嫁屋

by きみよし藪太



 右肩甲骨の下辺りに小さな小さなその穴はあり、そこへ綿棒ほどの銀色をし
た螺子棒を差し込んでキリキリと巻くと、表の方なのか裏の方なのかその両方
なのか分かりはしないけれど確かに、キリリキリキリキリリリリ、と螺子は巻
かれてゆくのだった。
「毎朝かっきり十分間の、」
 作業なんですがねこれが毎日毎日のことになるとさすがに少々やっかいでま
あ時折巻くのを忘れたとしても別に壊れたり死んだりということはないのです
がなんというかとにかくお勧めは出来るんだか出来ないんだかいえこちらとし
てはお勧めですと胸を張ることも出来るのですがねただ確かに確かに厄介な作
業で。
 どこで息継ぎをしているのだろうと思うくらいだらだらと店主は喋り続け、
私は相槌を打つ間を見計らっていたのだけれど途中で面倒になってしまい、い
い加減なところでこくりこくりと首を縦に振っていた。螺子棒は先端が細い螺
旋になっており、反対側に二葉のような取っ手がついている。それは大変に小
さくて直ぐに失くしてしまいそうにも見えたけれどきっと失くさないだろうと
も思っていた、私は案外ああいうものを大事にするのが得意で今まで生きてき
たのだ。
「名前は、」
「はあ美代子と申します」
 キリリリリキリリキリキリ、と螺子を巻かれ終わった娘がその途端にぱちり
と目を開いた。
 嫁を新しく貰おうと思ったのは、峰子が若い男を作って家を出てしまったか
らだった。峰子は三年ばかり前に嫁に迎えた二十ほど年の離れた女で、吊り上
った目や真っ赤な唇や上向きの乳首や細く折れそうな腰などひどく私好みの女
だったのだけれどどうも男好き過ぎる気があり、まさかこんなに早くとは思わ
なかったけれども予想していた通り別の男に入れ揚げてしまった。四十をかな
り過ぎるまで独り身でいたために洗濯やら炊事やら一通りの事には困らない程
度に動けたが、三年も人と暮らすと独り身の静かなのがやたらと寂しく思えて
仕方がない。それで、と思い嫁屋に来てみたのだったが、こんなに早く好みの
女が見つかるとは思わなかった。
「美代子、か、それを貰おうか」
「面倒な女ですが、」
「構わない、なに、毎朝十分螺子を巻くだけの仕事が余計なだけだろう」
 そうですが、と店主は曖昧に笑みを浮かべながら美代子の背に挿していた螺
子棒を抜き手の中で転がしている。
「返品されると困るんですよほら一応戸籍も汚れるわけですしね、」
「返品はしない、私はこの娘が良い」
 螺子を巻かれ終わった美代子は形の良い眉を寄せじっと私達の話に耳を傾け
ていた。軽く震えているのは寒いからなのか自分の身がどうなるのかを案じて
なのか分からなかったけれど、私は自分の外套を彼女の肩へかけてやったほう
がいいのかどうか悩んで、しかしまだ自分の物ではないのだし、と敢えて彼女
の方を見ないように顔を背けた。
 美代子は峰子と違い、大きな目にふっくらとした唇をし、まだ子供の抜け切
らないような体系をしているが腰は大きく全体的にふんわりとしている。峰子
のような尖った鋭角の女に疲れていたので、私は直ぐにでも美代子を買って帰
り、抱き締めてふわふわと眠りたい気持ちで胸をいっぱいにしていた。
「……他の女は見なくても、」
「構わない」
「お客さんも物好きなまあ手のかかる方が愛情も愛着も湧くのは子供と同じで
すからなでは本当にこちらの美代子で宜しくて、」
 大きく頷くと店主は美代子を一旦店の奥にやり、何枚かの書類を抱えて自分
だけ戻ってきた。
「本来ならこういうのは美代子の両親がする仕事なんですがね、」
 あの娘実は身寄りのない娘でしてそれというのも美代子は生まれつき心とい
うものを持たないで生まれて来ちまった女でしてそれを不憫に思ったあいつの
両親が機械でいいからと心を作ってもらって心臓の隣へ入れて貰ったそうなん
ですがそれがまた高いの高くないのってこんな螺子棒でキリキリ巻いてやらな
いとならないしかも毎日毎日の事ですよそんな機械の心なんか入れた為に大借
金しましてね両親とも首括っちまったんですよ螺子式感情の女なんて欲しがる
者も居ませんでしてこの店に連れて来られたんですが正直こちらとしても売れ
ずにずっと店の奥で埃被って一生を終えるんじゃないかと思っていたんですが
まさかお客さんのような方が買ってくださるとはねええええ美代子も幸せなも
んだそうですかそうですか。
 書類は全部で六枚あり、同意書のようなものと売買の為の契約書のようなも
