誰かの展覧会

by 氏乃



 将太は口を閉ざしたまま助手席から見える景色を眺めていた。絶え間なく動くワイパーと、絶え間なく降り落ちる雨粒。焦点をずらせば、窓の向こうには不安な気持ちを煽るような巨大な黒い雲が見えた。そこから徐々に目線を下げていく。車窓に写る町並みは、見る見る彼の知らない世界へと変わっていた。遠くに鬱蒼とした木々が見える。
 彼の隣に座る女性は、純子といった。彼女はハンドルを握ったまま、虚ろな目で前方を見つめている。彼女の口元には、張り付いたような微笑がうっすらと浮かんでいた。このまま将太が黙っていても、彼女が何かを喋りだしそうな気配はなかった。
 この車に乗り込んでかれこれ一時間あまり経つ。何もしないでじっとしていることが将太には退屈で仕方がなかった。それに、身体に巻きつけられたシートベルトがひどく邪魔に感じてきた。彼は身体をずらして楽になれる体勢を探し始めた。
すると、運転席の純子はすぐにそれを見咎めた。視線は前に向けたまま、彼女は穏やかな声で彼をたしなめる。
「だめだよ、将太ちゃん。ちゃんとシートベルトを締めてなきゃ危ないでしょ」
 彼女の口調は優しげだったが、将太をおとなしくさせるには十分な力は持っていた。
 将太は憮然として、再びフロントガラスに目を向けた。ぽつぽつと音を立ててはじけ飛ぶ雨粒が酷く虚しい。今日は朝からこんな雨が降り続いていた。
 二人の乗った車が目的の場所へ到着したのは、そのままさらに三十分ほど走った後のことだった。広大な駐車場へ入ると、そこには大小様々な車が並んでいるのが見えた。純子はハンドルをきってその一角に車を停める。窓の外には、見たこともないほど巨大な建物がそびえていた。どうやら、彼女はここを目指して車を走らせていたらしい。
 雨は幾分小降りになっていて、その代わりに周囲には霧のようなものが立ち込めていた。白くぼやけた情景は将太の目にはとても神秘的に映った。彼はゆっくりと車のドアを開けた。
 車から降りると、彼はまずその建物の巨大さに目を奪われた。コンクリート造りのその建物は、不気味なたたずまいで彼を威圧した。建物の端から端までが一目で見渡せない。彼が心を奪われたようにその光景を眺めていると、背後から彼女の声がかかった。
「さぁ、行きましょう。将太ちゃん」
 運転席から現れた純子は、将太の手を握るとにっこりと微笑んだ。将太は何を言うでもなく、ただこっくりとうなずく。
 霧の中を二人連れ添って歩いていくと、建物の入り口と入場券売り場が見えてきた。建物の前庭には青銅で作られた彫刻が据えられており、それはまるで助けを求めるような目で将太を見ていた。長年の風雨にさらされたせいで、その彫刻はひどく陰鬱な色合いとなっている。将太は怖くなって、繋いでいる彼女の手をいっそう強く握った。
 入場のチケットは純子が買ってくれた。将太はただ、そばで様子を見ているだけでよかった。「こどもひとり」と書かれた白い色の入場券を彼女から手渡される。彼女のチケットは黄色であった。その色は値段の違いを表しているのだろう。将太にはそのチケットを持たなければならない理由が分かっていなかったので、彼はそれをぞんざいにポケットの中に押し込めると、足早に館内へと入っていった。
「ほらほら、あんまり急いで転ばないようにね」
 彼の後ろから純子がにこにこしながら追いかけてくる。
 薄暗い館内に足を踏み入れて最初に彼の目に飛び込んできたのは、でかでかと掲げられた常設展のテーマを書いた横断幕だった。それは大人の背丈よりもずっと高いところに吊るされていて、赤地に金色の文字で何か記されている。もっとも、幼い将太にはその文字の意味するところがほとんど分からなかった。恐らくは、この展覧会のテーマでも書いてあるのだろう。
 追いついてきた純子が再び将太の手をとって言った。
「さぁ、こっちよ。手前に見える、あの展示から見ていこうね」
