羽を借りる

by きみよし藪太


違う。
違う、違う、まだ違う。
足りない。
足りない、足りない、まだ足りない。
植物でも歌を聴かせてやれば美しく咲くというのだからと、あの人はいつでも
わたし達に本を読んでくれた、いつか聞いたあの話ばかりを思い出す今のわた
しは、鳥の王様を決めようとした時に一羽の真っ黒な鳥がそのままでは目立て
ないからと他の色とりどりの鳥達の羽根を拾い集めその身に挿し、自分をとて
も美しく見せたけれど、結局黒い鳥は卑怯な手を使ったことがバレてしまいみ
んなから散々な目に合わされたという、そんな物語の主人公に似ているのだろ
う。
黒い鳥は迷わなかったのだろうか、どれだけ羽根を集めれば良いのかと。
どれだけ美しい他人の羽根を纏えば、自分も美しくなったと錯覚できたのだろ
う。
違う、足りない、これではまだ、と叫びたくはなかったのだろうか。
わたしはまだどれだけ他人の『羽根』を集めれば、それを纏えば良いのかが少
しも分からないままでいる、あの人が迷わずわたしを選んでくれるように。あ
の人がわたしだけを見て、わたしだけを愛してくれるように。あの人の理想、
好み、幻想のすべてを引き受けた女になる為に、わたしはあとどれくらいの『羽
根』を集め、纏わなければならないのだろう。


『……〜区の路上で見つかった死体は都内に住む女性会社員と判明、両腕肘か
ら上の部分が切り取られ紛失していること、財布などの入ったバッグはそのま
ま置いてあったことなどから警察では先月から相次ぐ通り魔殺人の犯行と見て
……』


ゆっくりと呼吸をする。夜の風は冷たくて、よく考えると身体中の関節が動き
を止めてしまいそうな気がしてきて恐い。十一月の夜空は都内でも星が少しだ
け見える、空気が冷たくなるからだとあの人が言っていた記憶があるのだけれ
ど、どうだっただろう。
駅の近くでテーマパークも近所にあるこの場所は、明るいそちらの大通りに人
が集まりやすい為、少しでも裏路地を入ると極端に人影が少なくなった。電信
柱にもたれ掛かり、わたしはぼんやりと空を見上げる。遠くで車の走る音がす
る、夜はどこかに音を立てながらもなぜか、静かに流れてゆく。
昨日手に入れたばかりの肘から上、指の先までをゆっくりと撫でてみた。きち
んと温かい、血の通う手触りがする。永久脱毛をしてあるのだろう、無駄な毛
のない白い肌は指先で押せば吸い付くような弾力をしている。切り揃えられた
爪は健康そうなピンク色をしていた、何を手に取ってもけして傷付けたりせず
幸せだけを与えられそうなこの手にわたしは一応満足している。
さあ、今日は何を手に入れるのだろう。
通りを行く女達が、わたしの目を引くような身体のパーツを持っていなければ
何も手に入らないのだ、そろそろ綺麗な脚が欲しい。美しく膨らんだ胸も欲し
い。すらりと細い二の腕も、丸くやわらかく温かみを帯びた胴体も、あれも、
これも、欲しいものだらけなのだけれど本当に欲しいものなのかと改めて問い
詰められると分からなくなる。本当に欲しいもの、本当に欲しいものそれはあ
の人に愛される為のすべて。
あの人に愛される『わたし』になるために、どれぐらいわたしは変わらなくて
はならないのだろう。中身も変わるべきなのだろうか、外見もすべて変えて、
そうしたらあの人の望む、あの人がもう他の何をも見ないでわたしだけをその
瞳に映してくれるような『わたし』になるのだろうか、けれども中身も外見も
変わってしまった『わたし』は、果たしてわたしでいられるのだろうか。少な
くとも、今のわたしはあの人が知っている『わたし』とはまったく異なった外
見をしているのだ。
『わたし』はそれでも、わたしであり続けているのだろうか。
猫のように人の家の塀に上がって座り込んでみる。美しい人が通らないだろう
か。こんな月の薄く細い頼りなげな光しかない日には、さすがに警戒して裏路
地へは誰もやってこないのかも知れない。美しい人が来ればいい。あの人が一
目で虜になってしまうような。美しい人が来ればいい、わたしはその羽根を少
しだけ借りるのだ。
「美しい人って何?」
「―――っっ!」
美しい人、と細く冷たい月を見上げていたら、急に下から声をかけられた。わ
たしは驚いて、バランスを崩す。思わず塀から落ちそうになったのを、昨日手
に入れたばかりの美しい手で必死に支えた、掌が熱く痛くなったので、傷が付
いてしまったかもしれない。せっかく、綺麗なままで手に入れたのに。
「塀から落ちるのも危ないけど夜道も危ないから気をつけな」
ところで美しい人って何さ、と息継ぎなしで 付け足されて、ようやく塀の上
に座り直したわたしはまじまじと声の主を観察する体勢になった。目深に被っ
た黒っぽいキャップに隠れて上手に見えない目元、厚めの唇は悪戯っ子のよう
に両端が上を向いているので笑っていることだけが分かる。
「……誰、」
「あ、言っておくけど、連続通り魔殺人事件の犯人じゃないからな」
そうかそうかこんな風に夜中に女の子に声かけてたら俺のが疑われるよな、と
その人は妙に楽しそうに言った。
「……連続、通り魔、殺人事件?」
