわ。」と、女がいうので、そう空腹でもなかったのですが、私たちはそこに入りました。客の多くは品のいい外国人でした。飲み物は、「カンガルー」から、何となくビールを頼みました。受付を通っているので、一杯目は、いつものようにサービスでした。女が「よくくるの?」と不審そうに聞くので、私は、少しまゆ毛をあげて見せました。そして、「カンガルー(I do not know)」と言うと、新しい注文のために、彼女と反対方向に体をねじりました。
部屋には、もう花を運ばせておいたので、女は入るなり「いいかおり!」と、うっとりと目を閉じました。部屋に入り、陳腐なバラの花束を見ると、「これ、お風呂に浮かべてはいってもいいかしら?」と言いました。「農薬にたえられるなら。」と答えると、女は花の束を抱きかかえ(こういうことになることが多いので、棘はもちろんとってあります。)浴室に持っていきました。開け放したドアからしばらく水音が続いたので、どうやら洗っているらしいとわかりました。そのうち水音が浴槽に湯をためる、少しくぐもった音になり、女が、どうぞ、と私を呼びに来ました。白い浴槽のタイルは、中の湯をうつし、幸福そうに桃色に染まっていました。浴槽にはいると、二人はしばらくゆらゆらと揺れ動くバラの花びらを見つめていました。「バラのカヌーっていう歌知っている?」と私が聞くと、女は、私を見上げ、首を横に振りました。その時、私は、なんだか突然、、アーサー王が最期に乗ったカヌーのことを思い出しました。女がいて、水があって、カヌーがあって・・・。それは、幸福な死のイメージでした。
「バラで一番おいしい色は白なのよ。」私はそう言って女のまっしろな肩口に歯をたてました。冷蔵庫には、頼んでおいたたえられないくらい甘い、金色の貴腐ワインがいい具合に冷えているころです。
あなたと別れた数日後、私とあなたは、もう、町の汚い居酒屋で会っていました。私は、あなたに別れを告げたとき、あなたの大部分を失いました。でも、抜け殻のようなあなたに会って失望したとしても、あなたがそばにいないことの喪失感にくらべれば、どれほどましなことでしょう。
そうして、私とあなたは親友のような顔をして、差し障りのない話をして、数え切れないほど夜を飲み明かしました。
その間に私は別の男と暮らしはじめ、名字も代わり、あなたにも何人か恋人ができました。でも、あなたに会わずに生きていくことは不可能でした。そして、そのうちに、男と暮らす幸福を知った私は、あなたとも幸福になりたい、そう思いはじめました。そして、それは私の中で、絶対に現実化されなければいけないこととなりました。
だから、あの日、あなたがあの申し出を受けてくれたときは、(きっと受けてくれるだろう。と思っていたにもかかわらず。)あまりのうれしさに、心臓が刺されたような鋭い鼓動にみまわれ、思わず、もう日常のこととなっていた嘔吐感に襲われてしまいました。
失うことと、手に入れることは、同じくらい心にこたえるものですね。
そうして、日を改めて、あなたと私は同じ姓になりました。
汚い安アパートを吉日に借り、私とあなたは、今、私と婚姻関係の男性がいっしょにいることを望む日以外を、そこで共に過ごすことになりました。
本当に日常に必要なものだけをそろえると、部屋はずいぶん寂しいものです。大きな観葉植物を買いましたが、暖かそうな家にあるときは感じなかった植物の水気が、また寒々しさを誘い、冬は、そこから寒風が吹き込んでくるようにさえ思われました。(あまりに寂しいので、私はそこに、虫取りもかねて、亜麻色の小さいカマキリを飼い始めました。)
私は、そんな部屋の寒さを感じるたびに、私とあなたがこうして暮らすようになったいきさつを思い出します。あなたには話したことがないかもしれませんが、きっかけは、きっとずいぶん昔の友人の話です。学生時代、友人には、好きな女性がいて、先輩と取り合ったそうです。3人ともそれぞれの思いに対して真剣だったそうです。 そして、友人は敗れ、今、「好きだった女性と、先輩」は同じ姓になり、同居している、ということです。
「かわいい子だったのになぁ。先輩より、私の方がいい女だと思うけどなぁ。」と、その友人は、いつもその話を結びます。
一番最初にその話を聞いたとき、私はその話の内容よりも、世間に認められない二人が同じ名字になる方法、をとても強く心に刻みました。何か予感があったのです。その時は、私も女性と暮らすのかもしれない。とさえ思いました。
そして、こうしてその予感の通り、私はこういう世間に認められない形で、あなたと同じ姓になりました。でも、同性同士愛し合うよりも、もっと不思議なカタチではありますね。(私が、今婚姻関係にある男と籍を入れるとき、私の名字になってもらったのも、ただ、いつか、あなたを、「あなたと私が恋人同士だったころのままの私」の名字にしたかったからなのです。私は、あなたとの別れを決めたとき、それでも、いつか絶対にあなたと家族になりたい。と思ったのです。)
あなたは、友人の話の、愛し合う二人の女性たちは、今、どんな暮らしをしているのと思いますか。私は、それを思うと、いつも切なくなるのです。どんな幸せで、暖かい家庭を作っていても、きっと、今、私が感じているような寒風を感じることがあるだろう。そう思ってしまうのです。
あなたは、こういう暮らしをするようになっても、全く私のもう一つの生活のことは聞きませんね。まるで、悪い夢の中で泳いでいるようにあがいているんですね、お互い。そして、兄弟がするようなふれあい以外はいっさいしないこの生活についても、何一つ聞きませんね。(なんで、恋人のままいられないのかさえ聞いてくれなかった人ですものね。)
私が、あなたと本当の血のつながった家族のように、性別もなにもなくて、一生憎悪しながらも離れられない生活がしたいと知ったら、あなたはうっすら笑うんでしょうね。
本当に大事なことを言いそびれてしまって、たぶん、もう一生言うことのない私たちですが、きっと同じことを考えている。私はそう思うんです。だって「養子になって。」といったときも、あなたはうっすら笑ったんですから。
もう、私たちは、どこに行くにもこの汚いアパートから、あなたが好きなあの川沿いの道を歩いて生きて行かなくてはいけないんですよね。