狂(凶・境・叫)

by 長島剛

「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。」
   旧約聖書 レビ記 第二十章十


 それは晩御飯の買出しに出かける直前だった。出かける支度をしていると、リビングの電話が鳴り響いた。
 ふと、時計に目をやる。この時間にかかってくる電話といえば、セールスくらい。ただ、そのときに限って受話器を取るのが何故か躊躇われた。
 けたたましく鳴る受話器を取り、「菅原です」と出る。
 わずかに間があり、「俺だ」とだけ返事が返ってきた。それだけで、相手が誰だかはすぐに分かる。現在関係を持っている相手だ。ただ、声にいつも此処にかけてくる時のとは違う緊張感が漂っているのが気にかかった。
「三谷さん?」マンションのこの部屋には、今は自分以外誰もいないことは分かっていることなのに、思わず声が小さくなる。「どうしたんですか、今日は火曜日なのに」
 最近になって、我が家の家計を支える家人も、私の性癖に気付いてからは離婚の話が吹き出しそうな雰囲気になっている。でもこの性癖に目覚めてしまった私は、それを治すつもりはないし、それでいいと思っている。その相手からの電話。
「……達美に、バレた」
 その言葉に、瑞樹の息は詰まる。
 「達美」……その名前は、三谷さんの奥さんの名前のはず。
「まさか……自分たちのことが?」
「達美が今、家を飛び出していった。……瑞樹、おまえのところに……向かった可能性が……ある」
 相手の声が徐々に弱々しくなっていく。そのしぼみゆく声に、焦りを覚えた。
「三谷……さん?」
 声をかけてから、しばし沈黙があり、それから声が聞こえてきた。
「……今、救急車を呼んだ……達美に、背中から刺され……今度は、多分おまえが達美に……あいつは、おまえと同じで……」
 その言葉の直後、受話器の向こうで何かが倒れる音が聞こえてきた。同時に、回線が不通となったときの発信音だけが受話器から聞こえてくる。
「……もしもし? 三谷さん?」
 瑞樹は発信音しか聞こえない受話器に向かって何度か彼の名前を呼んだ。だが当然返事はない。一度気を落ち着け、電話を戻す。それから彼の家の番号を押す。しかしベルの音は鳴らず、聞こえてくるのはモールス信号のような冷たい発信音だけだった。
 まさか…………
 受話器から聞こえてくる冷めた電子音だけが、現状で起こっている事実。
 三谷さんが、奥さんに、達美さんに刺された。そして、私のところに向かっている……
 突然の事態にしばし放心状態にあった瑞樹は、しばらくはその場に立ちつくしていた。そしてゆっくりと、現実を飲み込み、理解し始めた。
 た、達美さんに、私が殺される!
 突然起こった事象に対して沈黙状態に陥っていた瑞樹は、今度は突如やってきた生命の危機感に脅かされてパニックに陥った。
 逃げないと。何処に? でも晩ご飯を作ってから。簡単なのだけでも。でもそんな暇あって? 家人は今日、九時過ぎに帰ってくるはず。留守になるけれど、電子レンジで温めて貰えれば。違う、そうじゃなくて、家人も殺されたら? 達美さんが!
 情報の中にある混乱が、焦燥の中で混線し、情緒の中で混沌とし、状態の困惑を悪化させていた。
 その時に電話が鳴らなかったら、瑞樹はそのまま現実から逃避する格好で、普通に晩御飯の買い物に出かけていたかもしれない。
 再び、電話が鳴りだした。突如鳴り出した電話に、瑞樹は我に返った。反射的に受話器を取る。
「……はい、菅原です」
 相手が三谷だといった期待もあった。だが、それはすぐに裏切られた。
「……瑞樹さん?」
 初めて聞く声。しかし、誰なのかはすぐに分かる。思わず受話器を置こうとするが、恐怖で動けなかった。
「あなたが、いけないのよぉ」
 ひどく静かに、少しうわずった声で相手は喋った。
「ねえ、聞いてる? あなたの所為で、和也ねェ、死んじゃったのぉ」
 思ったより低めの声。その調子がどことなく外れているように聞こえる。瑞樹は自分の手足が小刻みに震えているのに気付いた。それが恐怖からくる震えだと判断するのに、少々時間を要した。
「こ、殺したのですか」
 ふふっ、と相手は奇妙な音を出して嗤った。
「先月ね、万年筆が無くなったの。とっても大切にしていたのにねぇ。十年くらい使い続けていたモノだったのに、無くしちゃったのぉ」
 突然の脈絡のない話題に、瑞樹は戸惑った。達美はそのまま続きを話す。
「見つからなかったの、探したのにぃ。どこにもなくて。でも、やっと見つかったのぉ」
 ふひふっ。と再び、歯車が壊れたような笑い声。いや、話し声そのものが、現実のモノではないように感じられる。
「どこにあったと思うぅ瑞樹さん? それがね、廊下で寝ていた和也の背中に刺さってたの。あぁんなところに刺さってたなんてねぇ。やっと見つけたぁんだぁ、私の万年筆ぅ」
 !
「あなたにも、万年筆、見せてぇあげるぅ。今から見せに行ってあげるからねぇ」
 ヤダ! 壊れている!
 瑞樹は口の中がカラカラに乾き始め、飲み込もうと思っていた唾すら飲み込めなくなっていた。
「お返事、ないのぉ? じゃぁ、今からお伺いぃ、するねぇ」
 プッと小さな音が鳴り、電話はそこで切れた。
 ――来る? 達美さんが?
 自分以上に狂乱している者を見る混乱者は、それを見ることで冷静さを取り戻すことがある。瑞樹は、境界線の向こう側に行ってしまった達美と会話したことで、落ち着きを取り戻し始めた。
 三谷さんの家からこのマンションまでは、電車で駅四個分離れてる。駅から歩く時間も含めて、達美さんは一時間くらいで我が家のインターホンを押しに来るはず。
 それまでに、この部屋から逃げないと。

