西遊記 Z
by ザッピー浅野
〜プロローグ〜
見渡す限り、岩ばかりの山道を、馬に乗った僧侶が進んでいる。その僧侶の行き先を、ごつごつと歩きにくそうに進む馬の手綱を握って、ひとりの猟師が案内していた。
猟師の姓は劉、名は伯欽。昨晩のこと、山奥で狩りをしていた時、この僧侶が虎に襲われ、食われそうになっているところを助け、一晩の宿を貸したのだった。
ちょっと変わった坊さんだ、と伯欽は思った。
立派な身なりをし、達観したような落ち着きを放っているかと思えば、どこか頼りなげな、おどおどした、脆弱さを感じさせる。聞けば大唐の皇帝直々の使命を受けて、西域まで有り難いお経を取りに行く旅の道中だと言う。いかにも、とも思うし、この人が、とも思う。
「昨晩は本当に助かりました」
僧侶が口を開いた。「あなたがいなかったら、今頃私は虎の胃袋の中でしたよ」
「いや、もうとっくに虎の糞になって、この両界山の土塊の一部だったでしょう。ここら辺の虎は食欲旺盛で、消化が早いですからな」
そう言って伯欽は笑った。「まあ気を付けて旅をお続けください。道中、危険なのは猛獣ばかりではありません。西域までの山河の各所には、妖怪魑魅魍魎の類いも跋扈しております故」
伯欽の言葉を聞いて、僧侶は不安そうに唇をへの字に曲げた。
「ああ恐い。……ときに、伯欽殿、この山は両界山と言うのですか」
「はい。この山はその昔、五行山と言いましたが、かの大唐の高祖が国を定められた折、名前を両界山と改名されたのです。言い伝えによると五百年前、かの逆賊・王莽が漢帝国を奪った時世、空から大きな岩が降ってきて、石の猿を封じ込めた時に出来た山なのだとか」
「石の猿ですか?」
「はい。何でもその石猿、数百年前、天界を騒がした妖怪で、天帝様の御咎めを喰らい、如来様の手によって、この山に封じ込められたのだとか。今ではすっかり山の名物ですよ。もうすぐ通りますから、ご覧に入れましょう」
伯欽は遠くの道先を指差した。
「ああ、あれです」
見ると、岩ばかりの山肌に、人の上半身の形をした突起物が、突き出ている。岩が自然の悪戯によってそのような形に変化したものかとも思えたが、近付いてよく見ると、やはりどこか周囲の岩とは物質的に異なっているような気もする。更に近寄ってよく見ると、目鼻立ち、指の形はくっきりと、猿の形態を成していた。
「これが、その石猿と」
僧侶は興味深そうに、馬から下り、石猿をしげしげと見つめた。
「そうそう。そう言えば、こんな言い伝えもありましたな」
ひときわ明瞭な口調で、伯欽がしゃべり出した。「この猿は、ある人物と遭遇することによって、数百年の罪の償いを許されるのだそうで」
「ある人物?」
僧侶は振り向いた。伯欽が、満面の笑みをたたえて立っている。さっきまでの愛想の良いだけの笑みではない。深く、人の心を捉えるような、落ち着いた笑みだった。
僧侶はそこに、昨晩からの伯欽とは全く違う雰囲気を感じ取り、あっけに取られて立ちすくんだ。
「その人物は、時の皇帝の命を受け、十万八千里の道程を、八十一個の苦難を乗り越え、遥か天竺の地に大乗教典を頂きに望む高僧とか何とか」
伯欽の声音は力強く、僧侶以外の周囲にも、言葉を言い聞かせようとしているように感じられた。
ふいに背後でごつ、ごつ、と音がした。僧侶が振り向くと、かの石猿が、微かに震え、動きだし、目を開いた。その目は赤く輝き、黄色い歯をむき出しにして、笑っている。次に指が動いて、頭上を高々と指差した。
「口奄」「嘛」「口尼」「叭」「口迷」「吽」
と書かれた札が、いつの間にか岩肌に貼付けてあった。
「そうそう」
背後で伯欽が言った。「思い出しました。その高僧の名は、陳玄奘。またの名を、三蔵法師」
札がぽろりと地に落ち、同時に地鳴りが始まった。石猿を中心に、山肌に蜘蛛の巣のようなひびが広がってゆく。振り向くと、伯欽の姿はもうない。
「え? え? え?」
僧侶は狼狽え、後じさり、伯欽の姿を探した。ふいに、天から声が降ってきた。伯欽の声だった。
「三蔵どの。その猿を弟子にして、天竺への旅に連れてゆくがよろしい。扱いはちょっと厄介かもしれませんが、きっと助けになるでしょう。道中、あと二匹、妖仙がお伴つかまつる予定です。ともども、よしなに」
声が渦を巻いて、天高く消えていった。立っていられないほど地響きが激しくなり、膝をついて地面を抱きかかえるように蹲ると、ひときわ大きな爆発音とともに、山が崩れ、崩壊し、直に静寂が訪れた。
三蔵は恐る恐る、顔を上げる。
「お師匠様。お待ちしておりました」
くぐもった声とともに、土煙のなか、うっすらと、跪く石猿の影が浮かび上がってきた。
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それから十年後。
「お腹が空いたなあ」
三蔵が、聞こえよがしに呟いた。それを聞いた八戒が、ちっと舌を鳴らす。腹が減っているのは誰も同じである。優雅に山脈を眺めながら馬に乗りっぱなしの三蔵が空腹なのだから、他の三人、いや妖怪だから三匹と言うべきかもしれないが、ずっと歩きっぱなしのお三方こそ、その腹の減り具合は三蔵と比べようもない。
あれから十年の月日が流れていた。伯欽、いや猟師の姿に身を窶した菩薩様だったのだが、彼が予言した通り、三蔵は石猿の弟子入りを承諾し、その後の道中、二つの妖怪を立て続けに弟子に取っていた。
それまで長安でひたすら仏道の修行に励んでいた玄奘が、三蔵法師という雅号を頂き、取経の旅に出、瞬く間に三つの妖怪の弟子を従えることになったのは、僅かこの十年のことである。人生、何が起こるか解らぬものだ、と三蔵はこの異様な弟子たちの顔を眺める度に、しみじみ思った。
「この辺りには温泉が湧いているという噂だよ」
三蔵は辺りを見渡しながら言った。「どこか旅館でも探して、温泉にでも浸かりたいものだね」
「温泉か、それは結構ですな」
後ろを歩いていた痩せぎすの髭面男が言った。その姓は沙、名は悟浄。三蔵の弟子の中では一番新しい。一見すると人間のようにも見えるが、青いような黒いような肌の色、異様にぎらつく瞳、土龍の如き牙歯、そして首から不気味に垂れ下がった髑髏の首飾りが醸し出す雰囲気は、逆に誰よりも妖怪じみた怪異さを感じさせる。本来は流沙河に巣食い、通りがかる人間を喰らっていた水怪だったが、三蔵に出会ってからは人を喰うのをぴたりと辞めた。
「温泉でもなんでもいいから、早く食い物にありつきたいもんだぜ」
八戒が担いでいた得物を地面で鳴らし、巨体を揺すらせた。彼は姓を猪、名を悟能という。三蔵に弟子入りしてから八戒という法名を授かり、それが呼び名になっていた。豚頭人身の妖怪で、馬鹿力が自慢だが、短気ですぐ乱暴を働く悪癖があった。
「お師匠様。あれを」
悟浄が指差す。見ると、木々に囲まれて、古びた人家が建っていた。微かに人の声も聞こえる。
「おや。ちょうどいいね。あそこで御斎を頂いてゆく事にしようよ」
三蔵が身を乗り出す。おおう、おおう、と声を上げ、八戒が得物を振り回す。
「悟空、ちょっと行って、御斎を貰いにいっておくれ」
三蔵が後ろをちょこちょこと歩いていた一番弟子に言った。彼こそ十年前、三蔵が両界山から救い出した、かの石猿である。その姓を孫、名を悟空という。
悟空はそらきた、とばかりに腕を組み、皺くちゃの顔を一層皺だらけにさせ、顔の半分ほどもある大きな頬袋を膨らませた。
「悟空、これ」
三蔵が何度名を呼んでも、悟空はしゃべろうとしない。
「お師匠様、悟空は不貞腐れてるんすよ」
八戒がにやにやしながら言う。
「ええ、なんで?」
三蔵は大袈裟に目を丸くする。八戒と悟浄は笑みをふくんだ瞳で目配せをし合う。三蔵が、気位の高い悟空が使いっ走りのような仕事を嫌うのを知りながら、わざと素っとぼけているのが可笑しいのだ。
「なんでまたボクなんだよ!」
膨らんだ頬袋が弾けるように、悟空が叫んだ。「ボクは天界で斉天大聖って位についてたくらい、偉い天仙なんだよ! そんなの弟弟子の八戒か悟浄の役割じゃないか!」
悟空は猿顔をみっともなく歪めさせ、小さな身体を鞠のように上下させながら、地団駄を踏む。
「悟空さあ」
三蔵は言った。「お前にもう少し謙虚になって、どんな役割も進んで引受けるような僧になってもらいたいという、わたしの配慮なんだよ、これは」
「知ってるよ! わざとらしい意図が見え見えだから、よけい腹立つんじゃないか!」
言うや、悟空はその場に座り込んでしまった。後ろで八戒と悟浄が腹を抱えて笑っている。三蔵は馬を止め、大きな耳を指でもみながら暫く考え、
「なんだかお前は年々性格ががさつになってくるね。仕方がないね。じゃ、わたしが行こう」
と言って馬を降りた。八戒と悟浄が顔を見合わせる。
「お師匠様、ここは私が」
慌てて悟浄が前に出る。
「いやいや、いいよ。たまには私が行くよ。このままでは示しがつかない。悟空、よく見ておけよ。人の上に立つ者は、人の嫌がる事でも進んで引受けるようではないと。立派な僧にはなれないよ」
そう言って、三蔵はさっさと歩き出した。悟空は地面に寝転がり、石の頭をガリガリ掻きながら、その後ろ姿を見つめた。八戒と悟浄が呆れ顔で、そんな悟空を見下ろしている。悟空は一言「ふん」と呟くと、そのままごろんと横になり、目を瞑ってしまった。