 館内はずいぶん広いらしく、将太には全体の大きさが想像も付かなかった。
 一番手近にある展示物の前に行くと、将太はおもむろにその中を覗き込んだ。
 ガラスで区切られたその空間の中には、男が一人いた。そこには、どこかのレストランの一角を切り取ったようなテーブルと椅子、そして淡いオレンジ色の照明が据えられていた。男はそこで食事をとっている。その男とこちらを区切るガラスの距離は遠すぎず、近すぎず、そのメニューをこちらが辛うじて覗きこめる程度の距離であった。彼はこちらをちらちらと気にしながら、並べられた料理を淡々と口に運んでいる。そのうち、男の目と将太の目があった。すると男はすぐさま視線を逸らして、再びテーブルの上の料理だけを見つめだす。そしてコーヒーを一口すすると、彼は壁の方を向いてため息を吐いた。
 将太には、何がなんだか分からなかった。ここで展示されているのは、これまでに何度か見たような博物館や美術館のそれとは明らかに違っている。
 彼は顔を上げて純子を見た。彼女は満足げな顔でガラスの中の男を見つめていた。ルージュを塗ったその口元はうっすらと開いており、将太を掴む手は先ほどまでよりもずっと熱を帯びているように感じられる。そして、その顔は先ほどまでより随分幼くなっているように見えた。口元の皺は消え去り、瞳には無垢な輝きが宿っている。
 彼女はガラスの中の男を指差し、将太に言った。
「将太ちゃん、ほら見てごらん。あの男の人、一人でご飯を食べてる」
 将太にはそれがどうして彼女の気を惹くのかが全く分からなかった。この先もずっとこんな展示が続いているのかと思うと、気が重くなった。
 そんな彼の様子を見て、純子は笑いかけた。
「いきなりこういうのは、将太ちゃんには面白くなかったかもねぇ。それじゃあ、次を見てみましょうか」
 そう言うと、彼女は将太の手を引いてさっさと次の展示へ進んだ。
 館内の道幅は広く、大勢の人間が展示の前を歩いていた。彼らは全ての展示をじっくりと眺めているわけではないらしく、気に入った展示を見つけるまではふらふらと館内を歩き回っているようだった。奥の方からこちらの展示を求めて戻ってくる者もある。
 純子は取りあえず順番通りに見ていくつもりのようだった。二人は二番目の展示の前へやってきた。
「あら。これはちょっと私の趣味には合わないわねぇ」
 そう言って彼女は落胆のため息を吐いた。将太はつられてガラスの中を覗き見る。
 中に居たのは、歳の若い男であった。ガラスの中には狭い部屋が設けられていて、男はそこでパソコンに向かっている。部屋の中には乱雑に散らばった雑誌やゲーム、食い散らかした菓子の袋などが見受けられた。今度は、ガラスの中の男はこちらを見ようともしない。ひたすら画面の中を見つめ、時折手元の菓子袋に手を伸ばしたりしているだけだった。
 そのうち、彼は自分のズボンを下ろして股間を弄り始めた。将太が何事かと注目していると、すぐに純子が彼の手を引いた。
「あんなもの見ていてもつまらないでしょ。もっと楽しいものを探しましょう。ね?」
 彼女はその展示に気分を害されたのか、将太の手を引いたまま順路をずんずんと進んでいった。将太はもう少し彼の様子を見ていたかったのだが、それを口に出すことはやめておいた。
 彼女と歩いている途中には様々な展示があったようだが、大人が邪魔で将太にはよく見ることができなかった。純子は幾つかの展示を見回しながら、彼女好みの展示を求めて歩き続けていく。そのうちに、ある一角にある展示の前にやってくると彼女はようやく足を停めた。
「うん、これは良いじゃない。将太ちゃん、ちょっとこっち見てごらん」
 純子に導かれるままガラスの前に立つと、将太はそのガラスがさっきまでのものとは種類が違うらしいことに気がついた。色が幾らかくすんでおり、厚みもさっきのものとは違うようだ。
