アクエリアス・キャラバン

by 墨森欽治


 屋外、抜けるような青空の下──大写しの草の向こうに柵があり、顔の黒いサホーク種の羊たちが、のんびりと草を食んでいる。
 そのうちの一匹が柵を飛び越えた。つられて、二匹、三匹、四匹…
「ふっざけるなっ! タコ!」
 ジャンは、枕もとにあったサイコロみたいな3Dプロジェクターを引っつかむと、壁に向かって叩きつけた。XXXサイトから落としたばかりのアダルトソフトの内容に激怒したのだ。
「なーにが『あなたを夢の世界に誘うマル秘映像』、だ! くそう、やられた!」
「荒れてるねえ、坊や」
 くすくす笑いを噛んだハスキーボイスが、ジャンの背中にからみついた。
「…リンさん、ずっと見てたんですか? いやだな、ノックくらいしてくださいよ」
 個室の扉に寄りかかる赤毛の女に、顔を赤らめたジャンが口をとがらした。
「ロックしないあんたがマヌケなの。それより、どう? あたしが相手をしてやろうか?」
 濡れた褐色の瞳に、ゆら、と妖しい炎が燃えた。豊満な体が軟体動物の触手のように隠微な動きでしなをつくる。
「たまには、ブロンドのチェリーも食べたいし」
「と、とんでもない」
 一瞬生つばを飲んだジャンだったが、ぶるぶる顔をふって辞退した。「赤毛のリン」と言えば、月面開発機構きっての「魔性の女」で通っている。十二人の屈強な情夫がそろって事故死か衰弱死、それがもとで12のキャラバン──地球の核融合施設すべてをまかなうヘリウム3の移動採集施設──を転々としていた。一度抱いたらもって三ヶ月、極めつけのカラミティ、札付きのマンイーターなのだ。
 現在の彼女の恋人、十三人目のむこうみずは、ジャンの所属するアクエリアス・キャラバンの副隊長、高木勇司だった。
 ジャンのうぶさに吹き出したリンは、なかば乳房のこぼれた胸元のジッパーを引き上げると、腰まで伸びた髪をかきあげた。炎のような赤毛がオーラとなって彼女をふちどると、微弱な重力に引かれてゆっくりと下りてくる。
「バカね、冗談よ。お気に入りのあんたに手を出したら、ユウジにどやされちゃう──さ、『堕ちたアルテミス』でユウジが待ってるよ」
 ジャンとリンが連れ立ってビアホールに入ると、口笛の嵐が出迎えた。
「遅いのう、リン。また、ジャンにちょっかい出しておったか」
 月震探査の名人、スタイナー爺さんが、黒い肌に赤く染まった酔眼をすえて絡んできた。
「あんたのブロンド好みは病気じゃて」
「爺さん、それ以上喋ると、口から手を入れて舌ごとペースメーカーを引っこ抜くよ」
 リンは軽口でいなしたが、それでもとなりに座っている恋人の顔をそっと見やった。
 分厚い胸板を作業着に包んだ四十半ばの高木は、黙々とまずいステーキをビールで流し込んでいる。
「お楽しみのところ失礼する」
 テーブルが水を打ったように静まった。いつ現れたのか、高木の背後に銀色の眼鏡をかけたグラッドストン隊長が立っていた。
「副隊長、昨日起きたヘリウム集積槽の故障の件は、どうなんだね? 今日の定時に現場写真を提出してもらう約束だったはずだが」
 長身の細面から出るきどったクインズイングリッシュが、いちいち耳に障る男だった。
 高木は、食事の手を休めない。
「黙っていないで、なんとか言ったらど──」
 す、と高木が、内ポケットからホログラフチップを差し出した。
「遅れて申し訳ない。食事を終えてから出すつもりだった」
 錆びた声でそれだけ言うと、上司には目もくれず、ビールを口に運ぶ。
「…ふん、せいぜい、そこのあばずれとよろしくやることだ。不吉な十三人目として、吸い取られて死なないていどにな」
「放っておけ」
 音を立てて席を蹴ろうとするリンを、座ったままの高木が制した。
「よく平気でいられるわね!」
 振り向いたリンが、やり場のなくなった怒りをぶちまけた。
「嫉妬じゃよ。ユウジより歳が下だし、現場の経験もない。『人望が集まらないのは、先に居座っていたあの黄色のせいだ』ってわけじゃ。逆恨みじゃな」
 スタイナー爺さんが肩をすくめた。
 リンは、中指を立てて出口に消えるグラッドストンを見ている。
「俺の実家は浄土真宗の古い寺でな」
 残ったビールを一気に飲み干すと、高木は猛り立っている恋人に向けて片頬をゆるめた。
「知ってるか? 仏教じゃ『十三仏』と言って、13は幸運の象徴だ──口直しにありったけのバーボンを持って来い。今夜は俺のおごりだ。明日は休みだし、みんな朝まで返さんぞ」
「あんたは毎晩そうじゃろうが」
 爺さんがまぜっかえし、陽気な雰囲気が戻ってきた。