三蔵は静々と歩きながら、人家に近付いていった。人の声は、どうやら若い娘たちのようだ。しかも複数、歌声のような笑い声が、リズミカルに重なり合っている。
見ると、庭で、可憐な乙女たちが嫋やかな動作で鞠を蹴って遊んでいた。七人いる。三蔵は暫く、その華麗な妙技に見とれていた。
一人が鞠をぽんと蹴ると、もう一人が小さなおでこで跳ね返す。
三人目がとんぼ返りに両足で蹴り返すと、四人目がお腹で受け、纏足のつま先で蹴り上げる。
五人目がつむじ風のような回し蹴りで蹴り返すと、六人目が胸で跳ね返す。
それを隣の七人目が、垂直に天高く蹴り上げる。
鞠は天を一巡すると、三蔵の目の前に落ちた。
「あら、お坊さんだわ」
「本当だ。お坊さんだ」
「こんにちはあ」
「ようこそいらっしゃいました」
「どちらから?」
「そしてどちらへ?」
「どうぞおあがり下さいな」
七人の娘たちが鞠のように言葉を繋ぐ。三蔵は暫し言葉を失い、ぎこちない笑顔で頭を下げた。
「し、失礼いたします。拙僧は、東土は大唐より、遥か西天へと経文を頂きに参る者で、三蔵と申します。旅の途中、こちらにて御斎を頂けたらと、あの、こちらに」
「まあまあ、お坊さん、堅苦しいご挨拶はそれくらいにして、どうぞおあがり下さいな。申し遅れました。わたしの名前は蜜蜜(ミイミイ)」
「あたいは猫猫(ミャオミャオ)」
「虹虹(フンフン)よん」
「わたくしは白白(パイパイ)と申しますわ」
「蜻蜻(チンチン)です」
「音音(ヤムヤム)なの」
「明明(ミンミン)あるね」
少女たちはわらわらと三蔵に寄り添うと、腕を引き、背中を押しながら、半ば強引に家の中へと招き入れた。
「あ、あのう、拙僧には弟子が……外で……」
少女たちはきゃっきゃっと笑いながら、三蔵とともに、家の中へと姿を消してしまった。
「遅えな、お師匠様は」
八戒が雷のような声を上げた。悟浄は相変わらず腕を組み、岩に腰掛け、三蔵の消えた人家を遠くから見つめている。「ひとりで旨いもんでも食ってるんじゃねえだろうな」
悟空は金斗雲に乗って、さっさと何処かへ行ってしまっていた。
「兄者。行こう」
悟浄が立ち上がる。「幾ら何でも時間がかかり過ぎる。お師匠様に何かあったのかもしれん」
「ああ?」
八戒が訝しそうに鼻を鳴らす。「何かって、何がだよ? あんな小娘たちに何が出来るって言うんだ。男女みたいな師匠に、今さら色気も糞もあるまい」
「兄者。俺はさっき、遠目にあの娘たちの足球を見ていたが、あの動きはただ者ではない。普通、纏足の足であのような運動が出来るものだろうか」
「妖怪だってのか。あいつらが」
八戒の鼻の穴が一際大きくなった。八戒はものを考えると鼻の穴が広がる習性がある。しかし腹が減るあまり纏った思考がままならず、
「まあいいや、とにかく行こうぜ」
と言って、得物を肩に担いで歩き出した。悟浄が後に続く。
人家は、さっきまでの賑わしさが嘘のように、しんと静まり返っていた。
洞窟の中を、少女がひとり、歩いていた。暗く、苔の発する僅かな光で数尺先が辛うじて見える程度である。そんな危なげな細い洞窟を、慣れた足取りで少女は歩いている。
少女は立ち止まった。目的地に着いたのだ。
「お義母様。わたしです」
「蜜蜜かい?」
暗闇の中から声がした。「待ちくたびれたよ。予定よりちょっと遅かったじゃないか。人間の匂いがするね。やっと来たのかい」
「はい。情報通り。三蔵法師が通りかかり、家の中へと招き入れました。現在、こちらにて捕獲しております」
蜜蜜が懐から水晶を取り出すと、そこに映像が映し出された。三蔵が縄で縛られ、黒柱に括りつけられている。
「ふうん。これが三蔵法師かい」
闇の声が言った。「さすがに女みたいな顔しているね」
暗闇から舌なめずりをする音が聞こえる。
「生まれてから一度も精を漏らした事のない三蔵の元精は、清浄この上なく、それを得た者は、不老長寿を授かり天地と齢を等しくすると言うじゃないか」
「はい。お義母様。ただひとつ、これも情報通りですが、三蔵には手強い弟子が三人、付き従っております。特に孫悟空は、霊台方寸山の須菩提祖師という神仙の元で神通力を学んだ妖仙で、その強さは天界の神将たちさえ歯が立たなかったといいます」
蜜蜜の言葉を受けて、水晶に悟空の映像が映し出される。何やら口をぶつくさ動かしながら、石を枕に、山中に寝そべっている。
「このチビ猿がかえ?」
「はい。また、残りの二人は猪八戒と沙悟浄。二人とも悟空ほどの強さではありませんが、まんざら雑魚でもないようです。猪八戒は怪力に加え、九つの鋭い刃を突き立てた魔鍬(まぐわ)の使い手。ただ女に弱いところがあり、その辺を突けば落とすのは難しくはないでしょう。沙悟浄は痩せぎすながら、筋骨逞しく、宝杖の達人。瞬発力は一行の中でも秀逸。頭も切れ、決して侮れません」
水晶には猪八戒と沙悟浄が映った。少女たちの屋敷の中を、うろついている。蜜蜜はあっと叫んだ。
「あれ。家には結界を貼っておいたはずなのですが」
「侵入しているじゃないか! 早く取っ捕まえるんだよ!」
闇の中の声が叫んだ。
「す、すいません、お義母様。すぐに対処いたします」
蜜蜜は水晶を落とすと、拾って懐に戻し、逃げるように出口へ去っていった。
後には、闇の声がかさかさと、巣へ戻ってゆく音だけが残された。
「この家はトンでもねえ食わせ物だぜ。外からじゃ解らなかったが、まるで迷路のようだ。同じところをぐるぐる回ってるんじゃねえか」
八戒が腹立たしそうに叫ぶ。悟浄が頷いた。
「外には結界が貼ってあったしな。お粗末なものだったが」
確かに詰まらぬ仕掛けだった。二人が屋敷の門をくぐろうとすると、外へ出てしまうのだ。門の内側への一歩が、門の外への一歩になる。二三度同じ事を繰り返し、しびれを切らした八戒が力任せに魔鍬を振り下ろしただけで、門は結界ごと崩壊した。
「どうやら我々は同じ仕掛けに嵌っているらしい」
悟浄は顎髭をひっぱりながら、周囲を見回している。「お師匠様のところへに辿り着くまでに日が暮れてしまうぞ」
「早い話が、さっきと同じことだ。この家ごとぶち壊しゃあいいんだ」
言うや八戒、魔鍬を振り上げると、薮から棒に、壁に叩き付ける。返す力でまた別の壁、梁をへし折り、天井をふっ飛ばす。
悟浄が慌てて叫んだ。
「待て、兄者! お師匠様にもしものことがあったらどうするのだ」
「あのくそ坊主がよ、こんなことでくたばる玉じゃねえだろう」
何の根拠もない。ただ面倒臭いだけだった。
八戒はまるで何もない空を切るが如く、魔鍬を振り回す。土埃が舞い、瓦礫がぱらぱらと降り注ぐ。
家全体が粉々に潰れる感触が、地鳴りとなって足下から伝わった。
「すっきりしたぜい」
瓦礫の上を歩き出す八戒。悟浄、むせ返りながら、後に続く。辺りはもうもうと埃が立ちこめ、何も見えない。息をつこうと顔を上げると、青天に鷹が一羽、飛んでいるのが見えた。
「いい天気じゃねえか。妖気に満ち満ちていたこの家も、これで風通しが良くなっただろう」
「風通しどころか、家そのものが無くなってしまったぞ。……やや?」
土埃が引き、視界が戻ると、そこに現れた光景に、二人は呆気にとられた。家があった敷地の真ん中辺に、大きな岩風呂がある。そこで先ほどの少女たちが六人、湯煙のなか、全裸で湯浴みをしているではないか。
「あら大変、お家がなくなってしまったわ」
「本当だ。どうしましょう」
「それよりみんな、あそこにほら」
「またお坊さんね。二人もいるわ」
「子豚ちゃんと、お髭さんね」
「そんなところに立っていないで、こちらへどおぞ」
少女たちが、湯のなかから手招きをする。八戒と悟浄は顔を見合わせ、近付いていった。自分達の家が全壊したというのにあの落ち着きぶり。風通しが良くなっても、妖しさは相も変わらずと言うところか。
「色仕掛けと来やがったか」
「兄者。油断するな」
悟浄が囁く。八戒は掌に唾を吐いて、魔鍬を構え直す。そんな二人に対し、少女たちは無防備に笑いながら、はしゃいでいる。ふと、ぶうんと旋風が吹き、湯船の向こうに、こつ然と少女が現れた。
「みんな湯浴みをしているのね。猫猫、相変わらず大きな乳だこと」
と言って笑う。
「あら姉さん、あたいのなんて、虹虹に比べたらまだまだよ」
「ねえ見て見て、白白の桜桃のような乳豆」
「蜻蜻の珠玉のような臀部もなかなかのものですわ」
「わたしは音音の小刀で餅に切れ目を入れたような、ちっちゃな玉門を見ていると、くらくらしてきちゃう」
「明明の錦のような艶肌には負けますの」
「それより蜜蜜も、一緒に温泉、入るよろし」
「ご一緒するわ」
蜜蜜はするりと衣服をすべり落とすと、ぽんと飛んで、宙返り、頭から水面にちゃぷんと入った。
少女たちが一斉に笑う。
「おうおう!」
八戒が湯船の端に仁王立ち、腕を組んで少女たちを睨んでいる。
「お師匠様をどこへやった?」
少女たちは一斉に、同じ方向に首を傾けた。
「おししょうさまって?」
「さっき来た、あのお坊さんのことかしらん?」
「それならもう、西の方へと発ちましてよ」
「それよりお二人さんも、ご一緒にいかが?」