     *

 南西区警察署は、激しい困惑の中にあった。
 消防庁から連絡を受けて現場に向かった署員たちは、現場を見てそれが殺人事件であると判断した。
 三谷和也は自分で救急車を呼んでいる。これは通報センターに録音されていた声で確認がとれている。自分で「119」に電話し、その直後に死亡したことは確かであろう。家にも居らず、連絡の取れない三谷の妻がその時点では重要参考人だった。
 だが、まだマスコミには伏せたままの問題がそこに存在していた。
 その状況が余りにも奇異であり、うわさ話の拡声器とも言えるマスコミ連中にはすぐに教えることが出来ないような状況がそこにあった。
 死体が、もう一つあったのだ。
 浴槽で見つかった腐乱死体。死後三週間以上は経過している。入浴中に何者かによって鈍器で頭を殴られたらしい。それは既に腐っていて、顔や身体の肉が溶けて骨が見え始めていた。
 これだけなら、少々抵抗はあったが、それでもマスコミに公表しても構わないような死体である。だが、マスコミに提供するには問題があった。
 異臭漂う浴槽は、数時間前に使われていた形跡が残っていた。つまり、死体の傍らで浴室を使用した者がいる、そうとしか考えられない状況。しかも、浴室からは真新しい二種類の精液が検出されていた。
 腐乱した死体の傍で、何食わぬ顔で身体の垢を落とすといった行為。しかもその死体相手にマスターベーションを行ったとしか見えない二種の精液。少なくとも二人の男が、この死体を前に射精したことになる。
 警官たちが、過去の事件で少女を食した犯罪者や、後輩の首を切断した中学生などの事件を想起したのも無理はない。
 この死体は誰なのか? 南西区警察署捜査一課はこの問題を抱えて困惑していた。