 部屋の中には二十歳前後くらいの女性が立っていた。彼女は白と黒の斑模様のついたドレスのようなものを持って、こちらを向いて立っている。しかし彼女がこちら側の視線を意識している様子は無く、むしろこのガラスだけをなめるように見ているようだった。
 どうやら、このガラスは彼女にとって鏡の役割を果たしているらしい。向こう側からはこちらを見ることができないのだ。テレビなどで見たことがある。これは、『マジックミラー』と呼ばれているものだ。将太はそれが分かった途端、覗き見をしているような背徳感を覚えた。しかし、純子と繋いだ手が彼の罪悪感を打ち消して、代わりに静かな興奮をもたらした。
 ガラスの中の彼女は、嬉しそうな顔でそのドレスを自分に合わせている。ドレスの裾はふわふわと膨らんでいて、普通のスカート部分とは形状が違っているようだ。彼女はそういうドレスを着たり、脱いだりを繰り返していた。また、鏡に向かうごとに服や靴下を変えたり、化粧を塗りなおしたりもしていた。将太にとってはあまり見慣れない形の服が目の前で次々に登場していく。
 はじめのうちはそういう変わった服装に興味も注がれたが、十分も同じ事が繰り返されるうちに将太は退屈を覚え始めた。彼が純子の方をちらりと見ると、彼女は今にも笑い出しそうな顔でガラスの中の少女を見つめ続けていた。
「ほら将太ちゃん、見てごらんよ。あの子ったら、一体いつまでああしているつもりなのかなぁ」
 それは将太の言いたかった台詞だったが、彼はやはり黙って展示を眺めていた。
 ガラスの中の女の子は幾度も幾度も服を着替えて、鏡の前でその様子を確認したり、ポーズをとったりしている。彼女がどこかへ出かけるためにおめかしをしているのではないことは明らかだった。彼女は何十分もずうっとそうしているのだ。そして、それはその様子を眺める純子も同じだった。将太の手を掴む彼女の手からは、じっとりと汗がにじみ出していた。
 純子がその場から動き出したのは、呆れた将太がすっかり機嫌を損ねた頃だった。かれこれ、三・四十分はその場に立っていたことになる。流石に純子も立ち疲れた様子で、彼女は苦笑いをしながら将太の頭を撫でた。
「うふふ、つい見とれちゃった。ちょっとどこかで休憩しようか。ジュースも買ってあげるよ」
 館内には幾つか腰を下ろす空間が設けられており、そこには喫煙所や自販機の類も設置されていた。もっとも、ここの常設展は湿度や温度などを気にする必要が無いため、休憩所の回りにも展示は設けられていた。二人は近くの休憩所を見つけると、早速腰を下ろした。平らな木の板を並べただけの簡素な椅子だったが、立ちっぱなしの足を休めるには十分ありがたいものだった。純子は本当に疲れた様子で、将太に語りかけた。
「将太ちゃん、あそこの自動販売機で好きな飲み物を買ってらっしゃい。私の分もついでに何か買ってきてちょうだい」
 そう言って彼女は、財布から三百円を取り出して将太に手渡した。将太は微笑んでそれを受け取った。お金をポケットに入れると、自販機へ向かってゆっくりと歩き出す。休んでジュースを飲めること以上に、先ほどまでの退屈から解放されたことが彼には嬉しかったのである。
 どうも、彼女が面白いと思うことは将太にはさっぱり面白くなかった。彼は辺りの展示にそれとなく目をやりながら、何か面白そうな展示がないか探し始めた。
 ふと、休憩所を抜け出た通路の向こう側に、数人の男女がガラスの中に入っているのが見えた。先ほどまでの展示ではガラスの中に入っているのはずっと一人だったので、その展示が少々彼の気を惹いた。将太は気がつくとふらふらとそちらの方へ歩き出していた。
 背後から純子の声が聴こえてくる。
「ちょっと、どこへ行くの! 早く戻っておいで。そっちよりも向こうの方がきっと面白いよぉ」