「おいおい、なんだよその疑問形。あ、もしかしてニュース見てないのか? え、
マジで? こんなに大騒ぎになってんのに?」
「あなた、誰?」
すらりと背の高い人だ。チェックのシャツは寒色系の取り合わせで、見ている
と自分が寒くなる気がした。
「タバコ買いに行く最中の通行人だよ、あんたも早く帰んな、っていうかあん
たもおかしいよ、なんで塀になんか座ってんだ」
「……綺麗な人を、捜してるの」
「なんで」
男は眉を寄せてそう言い放った。帽子で見えなかったけれど、わたしには彼が
眉を寄せているのがなんとなく分かった。どうしてかと聞かれると、少し困る
のだけれど。
「あのさ、本当に知らないのか? ここら辺で四件連続通り魔殺人事件があった
の。昨日もあったじゃん、肘から上切り取られてて女が殺されてたって。この
近所なんだよ、変な奴がうろついてんだぜ、あんたみたいにちょっと顔が可愛
いと、目立ってすぐ標的にされたりすんぞ」
「……可愛い?」
「は? ……あんた、反応すんのそこかよ! いや、ま、可愛い顔してっと思う
けど、って、俺ナンパしてんじゃないんだけど」
女には困ってないしな、と困った声を出す男のすぐ隣に、わたしは塀から飛び
降りる。思っていたよりも軽い音がしてわたしの身体はアスファルトの硬い感
触を足の裏で味わうこととなった。
「わっ、」
びっくりした、と唇が笑っている表情を作らなくなって、彼が本気で驚いてい
ることを示している。わたしは思っていたよりも背が高かった彼を見上げる形
で、帽子の中まで一緒に覗いた。野球帽のつばで隠されていたその場所には、
思っていたよりもずっとずっと優しい目があった。
「……本当に、可愛い?」
「しつこく確認すんなよ、ブスって言うぞ」
「ブス?」
「……タバコ買いに来ただけなのに」
「あの人も今のわたしを見て可愛いって言うかしら……」
「なんだ、あんた彼氏とかいんのか?」
「彼氏?」
「……困ったな、家どこだ」
仕方ないから送ってってやるけど別にナンパじゃないし俺はあんたみたいに
頭の弱い女は好みじゃないし本当なら放って帰りたいんだけどさすがにあんな
事件が続いた場所で置いとく訳にもいかないし本当の本当に仕方なくだからな、
と彼は一息で言って、酸欠によくならないものだとわたしは感心する。
「家……」
あの人のいる家にはもう帰れない。わたしは逃げて来てしまったのだから。そ
れに、なによりもあの人の家にはわたし達を嫌う女がいる。あの人が選んだの
だ、あんなに愛してくれていたわたし達よりも、ある日突然入り込んできた女
の方を。
「……帰るところ、なんて、ないわ」
「は? 家出娘かよ、あんた」
「だって、殺されるところだったんだもの」
「……おいちょっと、訳わかんねぇよ?」
あの人に、わたしは殺されるところだった。わたしの姉弟達や、友達はみんな、
あの人の手で殺されたのだ、わたしだけが逃げてきた。姉は複雑な表情で殺さ
れる前にわたしに告げた、一番愛していた人の手で殺されるのなら本望なのだ
けれどそれを望んだのがどうしてあの人以外の他の人だったのかしらね、と。
逃げなさい、と道を開いてくれたのは誰だったのだろう。思い出せない、わた
しだけがあの空間から逃げ出すことを選択した、他のみんなよりも強く強く、
あの人を愛していたのがわたしだったからそれは運命にせよ必然にせよ、正し
かったのだ、きっと。殺されたくなかった訳ではない、あの人の手の中でなら
喜んで殺されてあげたかった、もしもわたしの『死』を完全に一ミリの隙間も
なく望み切ったのがあの人であったのなら。復讐だとかそんなことはひとかけ
らも考えてはいない、それだけは胸を張って言える、わたしが女達を襲いその
身体のひとつひとつを自分のものにしてゆくのはあの人と同じ身体を手に入れ
てわたし達の仇を取りたいからでは、けしてない。ただ、愛されたいだけだ、
あの人と同じ存在として。
「俺ん家に来い、一晩くらいなら泊めてやる。別になんかしたりしねぇよ」
「……女達を殺したのが、わたしでも?」
「おいおい、そんな細い身体で何が出来るんだか、その冗談つまんないぞ」
「細い身体……」
すべて借り物の『羽根』だ、わたしから彼女らの『羽根』を抜き取ってしまえ
ばただのみすぼらしい残骸が残るだけだ。あの人への愛という、ただそれだけ
の純粋なものを除いては。
「俺、中嶋ってんだけどあんたは?」
「わたし……?」
中嶋と名乗った男はもう歩き出していて、わたしはついて行くとも決めていな
いのに反射的に後を追ってしまう。
「わたしは……蜘蛛、」
「クモ? 変な名前だな、どんな字書くんだよ」
男の声に不思議そうな色が混じるので、わたしはつい笑ってしまった。本当の
ことしか言っていないのに、男はわたしの話などすべて頭の弱い女の戯れ言だ
と思っているのだろう。
「蜘蛛よ」
わたしは本当のことをもう一度告げる。
あの人が呼んでいた、わたしだけの名前は口に出さずに胸に抱いたまま。


青白い輪紋が暗緑色の長い脚に現われ、腹部には黒褐色の濃淡で美しい斑紋を