     *

 受話器を置き、十分で身支度を済ませて、瑞樹は外に出た。帽子とサングラスで顔を隠すようにして、周囲を伺いながら駅へと向かう。
 先週、たまたま三谷さんの定期入れの中にあった写真を、ホテルのベットの上で見る機会があった。その写真には、三谷さんを右に自分と同い年くらいの女性が写っていた。
「この綺麗な人が、奥さん?」
 瑞樹は三谷のことを詳しくは知らない。三谷のことで知っていることと言えば、妻帯者であることくらいだった。住所と電話番号と名前だけが、お互いの知っていること。それ以外のことは瑞樹も三谷も相手に訊くことはなかったし、それだけ知っていれば十分だと考えていた。
「――達美だ」
 三谷はそれだけ言った。それだけを言って、瑞樹の手から定期入れを取り上げた。
「これを見る必要も無いだろう」
 そんなことがあったので、瑞樹は達美の顔を知っていた。三谷が達美と言わなければ、今から自分のことを襲いに来る人物の顔をはっきりと確認することもできないことになっていだろう。
 当然、達美は瑞樹の顔を知らないはず。瑞樹は三谷と写真を撮ったこともないし、自分の写真を渡したこともない。
 それでも、十分に警戒した。不安があった。
 写真はない、これは確かなはず。でも半年以上続いた関係で、三谷さんと一緒にいたところを見られていた可能性はある。達美さんにではなくても、誰かに見られてその話が達美さんに伝わっている可能性もある。探偵を雇っていたということもあり得る。
 警戒しながら駅まで来たとき、瑞樹はもう一つの危機が隠れていたことに気付いた。
 もし私が家にいなかったとしたら、達美さんは私が帰るまで待ち伏せる可能性がある。私が帰らなかったとしても、夜に帰宅した家人が達美さんに襲われる可能性が……!
 そこまで考えが至ったとき、駅から「達美」が出てくるのを目撃した。
 まさか!
 咄嗟に身を隠し、柱の陰から達美を観察した。
 間違いない、写真の女だ。でも、来るのが早すぎやしないだろうか。
 考えてみれば、先ほど三谷さんが自分のところに電話をかけてきて、そのまま受話器が外れたままになっていたはず。とすれば、達美は外から自分のところに電話してきていたんじゃないのだろうか。
 駅の改札を抜けたばかりの達美は、少しばかり浮かれた少女のような足取りで、瑞樹の住むマンションがある方向へと向かっていた。
 服装はこれといって大して目立つものではない。
 だが、瑞樹はそれを見て、再び恐怖に襲われた。
 達美はジーンズを履きマダラの靴下を履いている、ように見えた。しかしそれは白い靴下が血によって紅いマダラ模様となっていることが分かった。
 達美の表情も、よく見ると目に光がないことが分かる。
 殺人鬼が、人混みの中を平然と歩いている。
 瑞樹は恐怖の余り、腰が砕け、その場にしゃがみ込んでいた。
     *
 三谷が一度だけ、瑞樹に自分の血筋について話したことがある。
「アメリカの学者がな、精神病は遺伝だと言っているんだよ」
 まだ湯気の立つコーヒーをすすって、三谷は続けた。
「でな、俺の親父、たまに物凄く精神的に不安定なときがあってな。躁鬱の気があったらしいんだ。親父が死んだ後でお袋が、親父が精神病院に通っていたことを俺に教えてくれたよ。ま、親父も最後には首吊って死んだもんだから、お袋もそのことを教えてくれたんだろうけれどもさ。その血を俺も受け継いでいると思うと、たまに怖くなるときがあるぜ」
「でも、三谷さんは普通だよ。別段、そんな変な部分って見たことないし」
「まあな、自覚したこともないし人に変に言われたことも無いから大丈夫だとは思うんだが。ただな、去年だったかに女房のお袋さんが死んだとき、どうやら女房の方もそういった血筋らしいんだ」
 何か奥さんに奇異な行動が見られるんだ。