のといろいろとがあったけれど面倒だったのでほとんど碌に読みもせず、書く
ように指定されている部分へ書くように言われている事をそのまま考えもせず
書き込んでいった。店主は私が書類を書いている間も、ちらりちらりと時折覗
き込む以外はひとりで延々と喋り続けていた。他の嫁屋もこういうものなのだ
ろうか、と私は口に出さずには居たけれど思ってみる。
「判子はお持ちですかなこちらに押していただけるとそれで一通りが完了しま
すんでそのまま美代子をお持ち帰りいただいて結構ですが」
「金は、」
「後日振込みで結構ですよ手付金は置いていっていただきますがええ料金の一
割を置いていっていただければ、」
「全額支払って行こう」
「そりゃあ願ってもないことですが良いんですか美代子で良いんですねなるほ
どそれではこちらの螺子棒をお忘れなくもし破損したりした場合はこちらで予
備の棒が置いてありますのでいつでも取りに来てくださいな予備が無くなった
場合でもこちらで作れますのでいつでもどうぞ」
 ちゃらり、と私の手の中に銀色の螺子棒が滑り込まされる。
「美代子おおい美代子今日からお前はこちらのお客様の嫁となるぞ美代子ここ
へ来なさいさあ来なさい美代子、」
 パチリ、と算盤で示されただけの金額をきっちりと払うと、店主に呼ばれた
美代子がおずおずと店の奥から出てきた。薔薇色の頬をしている娘は見れば見
るほど愛おしくなるようだ。
「……宜しくお願いします、旦那様」
「旦那様、じゃなくていいんだ、私の名は修造だよ美代子」
「……修造、様、」
 恥らって伏せた目蓋の、ぐるりと縁取る睫毛のなんて長い事。瞬きをする度
に風が起こりそうだ。
 そうして私は美代子を連れて嫁屋を出た。式を挙げなくてはならないだろう
かと考えたが、それよりまず美代子を抱いてみたくて堪らず、私は十代の少年
のように興奮した面持ちで美代子の白く小さな手を取り歩いた。


 感情のない女というものはどういうものなのだろうかと、わざと螺子を巻か
ないでみた日がある。美代子は両親から丁寧に躾られていたのだろう、日常生
活をそつなくこなす良い娘だった。くるくるとよく笑うし夜の生活を求めれば
恥じらい頬を染め静かに微かに震える。感情がないということは喜怒哀楽がら
いということで、この娘のどこがそんな、と思っていたから螺子を巻かなかっ
たのだけれど、確かにその日は美代子の頬から笑みは消え恥じらいはなく何か
に手足をぶつけたりしても気のない声で痛いわなどと眉ひとつ動かさず言うだ
けでまるで機械と暮らしているような気分にさせられた。
「美代子、こちらへおいで」
「はい、修造さん」
 毎朝の美代子にはうっすらとしか表情がない。それで私は彼女の右肩甲骨下
にある小さな小さな穴へ螺子棒を挿し入れてキリキリと螺子を巻く。十分とい
うのは中途半端に短いような長いような時間で、私は大抵上の空だったり昔覚
えた歌をいくつか歌いながらだったりしながら美代子の螺子を巻いた。螺子を
巻くと美代子の頬には薔薇色の紅が差す。やわらかに笑うと花が咲いたように
空気が明るくなる。
「修造さん、お味噌汁は若布がよろしくて、それとも厚揚げがよろしくて、」
「馬鈴薯の味噌汁も好きなんだが」
「それでは若布と馬鈴薯にいたしましょうか」
 美代子はよく働く女でもあった、私は峰子という贅沢で自堕落なことが美徳
で最大の長所である女を愛してきた身であり、美代子のような女を知らなかっ
たのでそれには大変驚かされた。私が起き出す前からすでに目覚めて働いてい
る。確かに表情はほぼなく昨晩の残りの感情が薄く張り付いただけの状態で螺
子も切れそうにはなっているけれどそれでも私の唇にくちづけて起こすくらい
のことはしてくれた。掃除も洗濯も炊事も何一つ厭わない。むしろ身体を動か
しているのは好きだという。
「私は美代子のような嫁を貰ってとても幸せだと思う」
「なんですか修造さん、そんなに改まって」
 恥ずかしいじゃないですか、と美代子は頬を染めて下唇を噛み怒ったように
照れて笑って見せた。
「私は美代子のような女に今まで縁がなかったんでね」
「今では縁があるということでしょう、わたしも修造さんにお嫁に貰っていた
だいて、とても幸せですよ」
 ふたりで顔を見合わせて笑う。なるほど、些細なところに幸せが宿るという
のはこういうことなのか。
「幸せだ幸せだ、幸せついでに燗をもう一本」
「あらまたそういう事を言う、いけない旦那様ですわね、仕方がないので後一
本だけですよ」
「美代子のそういうところも好きだ」
