by 夜長
少し樟脳の匂いのするその部屋にはいる時、私はいつも悪いことをしているような気持ちになった。敷居をまたいで二、三歩。正座して薄紫の縮緬の覆いを捲り上げると 、その鏡面はいつも磨き上げられていて、指紋ひとつついていなかった。 引き出しを開けてみる。美しい花の細工の、銀の入れ物を手に取る。 母の形見のそのずっしりと重い入れもののふたを開けると、中にはおしろいが入っている。
「お兄様の匂い。」
それは、この部屋に漂う几帳面な樟脳の匂い、そして、このおしろいの匂い。
廊下から衣擦れが聞こえる。そして、それはだんだん近くなる。
畳に影が映るのを、ちらっと横目でみる。陽光が遮られ、ふっと部屋が暗くなる。
「霧依は、お化粧道具が好きね・・・。」
兄は私の後ろにすっと座ると、後ろから手を伸ばし、引き出しから柘植の櫛を取った。
「さあ・・・。」
明かりをつけない部屋に兄はよく似合う。鏡に映っている兄は、右半身だけ木漏れ日
にぼんやりと照らされて、お社の奥に入っているご神体みたい。怖くてきれいだ。
兄の白い手が、私の黒髪の上で踊る。髪が櫛の歯に梳かれる「すうっ。すうっ。」という音が耳元で聞こえる。
「霧依の髪は、本当に素直で、お人形さんの髪の毛みたいね。」
髪をすき終わると、兄はまた櫛を引き出しに戻す。ぱさっ、ぱさっとおかっぱ頭をふってみる。椿油の香りが鼻をかすめ、 薄明かりに髪がきらきらと輝いた。
「お兄様はちょっと出かけてきますからね。良い子でお留守番していてちょうだい。ね。」 兄は、私の頭に軽く手をおくと、部屋を出ていった。
からからから、と戸を開ける音がして、はっと我に返り玄関に走るともう兄はいなかった。履き物をつっかけて庭に出ると、太陽のまぶしさに目がくらんだ。わっと日に蒸された草の匂いがした。門の方にまわると、急いで道に出た。遠くの下手に町が小さく見える。くねくねと曲がった坂道を、兄の姿が光を反射して、白く揺れながら下って行った。
家に戻り、本棚から大きな本を取り出すと、それをひしと抱えて私は縁側に向かった。それは、兄の「昆虫」図鑑だった。
「今日のお兄様のお着物の色は・・・。」
夢中になってページを繰ってゆく。私にとって「昆虫図鑑」は色彩の見本帳だった。
「おながぐもかしら、おおみずあおかしら・・・。」そういえば、今日はルビーをつけていらっしゃった・・・。あのきれいな赤は、くさかげろうの複眼によく似ている・・・。 「今日は、くさかげろうだわ。」
図鑑を見つめていると、ちらちらと視界の端でうごめくものがあった。それは紙魚だった。私は紙魚が嫌いだった。紙魚はなんだか裸の人間に似ている。幼い私には、全く美しいところがないように見えた。あわてて、ぱん。と本を閉じた。そっと開けると、どこにも死骸はなかった。日に透かしてよく見ると、それは、かげろうの幼虫の絵の真上でつぶれていた。「よかった。」白い部分や、好きな虫のところでなくてほっとした。
私はいつも早く大人になりたかった。兄が見立ててくれる着物は、いつもその場その場にとてもふさわしいもので、それを着た私はいつも称賛の的だったけれど、私は、一刻も早く自分で好きな着物を着たかった。美しい昆虫たちのような衣装を好き勝手に纏ってみたかった。
年の離れた私の兄は、雪女のようにすっとした、身のこなしの優雅な人だった。天才と呼ばれた母の血を継ぎ、幼い時から「お花」に親しみ、若くして、「先生」と呼ばれる立場になった彼は、優しく、物静かで、この人にはいったい血液が流れているのか、と思うくらいに不思議な静謐を体に閉じこめていた。そして・・・生徒が皆女性だからだろうか、兄はいつもおしろいの匂いがした。「霧依さんはお兄さまによく似ているわね。」と言われるたびに背中がぞくっとするくらいにうれしく、「私も本当にあんなに美しいのかしら。」と疑問に思ったものだった。
しかし、小学校も高学年になるころ、私は兄に1つの疑念を抱くようになった。「兄は、私の裸に興味があるのではないか。」という疑念だった。