「ここの湯は濯垢泉と言って、とても柔らかく、血脈の流れを良くしますの」
「飲めば高血圧、糖尿病にも効くあるね」
「どうぞ旅の疲れを癒してくださいな」
蜜蜜と呼ばれた少女が立ち上がり、手招きをする。水滴をまとった玉石の肌が輝き、悩ましい香りが鼻を突く。すらりと延ばした手の先で、白い指が妖しく動き、二人を誘っていた。
「まあいいや。このままじゃ埒が空かなねえ」
八戒はふんと、大きな鼻の穴から空気を吐き出すと、魔鍬を投げ捨て、服を脱ぎ始めた。
「湯の中でゆっくり白状させてやるぜ」
「あ、兄者」
悟浄が目を丸くするが早いか、八戒は勢い良く湯船の中央に飛び込んだ。激しく湯柱が上がり、少女たちが悲鳴を上げる。しかしすぐに笑顔を取り戻し、きゃっきゃと波紋の中央へと群がっていった。悟浄はただ呆然と立ち尽くすばかり。
「あたい、豚さんと一緒に温泉に入るなんて初めてよ」
猫猫が嬉しそうに湯をかき回す。「豚さん、どこにいるの?」
八戒が飛び込んだ地点からはぶくぶくと、泡が浮上するのみで、本人は出てこない。猫猫が異変に気付いた。
「消えたわ!」
呆気にとられる娘たち。
「探すのよ!」
蜜蜜が叫んだ。
白白が湯に潜って見回すが、自分たちの足しか見えない。
「湯の中にはいなくてよ」
その時、
「あああああっ!」
と突然、悲鳴が聞こえた。
見ると、蜻蜻が苦しそうに身体をくねらせ、宙を掻きむしっている。
「どうしたの! 蜻蜻!」
狼狽えた音音が聞く。
「あっ、あれ!」
明明が蜻蜻の股間を指差した。なんと、蜻蜻の股の間から、黒い、男根のようなものが生えている。それは男根のようでいて、柔らかそうにうごめき、くねりながら、尚も奥へと侵入しようとしていた。
「泥鰌だわ!」
蜜蜜が叫んだ。慌てて蜻蜻の股間に手を伸ばし、引っこ抜こうとするが、ぬめぬめとしていて掴みきれない。
「変化の術か。兄者もやりおるわ」
悟浄が呟く。八戒は時たま、悟空に変化の術を教わっているのだった。まだその能力は拙く、下等動物に化けるのが関の山だが。
「しかも水の中。お株を奪われたところで、どれ、俺はこの隙に、お師匠様を探しにゆくことにしよう」
悟浄、宝杖をひと振りすると、早々にその場を立ち去った。
後に残された少女たち。苦悶と快楽の挟間でのたうち回る蜻蜻を取り囲み、全裸のまま、天地がひっくり返ったような大騒ぎを演じていた。
「蜻蜻、しっかりして!」
蜜蜜が蜻蜻の頬を叩く。全身をぴくぴくと痙攣させ、その表情は生まれて初めて味わった怪異な感覚にむせび、溺れている。
何せ頭の先はこりこり固く、胴体は脈打つようにうねり、振動する泥鰌の妙技は、妖怪とは言え、一人の女怪の心王を崩壊さすのに十分だった。
ついに泥鰌は完全に蜻蜻の体内に姿を消した。
「ち、蜻蜻、早く! 『もとの姿』に戻るのよ!」
猫猫が叫ぶ。妖怪である彼女たちは、人間の姿は言わば借りの容姿。変化さえすれば、少女の身体は一瞬霧となり、体内に侵入した八戒は、自ずと外へ放り出されるはずだった。しかしそれを成し遂げるのは、本人の意志しかない。その境界線を失っている蜻蜻には無理だった。
「あれ。あの髭がいないわぁん」
虹虹が初めて悟浄の不在に気が付いた。
「大変! きっと三蔵を探しに行ったんですわ」
白白が頭をかかえる。
「そんな。万が一逃がしたら、お義母様に怒られるの!」
音音が泣きそうな顔をする。
「行くのよ!」
蜜蜜が叫ぶ。「虹虹、白白、音音。三人はあの髭を追って! 猫猫と明明は三蔵を見張るのよ! ここはあたしにまかせて!」
五人が立ち上がる。
「あれ。わたしたちの服がないあるよ」
明明が口を開けたまま、服を掛けておいた筈の岩を指差した。確かに六着あったはずのものが、なくなっている。今さっき岩風呂のすぐ脇に脱ぎ捨てたばかりの蜜蜜の着物も、姿を消していた。
「あそこよ!」
蜜蜜が頭上を指差した。見ると、一羽の鷹が天高く、娘たちの衣服を銜え、旋回している。
「鷹がわたしたちの服を盗んだあるか?」
「いいから! 裸で行けばいいでしょう!」
蜜蜜が金切り声を上げる。蜜蜜の血を吐くような喊声に、五人は慌てて湯から飛び出した。
五人が消え去るのを見届け、蜜蜜は抱きかかえていた蜻蜻を向き直る。
そして、はっと、息を呑んだ。
──白い糸。
一本一本では見えないほど細い、白い糸のようなものが、蜻蜻の口から伸びている。糸はそよ風に揺られながら、湯気の向こうへと続いていた。
「お、お義母様!」
蜻蜻の口から、ずるっと音をたて、白糸に絡まった大きな豚が、躍り出た。
「ふうむ。ここが妖しい」
悟浄は洞窟を見つけ、その入口に佇んでいた。山の土手っ腹に風穴が空いたような闇の奥から、ただならぬ妖気が漂ってくるのを感じる。
一歩、二歩と、洞窟の中へと足を踏み入れた。
ふいに、空気が細かく振動する音が聞こえ、何やら黒豆のようなものの大群が、烈風とともに飛んできた。
「むおっ!」
悟浄は叫び、両腕を目の前で交差させ、場をしのぐ。目を凝らすと、それは虻(あぶ)、蚋(ブヨ)、蠅などの蟲の大群だった。
蟲たちは耳を突き破るような羽音を響かせ、洞窟の奥の闇へと吸い込まれ、消えて行った。
洞窟は再び静寂を取り戻し、暫しの間を置いて、静かに三つの足音が近付いてくる。
三人の妖女たちだった。
暗闇から、一糸まとわぬ裸体がくねるように姿を現す。
「虹虹、白白、音音……と言ったか」
悟浄は宝杖の先で、三人をねめ回す。
「お前たち、何者だ?」
「あら嬉しいわん。もう名前を覚えてくれたのねん」
「光栄ですわ。ではそろそろ、自己紹介でもいたしましょうか」
「わたしたちはこの盤糸嶺を支配する蟲の妖仙。人呼んで、七精姑と言いますの。ふもとの村ではちょっとばかし、有名なんですの」
「ふっ。どんな妖魔かと思ったら、他愛ない。単なる蟲の化け物であったか」
悟浄は肩をゆする。「お師匠様はこの奥か?」
「三蔵はここにはいないわん」
「それよりご自分の心配をした方がよろしそうですわ」
「あなたはここで死ぬの。死んでもらわないとわたしたち、怒られちゃいますの」
音音が身体をくねらせ、後ろを向くや、つま先だけで、ポンと飛んだ。その背中が弓なりに弧を描き、洞窟の天井をなめるように飛び越え、悟浄の背後に着地する。
前方左に虹虹、右に白白。背後に音音。
悟浄は宝杖をかざして前の二人に目を凝らし、同時に背後の一人に神経を集中した。
虹虹と白白の片足が同時に地面を蹴った。虹虹が左足、白白が右足。そのまま宙を一回転。また同時に背後で音音が飛ぶ。
虹虹が悟浄の顔面を、白白が足を、音音が背中をめがけて襲いかかる。横に逃げようにも左右は岩の壁。
「むっ」
悟浄は身を屈めると、無駄のない動きで前に飛び、虹虹と白白の中央を突破。その足で、白白の腹に一撃を喰らわせた。
虹虹の踵が頭をかすり、音音のつま先が微かに背中に触れる。
白白が腹を押さえて転がり、その両側に、虹虹と音音が着地する。
「やりますわね」
白白がゆっくり立ち上がった。「このわたくしを足蹴にするなんて」
三人が、洞窟の出口に立ちふさがる格好となった。
悟浄は思考を巡らせる。一人を攻撃すれば、他の三人が襲いかかる。宝杖の大振りで、三人を同時に攻撃するには、洞窟の中は狭すぎる。ここはまず、外に出るのが先決。
一瞬の判断の後、三人目掛け、宝杖の小刻みな突きを繰り返しながら、突進する。勢いで地面を蹴り上げ、壁を走って、外を目指した。
三人は悟浄の突きを躱しつつ、脱出を食い止めようとするが、間に合わない。手をこまねいている内に、悟浄はまんまと洞窟の外へと飛び出した。後から三人が、忌ま忌ましそうに歩み出る。裸体が陽の光に照らされ、漆器のように艶めいた。
「あっけなく外に出られてしまいましたわね」
白白が舌打ちをする。
「いいもん。これで洞窟の中の三蔵は助けられないもんね」
今では三人が、逆に洞窟の入口に立ちふさがる形になっていた。
「先にお前が言ったように、お師匠様はこの中にはいない」
悟浄が鼻で笑う。「洞窟の中にいるうちに察した。お師匠様の気配は感じられなかった」
「もう食われちゃってるからかもしれないわよぉ」
音音がうふふと笑う。
「もうお前たちの妖言には惑わされぬ。お師匠様は他の場所で生きている。お前たちを倒してから、探しに行くとしようか」
悟浄、ゆっくり宝杖を回しながら、三人との間合いをつめてゆく。宝杖の回転はだんだん速度を増し、足下の草をちっと切る音を皮切りに、三人目掛けて突進した。
瞬間、白白が上、虹虹が左、音音が右へと同時に飛び散る。
宝杖が空を切ると同時に、高々と上げられた白白の踵が振り下ろされる。悟浄は返す力で素早く宝杖を振り上げ、攻撃を振り払う。
そのまま一回転して右、左。
左右から身体ごと旋回し、挟み撃ちに蹴りかかってきた虹虹と音音を、弾き飛ばした。
娘たち、三方向へと弧を描き、軽やかな脚遣いで地面に着地する。
三人とも宝杖の一撃を喰らったかと見えたが、その実、爪先で辛うじて受け止め、その反動を利用して四方に飛んだだけだった。
「やはり悟浄さん、お強いようですわ」
白白が二人に言う。
「でもお、今のは、わたしたちの攻撃が、十分の一秒くらいずれたからじゃないのん?」
虹虹がしゃがんで言った。