「誉められても嬉しくありませんよ、困った人だこと」
 美代子は飲み込みが早く一度言えば何でも直ぐに覚えててきぱきと動いたが、
自分の両親の事は喋りたくないのか記憶が朧なのか聞いてもいつでも曖昧に微
笑んで首を軽く傾げるだけだった。小さな手で握り飯などを作るのが得意のよ
うで、きちりと三角に結ぶ。あれは彼女の母親が教えたのではないのかと思う
のだけれど、それを聞いたときでも微かに笑って否定とも肯定とも取れるよう
静かに首を振った。
 それでも峰子との間に子があった訳でもなく、何かしらと口を挟む両親も片
親はすでに他界し、残る親も遠くで兄夫婦と住んでいるものだから、私は気兼
ねする相手も居らず、美代子が結局どんな人物であれ当面なんの問題もないの
ならそれで構わないのだった。
 三年が過ぎるまでは。
 三年が過ぎた頃、私は嫁屋に再び足を向けることとなったがそれは美代子に
不都合があったわけではなく、彼女の螺子を巻く為の銀色をした棒がそろそろ
落としたりなんなりで新しいのと交換してもらった方が良いだろうと言う話に
なりそれで嫁屋の店主の言葉を思い出したからだった。螺子棒は嫁屋で取り扱
うと言っていた、それならば新しいのを手に入れてこようと。美代子は連れて
行かなかった、店主から根掘り葉掘り色々を聞かれるのが嫌だったことと彼女
自体があまり外を出歩くことを好まなかったせいでもあり、私ひとりで出かけ
てしまう方が用事も早く済むだろうと考えたからだ。
 嫁屋は相変わらず半分朽ちたような木造の二階建てでちんまりと影を落とし
ており、風が吹くたびにみしりきしりと硝子窓が音を立てたりしている。
「ごめん、」
 引き戸をからりと音させ開け、私は相手の返事も待たずに店の中へと入り込
んだ、するとそこに居た者が。
「修ちゃんっ」
「……峰子、」
 大きな硝子の箱に入れられてまるで動物園の展示されている剥製のような扱
いで見知った顔があり、それは耳を疑う間も与えず私の名を呼んだ。懐かしい
細く白い首が、吊り上ったきつい目が、抱くと折れそうな細い細い腰が、挑発
的な赤い唇が、すべて何も変わらず元のままで、私は一瞬錯覚してしまう、あ
れから時間などそよとも流れていなかったのではないかと。
「はいはいはいはいただいま参りますよおやお客さんいらっしゃいええええ覚
えていますとも三年程前にここで嫁を買って行かれたそうそう美代子だ美代子
どうです螺子はきちんと巻かれていますかねあれは螺子さえ巻けばそりゃあ良
い女だ何も不都合はないようですかな今日はさて何をああもしかすると螺子棒
ですかな美代子の螺子棒ありますありますはいはいこちらに只今お持ちしまし
ょうかおやなんですかなそちらの女がもしやお気になるのでは」
 相変わらずの店主の話し振りに圧倒されながらああいやそれがと私は口篭も
る。どこで息継ぎをしているのだろうと思ってしまうのだが私のそんな疑問は
余所に峰子が硝子壁をばんばんと叩きながら私の名を呼ぶので、店主が怪訝そ
うに眉を寄せ一体何事だろうかという顔をした。
「修ちゃんっ、聞こえてるんでしょうさっきあたしの名を呼んだでしょう、」
「失礼ですがお客さんこの女と知り合いで、」
 ちらり、と硝子箱に目を遣り誤魔化しても仕方がないと思われたので私はえ
えまあなどと口の中で不明瞭に答える。
「出て行った前の妻なのですが、」
「なんですとそりゃあいけない」
 あまりにも峰子が騒ぐので店主は硝子壁をひとつ大きくばんと叩き、静かに
しねぇかと怒鳴ると驚いたようで峰子が口を短い間だけ噤んだ。それでも直ぐ
に怒った声であたしが何したって言うの亭主に声掛けて何が悪いんだいと大き
く言う。
「いやあそうでしたかしかしそれも困った話だお客さんには新しい嫁が居るこ
とですしねそうですか昔の妻ですかこの峰子という女お客さんも随分手を焼い
たんじゃないですかねこれは親御さんが頭下げてこの店に置いてくれって連れ
てきた女でしてねまあひどく男癖の悪い奴でしてそこら中で直ぐに男作ってほ
いほいと居なくなっちまう女でしてね手に余るんでしょう誰か嫁に欲しいとい
う男が居たら貰ってくれるようお預けしますってええ親御さんがね頭下げに来
ましてこっちも良いですよって簡単に引き受けちまったんですがまあこれが騒
ぐは騒ぐは煩くて困ったもんでしてね」
 私は峰子の年老いた両親をそっと思い出していた、彼等とは私が峰子と式を
挙げる時にだけ顔を合わせたのだが静かでどこか怯えたような顔をして笑う人