描いている。水辺に住む、湿度の高い場所を好むわたしはアオグロハシリグモ
だ。脚を伸ばせば20センチを超すこのわたしを、あの人はとても可愛がって
くれた。脱皮の度に輪紋をくっきりと綺麗に濃くしてゆくわたしを、あの人は
他のどの蜘蛛よりも大切にしてくれていたと、信じている。
わたし達は、あの人の家に飼われている、蜘蛛だった。
わたし達が買われてきたのは既にあの人がひとりで暮らしていた時だったの
で、他に家族がいるのかなどはまったく知らない。薄暗い部屋でいくつもの水
槽が置かれ、ある程度の湿度が保たれていないと上手く脱皮が出来ないわたし
達の為に、室内はいつでも水を含んだ空気で満たされており、彼は仕事から帰
るといつでも嬉しそうにわたし達の名前をひとり分ずつ呼んだ。生きたコオロ
ギやヒメダカなどを餌として水槽に落としてくれ、わたし達が水の中にもぐっ
てメダカを取る様などを飽きずに眺めていたその優しげな眼差しを、わたしは
忘れることが出来ない。水中に潜ると身体の毛が銀色に光るのだと、知ってい
たのでわたしはどれだけ上手に水中へ潜ればあの人の目にわたしがより美しく
映るのかと、いつでも不安のようなときめきのような高鳴る胸を抱えたまま食
事をしていた。
蜘蛛を愛しているあの人と、そして愛される対象であるわたし達と。
関係は永遠だと思っていたのだ、確信すらあったのに。
ある夜、あの人はひとりの女性を連れて帰ってきた。ふたりともかなり酔って
いたのだと思う、いつもなら必ずわたし達の名をひとりずつ呼び、声をかけて
くれるはずなのにその日だけはさっさと女性を連れて寝室へ入ってしまった。
強く匂う、花を凝縮させたような匂い。あの人を誘う為の目的を持ったその匂
いは、わたし達をひどく戸惑わせた。この部屋に、なんて不釣り合いな香りな
のだろうと、具合が悪くさえなった。きちんと閉まっていなかったのだろう、
ドアの隙間から漏れてきたのは結合の吐息。
わたしを取り巻いたのは嫉妬の感情だった、確かにあれは赤く燃える嫉妬だっ
た。わたしの名を呼ぶより先に、ただいまと優しい笑顔で告げるより先に、あ
の人は人間の女を連れ込み優先したのだというそのことに、わたしは頭痛がす
るくらいの嫉妬を燃やした。他の蜘蛛達もきっと似たような感情に囚われてい
たはずだ。なんなのだろうあの人間の女、後から割り込んできたくせに、と。
夕方から夜にかけて活動するわたし達は、餌を貰えないまま昨日の残りを漁っ
てみたり体力を消耗しないように水槽の隅で縮こまって大人しくしていたりし
た。次の朝、生死に関る大変なことが起きるとも知らずに。
厚いカーテンで窓がすべて遮られている部屋にいるわたしには、大体の体内時
計でしか時間が分からない。しかしあの人が起き出してくれば、気配で朝がき
たのだと分かる。次の朝、先に起きたのは女の方だった。
トイレか、またはキッチンと間違えたのだろう。
わたし達のいる部屋のドアを開けて。
いくつもの水槽に、何が入っているのだろうと近付き。
そして、絶叫を上げた。
あの人が驚いて飛んでくるどころか、隣近所がすべて驚いて飛び上がってしま
いそうな声で。
気持ち悪いと。
あんなのを飼っている神経が分からないと。
気味が悪いのだと。
捨ててしまってと。
見たくもないと。
女はわたし達の水槽に向って、そんな言葉を吐き出し続けた、ヒステリーを起
したかのようにキンキンとした金属音の混じる声で。わたし達を呪う言葉を。
誰が予測できたというのだろう、そんな女の方をあの人が選んでしまうなんて、
わたし達は最初女性の言葉を大して気にも留めていなかった、むしろあの人の
愛するわたし達を愛せないのならあの人にはふさわしくないのだから自分から
墓穴を掘るなんてなんて頭の弱い女なのかしらとさえ思っていたのに。
『結婚したいって言うのならこれを全部捨てて』
高飛車な女の物言いに。
あの人が頷くと、誰が想像できただろう。
あの人の愛が、わたし達に注がれるよりももっと濃く大量に、その女性の方へ
注がれていたなどと、誰が思いついただろう。
『……分かった、今度君がうちに来るまでには処分しておく』
処分。
処分。
処分。
わたし達の命を、あの人は、処分すると。
理解が追いつかない頭のまま、わたしは部屋の入り口に立ち尽くしているあの
人の表情を見ようとそれだけは必死になっていたのだけれど、どうしてもあの
人の顔は見ることができなかった。立ち位置のせいなのか、わたしの視線がふ
らついていたからなのかは分からない。
処分。
あんなにわたし達を愛してくれたあの人からこぼれでた言葉。
結婚、というものはそんなにも重たいものなのだろうか。
あの人は泣いていたと思う。
泣いていたのだと、思う。
女性を帰した後で、あの人は細い注射針と薬らしきものが入った小瓶を持ち、
わたし達の部屋へ無言でやってきた。昆虫の標本を作る時に、虫達を殺す為に
注射する薬なのだと、わたしは知っていた。
虫達。
わたし達は所詮、虫なのだ。
あんなに愛してくれたんだから、今まであんなに愛してくれていたんだから、
飼い主さんが幸せになる為だよ身を引こうよ、これが寿命なんだよ、そう誰か
