眩撩

by つぶら


 身体の中に蜘蛛が棲んでいる。
 いつからかそんな奇妙な感覚にしばしば襲われることがある。
 それは、真夜中にふと目を覚ましたりすると訪れる。
 暗闇の中、ふいに目覚めてしまった自分をもてあましながら再び眠りがやっ
てくるのをじっと待っていると、ふいにかさかさと、耳の奥で何かが這うよう
な音が聴こえる。
 蜘蛛だ。
 私は冷静にその音を追いつづける。
 蜘蛛は、初め私の頭の中をぐるぐると巡回しているが、そのうちゆっくりと
下のほうに降りてくる。
 喉から胸へ、そして胃へ、やがて性器へ。
 まるで何かを探しているかのように。
 私はそのまま身じろぎもせずじっとして、ただひたすら神経を研ぎ澄ます。
 蜘蛛の動きはあまりに甘美で、そうやって足取りを追っているうちに私の手
は知らず知らずのうちに下腹部に伸びている。
 蜘蛛は、私の心臓を優しく撫でるように這い回ると、やがて胃を舐めまわし、
腸を擦り、膀胱を甘く噛み、そして性器へとやってくる。
 そこまで来ると蜘蛛は、執拗なまでに性器を責め立てる。
 ところがその頃になると必ず、私は眩暈のような眠気に襲われて、蜘蛛がど
うしているのか、最後まで見届けることができない。これまで、何度も起き続
けていようと努力はしているのだが、いつも何故だか蜘蛛が性器に到達する頃
には、すっかり眠り込んでしまうのだ。
 だから何をしているのかは、良く解らない。出口を探しているのだろうか。
ひょっとしたら、巣を作っているのかもしれない。
 体内に張り巡らされた蜘蛛の糸。
 私の身体の中には、蜘蛛が棲んでいる。
 私はうっとりと想像する。私の身体の中、細胞の隙間から漏れる微かな灯り
を頼りに、うっすらと光る銀の筋。
 内臓に触れるか触れないかぐらいの位置に纏わりつく蜘蛛の糸を想像するた
び、私は再び私の身体を這い回るあの蜘蛛の足取りを思い出して、総毛立つ。
 いつか、あの蜘蛛が私の皮膚の上を愛撫してくれる日がこないだろうか。
 私はその日のことを、想像する。


 わたしはわたしを生きることができない。
 いつからだろう、そんな想いに捕われ始めたのは。
 ひとり戻ってくる部屋から見る明かりの、淋しいことを知ったときからだろ
うか。
 同級生の他愛もない会話の輪の中に馴染めない、自分に気がついたときだろ
うか。
 あるいは、初めて見た満天の星空に、その星々の孤独を感じたときかもしれ
ない。
 宇宙の成り立ちについて知ったのは、確か小学生の頃だったと思う。
 この世界は、巨大なブラックホールの中にあるという。そしてまた、人の中
にも小さな宇宙が繰り広げられているという。
 幼い頃から、よく考えたものだ。
 人の身体には宇宙があり、人もまた宇宙に囲まれている。だとしたら、宇宙
の外にはやっぱり無限の宇宙が広がっているのだろうか、と。
 その果てしない連鎖に想いを馳せるとき、その途方の無さにわたしはいつも
吐き気すらするほどの眩暈に襲われる。
 千よりも、億よりも、那由他よりも多い、無量大数の世界。
 そこから抜け出ることのできない、自分の存在の卑小。
 全てを背負って生きていくことは、あまりに重い。
 だけどわたしは知っている。
 本当は、そんなことが哀しいのではない。本当はただ、たった一人で、この
冥い世界の淵に沈んで生きていかなければならないことが、少し淋しいだけだ。
 ここから出ることも、ここより先に行くことも決して叶わない。
 わたしは蜘蛛だ。
 張り巡らされた糸の上から逃れられず、一生をそこでしか過ごすことのでき
ない、蜘蛛だ。暗がりの中光るものは、ただこの足を支える銀の糸だけ、それ
のみを頼りに生きている小さな虫けらだ。
 それでも、いつかこの狭い世界の外に飛び出せる日がくることを、わたしは
願わずにはいられない。