達で、峰子とは似ても似つかない老人達だった。
「あたしはもう出てくよ、良いよ修ちゃんがあたしを連れて帰ってくれるって
さ、」
「何を言うかこの方には新しい嫁が、」
「あたしのが先だったのよ、だからあたしがもう一度嫁になってやるわよ、ね、
修ちゃん、あたしをこっから連れて帰ってよう。もう嫌こんな硝子ん中でどれ
くらい男に触ってないと思ってんのよ、あっという間に枯れて婆になっちゃう
っての」
「峰子、」
「ああ、昔の事は悪かったわだけどあたしもほら、若かったじゃないの仕方な
かったわよね、それにしても驚いた、ここでの噂の主が修ちゃんだったとはね、
驚いた驚いた」
「噂……、」
 峰子、と店主が声を荒げた、自分の前妻が別の男に呼び捨てにされているの
も不思議な気がして、微かな苛立ちと共に私は下唇をそっと舐める。微かな苛
立ち、私はまだ峰子を愛しているのだろうか、他の男と逃げてしまった美しく
愚かな前妻を。
「そうよ、ここに居る他の女達から聞いたわ、欠陥商品が売れて行ったってと
んだ物好きが居たもんだって。何でも感情のない女で心が機械仕掛けで毎日螺
子を巻いてやらないと表情もない奴で、売れるわけがないと思っていたのにそ
れをわざわざ買って行った馬鹿な男が居るってね。修ちゃんの事だったの、な
んでそんなのを選んだの、もう飽きたでしょう、面倒でしょう、代わりにあた
しを連れて帰りなさい、そんな女返品してしまいなさいよ」
 真っ赤な唇はよく動いて濡れた瞳は効果的に私へと視線を注いでいる。上手
い女だ、命令口調で媚びてもいないのにするりと私の心へ入り込んできてしま
おうとする。
「ここに居るのも飽きたの、だって碌な男が来ないわ、自分じゃあ嫁のひとつ
も貰えないような甲斐性無し共ばかりよ、まさか修ちゃんまでここへ来るとは
思いもしなかったけど、きっと運命なのよ、さあ修ちゃんあたしを連れて帰っ
て頂戴」
 私は美代子を思い出そうとした、濡れた大きな目で私をじっと見る美代子を
思い描き首を振ろうとしたのだけれど、硬く瞼を閉じても連れて帰れとほんの
少しの媚びを含んだ気位の高い峰子の顔しか脳裏に浮かばなかった。真っ赤な
唇が目を閉じても私の中でねっとりと開く、連れて帰って頂戴なあと語尾を甘
く甘く引き伸ばし。
「修ちゃん修ちゃん、」
 峰子の甘い声がする、美代子を連れて来た方が良かったのか連れて来なくて
正解だったのかが私には分からない。


 美代子は夜の営みの際にどんな少しの明かりもを恥ずかしがり、仄かでも明
るいうちはけして私に身体を触らせようとしなかった。普段でも、手が触れて
しまうだけで頬を染め俯いてしまう。私が堂々と明るい中で美代子に触れられ
るのは、毎朝の螺子を巻く時でしかなかったとも言えよう。
 しかしそれは私を幻滅させたり嫌な気分にさせるという事はなかった。そこ
まで恥らう女性というのが珍しかったのもある。峰子とどこも似ていない事に、
却って安心していたせいも有るのかも知れない。この女なら私を置いて出て行
くような真似はしないだろう、他の男に奪われる心配もないのだろうと。
「美代子、」
 暗闇の中で美代子を一糸纏わぬ裸体にするというのは、最初の頃ひどく骨の
折れる仕事だった。彼女は暗闇でも視界が利くとでも言うように、するりする
りと私の手を逃げてしまう。その白い肌に傷を付けてはならないと爪も短く切
り揃えるのだが、それでも乱暴に手を伸ばすと美代子を壊しそうで私はいつで
も恐る恐る彼女を探し出してそっと服を脱がせた。
 私の腕の中で、美代子はいつでも微かに震えている。
 もちろん美代子の手が私の男茎に触れることはなく、私も無理に握らせたり
触らせようとはしなかった。彼女は処女で、私は美代子の最初の男であり夫で
あるという、幸せな男だった。
 恥じらい、声を殺して美代子はそれでも抑えきれなかった喘ぎをそこここに
そっと漏らす。その吐息は慣れない暗闇の中で手探りのまま美代子を抱く私に、
静かな興奮と胸に柔らかく広がってゆく名も無い温かさを感じさせた。
 しかし、峰子は違う。自ら手を伸ばし私の男茎を握り締め、口内性交も喜ん
でする、貪欲な獣のように咆哮しまぐわいを心底求め楽しむ女で、場所も時も
何ひとつとして峰子が男を求めた時にはお構い無しになり、自分がどの立場に
あるのかという事はどんな妨げにもならなかった。峰子が赤い唇を笑うよう大
きく開けて私の男茎に喰らい付く。背を一直線に強く速く駆け抜けてゆく快感
の甘く痺れる温度が私を昂ぶらせる。我慢ならなくなり低く唸ると峰子は放出