が震える声で言ったけれど、わたしには納得がいかなかった。納得など、した
くなかった。
『……ごめんな、』
涙でにじんだ声。
わたしにその涙を拭う為のやわらかな手があったなら。
わたしにあの人を抱き締める為のふくらんだ胸があったのなら。
わたしに、愛を告げる為の言葉があったのなら。
『ごめん……』
水槽の蓋が、部屋の端のものから外される。
あの人は混乱して傷付いて絶望して投げやりになっていた。それでも、あの女
の女を選んだのだ、人間の女、結婚をするという女を。うわあ、とあの人が低
く声を放った。腕を振り回した、その先にあった水槽がゆっくりと机の上から
落ちる。割れる、ガラスの音。重たいはずの水槽を落としてしまうくらいの哀
しいエネルギーが、わたしの胸を痛め、そして決心を強くさせた。
ここから出て行くのだと。
殺されたくはない、それは生きるという行為に対する執着ではなく、あの人を
取り戻す為の選択。
わたしを馬鹿にしないで。
人間の女になど負けない、わたしはあの人を愛している。
この部屋に買われてきた時から、わたしにはあの人しか目に入ってこなかった
のだ。
あの人を取り戻してやる。
混乱した部屋からわたしは長い手脚を必死に動かし、気に入らないことを上手
に説明できない苛立ちから暴れる子供のように机を蹴るあの人のおかげでずれ
た水槽の蓋の部分から出て、カーテンの隅へ一旦隠れた。窓が空いたなら逃げ
ようと、外へ出ようと考えていたけれど、誰かがわたしの逃亡を手伝ってくれ
た。
死なない選択もそれはそれで正しいよ、と。
誰が手伝ってくれたのだろう。
わざとゆっくりと水槽から逃げ出そうとしたわたしではない蜘蛛をあの人は
見つけ、慌ててそちらへ手を伸ばす。その蜘蛛は部屋の奥へと逃げた。
『待て、』
窓のところに近寄り、蜘蛛はゆっくりとした動きをさらに鈍くした。あの人が、
近くにあった昆虫の図鑑をその蜘蛛に向って投げつける。
さあ。
声が届くのと、カーテンが閉まったままのガラス窓が図鑑によって割れるのは
ほんの少しのタイムラグで起こった。
行け。
わたしは割れた窓から慌てて飛び出す。脚を傷付けるかもしれないなどと、カ
ケラも考えている余裕はなかった。逃げて、どこへ行くのかも考えてはいなか
った、ただ。
ただ、あの人に愛される、蜘蛛だった頃よりももっともっときちんと、愛され
る存在としてのわたしになりたいとひたすら願った。何に祈れば良いのか分か
らなかったから、わたしは自分自身に祈った、どうかあの人がわたしに視線を
注ぎ愛を注ぎ、あの人のすべてがわたしの為に存在するようになれば良いと。
そして同じ強さであの人の連れてきた女を憎んだ。人間という女の存在を。あ
の人に愛される同等の存在としてのものすべてを、わたしは憎んだ、それはひ
どく胸を重く苦く締め付ける、痛くて堪らない感情だった。


携帯電話が鳴っている。着メロではなく、古い電話の音だ、ヂリリリリン、ヂ
リリリリン、と。
「……鳴ってる、」
灰色の薄っぺらい折畳式の携帯電話だった、バイブレーター設定がしてあるの
だろうそれは投げ出された薄茶色の絨毯の上で小刻みに震えている。振動する
度に場所が少しずつ移動するので、わたしはどうしてもそれを目で追ってしま
う。
「鳴ってる、」
「え、なに?」
右手にマグカップをふたつ、左手にビールとチューハイの缶を一本ずつ、器用
に握り込んできた中嶋が、不思議そうな顔でわたしを見る。鳴っているのは彼
の携帯電話だ、わたしはそんなものを所有していない。
「これ」
わたしが指差した携帯電話にちらりと目を向け、彼は小首を軽く傾げてから、
ようやく納得したようにひとつ頷いた。
「ああ、テレビかと思ってた」
両手のものを背の低い座机の上に置くと、赤い林檎のストラップがついた電話
を拾い上げる。わたしは机の向こう側にある、スイッチの入っていないテレビ
を眺めた。画面は真っ黒いままで、背の低い家具ばかりがおいてあるのでなん
となく手狭に見えるこの部屋が映り込んでいるだけだ。
男の匂いがする、と思った。
あの人の匂いではない、男の匂い。
「もしもし? 誰? ジュリ? 知らない、は、彼女? 違う? なに? 誰? ええ
っと、中嶋は俺だけど、違うんだよ、多分あんたの知ってる人じゃなくてさ、
何? ああ、いたずらじゃなくて、嘘でもないんだけど、は? 騙してないって、
だからあんたが会っただろう中嶋さんは、あ―――、切れた」
「……どんな電話してるの、あなた」
「いや、中嶋さんに電話」
「……? あなたが中嶋さんでしょ?」
「そうだけど?」
何を当たり前のことを聞くのだ、という呆れ顔をして、彼はけれどもさっさと
気分を入れ替えたのか座机の上の物を指差す。
「飲みたいもの飲めば」
「飲みたいものって……」
湯気の立っているカップの中身はコーヒーとココアだったらしい。わたしはコ
コアのカップへそっと手を伸ばした、暖かな空気が手の中で生まれて指先から
じんわりと身体中へ広がってゆくような気になる。
「ああちょっと待って、この時間のテレビは、っと、」