 瑞樹はそのように考えた。だからそんなことを突然話し出したのだと。
「大丈夫だと思うよ。自分のお祖父さんも、存命中は狂っていたなんて話を聞いたことがあったけれど、お父さんは別に変じゃなかったし」
「お父さんは、か……」
     *
 そんな会話を思い出し、瑞樹は達美が本当に危険な存在であることを改めて認識した。
 本当に危険なんだ。本当に。危険な遺伝子を持っていたのが、私と三谷さんの関係を知ったことで覚醒したに違いない。多分、私がどんなに謝っても、どんなに言いくるめようとしても、達美さんは私を殺すだろう――
 このときだった、瑞樹がその考えに至ったのは。
「殺さなければ殺される」
 瑞樹の中の殺意は、こうして芽生えた。
 陽が西の空に沈み始めようとする時刻、人通りの多い路を達美が歩いている。その後方から気付かれないように、瑞樹が達美をつけていた。
 瑞樹にとっての恐怖は、達美の狂いもあったが、今はそれ以上に、達美が真っ直ぐと自分の住むマンションに向かっていることだった。
 迷うことなく、真っ直ぐにそこに向かっている。まるで当たり前のように。
 ――まさか、関係を以前から知っていたの?
 疑念が瑞樹の脳裏に駆け巡った。
 そんな……知っていて、それでなんで今日まで何もすることなく、今更になって……
 商店街にはいると、買い出しに来た主婦たちと、それを捕まえようとする八百屋や魚屋の店主、それにスピーカーから流れる流行歌で商店街は賑わっていた。
 電気屋の前で、思わず瑞樹は立ち止まる。
     *
「……で、三谷和也さんが背中を刺されて倒れているのを、駆けつけた救急隊員が見つけましたが、既に亡くなっていました。南西区警察署は殺人事件と断定し……」
     *
 その場にしゃがみ込みそうになるのを必死になって堪えた。
 本当に、三谷さんは死んでしまった。殺したのは達美だ。達美が三谷さんを殺した。次に殺されるのは私だ。先に殺さないと、私が殺される。ううん、私だけじゃない、私の家人も殺される。
 悲しみによって、サングラスの下で涙が頬をつたうが、それを拭うことなく、瑞樹は達美のあとをつけるため再び歩き出した。
 歩きながら、瑞樹は旧約聖書の一文をふと、思い出した。
「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。」
 学生時代、講義の最中に教授が教えてくれたレビ記の一文だった。
 教授は言っていた。
「こんな一文が旧約聖書にあるが、創世記では近親相姦が当然のように行われている。不思議だろう? でも近親相姦は、あくまでも創世記であり、世界が創られる過程でユダヤといった純血を守るために行われる近親相姦だと考えれば納得がいく。まあそれよりも、だ。つまり不倫する事を主は認めて無いのだ。この掟を破る者は殺される運命にあるというが、では誰が彼らを殺すのか、といった疑念も立ち上がる。人が人を殺すことを許さないのだから、この場合人は誰も、彼ら姦通者を含めて、罪人といえども殺すことはできない。この場合は主が彼らを殺すと考えるべきだろうな」
 この一文は、相手はそうでないにしろ、今の自分に当てはまるだろう。私は殺されなければならない運命にあるという解釈になる。
 その背中を見ながら、瑞樹は自分に言い訳をする。
 殺されるのは、仕方ない。でも、達美は神なんかじゃない。神様に殺されるのなら諦めもつく。でも、あんな狂人になど殺されたくない。達美は人間だ。人間で狂人だ。狂人である以上、三谷さんを殺したのだから殺されなければならない。
 瑞樹は達美の靴下を見た。白地に赤模様の柄だったが、今はその赤も黒ずみ始めていた。
 あの血は、三谷さんを殺したことを証明している。だから、達美は殺されなければならない。当然の結路だ。それじゃ誰が達美を殺すのか?