「そう。だから完璧に同時に攻撃したら殺せるんじゃない?」
音音が陰毛を指先で弄びながら言う。
「駄目ですわ」
白白が毅然と言った。「それだとわたくしたちの一人が死ななければなりません。どのみち、拳法のみで悟浄さんに死んでいただくのは些か無理そうでございますわ」
「洞窟の中だったら、まだ勝機はあったのよねん」
虹虹がだるそうに立ち上がる。
「じゃあ本来の姿で戦おうか」
言うや、音音は陰毛を数本、ぶちりと引っこ抜き、口元でぷっと吹いた。指先から黒く細かいものが無数に舞いあがり、たちまち黒い砂嵐のような現象が無限に広がって、三人の姿を覆い隠した。
「おお!」
悟浄が叫ぶ。
数万匹に及ぶかと思われるような、虻、蚋、蠅の大群が現れ、辺りの空間一面に広がり、悟浄へと一斉に襲いかかった。
悟浄は宝杖を振り回し、群がる蟲の大群を追い払おうとするが、あまりにも数が多すぎた。悟浄はたちまち黒い固まりになり、全身に焼けるような激痛が駆け巡った。
「ぬおお! これは溜まらん!」
蟲たちが、その鋭い甲殻の牙で、全身の肌を食い荒らしているのだ。
悟浄は宝杖をかなぐり捨て、印を結び、頬を膨らませる。そして臓腑に火気を満たし、思いの限り、口から吹き出した。
「火焔の術」
悟浄の口から放出される火柱が、瞬く間に蟲たちを焼いてゆく。しかし、その数は減るどころか、十匹が百匹、千匹が万匹と、増えるばかり。悟浄の身体は柘榴のように蟲に噛まれ、あまりの激痛に、気が遠くなる。
ついに悟浄、力尽き、地面に倒れ伏した。
………もはや、これまでか。
薄れゆく意識の中、ふと、けたたましい蟲の羽音の重なり合う音に混じって、ばさり、ばさりと、鳥の羽ばたく音が横切った。
「きゃあっ!」
突如、白白の悲鳴。
薄ら目を開けると、蟲の数が少しばかり、減っている。
「白白がやられたわあん! ああっ!」
続いて虹虹の悲鳴。
「お義母様あああああああ!」
最後に音音が叫ぶと、波が引くような音とともに、蟲の動きがなくなった。
目を開け、辺りを見回す。
数万匹の蟲たちの死骸が、大地を黒く覆っていた。
ふと見ると、悟空の姿。
「兄者」
頭を振りながら、起き上がる。身体中に噛みついている蟲の死骸を払い落とすと、手も脚も、錐で突いたような傷だらけだった。
悟空、ふっとひと吹き、足下の蟲の死骸を掃除すると、草の上に寝転がる。
「もう。悟浄さあ、なんだよそのザマは」
「兄者。ひょっとして、さっきからちらちら飛んでいた鷹は、兄者でしたか」
「当たり前だろ。危なっかしくてみちゃいられないよ。まだまだだね、キミたちは!」
悟浄は蟲に噛まれた青黒い肌を、ぼりぼり掻いた。
「これだけの蟲を、よく一度に殺せましたな」
「バカだなあ。よく考えてみなよ。蟲の大群って言ったって、ほとんどは仲間を操っているだけで、妖怪の本体はそのなかの一匹だけなんだよ。空からボクの火眼で一目瞭然だったさ。後は鷹の姿で一直線に食い摘んで、甘蔗のように噛んで捨ててやったよ」
悟浄は虚ろな眼で、無数に横たわる蟲の死骸を見つめた。
「兄者。申し訳ない。で、八戒は?」
「あいつは捕まっちゃったよ。だいたいさ、無防備だよね。ボクは最初から変わり身を用意して、山の中で昼寝させといたから、警戒されなかったんだ。それで鷹に変化して空から偵察してた。あの小娘たちは見るからに、敵の首領じゃなかったからね」
「すると、あの七精姑たちの上に、まだ妖怪が?」
「いるね。ああやって人家を築いて、わざとらしく人間を誘い込んでいた割には、あの小娘たち、どう見ても人間なんて食ったことなかったし。人を食う妖怪は匂いで解るんだ」
「ふうむ」
悟浄は腕を組んで考えた。「それで、八戒は助けなかったのですか?」
「うん。どうせちょっとやそっとで死ぬような豚じゃないしね」
悟浄はちょっと笑った。先の八戒の台詞に似たようなのがあったが、こちらは些か根拠があるように思えた。
「まあ、首領をおびき出すいい囮さ」
「すると、首領が現れたのですか?」
「現れた現れた。ありゃあまた、ややこしい化け物もあったもんだ」
「ややこしい……とは?」
「なんてゆうの? 変な武器を使うんだよ。こう、白くて、細い、糸みたいな」
「糸ですか?」
「うん。まあいいや。行こうよ。首領も現れたし。小娘は四人に減ったし。……いや、三人かな。まあどっちでもいいや。どうせ雑魚だしさ。お師匠様の場所も見当がついたし。さっさと片付けよう」
悟空は如意棒を担ぎ、歩き出した。
「どちらへ?」
「この先に立派な楼閣があるんだよ。濯垢泉から妖気の流れをたどったところ、どうやらお師匠様はそこへ連れられて行ったらしいや」
「そこがその首領の本拠地で?」
「いや。奴の本拠地はあくまでもこの洞窟だね。あの楼閣は……なんだろうな。誰か他の奴の住処っぽいな」
「他の奴……と?」
悟空は何も答えず、すたすた歩いてゆく。
悟浄はぼろぼろになった手や足を、鋭い爪でがりがり掻きむしりながら、悟空の後に続いて歩き出す。
楼閣の頭が見えて来る頃には、悟浄の肌はすっかり元通りになっていた。
こちらは楼閣の中。
三蔵と八戒、仲良く並び、二本の柱に括りつけられていた。
──けったいな糸切れだぜ。
八戒は身体をもそもそ動かしながら、歯ぎしりした。
風呂の中で小娘のひとりの体内に潜り込み、師匠の居場所を白状させようと思ったが、どこからともなく絡み付いてきた白い糸のようなものに捕らえられ、引きずり出された。結果的に師匠のところに辿り着いたが、身動きできず、成す術を失っている。どうやらこの糸は、法術を封じる威力も持ち合わせているらしい。
──それにしてもこの糸は何だ。
柔らかく収縮性がありながら、思いのほか頑丈で、八戒の怪力でも千切れない。肌触りはねばねばと、まとわりつくようで、気色悪いと言ったらなかった。
これに加えて、癇に障るのが隣の師匠だ。囚われの身に相応しからず、さっきから鼻歌を歌っている。
「なあ、師匠。その歌はいったい何ですかい?」
たまりかねて、話しかける。
「ああ、これかい。いや、暇だから、南無観世音菩薩に音曲をつけて遊んでいたんだよ。なかなかものんだろう」
「なにが『なかなか』なんですかい! そんなことを聞いているんじゃねえですよ。俺たちゃあ捕まってるんですぜ。呑気に鼻歌こましている場合じゃござんせんでしょうよ!」
八戒の怒声に、三蔵は肩をすくめた。
「いいじゃないか。わたしたちは、この国に大乗仏教の教えを導こうという大義の御一行様だよ。こんなところで死ぬわけがないだろう」
八戒は頭を激しく振った。呆れてものも言えない、といった風である。
三蔵は眉をへの字に曲げながら、首を伸ばして八戒に囁く。
「どうせ悟空たちが助けに来るって」
そしてにっこり微笑んだ。
八戒は顎の神経が切れたような顔で、師匠の顔を見た。この余裕はどこから来るのか。この師匠、旅の道中、何度酷い目に合っても、さっぱり懲りていないらしい。この十年、危険な目に遭い過ぎて、神経が麻痺したか。それとも傷ひとつない無垢な心というのも、間違えれば白痴と紙一重ということか。
「まったく。とんだ天然坊主もあったもんだぜ」
「八戒。いま何か言ったかい?」
「いえ。何でもねえです」
「それにしても、さっきから蟲が五月蝿いねえ。せっかくの名曲が台無しだよ」
三蔵は迷惑そうに、視線を宙に泳がせた。少し前から、周囲を蟲が飛んでいる。三匹。小さいのは、蚊だ。それと、斑猫。あと蜂もいる。
「八戒、刺されないように気を付けなよ」
三蔵、八戒の方を見て言う。八戒、恨めしそうに三蔵を見遣り、
「へっ。鼻歌の次は蟲けらの心配でござんすか。結構な肝っ玉ですな」
そう言って、三蔵と八戒、同時に前を向き直り、ぎょっと言葉を詰まらせた。
目の前に、三人の少女が立っていた。
「お、お前ら、いつの間に…ん?」
今の今まで周囲を飛び回っていた蟲がいなくなっている。
「ははあ。今の蟲けらどもがお前らか。俺たちの話を聞いてやがったな」
少女たち、腕を組んで、八戒を睨みつけている。
「ふん。なめられたものね。その、悟空とか言うチビ猿が幾ら強いか知らないけど、あたいたちのお義母様には適わないわよ。ねえお姉様」
言いながら、猫猫が姉の方を向く。
「当たり前よ。それから、この豚さんにも蜻蜻を酷い目に合わせてくれたお返しをたっぷりしてあげなくちゃね。あんたのせいで、蜻蜻はすっかり頭がオカシクなってしまったわ」
蜜蜜が八戒の頬をつねる。
「覚悟するよろし」
明明が言った。
「うるせえ! 黙って聞いてりゃ好き勝手なこと言いやがって! さっさとこの糸をほどきやがれ!」
八戒の大声が宮殿に響き渡る。びりびりと、屋敷が揺れる音がした。
「その糸はわたしにしか解けないのさ」
ふいに、頭上で声がした。「それにしても、本当にうるさい豚だねえ」
その声に、はっと、三人の少女たちが身構える。見ると、いつの間にか、吹き抜けの楼閣の天井近くに女が立っている。立っている、というより、立っている姿勢で何もない空間に浮かんでいた。そしてそのまますう、と下に向かって垂直に移動したかと思うと、床に着地した。その手は、大きな盃を持っている。
「お義母様」
三人が一斉に跪く。女は三人に一瞥も呉れることなく前に歩み出た。
──浮遊の術か?