ある時、入浴中に兄がそばを通る気配がした。そばにお手洗いがあるので、その時は「お兄さま、お手洗いかしら・・・。」としか思わなかったが、それから後、気をつけていると、兄は自分の入浴中に頻繁に、お手洗いに行くような気がしてならなくなった。私は、兄が怖くなった。普段も、兄が通るとびくつくようになった。兄もまた「男性」なのだ。という意識が芽生えた。私は、「男性」にたいして過敏だった。私にとって「男性」は恐怖の対象だった。
そんなある日、兄は珍しく酔って帰ってきた。その時、私はちょうど脱衣場にいて、これから入浴しようとしていたところだった。「霧依はどこ。」明らかに酔っている兄の声を聞いて、私は思わず身を縮めた。悪寒がした。急いで浴室に入ろうとしたその時、兄がやって来た。兄は薄暗い脱衣場にぼーっと立っていていっそう怖かった。
「霧依」
「・・・」
「お兄様に見せてちょうだい。」
「霧依をぜんぶみせてちょうだい。」
やはりそうだった。私の予感はあっていたんだ。逃げ場のない恐ろしさに、私は立ちすくんだ。体中の血が全て頭に上った。
「りーん、りーん」
ちょうどその時電話のベルが鳴った。
兄は、はっとしたように 表情を変えると、あわてて電話のほうへ小走りに去っていった。 私は急いで湯船に飛び込んだ。体が震えた。私はお湯の中に半分顔を沈めて、縮こまれるだけ縮こまって自分の体を抱きしめて、静かに泣いた。
風呂から出ると、私は急いで自室にこもった。湯船の中で、何度も何度も「出ていこう」と考えたのに、やはり、それはできなかった。どこかで、「お兄さまは酔っていらしたから・・・。」と信じたかった。無理矢理そう信じようとした。それに、ここを出ていって、
行くところがあるのだろうか。
物心ついてから、私は世間が怖かった。本当は、外に出るのが怖くて仕方がない。学校だって行くのが怖かった。道で、知らない男の子が声をかけてくる。「君は僕のこと知らないかもしれないけど、僕はよく知っているよ。住んでいる所も、この前、どこに外食に行ったかも・・・。」名簿をみて、男の子が電話をしてくる。私を知っている、顔も知らない男の子。なんで、学校の名簿は、全校生徒に配るんだろう・・・。無言電話は日に何回あるかわからない。高学年になって初めて担任が男の先生になった。先生が言う。「先生は、霧依ちゃんのことを好きなんだよ。大きくなったら、霧依ちゃんをお嫁さんにもらおうと思っているんだよ。」授業中なのに、誰もなにも言わない。笑ってくれたらなんでもないのに、誰もくすりとも言わない。いつもは仲のいいお友達なのに、その時だけ、みんな知らない人みたいだ。
でも、別のクラスの親友の奈美さんだけは、私のことをわかってくれた。奈美さんだけは、他の女の子のように「霧依ちゃんが男の子を誘っているんでしょう。」なんて絶対に言わなかった。奈美さんは、私が悲しそうな顔をしていると、優しく口づけてくれる。私は、校舎の裏側で、体育館で、何度も何度も奈美さんと口づけた。奈美さんの唇は、柔らかくて、大きさも私の唇とちょうどぴったりだった。教室で口づけしているのが見つかって、冷やかされたときも、奈美さんは「好きなんだもん、いいじゃない。」と言って、横目で相手のことをにらみながら、わざと私の口の中に舌を差し入れてきた。奈美さんの舌は暖かくてとろっとしていた。
成績はオール5で、美人で体格もいい奈美さんのあまりの開き直りぶりに、相手はびっくりしたように「おまえら変態だ。」といいながら去っていった。
それからわたしたちは「できている」という噂になったが、奈美さんのご威光のおかげか、所詮小学生は子供なのか、それは不思議と悪意のないもので、そのことで、学校生活に支障をきたすことはなかった。
そして、その後の口づけは、舌を入れるのが当たり前になってしまった。
でも、そんな心の支えの奈美さんも、家庭が複雑で、もしかしたら、名字が変わるかもしれない。と言っていた。本当は私なんかかまっていられないはずだった。奈美さんには迷惑はかけられない・・・。