 瑞樹にとっては達美を殺すことが許されるのは自分しかいないと思っている。
 でも、私は神じゃない。神じゃないから正当な理由で達美を殺さなければならない。だから達美に殺されそうになったところを殺す。これなら、私は正しいことになる。正しいことをするのだから、殺すことも許される。
 瑞樹の中の殺意は、三谷の死を知ったことで更に膨れ上がっていた。
 商店街を抜けてすぐ、そこに瑞樹の住むマンションが建っている。そしてまるで知った顔で、達美はマンションの中に入り込んだ。
 知っていたんだ。私と三谷さんの関係を知っていたんだ。多分私の住所を前々から知っていたんだ。でなければ、人に聞くこともなく地図も見ずに此処までこれることなんておかしい。
 瑞樹の考えるとおり、達美はすべて知っていた。だからオートロックであるそのマンションの入り口が、中の住人が開けてくれないと開かないことも知っていた。
 そうだ、私は中にいて、達美を入れなければ良かっただけなんだ。
 だが瑞樹の考えは甘かった。
 瑞樹はマンション入り口の陰に隠れて達美の様子を伺った。内部からは死界になっている場所なので、達美が瑞樹の姿を確認することはできない。逆に瑞樹の位置からは達美の姿をはっきりと確認できる。
 達美は瑞樹の住む部屋番号を押してインターホンを鳴らした。当然、誰も出ない。
 出るわけないわ。私は此処にいるんだから。たとえ部屋の中にいたとしても、あんたのような殺人鬼を通すと思う? 入れるわけ無いじゃない。馬鹿ね。狂人の頭は何を考えているか分かったもんじゃない。分かりたくもないし。どうせ私がもうすぐあんたを殺すからね。狂人は死ね。死ね。死んでしまえ。
 その部屋の住人が出ないことを確認した達美は、ふふっ、と嗤った。そして次に、瑞樹の隣の部屋の番号を押してインターホンを鳴らした。
 ナニ? ナニを考えている?
 数秒後、隣の部屋の住人が出た。瑞樹は会話に耳を立てる。
「はい、どなた?」
「ふふっ、三谷ですぅ。先日のお話をしに」
 声の調子は相変わらず外れている。
「ああ、三谷さんね、ちょっと待って、今開けます」
 ドアが――開いた。
「どうぞ」
「今、お伺いしまぁす」
 達美はそのまま中に入っていった。
 瑞樹にとって、それは驚くべき、そして信じられない事態だった。
 達美は私の家の隣人と知り合いだったの? まさか、そんな偶然が……違う、偶然じゃない。きっと私と三谷さんが通じ合っていることを知って、私のことを知って、私をつけてきて、隣の人と知り合いになったに違いない。達美は狂ってるんだ。狂っているから、いつでも私を殺せるような仕掛けを、罠をはっていたんだ。狂人のくせに、姑息なことをしやがって。狂人は生きてる価値なんか無いのに、私を狙おうなんて、狂人の癖に。
 瑞樹は達美がエレベーターに乗るのを見届けてから、静かにマンションの入り口まで来た。
 もう、殺すしかない。私が狙われている。殺す。殺さなければ殺される。殺す。あれは死ぬべきだ。誰に殺されても文句はない狂人。狂人に生きてる価値はない。狂人はミンナ死ね。死ね。私は正しい。あれを殺す。殺す。殺さないと。私が殺す。
 殺す、その単語が先行していたため、殺害方法を全く考えていなかった。
 そうだ、あいつのゴルフクラブが部屋にあったから、それで殴り殺せば。正当防衛であることを実証するように殺さないと。いいや、狂人を殺すことそのものが正当防衛だ。あんな奴、あんな奴、死んでしまえばいい。殺されても誰も文句なんか言わない。
 芽生えた殺意は殺害方法の思いつきで明確な形となり、瑞樹の行動にはっきりとした目的を持たせるに至った。
 だがその行動理屈は、既に根底の部分で歯車が狂っていることに、瑞樹本人は気付いていない。