八戒は訝しげに女を見た。鍍金の冠に錦糸の袍。ここの女帝気取りか。それにしても妖艶なるはその唇。今まで何人の人間を食ってきたのか知らないが、血に染まったような深紅にぬらめいている。
「さあて、邪魔者が現れないうちに、さっさと始めようか」
「はい。お義母様」
三人の娘が同時に頷く。女帝もどきは三人の顔をくるりと見渡すと、猫猫に盃を渡し、
「猫猫、お前がやりなさい」と言った。
「は? あの」
猫猫、訳も解らず盃を受け取り、聞き返す。
「な、何を、でしょうか。お義母様」
女帝が無言のまま、ぎろりと睨み返す。
猫猫、「ひっ」と肩を竦め、反射的に目をつむった。
横から蜜蜜が小突き、「猫猫、取精よ、“取精”」と囁く。
「早くおし!」
女帝が癇癪を起こして叫ぶ。
「はい! えっ。あの……取精って……どうやって……」
猫猫が泣き出さんばかりの顔で聞く。
こつと音がして、女帝が一歩、猫猫に近付いた。怒りをたたえた視線を魔光のごとく浴びせかけながら。
蜜蜜は慌てて、猫猫の耳に口をぴたりと密着させ、早口に何ごとかを囁き出した。「取精」の何たるかを説明しているのだろう。
これまでは山を越える人間を捕えて、ただ義母に引き渡すだけで良かった。あとは義母がその肉を喰らうのみ。しかし今回は三蔵法師である。不老不死を授かるというその「元精」に、女帝は目の色を変えている。
「八戒、八戒さあ」
三蔵の声に、八戒は振り向いた。そこには、凶禍の真っただ中に身を置きながら、その何をも杞憂していない無垢なひとつの顔があった。
八戒は首を鳴らしながら、「なんですかい。師匠殿」と聞く。
「この方たちは、わたしに何をしようって言うのかな?」
八戒、首をたっぷり一回転する間を置いて
「だから取精(クゥ・ツィン)てさっきから言ってるじゃねえですか。一世一代の危機なんですぜ。あんたの神聖が汚されようとしているんですぜ。解ってるんですかい」
と投げやりに答える。三蔵、眉に小さな皺を寄せ、首を数尺傾けた。
「八戒、それは駄目だよ。わたしはまだ西域へと向かう道中だ。お経はまだ持ってないよ。それ、説明してやらないと。何か勘違いしているね、この方たちは」
「はあ? なぁにぃを、言ってやがるんでございますかい?」
「だから、取経(クゥ・ツィン)だろ。今なら悟空に頼んだ方が早いんじゃないか」
八戒、今度はほとんど泣き出さんばかりの顔になる。師匠が「取精」と同音語の「取経」と勘違いしていることに初めて気付いたのだ。童貞であるのは無論、生まれて一度も精を漏らしたことも、頭を過ったこともない三蔵にとって、この取り違えは無理もないとも思えるが。
「それにしても関心だねえ。魔物だと思っていたら、仏門の徒だったとはね」
「師匠。頼んます。もう、しゃべらねえでくだせえ」
「何を泣いているんだい、八戒?」
「うるさいねえ!」
女帝が二人の会話を遮った。そして少女たちをぎろりと睨む。
立ちすくむ猫猫の背中を、蜜蜜がぽんと叩いて促した。
猫猫、震えながら、三蔵へと近付いてゆく。命令は絶対である。
三蔵、空っぽの瞳で怯える猫猫を見つめ、ふっと、やわらかに微笑んだ。八戒は放心した様に頭をだらんと項垂れている。
猫猫、三蔵の前に跪き、暫く迷っていたが、背後の絶対者の視線をちりちりと感じ、ひと思いに三蔵の法衣の裾をまくった。
「あっ」と三蔵が叫ぶ。
猫猫の目前に、えも言われぬ光景が広がった。
横から覗き込んだ蜜蜜と明明も、言葉を失い、ただその光景に心を奪われた。
八戒も、ゆっくり三蔵の下半身へと視線を移す。それまでの虚ろな表情が、かっと何か確かなものへと変化した。
猫猫、蜜蜜、明明、八戒。四人の顔が、白く色を失ってゆく。まるで三蔵の局部が、まばゆいばかりの輝きを放っているかのように。
「こ、こ、これは……」
猫猫が唇をわなわなと震わせる。
「う、うそ、信じられない」
蜜蜜が微かに頬を上気させ、口を両手で覆う。
「なにこれあるか?」
明明の細い瞳が玉のように開かれる。
八戒は、まるで廃人のように口を大きく開けたまま、気絶していた。
猫猫は床が揺れるほど全身をがたがたと震わせ、義母の方を振り向いた。
「お……お……お義母様……本当に……わたしが……これを……」
「早くするんだよ! これ以上遅らせてご覧。お前はもう私の義娘じゃないからね。お前を生かしておく理は何もなくなるんだよ!」
「はいっ!」
猫猫は目を固く閉じ、口を開け、闇雲に三蔵の下半身に顔を埋めた。
三蔵の女のような黄色い悲鳴が上がる。
きょとんと行為を見つめる明明。その腕にしがみつく蜜蜜。
女帝はふふふと不気味に笑いながら、唇をより一層赤々と光らせた。
暫しの間、宮殿には静寂をくすぐるような、単調な粘着音のみが流れ続けた。
誰も言葉を発する者はいなかった。
悟空と悟浄が楼閣に突入したとき、宮殿内を異様な空気が支配していた。
すべてが張りつめたような静けさに、一筋の湿った唇音のみが、果てしなくこだましている。さらに耳を澄ますと、微かな息づかいのようなものも聞こえる。悟空と悟浄は顔を見合わせ、そっと、中心の広間に足を踏み入れた。
「兄者。あれは?」
「ええっと」
三人の精姑の背中が見える。中央の少女の頭が小刻みに動いている。その向こうに、三蔵の上半身。目を固く結んで、苦悶の表情を表している。向かって右に八戒。こちらはどうも寝ているのか、ぴくりとも動かない。手前に立ち塞がっているのは、あれがかの首領だろうか。
「ええい、もういいわ!」
首領と思しき大女が叫んだ。と同時に、真ん中の蟲娘が弾き飛ぶように、首領の方へと引き寄せられた。三蔵の法衣がぱらりと戻り、露になっていた局部を覆う。悟空と悟浄にその中身は見えなかった。
「お義母様! 申し訳ございません!」
「この役立たず! ふざけるんじゃないよ。お前を助けてやった恩を忘れたのかい!」
首領は猫猫の胸ぐらを掴んで威嚇する。そして「まあいいわ」と呟くと
「邪魔者が来たようだから、奴らを倒したら、許してやろうじゃないか」
と言って、悟空たちの目の前まで、義娘を放り投げた。
悟空と悟浄、歩み寄り、投げ出された猫猫の頭越し、首領を見つめる。
「気付かれていたか」
「当然だよね。妖怪なんだから」
猫猫は立ち上がると、両手を八相に構えた。もう闘うしかない。
悟空、耳から如意棒を取り出し、手ごろな大きさに変化させる。
悟浄は後ろに下がり、ただ見守った。
猫猫、「はあっ」と叫んで、飛びかかる。
悟空、如意棒ひと振り。
目に止まらぬ動作で、猫猫の頭をかち割る。そしてどさりと床に落ち、そのままぴくりとも動かなくなった。
一瞬の出来事だった。
後ろで見ていた蜜蜜、あまりの早さに呆気にとられ、すぐに表情を取り戻し、怒りに震えながら
「よくも! 猫猫を!」
と叫んで、弾かれたように悟空に襲いかかった。
悟空、表情ひとつ変えることなく、如意棒を突き出す。
如意棒は鬼神のような正確さで、蜜蜜の腹に当たり、そのままぐんと伸びて、楼閣の天井まで高々と運び上げた。
如意棒は天井を突き抜け、その先は蒼天を仰ぎ、蜜蜜は串刺しに、ずるずると、如意棒の柄を伝って下へと降りてきた。
既に事切れている。
猫猫と蜜蜜、瞬きをする暇もなく死に至り、その間、悟空は一歩も動いていなかった。
「相変わらずお強い。……が」
悟浄は複雑な顔で、脳漿をほとばしらせ床に打ち伏せる猫猫と、如意棒を突き通した腹を軸に、天井から垂れ下がる蜜蜜を眺めた。
何も殺さなくても良かったのではなかろうか。そんな気がしてならない。悟空の妖怪や猛獣と見るとその妖邪の程度に関わらず容赦なく殺す、その性分はお師匠様も頭を抱える所だった。
女首領は、予想していたかのように、二人を見つめている。その横で明明は、あっけにとられて立ちすくんでいた。
「明明。次はお前だよ」
女首領が言う。
「え。わたしあるか?」
「お前以外に誰がいるんだい」
「明明、ダメね。わたし、姉さんたちより弱いね。倒せるわけないね。お義母様が行くよろし」
しゃっ、と音がして、明明の身体に白い糸が巻き付いた。どうやら白い糸は、女首領のへその当たりから出ているようだ。
「つべこべ言わずに行くんだよ!」
女首領は糸を振り回して、明明を悟空たちの前に放り投げた。悟空、如意棒の先にからみついていた蜜蜜をふり払い、如意棒を構えなおす。それを悟浄が制して、
「兄者。ここは私が」と前に出た。
明明、宙をくるりと一回転。悟浄の前に着地すると、軽やかな足取りで、ふわりと回し蹴りを放った。「おっ」と悟浄が避ける。緩やかなようでいて、それなりに切れのある蹴りだった。
「本当は戦いたくないあるよ。でも仕方ないあるね」
言いながら、またふわりと飛び上がる。まるで鞠のように、地面に足が着いたかと思うと、次の攻撃へと転ずる。悟浄は避けるのが精一杯かと思えるほどに、せわしなく動いていた。
「悟浄。なにやってんだよ。やっぱりボクが片付けようか?」
背後で悟空がじれったそうに言う。
「いや、結構。兄者は見てて下され」
言うや、悟浄は宝杖を投げ捨て、同じように飛び上がった。
いきなり敵が目の高さに浮かび上がり、明明が驚く。
その虚を突き、悟浄の右手が明明の喉に喰い込んだ。
すかさず左手を交差させ、明明の左腕を捕まえる。
一瞬の動きだった。
二人が着地する頃には、悟浄は明明の喉笛を捕えたまま、背後で羽交い締めにする格好になっていた。
「さあ」
悟浄が叫ぶ。
「お師匠様を返して貰おう。この蟲娘と引き替えだ」
女首領はひとこと「ふん」と呟くと、
「殺したきゃあ殺せばいいさ」と笑った。
「こいつはお前の娘ではないのか?」
「ふん」とまた呟く。
「娘と言っても養子だよ。なに、捕って喰おうと思ったら、五月蝿く泣き叫んでね、命乞いするものだから、生かして利用してやっていただけさ。でももういいのさ。三蔵さえ手に入ればこちらのものさね。いちいち臭い人間捕えて喰う必要もなくなるわ」
言い終わるが早いか、首領の直衣の両側が破れ、八本の長く節のある脚が飛び出した。続いて尻の辺りが破け、大きな丸い腹が顔を出す。瞬く間に、女首領は顔のみ残して、大きな女郎蜘蛛へと変化した。
「蜘蛛の化け物だったという訳か」
悟浄が呟く。突然、後頭部をぽかりと殴られた。悟空が猿顔を真っ赤に腫らして怒っている。
「悟浄、バカかい、キミは! 妖怪に人質が効くわけないじゃんか!」
「あ、兄者。申し訳ない。それは一応、解っていたのですが」
悟浄の気持ちは、無益な殺生を避けたいというだけだった。
「解っていたじゃないよ! どいてどいて!」
悟空、前に出ると、如意棒を構え、蜘蛛妖怪の前に立ちはだかった。
蜘蛛妖怪、へそから凄まじい勢いで、大量の糸を吐き出す。
悟空、如意棒の収縮を利用して、それを次々と薙ぎ払い、次第に間合いをつめてゆく。怪力の八戒さえ破ることができなかった蜘蛛の糸も、悟空の如意棒には通じない。
「ふん。やるじゃないか。やっぱり単なるチビ猿じゃないようだね」
蜘蛛妖怪の糸の放出が止まった。
悟空、「とどめだ!」と叫び、突進する。蜘蛛妖怪の不適な笑いは消えることがない。
突如、蜘蛛妖怪の身体が一瞬発光したかと思うと、へそから、これまでとは違う、金色の糸が放出された。
突き出された如意棒がきんと言う金属音とともに、はねかえる。