お父様もお母様も亡くなってしまった・・・。やはり、私にはお兄様だけ・・・。
泣き疲れて、眠り、次の朝起きると、兄はもう出かけていなかった。
兄の気配がしない家を、私はしみじみ「寂しい」と感じた。兄のことで苦しんでいるのに、その苦しみを和らげてくれるのは、やはり兄しかいない気がした。
その日、私は初めて病気でもないのに学校を休んだ。横になって、天井を見ながら学校って簡単に休めるんだ。と不思議な気がした。今まで、学校ってなんのために行っていたんだろう。と考え出すと、兄がいつも、「学校に遅刻するな、とか、休むな。」と言っていたのは、なぜなのだか、それすらもわからなくなってきた。これからの自分がだんだん「いけないこと」に対して鈍感になっていきそうで、ただそれだけが、底なく感じられて恐ろしかった。
玄関が開く音がする。兄が帰ってきた。ふと、時計をみると、夕方になっていた。
「霧依、ちょっといい。」
ちょっとびくっとした。兄の声は、疲れている感じだった。
「ちょっと待ってください。」
やはり、寝姿の時に兄が入ってくるのは本能的に怖かった。
私は起きあがると、急いでワンピースに着替え、ざっと髪をなでつけた。その間のふすまの向こうの兄の気配も少し怖かった。兄が、私の着替えを待っている・・・。途中、寝間着を脱いだ時の衣擦れの大きさに、思わず襖を見つめた。その時初めて、襖で仕切られているだけの自分の部屋を「無防備だ」と感じた。
「はい、いいです。」
すっと襖が開き、兄が入って来た。ふっと空気が動いた。
兄は、襖を閉めると、そこに立ちつくし、それ以上は動かなかった。
「突然のようだけど・・・。霧依、中学から、私立に行きたいと思わない?お兄様、霧依が5年生になってから、ずっと考えていたんだけど・・・。」
兄は、独り言を言う人のように、俯いたまま、静かに話した。
私も正座をしたまま俯いていた。
「それで、今日、東京のおじいさまの所へいってきたの・・・。」
兄は、ほんの少し顔を上げた。
「霧依、これから、東京に行きなさい。」
兄は、優しく、きっぱりと言った。
信じられないことだけど、やはり、もう自分と兄は、一緒に二人で暮らすことはできないんだ。ということに、頭が急に血液を失ってぐらっとした。でも、なんだか、そうするしかない気がした。
なんにも考えていないつもりなのに、大粒の涙が手の甲に落ちた。
兄は部屋を出ていった。
その日も、また、泣いたまま寝てしまった。兄のこと、奈美さんのこと、色々考えた。でも、どうせ失うなら、希望がなくなるほど全てを失ってしまいたい、と思った。そのくせ、失うものの大きさにただ泣けてきた。二日続けて泣いたので、すっかり疲れてしまい眠りは変に深かった。
その日の夢には、「神様」が出てきた。私にはなにも信仰がないし、私がイメージしている白い服を着た神様とはぜんぜん違う人だったのに、すぐ「神様だ」とわかった。大きな屋根のような金の冠をかぶっていて、そこには小さな丸い薄べったい金がのれんのようにたくさん下がっていた。ずっしりと重そうな金の刺繍の服を着て、体全体が挿し絵でみる神様のように金にけぶって輝いていた。
「神様」は、私に何かをおっしゃって、私の後ろにお立ちになった。私は、なすがままだった。「神様」は、私の着衣を捲り上げると、ゆっくりと、後から私の中に何かをお入れになった。そのとたん、私の背筋に熱いものが走って、私は背中を反らせ、思わず喘いだ。小学生だった私は、こんな行為について、当然なにも知らなかった。しかし、恐ろしい快感に足ががくがくと震えた。なにか、家具のようなものにつかまり、体を支えるのが精一杯だった。私たちは、イザナミとイザナギの型で交わった。
そして、その最中に「神様」は、私の運命を教えてくれた。
そうして、私は、一ヶ月後に、祖父の所へ行くことになった。それまでの二人の生活は、他人のように冷たく、私はほとんど兄と顔を合わせることはなかった。