リモコンのスイッチを彼が入れると、テレビはぷつんと音を立てて光を放った。
わたしはカップに下唇をつけてココアを啜る、粉っぽい味がする。
『―――それでですね、先月から続いている通り魔殺人事件なんですが、今回
で四人目となる犠牲者ですね』
『遺体から切り取られている部分がそれぞれ違う訳です』
『〜区周辺でだけ起きていますよね、犯人はどういった目的で―――』
ほら、と得意そうな顔をして彼はテレビを顎で指した。
「〜区って言っただろう、あんたふらふら夜道歩いてると危ないんだぜ」
「……違うわ」
「は?」
「違う、四人目じゃないわ、五人目よ」
最初のひとりがいる。わたしはテレビの中でもったいぶった真面目顔をしてい
る男達を眺めながらぼんやりと呟く。最初のひとりは欲しかったのが全身だっ
た、だからすべてを奪ったのだ、今の身体となる基本になった色の白い女だっ
た。
「……あんた、まだ自分が犯人だとかっていうのかよ、つまんないって、その
冗談」
「冗談じゃないもの、本当よ、わたしが女達を殺したんだもの、だってわたし
は人間じゃないわ」
「……おいおい、変な女拾っちゃったもんだな」
部屋の中でも帽子を脱がない中嶋は、へらりと笑っているだけで少しもわたし
の話を本気にしようとしない。ビールのプルリングを軽い音と共に押し開け、
そのまま飲みはじめる。
「あんたも酒飲む?」
「いらない……」
最初の女を襲ったのは、あの人の家を逃げ出した時のすぐその晩だった。月が
大きかったのを覚えている、多分満月だったのだろう。わたしの中で、あの人
を奪った女に対する憎しみがひどく膨れ上がっていた、それはどうしようもな
いほど大きく膨れ上がり呼吸をするのも苦しいくらいの感情で、わたしはそれ
をどうしていいのか分からなかった。
初めて出る外の世界は寒く、薄汚れていて息苦しかった、あの人がどれほどわ
たし達に適切で素晴らしい世界を作り上げていてくれたのかが知れて、わたし
は泣いた。どうにかして人間になろうと思ったのだ。
最初に見つけたのは色の白い女だった。黒く長い髪をふたつに分け、ゆるく編
んでいたせいで細いうなじがまるまると見えていた。わたしは暗闇に紛れて近
付き、背に張りつく。何かが自分の背にくっついていると感じた女は悲鳴に近
い声を上げたが、わたしは怯まずそのまま首筋まで這い、獲物に食らいつく時
と同じように牙を立てた。後は祈っていただけだ、どうかこの人間の体にわた
しの意識が溶け込みますようにと。牙を立てた傷から、糸を吐き出す。神経に
沿って体の隅々まで行き渡るように。力の限りわたしは糸を吐き続けた、自分
の命を紡ぐように。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。
気が付くとわたしは地に伏せていた。転んだのか、打ち付けたらしい頭が痛い。
痛みの場所をさすろうとして、視界に入った自分の手にわたしははっとした。
五本の指、白い手、これは人間の。
『……わたしの、手、』
右手で左手の指を握る、温かな血の通う肌の感触がする。
『手に、入れた……』
ゆっくりと両手の指を開き、閉じる、わたしの意志で人間の体が動く。
しかし、わたしは自分が思っていたよりももっと貪欲な存在だった。手に入れ
た身体には満足できず、次の日からより美しいパーツを持つ身体を捜しはじめ
た。美しい女が現れると、殺し、欲しいパーツを切り取り、自分のその個所も
切り取って自分が吐き出した糸でとりあえず結わえる。それから高い場所に足
場糸を張り、脱皮の準備をするのだ。殻を脱ぎ捨てると、わたしの身体と女達
から切り取った身体の部分とは継ぎ目なく綺麗に繋ぎ合わされており、わたし
は自分が美しくなっていくのを楽しむ余裕さえ持ちながら身体を造っていった。
すべては、あの人のため。
あの人が望む、あの人のためだけのわたしになるように。
「……もしもあんたのその話が本当だったとして、あんた人間じゃないって
事? ってか、酔ってる? 妄想にしちゃなんかそれなりな話になってる気もす
んな、そんなにいい男なん?」
中嶋がビールの泡を上唇につけながら言った。頭の中で思い出していただけだ
ったのに、今までのことを口に出していたらしい。
「いい男?」
「『あの人』っての。『蜘蛛』のあんたが、種族? 種類? よくわかんないけど、
そんなもの超えてまで好きって言うんだろ、どこがいいんだ? 俺にはわかんな
いな、だってそいつはあんたより人間の、女選んだんだろ? それでもそいつが
いいの? あんたが手に入れるべきなのは、『あの人』って奴が連れてきた女の
身体だったんじゃないの?」
「それは嫌、」
なんでそれが楽じゃんそしたらすぐ『あの人』手に入るじゃん結婚まで出来る
じゃん、と中嶋は呆れた顔をする。そんな顔のまま、上唇についたビールの泡
を舌で舐め取っていて、わたしにはその表情がとても淫らに見えて困った。そ
れは人間の身体を手に入れてから知った感情だ。だからまだ慣れていなくて、
わたしは時々とても困惑する。
「なに?」
「え、なにって?」
「俺の顔、なんかついてる?」