を許さず、爪の長い右の手の指全てで私の根元をきゅうっと押さえつけてしま
う。
 痛みを伴う圧迫感、涙を溢さんばかりに懇願しそうになるその果て、意識が
遠くなる寸前で峰子は指の力を一気に抜くと私を解放する。気をやってしまう
くらいの快楽が津波の如く押し寄せ連れ去り私は峰子の下僕と成り下がる。あ
の屈辱に程近い快感をまだ、確かに私は忘れられないでいる。
「美代子、」
 私を置いて若い男の下へ走ってしまった愚かな女。
「どうしました修造さん、」
 美代子とは違う、あれは女として出来なくてはならない事はひとつとして出
来ない女だった、家事も炊事も洗濯も掃除も近所付合いもすべてを厭い、煩わ
しがった。ただ出来る事と言えば夜の交わりで、しかしそれは他の女の何倍も
情熱的で魅了するだけの技を持ち、そして男を喜ばせた。美代子とは違う。わ
たしは美代子を愛している、今は既に傍に居てくれなくてはならない存在にな
っている、美代子の居ない日々は考えられない。
「……ああ、ああ、いや、焼き菓子をもうひとつくれないか」
「お口に合いましたか、良かった」
「どこのだ、」
「仏蘭西屋さんの焼き菓子を真似て、自分で焼いてみましたの」
 お茶に、と出された珈琲と焼き菓子は、甘い物が好きな私の口によく合った。
美代子は私の嗜好を直ぐに覚え、自分で何でも作る。まさか今日の菓子まで自
分で焼いたとは、と驚きを隠さず誉めると、美代子は花が咲くように柔らかく
恥らいながら微笑み、真似して焼いてみただけですから、と謙遜した。
「珈琲はもう一杯お持ちしましょうか、」
「ああ頼む、美代子の煎れる珈琲は美味い」
 嫁屋で峰子を見かけてから、数日が経つ。連れて帰れ、と騒いだ女を、私は
結局嫁屋に置いたまま出てきた。後ろ髪引かれる思いでなかったとは言えない。
連れて帰り最初だけ他へ匿っておいて、美代子の螺子を巻かなくしてしまえば、
感情の無くなった彼女は峰子の存在を気にしなくなるだろう。そう考えたりも
した。峰子を連れて帰る事に何も問題はないようにも思えた。峰子を買い取る
だけの金が無い訳でもない。
「ああ、美代子、」
「はい、」
「さっきの焼き菓子、ひとつふたつ包んでくれないか」
「どちらかに持って行かれるんですか」
 ああ一寸、と私は出来るだけ優しく微笑んだ。まさか前の妻の所へ持って行
くとは言えない。言ったとしても美代子は静かに笑顔で焼き菓子を包むだろう。
他にも何か持って行かれますか、と聞きさえするだろう。優しい女なのだ。そ
れでいて私が前妻に会う事に傷付くはずなのだ。
「何をしているんだろうなあ……」
「……修造さん、」
「ああいや、何でもないよ、美代子の作る菓子は売れる程美味いな」
「うふふ、どこかへ持って行く振りをして、ご自分で召し上がってしまうつも
りじゃないでしょうね」
「自分が食べたいなら美代子にちゃんと言うさ」
 美代子が目を細める、幸せだと言いた気な唇がふっくらと持ち上がる。私は
美代子を愛している、峰子に会いに行くのは懐かしさと気紛れであり、それ以
外の何物でもない。その筈なのだ。


 キリリ、と螺子を巻く。キリリ、キリリリリ、キリ、キリ、キリリ、と、ぴ
たり十分間螺子を右に回しつづけると、丁度十分経った所で螺子は巻き上がり
それ以上ほんの一巻きですら動かなくなる。美代子の感情を維持する機械が、
彼女の心臓の隣でかたかたと動き始める。一日分の感情を作り出す小さな機械
だという。右の肩甲骨の少し下、螺子棒を差し込む為の小さな小さな穴は、染
みひとつない美代子の白い背に違和感を与え、しかしまた同時に妙な色気とし
て私を誘惑する。完璧な物への些細な綻びが、完璧な物を完璧で無くしている、
そのどうしようもないもどかしさ。
「馬鹿ねえ、そんなに足繁くあたしの所に通って来ちゃ、どんな鈍感な阿呆珍
だって流石に変だと思うわよ」
 私が土産として持って行く美代子の作った菓子を食いながら、峰子は鼻を鳴
らす。嫁屋に再び出入りする様になり、それに対して店主は初め良い顔をしな
かったが幾ばくかの金を払うようになると途端に愛想笑いと世辞しか出てこな
くなった。私が行くと峰子は硝子箱から出され、店の奥で話をしたり出来るよ
うに取り計らって貰える。
「で、どうなのよ修ちゃん本当はあたしを連れて帰りたいんでしょう」
 こんな焼き菓子持って来ちゃってさ、などと言うので、それは美代子が焼い
た物だと教えてやった。
「これを焼いたですって、仏蘭西屋の焼き菓子じゃないって言うの、」