金色の糸は眩い光を発しながら悟空を覆い、巨大な半球となって悟空を中に閉じ込めた。
辺りが光に包まれ、眼が眩む。目を瞑っても、光はその隙間から刺し込んでくる。また光は熱を持ち、全身に食い込むような熱さを齎した。
「うわああああああ! なんだよこれ!」
悟空が叫ぶ。何も見えない。聞こえない。圧力さえ感じる激しい光に押しつぶされ、熱さで全身が黒焦げになりそうになる。
端で見ていた悟浄もその眩しさと熱さに溜まらなくなり、宝杖を拾うと、一目散にその場を立ち去り、宮殿から逃げ出した。
悟空、最後の力を振り絞って、土竜に変化すると、そのまま床を突き破って地中に潜り込み、退散した。
悟浄、命からがら楼閣を飛び出し、近くに流れる小川を見つけ、中に飛び込んだ。水怪である悟浄にとって、灼熱地獄ほど苦しいものはない。
小川を出て、暫く歩くと、地面がもこっと盛り上がり、悟空が姿を現した。全体が少々黒ずんでいるのは、土に汚れたせいか、焦げているのか。
二人、地面に腰掛け、思案に暮れる。
「やっぱりとんでもない妖怪だったね。なんだよ、あれ。ただの頑丈な糸だけかと思ったら、金色に輝く灼熱の糸ときやがった」
「早くお師匠様を助けに行かないと、食われてしまいますぞ」
「まあ、あとちょっとは大丈夫だよ。あの女々しいお師匠様から精なんてこぼれ出るわきゃないや」
「蜘蛛妖怪がしびれを切らして、取精を諦め、お師匠様を喰らうまでの勝負というわけですか」
「まあ……そういうことになるかな」
「して、兄者。何か妙策は見つかりましたか」
「ダメだよ。ボクの力じゃあの糸は破れないや。……あれ」
ふと見ると、とぼとぼと、明明が歩いてくるのが見える。明明は二人の姿を見つけると、悟浄の隣に腰掛けた。
頭の上に、蜻蛉が一匹、飛び回っている。
「これ、蜻蜻姉さんね」
明明は頭上の蜻蛉を指差した。「姉さんたち、みんな死んじゃったね。残ったのはわたしと、この蜻蜻姉さんだけある。蜻蜻姉さんが一番幸せだったかもね。あの豚のお陰で頭がオカシクなっちゃったけど、もとの蜻蛉の姿でなんとかこれからも生きて行けるあるよ」
そう言うと、明明は蜻蛉を指の上に乗せ、前へと指し出した。指から離れた蜻蛉は、森の中へと飛んでゆき、見えなくなった。
「わたしはもうすぐお義母様に殺されるあるね」
明明は顔を伏せる。
「そもそもさあ、キミたちはどうしてあんな蜘蛛の化け物なんかの養子になったりしたんだよ」
悟空が頭ごなしに問う。
「なりたくてなったんじゃないあるよ」
明明は語り出す。「わたしたちはもともと妖精だったあるね。それも新精。妖精になりたてってやつね」
「妖精になる前は何だったんだよ」
「だから普通の蟲ね。あんた、何にも知らないあるね」
「兄者。妖精と言うのは本来、樹木や山河、獣や蟲が天地の精気を吸い、齢を長らくするうちに、知と心気を授かり、変化の術を得、稀になるものです」
悟浄が口を挟んで説明する。
「そうね。あんた、やっぱり頭いいね。蜜蜜姉さんが『あの髭は侮れない』って言ってたよ」
明明が言う。悟空は面白くなさそうに、爪楊枝くらいの大きさに縮めた如意棒で、耳をほじくり出した。
「それで、わたしたちは妖精に成り立ての蟲の精だったあるね。蜜蜜は蜜蜂。猫猫は斑猫。虹虹は虻。白白は蚋。蜻蜻は蜻蛉。音音は蠅。わたしは蚊だったね。まだ何も知らなくて、毎日が楽しかったある。でもそんな日々は長くは続かなかったね。この盤糸嶺は、あの蜘蛛妖怪の縄張りだったあるよ。わたしたちはすぐ捕まって、あわや食われそうになったね。そこを何とか命乞いして、条件付きで助けてもらったある」
「条件?」
「そう。蜘蛛妖怪は言ったね。自分の養女になって、食料の人間を捕まえる手伝いしろって」
「ふん。蟲のいい話だ」
悟空は如意棒の先にこびりついた大きな耳糞を吹きながら、興味なさそうに呟く。
「でもわたしたち、ただ人間捕まえて、義母さんの所に持って行くだけだったあるね。人間の肉だって今まで一口も食べさせてもらったことないあるよ。あんた、人間ってそんな美味しいものあるか?」
明明が悟浄の髑髏の首輪を見やって聞く。悟浄は困ったように髭の中に人さし指を突っ込んで、顎を掻きむしった。
「うむ。難しい質問だが。あれは心の魔性の度合いにもよるかな。出家の身となった今では、不味いと言う他ない」
正確に答えたつもりだが、誤魔化しも少し混ざっていた。
「ふうん。……とにかくお義母様には不満はあったよ。でもお義母様はその能力で、わたしたちを妖精から妖怪へと昇格させてくれたね。妖精も人間に化けられるけど、長く人型を保てない。妖怪になれば、人間の姿でずっといられる。神通力も強まって、寿命はしめて数百年、晴れて妖仙の仲間入りできたというわけね。でも、今にしてみたら、何が良くて、何が悪かったのか。さっぱり解らないあるよ。ひょっとしたら普通に蟲けらのまま、何も考えずに短い生涯を終えてた方が、よかったのかもね」
明明は後頭部で両手を組み、草むらに転がった。大分陽が落ちて、空が西から焼け始めている。
「できたら、今度生まれ変わる時は、人間に生まれてみたいあるよ」
明明はしみじみそう言った。
「ふむ」
悟浄は何とも言えない顔で、聞いている。
「まあいいや。キミたちの身の上話はよく解ったよ。次はあの蜘蛛妖怪の攻略法を教えてくれよ」
悟空が口を挟む。それが一番肝心な問題なのだ。
「ないね。お義母様の金色の糸は鋼や鉄よりも、ずっと固いね。地の果てまで探しても、あれより固い材質は見つからないね。下手な金属なら触っただけで解けちゃうよ」
そこで悟空、ぽんと膝を打つ。
「待てよ。それなら」
「何か良い考えが浮かびましたか」
「ああ。要するに、この世にはないってことだろ。じゃ答えは簡単だ」
悟空、立ち上がる。「こんな時は、あのじじいが一番手っ取り早いや」
「あのじじい?」
「悟浄、ボクちょっとひとっぱしり、でかけて来るよ」
言うや悟空、口笛吹いて、現れた金斗雲に飛び乗り、天高く舞い上がると、あっという間に点になって消えていった。
「なるほど。この世ならずば、あちらへ、か」
「あん? どこへ行ったあるか?」
「天上界だろう」
悟浄は独り言のように呟いた。
こちらは蜘蛛妖怪。元の人型に戻って、楼閣の中を歩き回っていた。
「師父、出番だよ! どこにいるんだい!」
叫びながら、せわしなく当たりを見回す。そのうち、長い廊下の左右に立ち並ぶ扉の一つがゆっくり開いて、中から弓のように腰の曲がった老人が姿を現した。
「そこにいたのかい。さあ、一緒に来ておくれ」
「なんじゃい。気持ち良く眠っておったのに。いきなり人の家に押し掛けて来て、ちっとは扱いを考えんかい」
老人はよたよたと歩きながら、蜘蛛妖怪の元に近付いて来た。
「あんたの法力が必要なんだよ。あの猿猴が戻ってくる前に、急いで取精を終わらるんだ。百眼魔道士と恐れられたあんたの実力、見せてもらおうじゃないか」
「よさんかい。儂は坊主が大嫌いなんじゃよ。知っとるじゃろう。近寄るのも虫酸が走るというのに、取精じゃと?」
「つべこべ言うんじゃないよ! いつも人間の肉を分けてやっている恩を忘れたのかい。いつまでも師匠面してるんじゃないよ。たかが数百年長く生きているだけのことじゃないか」
蜘蛛妖怪は老人の襟首をひっ掴むと、そのまま引きずるように歩き出した。
悟空は四方を森のような雲に囲まれた、宮殿までやって来ていた。ここが天上界でも名高い、兜率天宮。かの天界三太清のひとり、太上老君の住居である。
「じじい、いるか!」
悟空は大きな扉をばんばん叩いた。扉が開き、童が顔を出す。悟空の顔を見ると、無愛想に口元を歪め、すぐ踵を返し歩き出した。その無駄を省いた仕草は、悟空に対して「またお前か」と言っているようだった。悟空は帰る時こいつの頭を二三発殴ってやろうと思いながら、後に続く。
老君とは、かつて悟空がこの兜率宮に忍び込み、老君が八卦炉で丹念に練り上げた不老長寿の仙丹をしこたま盗み食いした時からの腐れ縁である。その後、悟空は老君自らの手で捕らえられ、兜率宮に連れ戻され、逆に八卦炉で七千七百四十九日に渡って燃やされ、煙で燻される仕置きを受けた。天界で好き放題に大暴れを繰り広げた悟空にとって、それは初めての敗北だった。
それ以来、悟空はこの老人に少なからず一目置いている。また自分の悪事を棚に上げ、あの時に酷い仕打ちを受けた埋め合わせとばかりに、事態に窮する毎に、こうして相談を持ちかけに来るのだった。
客間に通され、暫し待つと、老君が姿を現した。皺だらけにして妙に艶のある顔の下半分から、輝くような白い髭がまっすぐ逆三角に下りている。その髭の隙間から、嗄れた力強い声が響きだした。
「これ悟空。なんでまたお前がここにおる? お前は三蔵殿をお守りしていなければならぬ身。滅多なことで師匠の元を離れるでないぞ」
「だからその滅多なことがまた起こったんだよ。助けてよ。ボクの力じゃもうどうしようもないや」
「いったい、何があったというのだ?」
「うん。盤糸嶺って言う山を通ったんだ。お師匠様が腹が減ったってうるさいもんだから、人家を見つけてお斎を貰おうと訪ねたところ、そこが七精姑という妖魔たちの住処だった。お師匠様がまず捕らえられ、それを助け出そうとした八戒が次につかまった。ボクや悟浄が七精姑と闘っているうちに、お師匠様は敵の首領の蜘蛛妖怪のもとに連れ去られた。ボクは七精姑をかたっぱしから殺して、ついに蜘蛛妖怪と対決したんだけど、この蜘蛛妖怪の奴、へそから金色に輝く糸をひねりだして、ボクはその中に絡み捕られた。その金色の糸ってのが、ボクの如意棒でもぶち破れないほど固くて、目を開けていられないくらい眩しくて、あんたの八卦炉でも焼けなかったボクの身体が黒焦げになるくらい熱いときてる。たまらずボクは土竜に化けて逃げ出した。七精姑のひとり、明明てのに聞いたところ、あの金糸よりも固い材質は現世にはないんだってさ。だからひとつ、天界一の物持ちなあんたの力を借りようと思って、やってきたと、とこういうわけなんだよ。なあ、あんたならあの金色の糸よりも固くて、その熱にも溶けない道具のひとつやふたつ、持ってるだろう」
「ふむ。それは厄介であるな。さすがにそれほどのものを破る材質となると、この私もあまり心当たりがない。私が昆吾山の鋼を打って鍛えた自慢の金剛琢も、せいぜいお前の石頭に瘤をこさえた程度であるしな」
老君の台詞に悟空、不機嫌そうに猿顔を歪ませる。金剛琢というのは、昔、老君が悟空を捕えた時に使用した武器だった。
「なんだい。それじゃあどうしたらいいんだよ。せっかくのお師匠様の旅も、ここで終焉を向かえるってのかい。それはないよね。呑気に髭をさすってないで、なんとか良い方法を考えてよ」
「焦るでない。策に窮すれば即ち通ず。まず、あるがままを受け入れよ。そして心を空にして、一瞬に万霊を傾けるがよい。必ず答えは見つかるであろう。これが『無為にして成さざる無し』の処方というものだよ」
「あんたはいつもそうだ。何にもしなけりゃあ、どうにもなりゃしないや。さあ、いい加減に奥の手をだしたらどうだい」
「ふむ。相変わらずであるなお前は。しかしまあ、三蔵殿の一大事とあっては捨ておけぬのは確かである。ちょうど如来様がお見えになっていたところだ。相談してみるがよい」