「いいえ、いえ、なにも、あの、」
「なんで嫌なの?」
「え、あ?」
悪戯な顔をして、ころりと話の穂先を変えてしまう、あっちへ向いたかと思う
とすぐまたこちらへ、油断しているともうあんな方を向いてしまって。
「あ、テレビ」
「え、テレビ?」
わたしの答えを待たないうちに彼はニュースからなんだかやたらと人の笑い
声が響く大きな男達がただひたすらに物を食べていく番組に変わっていた画面
をぷつんと消してしまった。
「見たかった?」
わたしは黙って首を振る。首を振り終わる前に彼はまた話を元に戻してしまう。
「で、なんで『あの人』の連れてきた女にしておかなかったんだよ」
「……そんなの嫌だもの、わたしが嫌いな女にどうしてわたしがならなきゃい
けないの」
「あんたは自分の好き嫌いを優先させるのかよ、『あの人』が選んだのは『あの
人』が連れてきた女なんだろ?」
『あの人』が好きなら『あの人』の為にあんたは『あの人』の連れてきた女に
なるべきだったんだよ、彼はそう言ってまたビールの缶を煽った。『あの人』
『あの人』『あの人』『あの人』『あの人』『あの人』『あの人』、そんなにたくさ
んもの『あの人』という言葉を聞いてその度にあのやさしい笑顔を思い出して
しまい、わたしは切なくなる。わたしの胸を締め付けるほどどうして『あの人』
が好きだったのか、そんな理由はとうに忘れてしまったけれども好きでしかた
がないのだ、わたしは『あの人』のために『あの人』が連れてきた女の身体を
奪うべきだったのだろうか。それとも。
「あの場で死んであげるのが『あの人』のためだったのかしらって?」
「―――なんで、」
「そういう事言いたそうな顔してる、っていうか、あんたはいつまで随分意味
のないことしてるつもりなのかな」
「……意味が、ない?」
「『あの人』を愛しているなんて信じられない、そいつは他の女を選んだんだ、
それであんたを殺そうとしたのに、なんであんたはそんな悠長なことを言って
いるんだ、『あの人』の最も望む女になりたい? それはそいつが連れて来た女
なんだろう、あんたはもうどれだけ美しい身体を手に入れたって意味がないん
だよ、そんなのはどうしようもないんだ仕方がないんだ、どうして、」
自分を殺そうとした相手を愛しているなんて未だに言えるのかと、中嶋は不思
議そうな顔をする。呆れているのでもなく、怒っているのでもなく、本当にそ
れはただ純粋に理解できないといういった表情だった。
「俺は、あんたが可哀想な気がする」
「可哀想?」
「歌があるんだよ、蝶の羽根を手に入れて空を飛ぼうとした蜘蛛の歌が」
「……どんな、歌?」
彼は黙ってビールの缶をテーブルに置くと、そのまま静かに首を振った、だか
らわたしにはその歌がどんな内容なのかちっとも分からないままだった。しか
し、鳥達から羽根を借りて王様になりたかった鳥の話に似ているのかしら、と
思った、あの鳥は不安ではなかったのかしら、どれだけ羽根を借りれば自分は
美しくなれるのかと、分からなくて発狂しそうになったりはしなかったのだろ
うか。
「『あの人』じゃなくても、いいんじゃないの?」
「……何が?」
「あんたが幸せになるのに、どうしてその人が必要なのさ」
「……わたしが、好きだからよ」
「あんたを殺そうとした人でも?」
「……仕方がなかったんだもの」
「仕方がないで殺されたくなかったからあんたは逃げてきたんだろ、じゃあ矛
盾してるじゃないか」
「……そんなの、そんなのわたしにだって分からないわよ、でも、だって、好
きだと思ったんだもの、じゃあどうすればいいの、わたしはどうすればよかっ
たの、分からないわよ、でも好きなんだもの、あの人がいいんだもの、理由な
んて知らないわよ好きなんだから、目が覚めたら朝だと思うようにあの人が好
きだと勝手に身体と心が思ったのよ、それだけよ、」
人間の身体を手に入れて、後先考えずに走ってきたのはあの人に好かれる為の
存在になりたいからだ。ただ、それだけなのだ。だけど、確かにわたしは分か
らない、あの人がどの基準までをクリアすればわたしを好きになってくるのか
を。どうしてこうも執着してしまうのだろう、これが恋だというのなら、なん
て面倒で居たたまれなくて甘く苦い、叫び出したいくらいの感情なのだろう。
「……『あの人』追いかけてても幸せになれないよ、『カシィ』」
「―――え、」
苦く熱いものが胸の方からせり上がってくる、自分は泣き出すのだと思ってい
た時に、中嶋は知るはずのない名前でわたしを呼んだ。瞬間、涙に変わるはず
だった重たい感情が凍り付く。
「―――あなた、誰、」
カシィ、と。
それは、あの人がくれた、わたしだけの名前。
神様が住むという島の言葉で、『愛』。
「あんたでなくても良かったのかもしれないよ、『カシィ』は」
「―――わたしだったから与えられた名前よ」
あなたは、誰。
どうして、わたしの名前を知っているの。
「……人間は、『恋』だけで生きているんじゃない、『情』っていう愛に似たそ
れでいて恋愛ではない不思議な感情に囚われても生きるものなんだ」
「……何が、言いたいの」