 彼女はこちらの展示を見るのは賛成ではないようだった。休憩所からは幾つかに道が分かれているが、彼女は別の順路を辿りたいらしい。しかし、将太はその声が聴こえない振りをした。もうこれ以上、彼女の意向に沿って展示を眺めるのはまっぴらであった。きっと彼女の勧める順路は、また彼にとって退屈なものに違いない。それよりも、今はこちらの展示の方に興味があった。将太は敢えて返事をせずに複数の人間の入っているガラスの前へと向かった。
 その途中には順路の分岐点もあった。このまままっすぐ進む順路と、右手に進む順路に分かれているのだ。将太が目指していた展示は正面の方角にある。
 一応右手の順路に目をやると、奥の方に年老いた男の姿が見えた。彼は暗い部屋の中に一人で座っており、虚ろな目でテレビを見ている。彼が着ているのはランニングシャツと股引のみで、あちらこちらに汚いシミのようなものが見受けられた。顔はやつれ、その表情には生気が感じられない。老人が頭をぼりぼりと掻くと、薄くなった銀の頭髪が頼りなく揺れた。
 将太はたったそれだけの光景で酷く気が滅入ってしまった。一方、直進の方の展示には合計三人の若い男女が入っているのが見えた。中にはにこにこ笑っている者も居るようだ。将太はそちらと老人を暫く見比べた後、やはり道を直進することにした。
 最初の方の順路とは違って、こちらは展示の中に数人の人間がいるのが特徴らしい。将太がまず目にしたのは、三人の男女が入っているガラスケースだった。最初の展示と同じように、ガラスの中にはテーブルと椅子が並べられている。手前のテーブルに居るのは十代後半と思われる女の子で、そしてその奥のテーブルにいるのが二人の男女だった。二人は恋人同士らしく、男が女の肩を抱いて何かを話しかけていた。手前の女の子は、そんな彼らを横目でただ眺めている。手元には結露がたっぷりと付いたアイスコーヒーが添えられており、殆ど口は付けられていなかった。
 またしても将太には理解不能の展示だった。彼はそのまま暫く目の前の女性を眺めていた。カップルはずっと談笑を続け、手前の女性は相も変わらずそんな彼らを見つめて頬杖をついたり、軽くため息を吐いたりしてばかりだ。やがて奥のカップルが席を立つと、今度は新しいカップルがどこからともなくやって来て、同じ席に腰を下ろした。手前の女性はまたしても彼らを見つめ続ける。
 将太は五分もしないうちにその場を離れた。
 彼はこの展示館に対して、段々と腹が立ってきていた。あまりにも退屈すぎるのだ。ここは将太にとって、到底理解できない世界なのだ。こんなふうに私生活を切り取ったようなものばかりを見せつけて、それが一体何になるというのだろう。
 不機嫌な顔をして彼がそのまま順路を進んでいくと、通路の向こう側に自分と同じくらいの年齢の男の子がこちらに背を向けて立っているのが目に入った。しかもよくよく見ると、その子はガラスの中に入っている。
 それは将太にとって、衝撃的な光景だった。自分と同じような年齢のあの子でさえも、ここの展示の一部となっているのだ。この館は自分のような年齢の子供には全く関係の無いところだと思い始めていた矢先の出来事であった。将太は不安と好奇心が入り混じったような不思議な気持ちに駆られた。その展示に興味が湧いた彼は、そちらへ向かって歩いていった。
 男の子の入っている展示は、巨大なガラスで区切られていた。覗き窓のようなものが無く、ガラスがそのまま壁となっているようである。ガラスの中の男の子はまだこちらに気づいた様子はない。将太はゆっくりとその展示に近づいていった。
 遠くから見たときは気がつかなかったが、そのガラスケースの中には全部で四人の子供が居るようだった。目の前に居る男の子の他に、三人の子供が遠くに居るのが見える。彼らはその男の子に向かって、何やらはやしたてているようだった。声は良く聞き取れないが、三人がその男の子を仲間はずれにしているらしい。彼らの身振りや手振りがそれを示していた。目の前の男の子は、泣きじゃくって肩が震えている。彼が三人の方に駆け寄ろうとすると、近づいた分だけ彼らは離れていった。それを幾度か繰り返すうちに、彼らはガラスケースの中でぐるぐると追いかけっこを始めた。このガラスで区切られた空間がどれだけ広いのかは不明だが、男の子が三人に追いつくことは決してなかった。すっかり意気消沈した男の子はやがて追いかけるのをやめて、とうとうその場で声をあげて大泣きをし始めてしまった。