 真っ赤な日の出に追われたアクエリアス・キャラバンは、動輪径10メートルに及ぶ巨大なキャタピラを動かして時速16キロほどの速度で月面を這っていた。
 環境に気をつかわずにすむ月では、45億年に及ぶ太陽風がもたらしたヘリウム3の回収に必要な莫大なエネルギーを、豊富なウランを使った熱電対発電でまかなえる。だが、効率の良い冷却にはエントロピー落差の大きい熱媒体が不可欠だ。月面で手に入る唯一の熱媒体は砂である。キャラバンは、常に放熱効率のいい夜の面を追いかけ、零下170度Cまで冷えた月砂を喰らい、千度Cに達している熱電対の一方を冷却する。温まった砂は高さ70メートルの乾留塔に導かれ、頂上からさらにマイクロ波で過熱されて溜め込んでいたヘリウム3を吐き出しながら落下し、巨大なムカデのようなキャラバン後部から排出される。最初のキャラバンであるサジタリウスが月面を這い出してからかれこれ20年あまりになる。12のキャラバンが排出し続ける微細な月砂は、月面全体を靄のように覆っていた。粉塵による光の散乱が、まるで大気が覆っているように斜めに射し込む太陽を赤く染めていた。
「お前さんは、すじがいいのう、ジャン」
 スタイナー爺さんは、簡易気密服のマイク越しに、静電集塵車に乗って月砂運搬チューブの掃除をしているジャンをほめた。
「砂だまりにアタリをつける勘がいい。月震探査を頼りにどれがヘリウムたっぷりのたまりか見ぬく──こればっかりは、教えて身につくもんじゃありゃせん」
 経験20年のベテランにほめられて、内心得意だったジャンの耳に突然の警報音が届いた。ほんの一瞬遅れて続けざまの破砕音が、キャラバン最底部に位置する整備区画を揺るがせた。
「第七級警報じゃと! いったい、どうしたっていうんじゃ?」
 ゆっくりと横倒しになっていく光景を見ながら、退避構に駆けこんだ爺さんがわめいた。折り重なる作業車両の間をくぐり抜けてきたジャンが、真っ青な顔で右腕をおさえている。
「骨をやっちゃいました…」
「医務室、いや、その前に管制室じゃ。何が起きたのかわからんと、こっちの命が危ない」
 いまや床になった壁を兎のように跳ね抜けた二人は、ごった返している人ごみをすり抜けて、管制室の中に入った。
「よかった、あんたがいてくれて、の」
 スタイナーはホッとしたものの、いつも冷静な副隊長が、蒼白な顔で横倒しのコンソールパネルに見入っているのに気づいた。
「落盤だ。クレーターの外壁がごっそり崩れて、メインタワーを直撃した」
 ヘリウム3を含んだ月砂は、昼夜の300度にも及ぶ温度差にさらされ、急角度でそそり立っている外壁表面が月震によって徐々に削れ落ちるため、大規模クレーターの外壁沿いに大量に分布している。それゆえどのキャラバンも回収効率を優先して、クレーター外壁を舐めるように動いていた。
「隕石落下でもあったんだろう、予想しない規模の月震が起きたんだ──折れた先端部で作業していた四十人が、退避ブロックもろとも生き埋めになった。通信は切れているが、たぶん半分以上は生きているだろう」
「もう一つ──原子炉の制御が効かないのよ」
 影のように高木によりそっていたリンが、言葉をひきついだ。