「せっかく人間の身体を手に入れたんならもっと有効的に使えば良いってこと
さ」
腕を引かれてココアのカップから指が外れた、視界の端で彼が飲んでいたビー
ルの缶が転がるのが見えた、机にぶつかった足はわたしのものだったのか彼の
ものだったのか、そんなどうでもいいような事が気になっている自分が可笑し
かった。反射的に掴まれた腕を振り上げる、それでも男の力は強くて思ってい
た所よりもずっと低い位置までしか腕は上がらない。足元から這い上がるよう
にわたしの身を染めていくのは捕食される恐怖。わたしが、コオロギやメダカ
へ手を伸ばしたように。
顔が引き攣るのが分かった、一度恐いと感じると思考はそれ以上動こうとせず、
わたしは必死で手脚を振り回す。
「痛っ、こらっ、暴れるなってば、取って食う訳じゃないんだから」
脱皮してくっつけたのか上手くくっついてんなこの腕それにしても暴れるな
よ、と困った声を出す彼の唇はそれでも楽しそうに笑んでいる。暴れたわたし
の手が彼の帽子のツバにぶつかって、スローモーションでそれは彼の頭から落
ちてゆく。
「ああそうか、これは邪魔だったんだ」
思ったよりも体力がすぐに消費されてしまう、そういえば人間の身体を奪って
からろくに食事をしていないのだったと思い出したら必要以上に身体から力が
抜けてしまった。彼は脱げてしまった帽子に対してのんきな反応を見せながら
も、崩れそうになるわたしの身体に腕を回す。
「何を……」
回された腕は温かい。わたしは自分が手に入れた身体の温度しか知らなかった
ことを思い知らされた、あの人もこんな温度を持っていたのだろうかと思うと
泣けてしまいそうだった。ココアに何か入っていたのではないかと疑ってしま
うくらい睡魔のような倦怠感のようなものがわたしを襲ったけれども、それは
安心感だという事をわたしは感じていた。中嶋というこの男に自分の事を話し
てしまったことで、ほっとしたのだ、きっと。捕食されるかもしれないと怯え
たり、それでいて安心したり、自分はなんて矛盾しているのだろうと思うとな
んだか笑えてしまう。唇が微笑みの形を作ったのが不思議だったのだろう、中
島も不思議そうな顔をしたけれど、すぐにその表情はほどけて優しげな目にな
り、わたしに顔を近づけてきた。食べられるのかしら、と思ったけれども、彼
は唇をわたしの唇に重ねただけだった、それをくちづけと呼ぶ事をわたしは頭
の隅でどうにか思い出していて、なんてダイレクトに体温と感情が伝わってき
てしまうのだろうと少し、驚いていた。


体温を感じるのに服はできるだけ取り払った方がいいという事。
くちづけは相手の唾液が自分の口の中に入り込んでくるけれど慣れてしまう
場交じり合っている気がしてそれはそれでなかなか素敵な行為だという事。
男の腕は女の腕よりもたとえ同じ太さだったとしても力強く頼り甲斐がある
気がするという事。
「ずるいやり方だけれど、人間っていうのは何度かくり返し寝てしまえば『情』
が沸くんだよ、それは本当なんだ、愛ではなかったとしてもあんたが『あの人』
を手に入れたいとするならその方法が一番分かりやすいんだと思うよ」
寝る、という言葉の意味をわたしは睡眠の意味でしか知らなかったので、ぎく
しゃくと曖昧に頷くと中嶋は笑った。性交の意味だよ、と解説してくれる。身
体中に唇を押し付けられる感覚はなんだか楽しかった、食べること以外で口を
使うことを知らなかったので、とそこまで考えて、喋る事も出来たんだわ、と
思い直す。温かな指先でわたしは全身を揺り籠にされたように揺さぶられ、撫
でられ、庇護されていた。彼がわたしの中に入り込んできた時、その違和感に
わたしは顔を顰めたけれども、そう悪い感覚ではなかった。
「……そういえばどうしてわたしの名前を知っていたの」
唇を脇腹に押し付けられながらわたしは聞いた、彼は静かに笑って、クプトゥ
ス、と囁いた。わたしがその言葉を耳に収め切る前に、熱を帯びた彼の手がわ
たしに伸びた。首にかかる、それは戯れと言い難い力を込めて締め上げてくる。
なに、とわたしは笑おうとさえした。意味が分からなかったからだ、彼の行為
の。ただ、圧迫された喉から上手に空気が入ってこなくなり、わたしは自分の
顔が硬く、熱くなるのを感じた。
「クプ……トゥ……ス……」
それでもわたしは喋ろうとしていた、彼の言葉をヒュウヒュウ言う呼吸と共に
吐き出すと、霧がかかるようにぼんやりしてきた頭の中でその言葉の持つ意味
が輪郭露わにわたしの頭の中で色を濃くした。
「あな……た……」
わたしの名前が愛の意味を持っていたように。彼の名前は絶望という意味を持
つ。
「あんただけじゃなかったんだよ、人間の身体を手に入れた蜘蛛は」
意識に白い靄が掛かる。頚動脈を上手に圧迫しているのだと、わたしは裸のま
ま抵抗する力もないまま目だけを開いていた。
「カシィ、あんたを逃がしたのは復讐してもらう為だったのに。なんだよ愛し
てるって、仲間も殺されて自分も殺されそうになって、どうして女っていうの
はどんな生き物でも馬鹿なんだろう」
彼の目は哀しみを含んでいた。その視線は、あの人がわたし達を殺そうとした