「うちのが焼いたんだ、あれは菓子を作るのが上手くてな」
「『うちの』。『うちの』だって修ちゃん、『あれ』。『あれ』ですって、おおやだ
所帯染みてしまってなんと言う事。あんたまさかあたしの時もあたしの事を『う
ちの』、『あれ』なんて呼んでたんじゃあないでしょうね」
「どうだろう、遠い昔の事だから忘れてしまった」
 ふたつ目の菓子に手を出し店主が差し入れた珈琲をがぶがぶと飲んでいる峰
子に釣られ、私も珈琲茶碗に口を付けたが美代子の煎れる珈琲程には美味くも
なく香りもなかった。
「修ちゃんももう脳細胞が一日に沢山沢山死んでゆく年なのね」
「それに比べて君はまだ若い」
「当たり前でしょう、もう一度嫁に貰われて行く身なんですから」
 決まったのか、と聞いてみれば、決まるわけ無いでしょうと怒られる。甘い
焼き菓子が峰子の口でほろほろと噛まれ租借され喉へ滑り胃へ落ちる。女が何
かを食べている姿は何を想像してしまう訳ではないけれど猥褻だ。 
「私に連れて帰れと言うのは君が外に出たいからだね、連れ出すのは別に私で
無くても良いんだ」
「なあに今更、そんな事無いわよ、でもどうせあたしを連れて出るつもりは無
いんでしょうからそうね、認めてあげたって良いわよ、ああ早く外に出たい」
「何故、ここに居ればそう困ることも無いだろうに」
 いいえこちらが困ります、と眉を寄せ首を大きく横に振る店主の顔が想像出
来てしまい私はこそりと笑ってしまった。
「思い出し笑いは助平な証拠よ、何さひとりで笑ってて」
「一寸笑ってただけだよ、」
「……変な人、修ちゃんあたしと住んでた時はこんなに良く笑う人じゃなかっ
た」
「そうだったかな、」
「そうよ、日がな考え込むように難しい顔ばかりしていたわ」
 するり、と手が伸ばされて私の頬に触れようとする、それに気付かない振り
をして私はそっと身を引いた。ち、と、峰子の小さな舌打ちが耳を掠める。
「だけどあたしは難しい顔の修ちゃんが好きだった」
「次の男も難しい顔ばかりしていたかい、」
「いえ、笑ってばかりだったわ、あたしを手に入れて余程嬉しかったんでしょ
う」
 つんと澄ました横顔を向けて峰子は両手を顎の下に組む。確かに彼女は横顔
が一番美しかった、形の良い鼻が無駄な影を落とさずすんなり伸びているのが
見える。可哀想な女だ、そして美しい。私はこの女を哀れだと思い、同じ強さ
で愛しいと思う。
「君も感情の箱を入れてもらえば良いのに」
「馬鹿じゃあないの、」
「じゃあ、感情を抑える箱をだ」
「要りゃしないわよそんな物。あたしはあたしで充分完璧なんだから」
「充分完璧、か」
 感情の機械を胸に入れ毎朝螺子を巻かないといけない不自然な美代子も、完
璧に近いほど美しい。人は完璧になりたいとすればどこかしら不自然な何かを
身の内に、抱え込まなくてはならないのかもしれない。それは美代子のような
機械であったり、峰子のような傲慢すぎる性格であったり。
「機械の箱なんか身体に入れてて、それでまだ人間って言うのが凄いわよね」
「何を、」
「螺子を巻かれる女なんて、純粋な人間じゃない気がするわ」
「でも愛してる」
 私はそう口にした自分にはっとした。驚いたのは峰子も同じだったようで、
玩んでいた珈琲用の銀色をした匙を、ちゃらりと落とした程だった。
「……私は美代子を愛していると思うんだよ」
「……愛だの何だのは容易く口にするものじゃないわ」 
 峰子が目を伏せた。長い長い睫毛だった、頬に影が落ち、どこか涙の痕にも
見える。
「口にすると囚われてしまうもの、間違っていても信じてしまうわ、自分自身
が。……それでもいいなら良いんでしょうけど、」
 匙を拾いなおして受け皿へそっと戻す、峰子の睫毛は彼女の頬に深い影を落
とし続ける。
 もう来なくて良いわよ、と告げられたのは、それから何度目かの嫁屋でだっ
た。峰子は顔を背けたまま私に冷たい声でそう言った。 
「何故、」
 私はこの所嫁屋に頻繁に通っては来ていたが、それは峰子に会うのが目的な
だけでは無かった。美代子の螺子棒が、最近になってよく紛失する為だ。私は
元来そういった小さな物を保管しておくのが得意だったので、どこかに置き忘
れたり置き場を記憶していなかったりする事は滅多に無かったのだけれど、気
が付くと銀色の螺子棒は忽然と私の視界から、身の回りから、行動範囲内から
すっかり姿を消してしまい、そして二度と出てくる事が無かった。庭の木に鴉
