地獄的な夢

by 柊修一



17

 彼はこんな夢を見た。
 夜中に布団の中で目を覚ますとどこからともなく軋むような唄が聞こえてくる。それは人間の言葉であったが人間の声ではなかった。どこか血にまみれた様な響きを帯び、暗い糸を引くような曲調の旋律にあわせて聞こえてくる。それがどこから聞こえてくるのかも分からない。へばりつくような陰惨な歌声が鼓膜を嘗め回している。むしろどこかからというよりは自分の頭の中、耳の奥で歌っているような感じだった。頭蓋骨の中で悪魔の歌声が渦巻いているような感じなのだった。
 彼は最初、半睡状態で聞く一種の幻聴の類なのだろうと思って無視していた。それもまた夢だと判断していたわけである。実際、視覚的なビジョンを伴わない夢というのも在りうる。闇の中で悪魔の唄を聴いている夢と考えれば至極合理的だろう。
だあらりだらりと終わりなく
    闇に悶えて実を結ぶ
   [・・・残念ながらこの悪魔の唄は残りの部分が欠落している・・・]
その壊れた電子楽器のような地獄色の旋律は冒涜的な歌詞と共に鳴り続けている。彼はたまらなくなり、思わず薄目を開けてみた。そこは彼の部屋ではなかった。まず彼は寝台ではなく畳の上に敷かれた布団に丸まっている。うつ伏せになり、腕を枕にしていた。顔は横の窓のほうに向いていた。濃紺の闇に閉ざされた景色に目を凝らす。窓硝子の奥で金色に黄ばんだ満月が覗いている。元来、彼の住んでいる部屋からは月など見えはしない。隣のビルの壁に塞がれているのである。
彼はようやく合点した。それは自分が眠っている夢なのだと。
さらに目を凝らす。すると窓の下、何かがあるのに気がついた。その三つの物体は青い闇の中、月明かりの欠片によって視界に浮かび上がってくる。それは差し込んだ月光の直接的な恩寵など受けてはおらず、二次的な光の照り返しによって輪郭だけを示してくる。
それが何だか分からなかった。ぼんやりとした頭の中で漫然と観る。何の思惑もなしに瞑想的とさえ言える見方で眺めていた。しかし直にそれどころでなくなってしまう。
何かに踏まれたのを感じたからだった。それは[・・・一部分欠損・・・]だった。足の感触が幾つも幾つも彼の身体を乗り越えていく。視線を微かにずらす。窓の隣にある机の引き出しが開いており、中から恐ろしいものが溢れ出してきているのだった。影のような亡者の行列が不可解な唄を謳いながら這い出してきているのだ。その姿は闇のようで見えない。形さえぼやけて見える。月明かりなど意に介さぬかのように、その実態は影の闇だった。いや実際には光が当たっていないためのようでもある。ともあれそれを直接目の当たりにせずにすんだのは幸いだったのかもしれない。
いつの間にか月が高くなったらしい。その黄ばんだ骨のような光は窓際の畳を照らしている。つまりは窓際の不可解な物体を照らし出していたわけである。
窓の下にあるのは人間の残骸だった。手足と頭を切り取られた胴体が肋骨と腹筋を切り取られて並んでいる。薬品に漬けられた標本のように内臓をさらけ出して転がっている。妙に生々しく、濡れた感じに光っている切断面。二つは壁に立てかけられるようにして彼の方を向き、一つは横向きに転がっていた。夢と思いつつも流石に彼は震え、恐怖の声で呻吟し続ける。そしてそれを無視するかのように亡霊たちの行列は歌いながら彼を踏みつけていくのだった。

