塩の侵略

by 闇野魔矢

　それは、沢庵から始まった。
　妻の実家から送られてきたという沢庵が、皿に山と盛られていた。
　私は、ナイターを見ながら、ビールのつまみに、それを食べていた。
　ポリポリという歯ごたえがたまらない。
　口いっぱいにひろがる大根の甘さと辛さ。沢庵とは、こんなに美味いものだったのか。うますぎてナイターの試合に集中できないくらいだ。
　ポリポリポリポリと、軽快に耳の奥で噛みつぶす。
　ジューシーな沢庵汁が、下の付け根当たりをくすぐる。湧き出る唾液。また、一切れ口に運ぶ。
　塩辛い物ばかり食べると高血圧に��病院勤めの私だが、沢庵くらい大丈夫だろうと思った。

だが、もう、１本分も平らげている。ものには限度がある。そろそろ、やめよう。野球の方は、贔屓のチームがピンチを迎えていた。ノーアウト満塁だ。
　口の中にたくあんの味が広がった。無意識に口にしたらしい。
　まあ、いい。もう１本くらいどうということはないだろう。
　ポリポリポリ��ポリポリポリ��
　もう、２本分も平らげてしまった。
　そういえば、子供の頃、おやつに沢庵を食べて、後で喉が乾いてたいへんな思いをしたことがある。もう、これでやめないとなと思った。私は、皿を背中の後ろに置いた。
　４番バッターが、逆転スリーランホームランを打った。わき上がる歓声に、興奮したアナウンスが捲し立てられる。
　ポリッ！乾いた音が口の中に響いた。
　
　それ以来、私は、沢庵なしで、やっていけない身体になった。正確には、塩気が無いと、何を食べても物足りない。食事をした気がしないのだ。
　喉に乾きを覚えることが多くなったが、水をほとんど飲まなくなった。体内の塩分を薄めるのが怖いのだ。目刺しに醤油をたっぷりとかける。漬物にも塩をかける。笑い話のようだが、コーヒーにも、角砂糖ならぬ角食塩を落とすようになった。

自分が急に辛党になってしまったものだと思っていたら、どうやら、私だけではないらしい。妻も、やたら、醤油や塩をかけるようになった。いつしか食卓からは、醤油差しが消え、徳用１リットルビンが置かれるようになり、それが２リットルビンになった。

　冬になる頃、町の所々に、奇妙なオブジェが設けられるようになった。
　立方体のオブジェである。角が地面に突き刺さっているような単純なものから、いくつもの立方体が不規則に結合している複雑な物まであった。
　どれにも共通していることは、立方体がモチーフになっているように見えることと、白っぽい色をしていることだった。
　
　病院の食堂で、昼飯を取りながら松田が言った。
「最近、塩分の取りすぎだと思うんだ」
　私は、うなづきながら、糖分の方が取り過ぎなのではないだろうかと思いながら、松田の二重顎を見た。松田は、内科医なのだが、同じ年ということもあって、私と親しかった。脂ぎった皮膚に汗をかきながら松田は、テーブルの上の一斗缶から、ポンプで醤油を豚カツにかけながら言った。
「君も、かなりの辛党だと思うけど」
　私は、鮭の塩焼きに塩をかけながら、「俺達だけじゃないぜ。高血圧の患者が増えそうだな」と言った。
「最近、白いオブジェが街に目立ち始めたのを知っているかい？」
わたしは、うなづいた。
「あれって、塩化ナトリウムの結晶がモチーフじゃないかな？」
「なるほど、食塩、つまり、塩化ナトリウムの結晶は、立方体だったな。辛党が過ぎて、ああいう偶像まで建てる奴らが出てきたという訳か」
「なんか、馬鹿にしたような言い方ですね」
「馬鹿にしているものか。私の庭にも一つ欲しいくらいだ」
　私は、肩をすくめて見せた。
　しかし、それは、本当の気持ちだった。
　
　辛党の増加は、明らかで、意識をしてみると、町中に広がっているのが分かった。
　スーパーでは、毎日のように醤油や味噌や食塩の安売りを競っていた。
　カレーライスは、カレー粉の変わりに味噌が使われるようになった。
　清涼飲料水の自動販売機は、醤油の販売機に変わり、若者は、三百五十ミリリットル入りのアルミ缶からダイエット醤油（ビタミン＋）を飲んでいた。
　皆、干からびたミカンのような唇をしていた。
　それでも、我々は、しょっぱい物が食べたかった。