     *

 南西区警察署捜査一課では、三谷達美を殺人容疑で指名手配することに決定していた。
 和也を殺害したのは間違いなく達美である。和也が救急車を呼びだしたした時刻の辺りで、周辺の住人が、家を飛び出す達美を見ている。
 問題は、達美と和也のどちらが浴槽の人物を殺害したのか、といったことだった。
 聞き込みにより一ヶ月ほど前から、周辺の住人は、死体で発見されたその人物の姿を見ていないことが分かった。同時期、達美が精神病院を退院して和也の家に住み込んでいる情報も得た。そして二週間ほど前から、三谷の家から異臭が漂っているらしいことも聞き込みから分かった。
 普通に考えれば、達美が浴室でその人物を殺害したと考えるのが妥当と言える。だが、それならどうして和也は警察に通報しなかったのか?
 和也と達美はほぼ毎日のように家から出てくるところを目撃されている。つまり、死体のある家で、和也と達美は暮らしていたことになる。加えて死体の傍らでシャワーを使用していた。そして極めつけは、死体の前でマスターベーションを行っていたことだ。
 殺人を犯したにしては、死体を隠す作業すら行っていない。
 殺人の動機もまた、不明瞭だった。弟が兄の嫁に手を出し、それで騒がれたから殺人に及んだ。こう考えるならば、兄が警察に通報しないのもおかしい。
 しかも二人は揃って死体を前に射精していたことは間違いない。これはもはや、異常との言葉だけでは片付けることのできない痕跡だ。
 納得のいく理由が見つからない。
 だが、推測できる理由が無くもない。ただ、常軌を逸している推測なので、誰も簡単に口を開けられないでいるだけだった。
 浴室の死体。それは三谷静香――三谷和也の妻だった――

     *

 瑞樹は部屋に戻り、妻のゴルフバックを取り出した。
 ゴルフクラブを一本取り出して握ると、殺意ははっきりと明確な形となって瑞樹の身体を支配した。
 私は間違ってない。殺さなければ殺される。あんな狂人に殺されるなんて間違ってる、私は正しい。正しいから許される。
 瑞樹は部屋の外に出て、隣の部屋のドア前に来た。耳を当てて中の様子を伺う。
 話し声が聞こえる。
 隣人を殺す理由はない。でも、あんな狂人と会話しているのだから、隣人も狂人だ。狂人は狂人だ。狂人は私が殺す。すべては私のために狂人は死ぬのだ。私は狂人を殺す。狂人は最初から死ぬ運命にある。存在することは許されない。だから死ね。殺すから死ね。
 ドアノブに手をかけると鍵がかかってないことが分かり、瑞樹は静かにドアを開けた。
 楽しげな会話がはっきりと聞こえてきた。
 狂っている、あんな女と会話できるなんて、普通じゃない。会話している。それは相手も狂人だからだ。狂人と会話できるのは狂人しかない。狂人は放っておいたら私を殺しに来る。殺される前に殺すべき。殺す。殺さないと殺される。だから殺す。殺す。
 先ほど芽生えたばかりの殺意は、瑞樹そのものを殺人鬼とし、自身を狂わせていた。
 瑞樹がゴルフクラブを握りしめたまま部屋の中に上がると、隣人の女性がイスに座ってテーブルに伏していた。見ると、洋服の背中が真っ赤に染まっていた。
 死んでる。死んでいる。背中を刺されて。私が殺す前に、殺されている。
 すぐにそれは分かった。そしてその死体の正面に――
「あ、瑞樹さんだぁ」
 達美が無邪気な笑顔で瑞樹を見ていた。
 やはり、私のことを知っていたんだ。面が割れていた。この、狂人が!
「ねえ、京子さん、ほらぁ、さっき私が言ったお隣の瑞樹さんだよぉ」
 人間とは思えない笑い声で、達美は死体に向かって話しかけた。
「あの人が、私の和也を奪ったんだよぉ。和也お兄ちゃん、私だけのモノだったのにぃ」
 ……お兄ちゃん? なに?
「私ねぇ、お兄ちゃんとは昔から一緒ったんだぁ。だからお兄ちゃんが私を犯したとき、絶対誰にも渡さないって決めたんだぁ」
 こいつは……
「私たち、双子でずっと一緒だったんだけれどぉ、お兄ちゃんが私を抱ぃてくれてたからぁ、もっともっと一緒になれたんだぁ。でもねぇ、私が入院している間にお兄ちゃん、他の女と結婚していたのぉ。偽装だって分かっていたんだけれどぉ、その女が私のことをオカマだとか馬鹿にしてぇ……だからぁこの間ぁ、お嫁さんをお風呂の中にぃ沈めてあげたんだぁ。お兄ちゃん、それを見てあたしを殴ったんだよぉ。これでもう、お風呂に入れ無いじゃないか! って。そうだよね、お風呂で殺しちゃったらぁ、もう浴槽がぁ使えなくなったんだよねぇ」
 ずれている。
 瑞樹はやっと、達美の正体を悟った。
 そう言えば、さっきの電話で三谷さんが最後に「おまえと同じ」と言った。そうだ、その意味は、コイツが――
 だが、それは少々遅かった。
 達美は言葉を続ける。
「それからはお兄ちゃんと私で浴槽には入れないお風呂を使って……そこでお嫁さんを前にお兄ちゃん、私を抱いて、何度も何度も、毎日毎日……ずっとずっと一緒だって……一緒だって、一緒だって!」
 達美は叫びだした。口元から泡を吹いて、もはや人間らしさをその表情に見いだすことはできなくなっていた。視点も合ってない。
 その表情に瑞樹はクラブを思わず落とす。人間じゃないモノを見てしまった恐怖。その恐怖によってそのままその場にへたれ込む。
 突如、達美は立ち上がり、ずかずかと瑞樹の前までやってくる。
 右手には、少し長めで赤い色の万年筆が握られていた。いや、それは赤い色ではなく、この死んでいる女性の、いや、死んでいる女性と三谷さんの――
「和也の奴、そんなことを言っていたのに! 他にあんたを! あんたみたいな、あんたみたいな奴を! 和也は裏切ったの! 私を裏切った! だから、だから殺したのよ! この万年筆で!」
 達美は持っていた万年筆を、なんの前触れを見せることなく無造作に、当然のように瑞樹の左胸に突き刺した。
「あんた、私を殺しに来たのね! 殺すつもりだったんでしょ! そのゴルフクラブで! この殺人鬼が! あんたに私が殺せると思ってたの! この狂人が! 狂人は殺されるのよ、私にね! この狂人が! 狂人が!」
 叫びながら何度も何度も瑞樹の胸を突き刺す。
 朦朧とする意識の中、瑞樹は無意識に先ほど落としたゴルフクラブを握り、達美のこめかみに、力一杯殴りつけていた。
 その一撃で達美は絶命した。そしてまた、瑞樹も最後の力を使い切り、そのまま意識を失っていった。
 瑞樹は意識を失う直前、教授の言っていたレビ記一文の続きを思い出していた。
「レビ記の二十章十三には……」