18

どうやってあの部屋から逃げ出したのかわたらない。彼は寝巻き姿で裸足のまま、丑三つ時の町に立ち尽くしていた。足が痛むのは硝子の欠片が食い込んでいるから。腕や顔にも傷を負っている様子である。どうやら窓硝子を割って飛び降りたらしかった。
 とても静かで町全体が死んでいるかのようだった。
 冷たいアスファルトを足裏に感じつつ歩いていく。そのデコボコした表面とうまく取れなかった硝子の粒子が足を苛んだが特に気にしなかった。痛覚はどこか現実離れしていてよそ事のように感じられたからだ。周囲の風景にしても同じ事で、何か映画でも観ているかのようなよそよそしさがあった。垣根からはみ出した庭木の枝が揺れていたけれども彼はその肌に風を感じないのだ。
 とぼとぼと人一人いない細い道を歩いていく。郊外の田舎町のようで左右には屋根の低い家々が軒を連ねている。古びた瓦屋根に塗装の剥げかかった塗炭の壁。あるいは年季の入った木製の板張りだったりもする。その道は家の間を縫うように細長く続いている。都市部の定規で引いたようなまっすぐな通路ではなく、直線の部分さえどこか歪だった。全時代的な電信柱の半ば切れ掛かった水銀灯が歪んだ道程を照らしている。上を見上げれば霞んだ星空。星の光はかなり弱く疎らにしか見えない。きっと空気が澱んでいるに違いなかった。工場か何かからの煤煙が大気中で星の光を妨げているのだろう。その微弱な輝きを街路灯の不規則な点滅がそれをさらに観察しにくくしている。
 木製の壁に炭素棒で書かれたらしい落書き。品性の欠片もなく奇怪な文様を描き出している。脈絡のない唐突な単語の羅列に卑猥な図画が踊っている。呪文のような一連の平仮名は解読不能で何か不吉な印象を与えている。おそらくは精神的に低劣な連中の書いたものなのだろう。しかしその魂が劣等で原始的であるほどに存在の基底にある混沌や異世界からの影響を受信しやすいものなのだ。おそらくは集団自殺する鼠の群れや共食いする猿と同様に、この落書きの主は自分のやったことを理解してはいない。自分自身の意思のつもりで何者かに駆り立てられて殴り書いたのだろう。
さながら亜米利加のあの奇怪なる町の親族のごとき観がある。[・・・一部分欠損・・・]踏み下ろす角度を誤れば、得体の知れぬ世界に落ち込むやも知れなかった。それが夢であったとしても現との境界は真に曖昧なものであることは明白と感じられた。もっともそれさえも夢の中の出来事なのだろうが。夢の中において夢を見るのもまた一興というわけである。
 そのとき彼は自分の辿ってきた道筋がやや太い車道が突き当たっているのを見出した。丁字型の交差点の手前に立ち止まり、白く塗られた金属製と思しき柵を眺める。どうやら歩道が左右についている坂道らしい。彼はやや思案して慎重に歩を進めた。やがて車道に身を出そうとしたとき彼は再び硬直する。その耳に微かな物音を聞いたからだ。妙に聞き覚えのある無機質で継続的な音。それは坂の上の方から近づいてくる。彼は坂上側の壁にぴったりと背中をつけた。坂下側ではそれが通り過ぎる際にこちらが丸見えになってしまう。逆にこうすればやり過ごした相手の背中を拝めるというわけだ。
 案の定、それはこちらには気がついていないふうだった。そして自動二輪が前輪を上げ、後輪のみで坂を下っていくのを確認することが出来た。だが奇怪なのはその操縦者だった。腕だけなのだ。足も胴体も首もなく、宙に浮いた腕だけがハンドルを握り締めて器用に坂を下っていく。おまけにその腕は銀色に光る骨のようだった。[・・・以下、三行ほど欠落・・・]
 彼は驚いたが別段に怖いとも思わなかった。これは夢なのだ。せいぜい楽しめばいい。そんなふうに腹を括っていたからだ。夢と現が交じり合うことなどそうそうあるものではない。それは科学的に思考すれば至極当然の帰結である。
 あの二輪車は坂の上から来た。それならばその先に何かあるに違いなかった。彼は即座に確かめに向かうことを決める。急がねば本当に夢から覚めてしまうこともありうるだろう。ただし、その車道を直接に遡るような愚かなまねはしない。車道に並行するように入りくねった小道を早足に歩いていったのである。夢の中とはいえ若干の恐怖の感情が残っていたこともあるだろうし、途中くだらぬことで時間を盗られたくはなかったからだ。

18.5 [後で邪教のスコラ学者に付け足された解説とも考えられる一節]