 将太にはどうしてよいか分からず、ただガラスの前で佇んでいた。展示の男の子は涙を拭おうともせず、顔をくしゃくしゃにゆがめて泣き叫んでいる。将太が無意識にガラスに手を添えていると、ようやく男の子はこちらに気がついた。
 はじめに彼と目が合ったとき、将太は戸惑って思わず視線を逸らしてしまった。恐る恐る視線を戻すと、男の子は変わらず将太を見つめ続けていた。このガラスは声を遮ってしまうので、二人が会話をすることはほぼ不可能である。将太は両手をガラスにくっつけたまま、じっとその場に立っているしかなかった。男の子はそんな将太の様子を見つめていると、やがて再び顔を曇らせた。哀しげな黒い翳が徐々にその目に宿る。将太はその視線に耐えられず、こんなことなら彼を見に来なければ良かったとさえ思い始めていた。
 やがて、ガラスの中の男の子もどこかへ歩いていってしまった。
 それを見届けると、将太はガラスの前に一人とり残された形となった。急に胸のうちに寂しい風が吹き込んでくる。彼は憂鬱な気持ちでその場を後にした。
 展示の中の人間が増えたり、子供が展示されているところなら、少しは楽しくなるだろうと当初は思っていたが、結局胸のうちに起こったこの妙な悲しさ、寂しさが消えることはなかった。それどころか、展示を眺めれば眺めるほど暗い気持ちは刻一刻と彼の頭を支配する。自然と歩調は速まった。
 また、幾つかの展示を見ていくうちに、ガラスの中にいる人間の数がだんだん増えていることに気がついた。先程まではせいぜい三、四人だったのに、今では十人以上の人間が展示されているのが当たり前になってきた。
 教室で生徒たちから笑いものにされる教師や、宴会の隅で手酌をしている男など、その殆どは相変わらず将太とは縁の無い世界での出来事である。
 彼が呆然とそれらの展示を眺めていると、後ろの方から聴き覚えのある声が聴こえてきた。
「将太ちゃーん、待ってよお!」
 あれは純子の声だ。将太にはそれがすぐに分かった。
 しかし、先ほど彼女を置き去りにしてきたという後ろめたさから、将太はすぐに彼女の方を振り返ることが出来なかった。
 すると次の瞬間、彼の真後ろで何かを叩きつけるような激しい物音が聴こえてきた。驚いた将太が反射的に振り返ると、彼の真後ろにはガラスの中に閉じ込められた純子がいた。先ほどまで将太が歩んできた順路は消え去り、そこには純子を収めた展示が出来上がっていたのだ。彼女はガラスを叩きながら、大口を開いて何かわめいている。将太の名前を連呼しているようであるが、その声はこちらには殆ど聴こえてこない。
 彼女の形相は先程とは比べ物にならないほど陰惨なものとなり、瞳からは健康的な光が消えかけていた。彼女は必死に両手のひらでガラスの面を叩き続けている。いつしか辺りの展示の中の人々も、みな彼女に注目していた。
 一方将太は、無意識のうちに両手で耳を塞いでいた。彼女が両腕でガラスを叩く音が、彼女の血走った眼が、彼にはひたすら恐ろしかったのだ。彼女の眼つきは入り口で見た彫刻そっくりだ。
 今の彼女は間違いなく将太に対して怒りを燃やしていた。それを見た将太に戦慄が走った。恐怖に震えた彼は、逃げ出すようにしてそこから走り去った。後ろのガラスを叩く音が一層激しくなる。しかし、それにも構わず将太は走り続けた。順路の角を曲がって、彼女の目が届かないところまでやってきても彼は走るのをやめなかった。