祖父の家での生活は、兄と住んでいる時のように静かなものだった。祖父や祖母は、私に好きな服を買わせてくれたので、私はいつも全身真っ黒い服を着ていた。もう、あれだけ憧れていた美しい昆虫のような色彩を纏うことはできなかった。そして、塾がない日は、家に帰るとくたくたになるまで広い庭で土をいじったり、虫を観察したりして暮らした。祖父母は、そんな私を「将来えらい植物学者になるだろう。」と、自由にさせた。
東京に来て、すぐに進学塾に通い、なんとか私立のエスカレーター式の女子校に入り込んだ私には、兄のこと以外、当面なにも心配がなかった。兄からは、時々美しい和紙の封筒に入った手紙が届いた。和紙の封筒と、和紙の便箋は、ふっくらと空気を含んでいて、そっとかぐといつも兄の匂いがした。東京から鎌倉までのの距離はわずかなのに、兄と私は、人の手を経なければつながることはなかった。
そうして大学生になり、私は祖父母の家を出た。
大学生になって間もなく、私は学校の廊下で、一人の女性に出会った。彼女は、髪の毛を1つにゆるく束ねていて、輪郭のところで、束ねのこした髪が、美しく波打っていた。
私は、彼女のそのほつれた髪の退廃に釘付けになった。彼女の体から、なにか渦巻きのようなものが発散されていて、私は一瞬それに捕らえられてしまった。
それから数日後、私は図書館で友人としゃべっていた。映像美で有名な監督の新作の映画を観にいくか、行かないか、がテーマだった。そこに、つっと彼女が通りかかった。そして、
「私の友人が見に行ったといっていたけど、つまらなかったって。」
と、話しかけてきた。私はぎょっとした。しかし、私の友人は、
「そうなんだ、じゃ、どうしようかな・・・。」
と普通に会話を続けている。私は二人の会話を、どぎまぎしてテニスの審判のように頭だけを動かして、追いかけた。
彼女が去ったあと、
「あの人誰?」
と友人に聞くと、
「ああ、違う学部の子。あの子、写真部のモデルやっているから、写真部の友達に紹介されたの。」
という返事だった。
入学して間もなくなのに、皆はなんて行動的に世間を広げているんだろう・・・。と思うと、少し焦りを感じた。私も彼女の友達になりたかった。
「あの子としゃべってみたいな・・・。だって映画詳しそうじゃない。」
ちょっと不自然な申し出だったかしら・・・。と思う間もなく
「いいよ。じゃぁ、いっしょにお茶飲みに行こうよ。」
ということに決まった。
喫茶店で初めて話した彼女は
「私、あなたのこと知ってたわよ。」
と、深い瞳で私を見つめた。
全部で5人の仲間といたのに、もう、私には彼女しか見えなくなっていた。
「この人はね・・・。」と、遠くで友人が言っている。それを遮って、彼女は
「私、あなたのことを飼ってみたいな。ガラスケースに閉じこめたいな。」
と、私をのぞき込んでから、視線をレモンティーのレモンに落とした。
「気をつけなよ。絵美子は危ないんだから。」
と、遠くで友人達がきゃぁきゃぁ騒いでいる。
絵美子って言うのか・・・。レモンを見たからか、私の口の中に唾液があふれてきた。
それから後はなにを話したのか覚えていない。
そんなことがあってからしばらくして、絵美子と私は一緒に暮らしはじめた。それは、あまりにも自然で、なんでもっと早く出会わなかったかが悔やまれた。もう離れられないと思った。
そして、絵美子と暮らし初めてから数カ月が過ぎたある夜、私は夢を見た。
憔悴しきった兄が、うなだれて座っている。元々細い人だったが、着物の上からでもやせ衰えているのがわかった。顔はどす黒かった。兄は、申しわけなさそうにするばかりで、なにも言葉を発しない。時々、じれったそうに俯いたまま身じろぎした。どうしても言葉が出ないようだった。そんなことがどのくらい続いたのだろう。私は目を覚ました。私は祖母の「死んだ人が夢に出てくる時は、口をきかないものだよ。」という言葉を思い出した。そして、兄が死んだと直感した。