時と、同じ光を持っていた。ここでわたしは死ぬのだろうか。首を絞められて
いる苦しさを上手く感じられずにいるわたしには、死ぬという事も上手く理解
できないでいた。ただ、あの人の部屋にいた時のわたし達を思い出していた。
クプトゥスもまた美しい蜘蛛だったのだ、脇腹に光る緑色の毛を持つ、本当に
美しい蜘蛛だった、そうだ、あの時わたしを逃がす為に窓へ這った蜘蛛は彼だ
ったのだ。逃げればいいと。今ようやく思い出した、それは何の役にも立たな
い記憶を穿り返しただけに過ぎなかったのだろうけれど。
そして、わたしはこういった事―――首を絞められる行為ではなく、もちろん
抱き合うという行為―――をあの人としたかったのだと、薄れていく意識の中
で、そんなことを最後に、考えていた。


暗く深い穴の中に落ちていた。奇妙な浮遊感があり、落ちているのか浮上して
いるのかいまいち分からない。気がつけばわたしの手の中には細い糸があった。
蜘蛛の糸だ、けれどもわたしのものではない。その糸はわたしの手の中からこ
ぼれ、量を増し、少しずつ絡みついてきたが不思議と恐くなかった。
脱皮の為の糸を纏うのだ。
誰かにこれからの行動を教えられた訳でもないのに、なぜかそんな確信があり
わたしは恐怖を覚えなかった。ここはどこだろう。頭の奥の方で、誰かの声が
響いている。耳を澄ますのだけれど上手く聞えず、それでも辛抱強く待ち続け
ると、それは聞いたことのある誰かの声だと言う事が分かってきた。それでも、
何を言っているのかは聞き取れない。
その間にもわたしの身体には粘り気のない足場用の糸とそうでない糸が複雑
に絡み合い、包み込むように重なっていっていた。ゆらり、と身体が揺れる。
眠りを誘うような静かな揺れ方で、わたしは目を閉じた。あの人の腕の中にす
っぽりと包まれたのならこんな温かさを感じるのだろうか。頭の中の声は次第
にはっきりしはじめ、それは本当に長い長い時間をかけながら輪郭をくっきり
とさせはじめ、それと共にわたしの意識がまた少しずつ、本当に少しずつ、ゆ
っくりと薄れはじめた。
意識が薄れていくと感じるのは、眠りにつく前のあやふやな遠くへ意識を追い
やられるのとはまた別の感覚で、そしてそれはわたしの意識をクプトゥスが飲
み込もうとしている、意識の消滅だからそう感じたのだろう。愛が絶望に飲み
込まれる、とそんなことを思ったら、なんだか可笑しくすらなってしまいわた
しは笑った。もうその頃には鼻も目も口も糸に覆われていたので、自分以外に
わたしが笑ったという事を認識できる者はいなかったと思われるのだけれど。
『カシィ、脱皮し終えたら俺は完璧にあんたの身体を手に入れて代わりにあん
たが好きだったあの人に復讐しに行ってやるよ』
頭の中の声は、やはり彼だった。
『俺はあんたが好きだったあの人をただの飼い主にしか見てなかったし、あの
人が俺達を殺そうとした時からもう憎しみしかないけれど、でもあいつを好き
だって言うあんたの気持ちは理解できないまでも、あんた自身は結構好きだっ
たよ』
わたしは彼の声を聞いていたけれど、心には留めていなかった。わたしも羽根
の一部だったとは。ただ、そんなことを思っていた。わたし自身はあのお話の、
他の鳥達から羽根を借りた鳥ではなかったのだ。
クプトゥス、とわたしはそっと呼びかける。最後にあのお話で、黒い鳥は可哀
想な目にあったはずよ。いや、ズルをした真っ白な鳥を、怒った神様か何かが
真っ黒に変えてしまったのだっただろうか。けれども、とにかく最後は可哀想
な目に会うはずなのだ。
『カシィ、あんたが何を言いたいのかが俺には分からない』
彼の声に感情のあまり含まれていなかったようだった。わたしは少しだけ考え
て、あの人に会ったら、と口にする。
あの人に会ったら、愛してるって伝えて。
『……あんたは馬鹿だ』
憎しみも愛も、きっと紙一重なのだろう、そうでなかったらわたしもクプトゥ
スもあの場で殺されていれば良かっただけの話なのだから。
愛してると伝えて、と言った時にはすでにわたしの意識はカケラのようなもの
しか残っていなかった、身体を捨ててしまっていたわたしが意識までも無くし
たらそれは死ぬ事を指しているのではないかと思ったけれど、どうしようもな
かった。
愛してるって……。
ゆっくりと最後の力を振り絞ってそう告げる。クプトゥスの呆れたようなため
息が聞えたような聞えなかったような、それは詳しくは分からない。あの人の
顔を思い出そうとして、それも上手く出来ないままわたしは消滅しようとして
いた。存在の消滅、わたしが生きていた事に意味はあるのだろうか、それでも
最後にクプトゥスの羽根となってあげられる事があったからそれはいい事だっ
たのかもしれない。
目を閉じているわたしは完全な暗闇の中にいた、そして消滅しようとしている
のに何故か、脱皮すれば新しい世界に生まれ変わる事が出来るのだと、根拠の
ない希望に似た何かに包まれていた。


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