「落盤の破片が燃料棒の引き上げ部に挟まったの。隙間が小さすぎて、遠隔操作のパワーローダーも入れない。放っておけば、一時間もしないで炉心が溶ける。あたしたちは退避できても、埋まった人たちは全滅するわ」
「隊長は?」
 ジャンが尋ねると、リンは頭を振った。
「生き埋め組の一人よ。視察中に巻き込まれたの」
 パニックが周囲を暴風のように過ぎているのに、四人の間には深い沈黙がおりていた。
 答えは明白だった。誰かが破片を破砕して、炉心溶融を回避する──それは、任務についたものが即死レベルの放射線に身をさらすことをも意味していた。
「俺、行きます」
「よせ、破砕用爆薬のセットは右手が折れているお前じゃ無理だ」
「やめて、ユウジ!」
 ジャンを押しのけて防護服を着こみ始めた高木の手に、リンが泣きながらすがった。
「こんなに震えているじゃない! 怖いんでしょ、死にたくないんでしょう?」
「頼む、それ以上言わないでくれ」
 高木は、リンに懇願した。
「ほかの奴らはとっくにパニックにはまって逃げちまった。踏みとどまったのはこの四人だけだ。ジャンは右手が動かない。爺さんでは、到着前に電磁障害でペースメーカー入りの心臓が止まる。お前は──女だ。副隊長の俺しかいないんだよ──くそっ、どうしてこんなものがつまめない?」
 凍りついた視線を延々とジッパーをつまみ損ねている指先に当てながら、高木がうめいた。
 涙をぬぐったリンが、祈るように天を仰ぐ。
 目を閉じると背すじを伸ばした。
 ぎり、と唇を噛む。
 鮮血の滴る唇で恋人の口をふさぐと、血に染まる舌がからみ、白い歯がその唇を噛んだ。
「…これで、あたしの血は、あなたの血。あなたの血はあたしの血よ…ユウジ、一緒に行くわ」
 ?木の蒼白な顔から、弱々しい表情が消えた。口元の血をぬぐうと、いつものように片頬だけゆがめて、微笑んだ。
「お前は、やっぱり『幸運の女神』だな」
 どすんという鈍い音とともにリンの体が前のめりに折れた。
「あ…」
「ったく、この馬鹿は──死ぬのは俺だけでたくさんだろうが」
 リンの後頭部をしたたか殴りつけた高木は、言葉を失って立ちつくすジャンにイタズラ小僧のような笑顔を向けた。
「すまんが、リンを頼む。雌虎みたいな奴だが、かわいがってやってくれ──リン、俺のことは忘れろ。いい子を生めよ」
 言い置いて、ヘルメットを抱えた高木は、飛び去る勢いで、緊急作業用のエアロックの向こうに消えた。
 やがて、くぐもった爆発音が壁を震わせると、アクエリアス構内に炉心停止を告げるアナウンスが流れた。

 紺碧の空に刷毛で刷いたようなすじ雲が流れていた。
 瀬戸内海を見下ろす小高い丘に真新しい墓標が建っている。慣れない仕草で手を合わせるとジャンは白い菊の花束を供えた。
 赤ん坊のむずがる声が海風に千切れ飛ぶ。
「高木さん、ひょっとしたら知っていたのかもしれないね…」
 ジャンの呟きが届いたのかどうか──リンは、黒髪の元気な男の子をあやしていた。
 燃えるような赤い髪が風に舞っていた。


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