 半ば泣きべそをかきながら通路を走っていく彼を見て、展示の中の人々は顔を見合わせ楽しそうな顔をしている。将太にもそれは分かっていた。彼らはガラスの中にいるにも関わらず、まるで将太という展示を見るような目でこちらを見ているのだ。あれは、二つ目の展示を見ていたときの純子の視線そのままだった。
 将太が走りつかれて歩き出した頃、気がつけば通路には誰も居なくなっていた。先ほどまでとはうって変わって、辺りは静まり返っている。後方から聞こえていたガラスを叩く音も、今ではすっかり止んでいた。展示の中の人間を除くと、そこにいるのは将太だけである。
 ガラスの中に閉じ込められた人間たちに囲まれて、将太は言いようのない焦燥感に襲われていた。しかし、通路を歩く人間は一向に見当たらないばかりか、先へ進めば進むほど、さらに展示の中の人間の数ばかりが増えていく。
 今では周囲に数え切れないほどの人間が居た。彼らはガラスの中から、好奇の目で将太の動向を観察しているようだった。
 一体、いつになればこの館から出れるのだろう。将太はそればかりを考えていた。さきほどから幾ら歩いても、全く順路が終わる様子はない。あらためて周囲を見渡すと、既に信じられない数の人間に囲まれていた。背の低い彼には、世界中の人間全てがこちらを覗いているような錯覚にとらわれた。
 将太が怯えの混じった表情を浮かべると、それを見た周りの人間たちはみな笑い出した。中には露骨にこちらを指差している者もいる。将太の中で、それまで堪えていた感情の波が一気に押し寄せてくる。
 将太は絶望し、ついに歩く気力も失った。
 瞳の奥からは、とめどなく涙が溢れ出してくる。もう自分ではどうすればいいのか分からなかった。彼はとうとう、声をあげて泣いた。
「うわぁぁぁん!! うっ、うっ……ううぅ」
 どこへ行けばいいのか分からない。誰に助けを求めればいいのかも。
 誰が自分の味方なのだろう。今だけは誰の顔も浮かばない。
 将太はその空虚さを意識すればするほど、救いの無いような気持ちになって一層激しく泣いた。
 始終その様子を見ていた周囲の大人たちだったが、彼らは将太が泣き出すのを見た途端一様に驚いたような顔になった。泣き続ける将太を見て人々は隣同士と何事かささやきだす。それから段階的に多くの大人はひるんだような目つきになり、一部はそのまま嬉しそうに微笑んでいた。将太には自分の泣き声以外に何も耳に入ってこなかったが、自分が泣き出したことで周囲の様子が先程までとは違い始めていることは分かった。
 しかし、一度決壊した心を簡単に修復することなどできはしない。涙は後から後から湧いてくるし、呼吸も一向に整わない。将太は大勢の人間の見ていることも構わず嗚咽し続けた。
 ガラスの向こうには殆ど声が聴こえていないから、将太の泣き声をうるさく思う人間は居ないようだった。しかし、小さな子どもが泣いているという、ただそれだけの光景に耐えられない人々もいるようで、そういう人間は苦笑しながらその場から離れていった。残りの人々は変わらず将太が泣き喚く様をじっくり観察している。
「やぁ、こんなところに居たのか」
 その時だった。通路の向こうから、親しげな男の声がした。
 一体誰だろう。将太は反射的に顔を上げる。ガラスに遮られて聞こえないはずの、自分以外の人間の声が酷く懐かしく感じた。将太の反応を見て、ガラスの中の人間たちもいっせいにそちらを見る。
 前方の通路から、身なりの良い中年の男がこちらに歩み寄ってくるところだった。カジュアルな茶色のスーツに身を包み、その頭髪は丁寧に整髪料で整えられていた。男の表情は柔らかで、将太と目が合うとにっこりと微笑んだ。
「一人でこんなところに居たら、迷子になっちゃうよ」
 優しげな声とともに男は将太の方へ片手を差し出した。将太は何事かと一瞬びっくりしたが、その男の手には小奇麗なハンカチが握られていた。
「さぁ、これで涙を拭きなさい」
 将太はしばらくじっと男の手と顔を見ていた。見知らぬ男だ。彼は相変わらずにこにこ微笑んでいる。将太の頭の中に、先程見た純子の恐ろしい顔つきが思い起こされた。