　ある日、病院に担ぎ込まれた高血圧の患者が、口や鼻から血を吹き出して死んだ。
　私は、食塩のかけらを舐めながら、それを見ていた。
「これは、病気だな��伝染性の」と松田が言った。
「病原体は、塩化ナトリウムですか��？」
　
　最も古い病気は、寄生虫だった。蚤、シラミの類から、ツツガムシ、ぎょう虫、回虫、原虫、など、肉食の小動物が人体を食い荒らしていた。彼らは、精巧な機械であった。複雑に進化した身体をもっていた。
　次にくるのが、細菌であった。ペスト、コレラ、チフスと目に見えない小さな単細胞の植物が体内で毒素を発生させ、多くの人達を殺した。細胞壁の中に、蛋白質の溶液があり、そこに遺伝子を浮かべていた。彼らには、性があった。
　それより遙かに小さいウイルスが問題になっていた。天然痘、インフルエンザはもとより、エイズ、エボラなど、現代医学をもってしても、治療法がない恐怖の進化を見せていた。彼らは、蛋白質の殻の中に遺伝子をしまい込んだだけの単純な構造をしていた。独立した生物とは言い難かった。
　二十世紀末より、さらに小さいプリオンが猛威を振るっていた。それは、食用牛から来た。脳がスポンジ状になって狂い死ぬ狂牛病だ。人間にも感染し、若年性痴呆を引き起こし死亡させる。かれらは、ある種の単純な蛋白質であり、遺伝子も持っていなかった。しかし、彼らは、体内で増殖し、脳を喰っていた。脳を作る蛋白質が、反乱を起こしたのだ。
　そして、今、血液成分の○．九％を占める塩化ナトリウムが人間に牙をむけてきたのだ。彼らは、塩素とナトリウムがイオン結合しているだけの単純な結晶体だ。彼らは、自ら繁殖することができず、体外から仲間を取り入れることを選んだ。彼らは、人間の味覚に訴えた。塩分をとり過ぎると、舌の味覚細胞が減少し、さらに多くの塩を取らなければならない。
　それに気がついた私は、塩分を控えることにした。しかし、味のない世界に慣れることはできなかった。味のないみそ汁に、味のない塩魚、とても耐えられる物ではない。塩は、麻薬だった。麻薬と違うところは、彼らがはっきりした意志を持った病原体であるということだけだ。
　このままでは、人間は全員、血管が破裂して死んでしまうだろう。
　そこまで行かなくても、塩分過多の障害は、気分を苛つかせ、凶悪犯罪の増加をまねいたり、重大事故を引き起こすのだ。
　人類最後の病原体は、塩だったのだ。
　だれも、塩の意志には、逆らえない。海も空も、ヒマラヤの万年雪もすべて、塩を含んでいる。彼らからは、逃げられない。
　塩のオブジェを崇拝し、自らを塩漬けにして、永遠の生を求めるしかないのかもしれない。
　
　ここまで読んで僕は、ノートを机においた。
　ノートの表紙には「塩の侵略の記録」と記されている。
　汗が一旦染み込んで、乾いたようなごわごわした紙だった。
　水性ボールペンで書かれた文字は、ところどころ滲んで読みにくかった。
　僕が、顔を上げると、ノートを僕に貸してくれた友人が、ニヤニヤ笑いながら僕の顔を見ていた。小綺麗な精神病院の食堂には、午後１時を回ったところで、僕と彼しかいなくなっていた。
「君の感想は、どうかな」
　と、友人が、神経質そうに眼鏡を中指で上げながら言った。
「これって、君の患者が書いたものかい？最初のバカバカしい書き出しは、面白いと思うよ。でも、後半は、支離滅裂だね。なんか、途中で面倒になって投げ出した小説みたいだな」
　と、僕は、友人に言った。
「確かに、精神を病んだ者は、根気がない人が多いよ。体系だって、思考をまとめるのも上手くない人も多いね。この患者もそうだったと思うけど、俺は、なにか面白いものを感じる。」
「うん。確かに、この町では、海から採れる天然塩を町おこしに利用しようと、おかしなオブジェが、町の中に立て始めているね。なんか、奇妙な雰囲気だけど、宗教的な臭いは感じられないな。」
「まあ、精神病者が書いた気まぐれな散文だけど、精神病者には、気が病んだ人にしか気付くはずがないことを気付くこともあるのだと思う。」
「それは、君が医者として言っているのかい？」
「いいや、まさか、そんなことはないよ。」
　友人は、そういうとまだ手を付けていない日替わり定食の塩鮭に醤油をかけ始めた。みそ汁にも、塩を振った。
　僕は、あることに気がついた。この食堂の塩や醤油の残りが、どのテーブルのものも少ないことを。背中に冷たい汗が流れた。
「あのさ、あまり、醤油をかけない方がいいよ。」
「ああ、ここは、病院だろ。薄口醤油に、減塩みそを使っているんだ。」
　そう言った友人の塩鮭は、醤油に漬かっていた。