老君、音もなく踵を返すと、歩き出した。
「げえっ! お釈迦様が来てるのか!」
悟空は蒼白になった。悟空にとって、釈迦はこの宇宙で最も苦手とする人物である。
何より釈迦は、悟空に五百余年の苦行を与えた張本人なのだ。老君も、天界で暴れる悟空を捕えた経歴を持つが、太君の場合、まだ物腰が柔らかで接しやすい面がある。釈迦はその性格からして、三蔵法師を数倍する陰険さと辛辣さを合わせ持っていると、悟空は思っていた。
老君の後に続いて歩いてゆくと、渺々とした大広間に辿り着いた。その中央に、大きな蓮の葉に腰掛けて、釈迦の巨体がゆるりと金杯を傾けている。辺りには瑞気たちこめ、仙花の香りただよい、その身からは後光が燦爛と輝いていた。
悟空の姿を見るや、その堂々とした体躯を屈めて、顔を覗きこむ。
「悟空じゃないかい。またお得意の他力本願かえ」
釈迦の大顔面に見据えられ、悟空は縮こまるように床に平伏した。
「お久しぶりでございます。お釈迦様。い、いええ、他力本願なんてとんでもないです。ただちょっとボクの力じゃどうにもならない事態に出くわしまして、それで、天上界に解決方法を求めにまいった次第で」
「困った事態とな。……あまり老君の手を煩わせるでないぞ」
釈迦は老君の方をちらっと見て言った。釈迦は天上界で太上老君より位が上だが、かつて老君の元で教えを学んだことがあり、思想の上では老君を師と仰いでいる面があった。
「いいえいいえ、今回ばかりはじじい……いや、老君の手に余るようで、仕方なく諦めて、昔何かとご迷惑をかけたお詫びに、肩のひとつも揉んでさしあげてから帰ろうと思ったところ、お釈迦様がおいでになっていると聞きまして、ここはひとつ、ご助力を賜れればと、こういうわけで」
悟空はへつらいの笑みを浮かべたまま顔を上げ、これまでの経緯を説明した。釈迦は細い目を微動だに悟空から動かさず、聞いている。
「ふむふむ。なるほど。地の果てまでその名を轟かす斉天大聖・孫悟空殿が持て余すような妖怪がまだおるのだな」
そう言うと、釈迦はにやにやと笑いながら、掌を悟空の目の前にかざして見せた。その中指にぼうっと、「斉天大聖到此一游」の文字が浮かび上がり、根元からは微かに小便の匂いが立ちこめる。
悟空、ぐっと声を詰まらせ、真っ赤な顔で下を向き、小さな身体を小刻みに震わせた。釈迦が笑いを堪えながら続ける。
「冗談だ。悟空よ、その蜘蛛妖怪のことはわたしもよく知っておる。あの金色の糸がお前の如意棒でも破れないのは道理なのだよ。あの蜘蛛妖怪の旧知の仲間に百眼魔道士という法力高い妖仙がおってな。近頃はもうろくしてこの数百年というもの目立った悪さはしておらぬが、かつてはお前のように天界にさえ楯突いた魔人であった。その魔道士が大昔、紫雲山で毘藍菩薩の金の針を盗んだことがある。その金の針は、かの昴日星官が太陽の目の中で練り上げた、そら剛強無比な針だったのだ。恐らくその金糸は、その針を百眼魔道士が法力を用いて蜘蛛妖怪の体内に施した結果であろう」
「なんだい。じゃ結局、あの糸じたいが地上のものじゃなかったのか。どおりで熱くて固いわけだ。で、お釈迦様、どうすればいいんです?」
「どうするもこうするも、自分で考えよ。先にも言うたように、他力本願はそちらの旅の本意ではない。まあ、こうしてここでお前と再会した縁もあるしな。ここからとっくり、見守っていてあげようぞ」
言うや釈迦、両手を広げ彩光を放つと、照らされた床が蓮池に変化する。そのきらびやかな水面に、下界の光景が映し出された。
「お見事」
老君が髭をさすりながら蓮池を覗きこむ。
「お、お釈迦様。ボクには無理ですよ。いじわるしないで、助けてくださいよ。このままだとお師匠様が」
「悟空、見よ」
蓮池に、楼閣の模様が映しだされた。
縛られ意識を失っている八戒に、怯える三蔵。その前に立ち塞がる蜘蛛妖怪。その隣に、醜悪な老人がひとり。
「こいつは?」
「百眼魔道士だ」
醜老人、歩くのも億劫に思えるほどゆったりとした動きで三蔵に近づくや、目の前三寸のところで立ち止まり、じっと三蔵を見据える。ふいに、全身がぐにゃりと伸びあがったかと思うと、黒く細長い節のある巨大な環節生物に変化した。
悟空が頭を掻きむしる。
「まいったな。蜘蛛女の次は、巨大な蜈蚣(むかで)の化け物かい」
巨大蜈蚣は楼閣の空間をひとうねりすると、波動を繰り返しつつ、三蔵の陰部に突入していった。そしてそのまま幾重にも連なる輪と化し、三蔵の股間から巨大なねじり男根のごとく、突き立ち、凄まじい勢いで回転しはじめた。
三蔵が女のような悲鳴をあげる。
老君、目を皺が伸びきるほど大きくかき開き、その怪異な光景を見つめる。一方の釈迦は、見るに絶えないといった様子で、視線を宙に泳がせた。
「これ悟空。何をしておる。三蔵、空前の危機じゃ。早よ、行け」
悟空、顔を真っ赤に腫らし、恨めしそうに釈迦をひとにらみ、がっと叫んで、金斗雲に飛び乗り、下界へと舞い降りて行った。
悟空、途上で悟浄をさらうように金斗雲に乗せると、大樹枝木々なぎ倒し、百眼魔道士の楼閣へと文字どおり一直線、壁を突き破って中へ突入した。中では事態変わらず、巨大なねじり男根もどきが、三蔵の股間を軸に、凄まじい勢いで回転している。
蜘蛛妖怪、振り向いて、悟空を見遣る。
「おのれ! 舞い戻って来たかい、チビ猿が!」
悟空、金斗雲から降りることなく、如意棒を振り回しながら楼閣の中を飛び回り、あちらの壁、こちらの柱、手当たり次第に体当たり、ぶち壊す。瞬く間に、楼閣は穴だらけになり、瓦礫となって崩れ伏した。蜘蛛妖怪の攻撃を交わしやすいように、まず空間を広げたのである。
蜘蛛妖怪、三蔵の股間にまとわりつく百眼魔道士に向かって叫ぶ。
「師父! まごまごしてるからあんたの家がなくなっちまったよ! さあ、急ぐんだ。三蔵の元精をしぼり出すんだよ!」
蜘蛛妖怪の叱咤を受け、蜈蚣の回転が一際早まった。そして長い胴体が小刻みに震え出したかと思うと、その先から、ついに白い粘着液がほとばしり出た。
蜘蛛妖怪の目が輝く。そして素早く盃を放り投げ、白濁液を受け止めた。
「でかした!」
糸で盃を引き寄せる。巨大蜈蚣は節々に通っていた張りが抜けたように、床に倒れると、そのまま縮んで、元の老人の姿に戻った。床に寝そべったまま、ぜいぜい息をつき、喘いでいる。
「もう腰が立たんぞ。まったく、人使いの荒い妖怪じゃお前は。この歳になってこんな激しい動きをさせられるとは思わなかったわい」
「後でお礼はたっぷりさせてもらうよ。三蔵の元精が手に入ったらこっちのもんさね」
蜘蛛妖怪、盃を両手に抱くと、顔をつけて白濁液を一気に啜りあげた。
悟空と悟浄、金斗雲で宙を旋回しながらそれを眺める。
「兄者。どうする。お師匠様の元精が摂取されてしまいましたぞ」
「大丈夫だ。悟浄、今のうちお師匠様を」
「承知した」
悟空、素早く金斗雲を三蔵のところへ移動させると、如意棒で糸を引きちぎる。
悟浄、素早く三蔵を肩に担ぐと、いちもくさんに走り出し、森の中へと消えて行った。
「ぐっ」
蜘蛛妖怪の手から、盃が落ちる。その顔は、青い炎のようにゆらゆらと、怒りに震えていた。そして床に倒れ喘いでいる百眼魔道士を睨み付け、吐き捨てるように叫んだ
「師父、この私をたばかったね!」
「違う。もう限界だったんじゃ。坊主なんぞに触れるのも虫酸が走るこの儂に、あんな無茶なことをさせおって」
「これはなんだい!?」
空になった盃を指して聞く。
「儂の痰じゃ。喘ぎ喘ぎ、この老体に鞭打って動いていたんじゃ。悪く思うな。お前が勝手に勘違いしたんじゃ」
天を引き裂くような叫び声とともに、蜘蛛妖怪、盃を床に叩きつけ打粉々にうち砕いた。そしてその怨嗟の矛先は、悟空に向けられる。
蜘蛛妖怪、全身が脈打つように蠢動すると、衣服が破れ、先ほどよりもふた周りほども巨大な蜘蛛に変化した。下半身が小刻みに震えながら、黄金に発光する。
「出たな。さあどうする」
悟空は身構えた。
蜘蛛妖怪、上空の悟空に狙いを定め、金色の糸を勢いよく放出させた。それを悟空がひらりと交わすと、間髪を入れずに次の金糸がくり出される。またたくまに金色の糸が、夜の闇に裂け目を入れるように、幾重にも直立した。しかし、閃光のような悟空の動きを捉えることはできない。
「早さではボクの方が一枚上手だ。しかし逃げ回ってるだけじゃ蜘蛛妖怪を倒すことはできないや。なんとか方法を考えないと」
一瞬、このまま逃げようかとも思ったが、よく考えたら、八戒がまだ蜘蛛妖怪のすぐ側で縛られ気絶したままなのだ。
「がぁあああああああ!!!!!! 殺す! 絶対に殺すよ!!!」
すばしっこく攻撃をかわす悟空に、蜘蛛妖怪が叫んだ。
ひときわ蜘蛛妖怪の下半身が眩しく発光したかと思うと、これまでとは比べものにならないほど大量の金糸が、広がり出でた。それはまるで金色の城壁が生えてきたかと思うほどの巨大さで、悟空の前に立ち塞がる。
「やばいぞ」
悟空、金斗雲を旋回させ、逆方向へと逃げる。振り向くと、巨大な金色の蜘蛛の巣が、夜の空を覆うように広がってゆくのが見えた。ちょうど、西の夜空に向かって、巨大な金の扇が開いてゆく感じである。
金糸は尚も、物凄い勢いで拡張している。とにかく眩しく、熱かった。上を見ると、既に空一面を金色の光が覆っている。前を見ると、前方の視界も、だんだんと上から金色に覆われてゆくようだった。
「あの野郎、盤糸嶺ごと金色の蜘蛛の巣で覆うつもりかい!」
悟空は焦った。しかし金斗雲が金糸の妖光を受けて、速度が弱まってきていた。悟空自身も、またあの劫火のような灼熱の光に、焼けるような熱さを味わっていた。下を見ると、盤糸嶺の森が熱を受けて、燃えている。
「ちくしょう。もうダメだ」
悟空、金斗雲とともに、落下する。そのまま地面に叩きつけられ、既に焼け野原になっている山の上を転がった。力は抜け、筋肉は痺れ、気力は吸い取られたようになり、抜け殻となって炎上する森の間に横たわる。
この分じゃ、蜘蛛妖怪の近くにいた八戒は既に黒焦げの焼豚になっているだろう。お師匠様と悟浄はうまく逃げられただろうか。
悟空は目をつぶり、ぼんやりと薄れゆく意識の中で、ふと思った。
お釈迦様はまだあの蓮池からこちらを見物しているのだろうか。いや、きっとそうだろう。天界でも暇を持て余し、たまに蓮池に地獄で苦しむ亡者どもを映し出しては、のんびり奈落観賞などと決め込む悪趣味なお方だと、以前弼馬温で働いていた時、部下の噂話に聞いたことがある。今頃はこの地上に出来た地獄絵図に固唾をのんで、出来の悪い弟子の末路は如何にとばかりに、助け綱の一筋もたらしてくれることなく、ただ眺めて楽しんでいるんじゃなかろうか。
悟空、考えれば考えるほど腹が立ってきて、最後の力をふり絞り、立ち上がった。このまま死ぬのは、どうしても口惜しい。かと言って、周囲は炎の森、金の空。この光彩陸離の火炎地獄からの脱出方法などある訳がない。
いっそこのまま、五行山に閉じ込められていた時のように、思考を停止してただの石になってしまおうかと思いはじめたその時だった。
ふと、さぁっと音がしだし、何やら冷たいものが頭の上を降り注いだ。
ん?