 気がつくと、将太はそのハンカチを持った男の手をしっかりと握り締めていた。その大きな大人の手は、女性のそれとは比べられないほどの力強さを持っているように感じられた。
「おじさんと一緒にここを出よう。君、すぐにここを出たいんだろう?」
 男は将太の意を確かめるように、腰を落として将太と目線を合わせた。
 それを見た将太は黙ってこっくりと頷き、もう片方の手で涙を拭いた。今では呼吸も随分落ち着き始めている。将太がわずかに安堵したような表情を浮かべたのを認めると、男は優しくこう言った。
「それじゃあ左手をだしてごらん」
 将太は言われたとおりに手を差し出した。すると男はポケットから長い鎖のようなものを取り出し、それを将太の目の前にかざして見せた。
「これはね、○×方式を応用したものなんだ」
 男の手に握られている部分は手錠のような形状をしていた。将太がぽかんとしている間に、男はそれを将太の手首にはめた。そして脇についているゼンマイ状の部分をくるくるとひねると、その拘束具はみるみる締まっていった。
「あんまり締めすぎると手が腐っちゃうからね」
 男はある程度まで締め上げると、血の流れを確認するように将太の手を幾度か揉んで確かめた。
「苦しくはないかい?」
 将太は黙って首を横に振った。圧迫感は殆ど無いが、男のはめた拘束具は今や彼の手首を隙間無く覆っていた。そこに付いた鎖はだらりと伸びて男の衣服の中に納まっている。
「ご覧のように、これは君と俺を繋ぎとめる装置だ。でも心配はいらないよ。ネジを逆に捻ればいつでもこれは外せるんだからね。もっとも、君がそれを望むならの話だが」
 将太はその拘束具を外そうとは思わなかった。
「さて、準備は完了だ。
 こうなればもう出口はすぐそこなんだ。おじさんのそばを離れないようにね。君の手首が締まってしまうから」
 そして、彼らは並んで歩き出した。
 男の言ったとおり、先程までは永遠に続くかと思われたこの通路だが、ちょっと歩くとあっという間に出口に辿りつくことが出来た。あれほど出口を求めて焦っていた将太にとっては、拍子抜けするほどあっけないものだった。
「いやぁ、俺はツイてるな。そして、君も運が良いよ。子どもだったっていうことがね」
 男は出口のところで一言そう言った。
 将太と男が居なくなった後の通路では、ガラスの中の人間たちが冷めた様子で彼らの後姿を見送っていた。
「あのおっさんも全くうまくやったもんだなぁ。さっきまでその辺のガラスに主役で入っていた人間とは思えないぞ」
 一人の男が半ば呆れたような声で言った。しかし、その声に反応する人間は誰もいなかった。彼もまた主役だからだ。
 残されたガラスの中の人々は暫く考えた末、結局展示の中で各々の生活へ帰っていった。最初の男以外、誰一人口をきくことなく。
 将太は建物から出てくると、深呼吸をした。来たときよりは周囲の霧も幾分薄まっているように思える。晴れ晴れとした気持ちだった。彼はそのまま駐車場に止まっていた男の車に乗せられ、その不思議な展覧会を後にした。
 この日、彼の中には小さな打算が芽生え、また同時に純子を置き去りにしたことへの罪悪感が残った。彼女が誰だったのか、今となっては知るよしも無い。もう二度と遭うこともないのだろう。
 帰りの車の中で、将太は口を開いた。
「このチケット、もう捨てていい?」
 ポケットから白色のチケットを取り出し、運転席の男に訊く。
「いいけど、窓から捨てちゃダメだよ」
 男は優しい口調でそう言った。
 しかしそれにも関わらず、将太は窓からそれを投げ捨てた。
「まったく子どもだなぁ……」
 男がにやりと微笑むと、将太は口を尖らせた。
 車はそのまま、将太の馴染みの世界へ向けて走り去っていった。






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