兄を亡くしてから3日間は、ものを食べては吐く。という生活が続いた。葬式の慌ただしさの疲れもあったのだろう。お酒も覚えた。結局、小学生以来一回も会わなかったのに、私は彼を一時も忘れたことがなかった、ということを、いやというほど思い知らされた。兄は、絵美子とは別の存在だった。ただ生きているだけで良かった。逢えなくても良かった。この世界に兄が存在している。ということは私の心の支えだった。でも、会えない理由があったのだった。
兄を亡くして3日目の夜、また夢を見た。兄は、やはりやつれた姿で、優雅な白い指をそろえてついて、地に頭をこすりつけていた。やはり兄は口をきかなかった。私は兄に言った。
「知っていました・・・。」
と。
兄は、頭を上げると、私の顔をまじまじと見た。その表情は幽霊じみていて、一瞬ぞっとしたが、私は、もう兄から逃げ隠れするのはやめようと思った。どうせ、無駄な抵抗なのだから。
兄がゆっくり頷いたところで目が覚めた。
私は現実を直視することに決めた。
この3日間私は認めたくなかったのだ。本当は、死んでしまってから、兄がいつも私のそばにいることを。幼い頃、あれだけ、兄の視線から我が身を隠そうとしていたのに、私の生活の全ては、とっくに兄に見つめられていたことを。
私はもう兄のものだった。
次の日の夢に出てきた兄には、私の知っている美しい頃の面影があった。
兄と、私は見知らぬ旅館のような所にいた。薄暗い部屋には1つだけ床が延べてあった。
掛け布団は、真ん中だけ丸くぽっかりと開いた、白い綿のカバーにおおわれていた。その開いたところから見える布団の生地は、まるで花嫁衣装を仕立て直したような、赤地に金の縫い取りがしてある絹だった。兄は、私を後ろ向きに優しく抱き寄せると、髪をなでた。
私は久しぶりに兄の香リに包まれた。
「ずっと長い間、こうしたかったのよ・・・。」
兄が口を開いた。私は、泣けてたまらなかった。
兄は優しく私の前髪をかき上げ、額、頬とそっとなぞった。そして、その指が首筋まで下りた時、兄は私の肩をつかむと、自分のほうに向き直らせた。そして、ぎゅっと胸に抱いた。それから、そっと私を引き離すと、優しく口づけた。
その日の夢は、そこで覚めた。目を開くと、まだ朝にはなっていなかった。私は、なんだか無性に切なくなって、隣に寝ている絵美子の唇にむしゃぶりついた。絵美子は、少し眉をしかめると、目を閉じたまま、私の要求に答えた。私達は、長い長い時間、唇だけで愛し合った。それは今までの口づけとは違うものだった。そのうち、絵美子の手の動きが妖しくなり、体を求める動きになってきたので、私は体を離した。しばらくすると、絵美子はまた寝息を立て始めた。
次の日の夢で、私は、もうすっかりもと通りに美しくなった兄と結ばれた。
その瞬間、電流のような快感が、兄と私を繋ぐ一端から、頭の先、つま先と、全ての末端部分まで貫いた。全ての先端から、白い光が放たれるのを感じた。私は、その時「神様」を思い出していた。絵美子と寝ても得られなかったこの快感・・・。
そして、同時に「神様」の告げた私の運命も思い出していた。
「全てのことは、おまえがこれから想像した通りになるだろう・・・」
次の日、私は買い物に出た。山のように衣服を買ってきた。
数日経つと、私は、学校で多くの友人にこう言われるようになった。
「霧依ちゃん、最近恋でもしているの?ずいぶん明るい色の服を着るようになったわね。」
「ふふふ。」
私はうつむき、恥ずかしそうに笑った。
私は、もうなにからも自由になれた気がした。
私はもはや兄になんの秘密もなかった。兄は、いつも私の側にいる。私は、絵美子と寝るとき、できるだけ美しい表情を作るように努力した。食事の時も、エロティックに見えるように唇と舌を動かした。朝起きて寝間着を脱ぐ時にさえしなを作った。そして、肩越しにちょっと後ろを見て、言うのだった。
「お兄様、いらっしゃるんでしょう?」