気が遠くなるほど熱がこもっていた全身が、すーっと冷えてゆく。
顔を上げると、顔面にぱらぱらと無数の雫が降り注いだ。
雨か?
そう思う間に、たちまち辺りは豪雨と化した。いや、豪雨というのも生ぬるい、この勢いはほとんど滝だった。
上を見ると、空を一面に染めていた金色が、みるみる薄らいでゆく。同時に、雨を浴びる悟空の身体は、それまでの衰弱が嘘のように、力をみなぎらせてゆくのだった。
あっと言う間に周囲の炎も治まった。
雨は一刻ほど降り続き、いきなり止んだ。
口笛を吹くと、精気を取り戻した金斗雲が、飛んでくる。
「いったい、どうしたって言うんだ」
金斗雲に乗り、楼閣のあった場所に飛んでゆくと、微かな金光を放ちながら、瓦礫の上をよろよろと這いずりる蜘蛛妖怪の姿が見えた。
悟空、地に降り立ち、蜘蛛妖怪の前に立ち塞がる。蜘蛛妖怪、悟空を恨めしそうに見遣ると、絞り出すような声で口を開いた。
「こ、殺すよ……ぜったい、に……ころ…す………よ……」
言いながら、悟空に近付いてくる。悟空、ひとこと「ふん」と呟くと、如意棒を振りかざし、片手で打ちおろした。
蜘蛛妖怪は、青緑色の汁を飛び散らせ、ぺしゃんこに潰れて死んだ。
再び金噸雲に飛び乗り、悟浄がお師匠様をかかえて逃げた方向へと飛んでゆく。途中、蜘蛛妖怪にこき使われ、腰が立たなくなった百眼魔道士を、あの七精姑のひとり、明明が介抱しながら歩いているのが見えた。
盤糸嶺のふもとまで辿り着くと、果たして、悟浄が三蔵を抱き寄せながら、こちらを認め、手を振っていた。八戒の姿もある。
悟空、ただ放心して、金噸雲の上から三人を見下ろしていた。
「何はともあれ、無事でよかったですな」
悟浄は三蔵の馬を引きながら言った。
一夜明けて、旅を続ける一行。三蔵は何ごともなかったかのように、辺りの景色を眺めていた。
「それにしても危なかったぜ」
八戒が言う。「目が覚めたら辺り一面、劫火と目の暗むような金光だ。熱いわ眩しいわ、生きた心地がしなかったぜよ。慌てて糸に縛られたまま、柱ごと走って逃げたんだ」
「怪力、八戒兄者の成せる技と言えますな。お師匠様を連れて盤糸嶺のふもとまで逃げおおせた後、暫くして、大きな柱を背負った八戒兄者が走って来たのを見た時は、驚きましたよ」
悟浄が笑い、そして悟空の方を見て言う。「悟空兄者が楼閣をぶち壊しておいてくれたお陰ですな」
悟空はまだ腑に落ちないといった風に、腕を組んで黙っている。結局、なぜ自分たちが助かったのか。あの不思議な力を持つ雨が原因だと言うことは解るし、大方お釈迦様か太上老君か、天界の力が関係していることも予想がつくが、それにしても、はっきりしないだけに、腑に落ちない。
「やや!」
先頭の悟浄が叫ぶ。見ると、前方の空から、何やら神々しく光る物体が輝きながら旋回し、こちらに向かって飛んでくる。一行、歩みを止めて、あっけにとられて眺めていると、それは目前までやってきて静止した。
「八戒、悟浄、そして三蔵殿。久しぶりである」
光、声を発したかと思うと、ぼうっと、中から目の前の視界を覆うような、釈迦の巨大な上半身が浮かび上がった。
三蔵、馬から転げるように飛び下りると、地面に頭をこすりつけた。
「如来様。お久しゅうございます」
八戒、悟浄も続いて、平伏する。
悟空のみ、呆気にとられて立ちすくんでいた。
「悟空も、この度は危なかったねえ。心配したよ。よくぞあの窮地から、三蔵殿を救い出し、生還したものだ」
悟空、前に歩み出て言う。
「お、お釈迦様。あの滝のようなにわか雨は……」
「ああ、あれかい。実はお前たちを蓮池から眺めておったその時だ、滅多に無いことなのだが、今回は西天からわたしの神術をもって蓮池を取り寄せ、老君の兜率天宮の床上に卒然と発生させていたこともあり、地盤が弱くてな。思わず蓮池の底が抜けて、その水が下界に流れ出してしまったのだよ。それがその時に映し出していた盤糸嶺の上に降り注いだと言う訳だ。わたしの蓮池の水は、邪を浄め、霊妙を呼び戻す効力があると言われておるのだが、これは三蔵どのの元精を啜った者を不老長寿にするなどという下界に流布する伝説ほどに眉唾物かとも思えるものの、この度ばかりは何やら功を奏したようで、まあ一種の怪我の功名というやつかもしれないね」
そう言って、釈迦は細く笑った。
「よ、よく言いますよ! どうせ助けてくれたんでしょう。助けてくれるなら最初から素直に助けてくれるって言ってくれればいいじゃないですか! 熱くて眩しくて、もう死にそうだったんですよ!」
悟空は顔を真っ赤にして、地団駄を踏んだ。
「これ、悟空」
三蔵が顔を地面につけたまま、悟空の着物の裾をひっぱる。
「人聞きの悪いことを言うな。あれは単なる事故である」
釈迦は笑いを絶やさずに言う。
三蔵は恐る恐る顔を上げる。
「それで如来様。本日はどうしてお現れに?」
「うむ。実は先ほどまで太上老君の元を訪れていてね、これから西天の大雷音寺に帰るところなのだ。先日、悟空が会いに来てね、他のお前たちの顔も久しぶりに見たくなって、帰る途上、ついでにちょっと寄ってみたのだよ。元気そうで何よりだ。早くお前たちがやって来るのを待っているよ。『これ』を取りにね」
そう言うと、釈迦の大きな両腕に、大乗教典が現れた。そしてひときわ高らかに笑うと、一行に暫しの別れを告げ、西の空へときらきら輝きながら去って行った。
釈迦の姿が完全に見えなくなると、地面に平伏していた三人、ゆっくり起き上がる。
「ちくしょう! あいつ、性格悪すぎるよ! あんな奴がいるところにはるばる辿り着くために、ボクたちは苦労に苦労を重ねて旅を続けていかなくちゃならないなんて、ガマンできないね! 今すぐ、見せびらかしてるそのご大層な巻き物をよこせってんだい!」
悟空の怒りは納まることがない。
八戒と悟浄、顔を見合わせて苦笑い。
三蔵はひとしきり悟空を叱りつけると、馬に乗り、また周囲の景色に目をやりだした。
歩き出す一行。
相変わらず悟空は一番後ろで、面倒臭そうに付いてくる。
振り返ると、遠くに盤糸嶺。
あそこには、年老いた百眼魔道士と、その身の回りの世話を引き受けた、明明が住んでいる。すべての邪が消え去った盤糸嶺の新たな主としては、ちょうどいい組み合わせと言えた。この辺りの村も、暫くは平和が続きそうだった。
蜻蛉が一匹、飛んで来て、悟空の鼻の頭に止まる。
悟空、ひねり潰そうと一瞬考えて、思いとどまり、うるさそうに手で払いのけた。
そして一言「ふん」と呟くと、金斗雲に飛び乗り、どこかへと飛んで行ってしまった。
続く
参考文献
『西遊記/全十巻』小野忍、中野美代子訳(岩波文庫)
『西遊記の秘密〜タオと煉丹術のシンボリズム〜』中野美代子著(福武文庫)
『西遊記〜トリック・ワールド探訪〜』中野美代子著(岩波新書)
『中国の思想6 老子・列子』奥平卓、大村益夫訳(徳間書店)
『中国の思想12 荘子』岸陽子訳(徳間書店)
『芥川龍之介全集』芥川龍之介著(岩波書店)
『李陵・山月記』中島敦著(角川文庫)
『封神演義』安能務著(講談社文庫)
『蒼天航路』王欣太著(講談社)
『えの素』榎本俊二著(講談社)
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