     *

 その部屋にあったのは三体の死体だった。現場は三人の痴情のモツレにも見えたが、椅子に座ったまま背中を刺されて死んでいる里山京子が、単にこの事件に巻き込まれてしまっただけの被害者であろうと南西区警察署は判断していた。
 最初その部屋に踏み込んだ警察官は、こめかみから血を流していた死体を女性だと認識した。しかしそれこそが、三谷和也の弟である三谷達美の女装姿だった。和也と達美が双子であり、近親相姦をしていて、尚かつ揃って精神病院に入院していた前歴を持っていたことが、調査の結果明らかになった。
 多分、和也と達美は浴槽の死体を前に抱き合っていたのだろう。浴室から採取された二種類の精液が二人のモノであることは、鑑識の報告から分かっていた。
 また、もう一つの死体が里山京子宅の隣人、菅原瑞樹だということも、その日の夜に帰宅した瑞樹の配偶者の確認をもって明らかになった。
 捜査一課が出した判断は次のようになっている。
 瑞樹と和也が関係を持っていることを知った達美が、まず和也を殺し、続いて瑞樹を殺しにやってきた。だが和也からの電話を受けて達美が来ることを知った瑞樹は里山京子に助けを求めた。しかし達美は京子の部屋に上がり込んで二人を殺害。そのとき瑞樹の反撃にあって達美も殺されてしまった。
 これが南西署の出した報告だった。
 しかし、その報告書が提出されるまで、署員達は判断をはっきりと下せずにいた。しかし瑞樹の配偶者から離婚を考えていたという情報を受け、その原因を知り、報告書を提出するに至ったのである。
 判断が遅れた原因というのは、「菅原瑞樹」が男であったためである。


「女と寝るように男と寝る者は、二人とも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」
   旧約聖書 レビ記 第二十章十三


               了



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