 いつの頃だろうか、私の中に蜘蛛が棲みついたのは。
 いちばん初めの記憶は、多分小学生のときだ。
 帰り道で痴漢に遭った、あの日。
 知らない男に声をかけられたのを無視して通り過ぎようとしたら、いきなり
腕を捕まえられ道路脇の林に引きずり込まれた。そのまま押し倒され、乱暴に
コートを脱がされ服を引きちぎられ体を弄られた。
 幼い私は怖くて、抵抗することも声を出すこともできなかった。運良くたま
たま通りかかった人の気配に驚いて、男は逃げていってしまったけれど、あの
ままだったらきっと私は犯されていたと思う。
 破れた服をかき集め、コートを羽織って一目散に家に帰った。まだ体に残っ
ている男の手の感触が気持ち悪くて、慌ててトイレに駆け込んだ。
 便器に向かって何度も吐いた。涙が滲んだ目をトイレットペーパーで拭きな
がら、胃の中が空になるまで吐き続けた。
 ようやく全てのものを吐ききって落ち着いた頃、ふと見ると、便器の中に蜘
蛛が落ちていた。いったい何処から入りこんだのか。こげ茶色の体に刻まれた
薄気味悪い模様が、まるで私を笑っているようだった。
 私はそれを流した。何度も何度も。
 渦巻く水に飲まれて蜘蛛はすぐに姿を消したというのに、それでも足りなく
て、私はまた泣いた。
 その夜は怖くて眠れなかった。蜘蛛の模様や男の手が何度も頭の中に浮かん
だ。
 明け方、ようやく浅い眠りに落ちかけた頃、夢を見た。夢の中には、私が殺
した蜘蛛が出てきた。
 あの頃はまだ夢だと思っていたけれど、今では違う。
 今ははっきりと、その存在の確かさを知っている。その脚の歩みも体の重み
も、何もかもを感じ取ることができる。
 今なら解る。本当はあの時、私は、あの見ず知らずの男に犯されたかったの
だ。名前も知らないあの暴漢に、私の奥まで踏み込まれて、全てを滅茶苦茶に
されたかったのだ。
 きっと私はあの夜吐き気の裏側で、想像の先の乱され、穢され、傷ついた自
分の姿に欲情を見出していた。だから私は、蜘蛛に憧れる。
 自分の欲望を満たしてくれる可能性を唯一秘めた存在である蜘蛛に、強く強
く憧れるのだ。


 巣について考える。
 わたしを閉じ込めている、小さな世界について。
 わたしの周りにあるのはいつでも、地味で退屈な仕事と、痴漢の溢れる満員
電車と、ひとりきりで眠る小さな部屋だけだ。他にはない。
 よく、自己啓発本のようなものに、考え方を変えるだけで世界は違ってみえ
るとか書いてあるけど、それは嘘だと思う。
 だって、宇宙の外にはまた宇宙があるのだから、どこまでいったって世界は
変わりようがないではないか。どこまでいっても、結局わたしはわたしなのだ。
 だとしたら、わたしはやっぱりわたしの人生を生きることができないような
気がする。だって、一生自分以外の何者にもなれない苦痛には、どう考えても
耐えられそうにないから。
 もし神様がいるならば、お願いだから今すぐわたしを殺して欲しい。