が巣を作っているので、とその度に美代子は私を慰める。きらきら光る物が大
好きな彼等がこっそりと家に遣って来ては持ち帰ってしまうのでしょう、修造
さんがうっかりしている訳でもなくて、忘れ易くなっている訳でもなくて。
「来なくて良いからよ」
「理由になっていないように思うが、」
「あたしに会いに来てもあたしを連れて帰るつもりは無いんでしょう、」
「それは、」
 修ちゃんの良く出来たお嫁さんに、と峰子は続けた。てっきり二度目の嫁の
悪口でも言われるかと思っていると、意に反して峰子はこちらがまるきり予想
もしてなかった事を言う。
「聞いてみれば良いじゃないの、何本螺子棒隠し持ってるんだって全部出せっ
て、言ってみれば良いじゃないの、それだけあればもう一生嫁屋へは行かなく
て済むって」
「……何の、話を、」
「美代子さん、だっけかしら、修ちゃんがここにあたしに会いにだけ来るんじ
ゃないの知ってるわよあたし、いつも螺子棒を一本、って言うものね、でもそ
れ修ちゃんが失くしてるんじゃないのよ、嫁さんが隠してんのよ」
「何を言うんだ、」
「あらやだ信じないの、まあそれでも良いけれどね、でも本当よ本当の事よ、
だってあたしはそれを、」
 美代子さんから直接聞いたんだもの、あの人ここに来てたのよ全然気付かな
かったの、と呆れるのを通り越して感心したように言われても私は暫く何の事
だかちっとも分からないで居た。ただ間抜けな顔をして、峰子を眺めているし
か出来なかった、この女は何を言っているのだろうと。
「あの人も何を考えて生きているのか知らないけれど感情を作る機械が胸に入
っているって言うのは物凄く不自然でよく分からないことを考えてしまったり
するものなのかしらね、聞いて御覧なさいなここの店主に、美代子さんだかっ
て人は修ちゃんが何度も螺子棒を貰いに来るようになったちょっと前にひょっ
こり来たのよ、それで主人の前のお嫁さんがいらっしゃるそうなので主人が望
むようにさせて上げて下さいって」
 信じられない、と私はまだ呆けた顔のままで居た。峰子は詰まらなそうに鼻
をふんと鳴らし、妻公認の秘め事なんて楽しくないったら、と続けた。
「それでも修ちゃんがあの女捨ててあたしを連れて帰るんなら未だしも、茶あ
飲んで帰るだけじゃ何の得も無いって言うの、結局修ちゃんを手の中で転がし
てんのはあの女だって言うのを見せ付けられてるだけじゃあないの」
 呆けたままの頭で峰子に別れを告げられ、帰り際店主は話を聞いていたのか
済まなそうな顔をしていたけれど何も言わなかった。私は峰子に指一本触れて
は居なかったが、触れないと硬く心に決めていたわけではない。昔の妻に心浮
かれさせて居たのは確かだった、美代子がそれを知っていようとは。しかし、
何故。何故、美代子は私を元妻である峰子の居る嫁屋に通わせようとしたのか。
何を考えているのか、私には少しも分からなかった。
 家に帰ると私は美代子にどう声を掛けて良いものやら分からず、黙って奥へ
と引っ込んだ。晩飯時に呼ばれても出て行かなかったので、美代子は心配そう
な声でずっと私を呼んでいたが、具合が悪い様だからと誤魔化すと冷たい水を
お持ちしましょうか、などと言った。
「いや、寝ていれば治ると思う、構わずに居てくれれば良いよ」
「けれど、」
「本当に。大丈夫なんだ、寝ていれば治るよ。心配を掛けて済まない」
 柔らかな口調にしたつもりだったのに、拒絶の響きは冷たくきっぱりとして
いた。発した自分でさえも驚くような響きだった。美代子は扉の前で暫く佇ん
でいた様だったが、何か用事があったら呼んで下さいね、とそっと言い残すと
扉の前から気配を消した。


 喉の渇きが酷くて目が覚めた。何にも覆われていない窓から明るい月が覗い
ている。そのまま寝てしまったらしかった。嫁屋から帰って来てどの位の時間
が経ったと言うのだろう、今は何時だろう。世界は静まり返っていて、耳を澄
ませても生きている物の音はひとつも耳を掠めない。時計の秒針の音さえ聞こ
えなかった、けれどもそう寒くも無く、世界は凍っているのではなく全てが眠
りに付いてしまっただけの様だった。
 もう一度目を閉じて見たけれど、睡眠は途切れたのではなくすっかり満ち足
りた為にそこで終わっただけの様で、私の中から眠気が綺麗に取り払われてし
まっていた。そうすると喉の渇きばかりがやたらと気になる。喉の肉がカラカ
ラに乾いて、上下ともぺたりとくっ付いてしまいそうだ。其の内に腹が減って
いる事にも気付き始めてしまった。寝巻きにも着替えておらず、寝ている間に