 私は想像する。
 私の身体の外に出てきた蜘蛛が、どのように私を愛撫してくれるのかを。
 眩暈の先の、その先にある世界を、私は想像する。
 性器を這い回るその足取りのくすぐったいような快感。クリトリスや乳首に
噛付かれたときの痛み。
 私は小さく喘ぐ。蜘蛛は、驚いたようにいったん私の身体から離れる。
 そうしてそれまで、ただ歩くための足場であったものが、己の獲物であるこ
とを認識する。
 途端に蜘蛛の体から糸が吐き出される。巣作りではない、獲物を捕食するた
めの糸。私の身体は徐々に蜘蛛の糸に絡め取られ、銀に光り始める。
 そうして私の全てが覆い尽くされた時、蜘蛛は初めて私に接吻する。獲物の
体液を啜るために。
 そうしてようやく、私と蜘蛛はひとつになるのだ。
 あの粘々した蜘蛛の糸が皮膚をゆるく締め付ける感触は、どんなにか心地よ
いことだろう。そして蜘蛛の唇は、いったいどんな味がするのだろうか。


 ベランダの軒下に、蜘蛛の巣がはっているのを見つけた。
 夜露が、部屋の明かりを受けて光っていた。
 少しためらって、それから右手を振り下ろす。
 巣は、呆気ないほど簡単に壊れた。足元に行き場を失った蜘蛛が這い回って
いたので、それも踏み潰した。べちょりと潰れた蜘蛛の体からは、糸がいっせ
いに噴き出した。
 この蜘蛛はわたしだ。小さく張り巡らされた巣の中でしか生きられない、わ
たし自身だ。
 こんなもの、消えてなくなれば良い。サンダルを滑らせて、何度も蜘蛛の死
体を磨り潰す。
 もはや床の一部の染みと化した蜘蛛を見つめているうちに、私は次第に奇妙
な感覚に捕われていった。
 これは、わたしだ。続いていく宇宙の連鎖の一部を形作る、もうひとつのわ
たしの姿だ。
 そしてまた、ここにいるのも私だ。ということは、私を今、取り囲んでいる
空間もまた、私自身なのだろうか。
 もし、この小さな世界を作っているのが、神ではなくわたしだとしたら。
 ひょっとしたら、壊すことができるのかもしれない。
 考え方を変えれば、世界は違って見えるということは、案外本当なのかもし
れない。ならば、ここではない何処かへ、行くこともできるのかもしれない。
 これまではただの足場でしかなかった糸が、急に何処までも繋がっているよ
うに感じられた。
 微かに光る足下の糸を、恐るおそるでもわたしは辿っていくことにしよう。
出口を求めて。
 きっと、光が見つかるまで、何度でも繰り返してみせる。


 ある夜、目が覚めると目の前に蜘蛛がいた。
 あの蜘蛛だ。
 何処から出たのだろう。腸を食い破って肛門から出てきたのだろうか。それ
とも卵管と卵巣の隙間から入りこんで、膣を下ってきたのか。
 蜘蛛の体は月明かりを受け、ぬらぬらと黒く光っている。
 私は私の中に巣食う蜘蛛の姿がもっと良く見えるようにと、身体を捻って蜘
蛛と向かい合った。蜘蛛も、その真っ黒い小さな目で私のことをじっと見つめ
ていた。
 ああ、とうとうこの日が来たのだ。
 わたしは、私の世界を壊すのだ。連鎖の糸を断ち切るために。
 私は蜘蛛のほうに向けてゆっくりと手を伸ばした。
 さあ、おいで。今宵こそ、私をその糸で救ってちょうだい。
 わたしを捕らえていた、この世界を。
 と、目の前に細い一本の糸が光っているのを見つけた。糸の先は、私の身体
に巻き付いている。
 ずっと、この瞬間を待っていた。
 オネガイ神様、ワタシヲ殺サナイデ。
 私は蜘蛛の動向を見守るよう、じっとしていた。
 見る間に糸は増え、私の身体を徐々に覆っていく。私の身体は、次第に蜘蛛
の糸に絡め取られていた。
 目の前を、銀の連なりが覆っていく。息苦しいほどの抱擁。きっと私は、も
うじき息絶えるのだろう。
 そこにあるのは眩暈。そして、無限の連鎖のその先にあるものの正体。
 あなたはわたし。わたしはわたしを壊すのだ。


――目が覚めると、ワタシは何者でもなくなっていた。


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