汗をかいたのか襟足の髪が首筋に張り付いている。
 台所に行って水でも飲むかと起き上がったのは、喉の渇きと腹の減りに加え、
次第に尿意を催したからだった。なんとなしに部屋から出たくない気分だった
のだけれどこのまま朝を迎えるのも無理そうで、私はのそりと布団を出る。
 普段はきしきしと鳴る床が、何故か今夜に限って音も立てなかった。私は身
軽になった気分で、便所へ行き、台所へと廻って行く。美代子が私の分の食事
を用意したままであれば良いのに、と思い、しかしこの時間から食べたのでは
胃が重くなるだろう、とも思った。焼き菓子でも出したままになっていれば一
番良い。もしくは果物か何か。
 台所の扉は木の枠で仕切られた硝子戸で、私は何気なく開けようとしてそこ
に人影を見た。あ、と言う声を飲み込み、一度身を引いてから再び恐る恐る覗
き込む。
「美代子……」
 そこには寝巻き姿の美代子が居た。椅子に座るでもなく、床に跪いて膝から
上の身体をぴんと伸ばし、一直線になって外側に面した窓からの月の光を浴び
ていた。その手に握られている、何本もの細い、それは。
「螺子棒じゃないか……」
 呟いた声は明るい闇に吸い込まれて自分の耳にさえ届かない。私に横半面を
向けるように跪いた形で、美代子は螺子棒を何本も左手から、一本を右手で抜
き取り高く掲げた。
「――あ、」
 月の光に反射し、銀色の螺子棒は金色に揺らめく。
 美代子は上を向き、唇を開いた。そっと、滑らかな動作で右手の螺子棒は彼
女の口の中へと押し入れられてゆく。
 一本目を飲み込むと、二本目を躊躇いもせずに最初と同じよう、高く掲げた。
そして飲み込む。三本目も、四本目も。五本目も、その次も。私は目を見開き
過ぎていたのだろう、気が付くと目尻に皮膚が裂けそうな痛みを感じていた。
彼女はゆっくりと丁寧に、その動作を繰り返す。何をしているのか何故そんな
事をするのか私には見当も付かなかったが、彼女にとっては大切な行動だった
のだろうか。それはどこか儀式の様にも見えた。私はただ、あの細い螺子棒が
美代子の胃を痛めつけてしまわないだろうか、食道に刺さってしまわないだろ
うか、何かの拍子で美代子の身体を致命的に傷つけてしまいはしないだろうか
と、それだけを心配していた。
 螺子を飲み込むのは、もしかして毎朝誰も彼女の螺子を巻いてくれなくなっ
た時がいつか来たとしても、自分の中でどうにか螺子を巻きたいという祈りの
行為なのだろうか。呪いの様なもの。それとも何かしらの効用があり、確信し
て飲み込んでいるのだろうか。何も分からなかったが、聞く気にもなれなかっ
た。美代子の横顔は月に照らされ、静かに美しかった。今美代子を抱いたのな
ら、体内で螺子棒のぶつかり合う小さな音が楽器として奏でられるだろう。美
代子を抱きしめて揺さぶりたい衝動に襲われる。私の物で掻き混ぜてしまいた
い衝動に。知らず知らずの内、私は勃起していた。それは静かな勃起だった。
淫猥な気持ちからではない、ただ純粋な欲望として美代子に触れたい気持ちか
らだった。 
 七本目を飲み込んで、美代子は大きな息を吐いた。吐息は金色にも銀色にも
透明にも見えて、私はこっそりと盗み見ている自分の状態も忘れてうっとりと
目を細める。美代子は美しかった。奇怪な行動をしているとしても、いや、奇
怪な行動をしていてこそ尚、彼女は美しかった。
 私は美代子を見続けていた。声を掛けることは憚られ、私の存在が見つかれ
ば神聖ともいえる美代子の周りの空気が崩れてしまいそうだった。
 明日あの女の螺子を私は巻くのだ。
 右肩甲骨の少し下、小さな小さな穴に螺子棒を差し込んでキリリ、キリリと
巻いてゆくのだ。花弁が零れる様に美代子の頬へ笑みが広がるように。私は峰
子の事も嫁屋の事も忘れ、喉の渇きも空腹も忘れ、美代子を見詰めていた。美
代子はそこに居た。月の光に包まれ、八本目の螺子棒を飲み込もうとしていた。
私は硬く張り詰めたまま彼女を見詰めていた。私はとんでもないものを嫁にし
たのかもしれなかった、しかしそれには気付かない方が幸せなのだろう。
 明日の朝、私は美代子の螺子を巻く。
 死ぬまで、延々と巻き続ける。
 九本目の螺子棒が、彼女の唇へと消えてゆく。
 私は息を潜めて美代子の横顔を見詰めていた。自分の嫁である彼女の顔を、
静かに眺め続けていた。






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