彼は常々思っているのだ。悪夢、特に奇怪な夢を見ることは楽しいことだと。それは倦怠たる日常の鬱屈を幾らかは代補してくれる。第一に目覚めたときに快いものだからだ。亜剌比亜の石油王になった夢を見ようが完全に心の満ち足りた日々の夢を見ようが、醒めてしまえば残るのは空虚しかない。そこへいくと悪夢の目覚めは快い。例えば独逸における絶滅収容所の囚人の一人が悪夢に魘されていたときに、同室の囚人はあえて放置したという。それはおそらくは正しい判断だが留意すべき点があることを忘れてはならない。それは逆に幸福な夢を見ていたならばすぐに起こしてやるべきであったということだ。あるいは首を絞めて幸いなるままに命を絶ってしまうのも賢明な方法だろう。長い温かい夢から起こされて絶望のみの現実にさらされたならばその囚人は落差に発狂しかねまい。狂ってしまえばまだ良いほうでなまじ正気を保っていたならばその悲嘆は見るに耐えまい。
 現実においてはある程度まで痴呆であるのは良いことだ。三界火宅とはよく言ったもので人生には奇怪な出来事しか起こらないようになっている。適度に感覚が麻痺していなければ耐えられまい。その点で古代の文学作品や古伝承の類は真実を映しているだろう。しかるにさる独逸の碩学が「文学は近代に入って甘たるくなり菓子屋の仕事になってしまった」と嘆いたことはもっともな議論である。浪漫主義の弊害が吹き荒れて人間はすっかり弱くなってしまった。太古の神々が基督教の下でとるに足らぬ悪霊とされたように、本当に読まれるべき言葉は汚泥の中に沈んでいる。真理は単純にして残酷なものである。仰々しい理念を持つことだけで進歩したと思い込んでいるのだ。基本的人権などという思想を信じ、誰もが「自分には救われる権利がある」などと思い込んでいる。それはとんでもなく思い上がった勘違いだ。「風の前の塵に同じ」というではないか・・・。人間は真実を直視する強さを失ってしまった。

19

 坂の上には病院があった。併設の脳病院と一緒に四階建ての建物が煉瓦の塀に囲まれている。裏隣にあるのは大学か何からしい。この小さな町にはおよそ不釣合いな施設だったが、きっとその税収は町を潤しているに違いない。もし税法があるとすれば。
 鉄の門を潜って敷地内に踏み込む。守衛はおらず、扉が開きっぱなしになっていたからだ。まるで彼を待ち受けていたかのような気配さえ見て取れるほどの感じだった。敷石を敷き詰めた通路の左右には芝生が生い茂っている。相も変らぬ静寂の中、門から中央の建物に向かう一本道を辿る。

(中略、以下22節の一部)

 彼[19節までの「彼」と同一人物]は蹲り、絞るような声で問うた。悲嘆の感情が滲み出ている。
「こ、ここはどこなんだ。じ、地獄なのか・・・」
 医師は声を上げて笑った。
「天国だよ! 少なくとも俺たちのような連中にとっては! この町は二重に存在する、生きている連中と俺たち悪霊の町が重なって存在するんだ。素敵な奇跡、神の御業で出来た町なんだよ。もし神がいるとすれば、だが。」
 それは絞首刑になった囚人が無縁墓地の棺桶の中で見る夢。

* * *

 これは昨今ネット上で流布している『エゼキエル偽書』からの抜粋である。つまりは哲理を説いた『漆黒の書』や知恵文学の流れを汲むといわれる『ヨシュアの知恵』などと共に遥か未来から送られてきたとされる文書群の一篇であるらしい。ただし、現存する教会・寺社等とは何ら関係がない代物で、これが出回り始めた当時のバチカンなどからも異端文書として指定されたと聞いている。
 ちなみに中略の後に出てくる「医師」は主人公である「彼」の生前の犯罪者仲間であり、削除した部分ではこの医師のあまりにも反人道的な悪行が語られていたのだが、そのまま公表するに忍びずあえて伏せさせて頂いた。ちなみにこの医師は元々は誠実な人間だったのが、患者の裏切りにあったことをきっかけ変貌したかに受け取れる記述もある。
このあと主人公の「彼」が悪霊として幾多のあまりにも非人間的な事件を起こすのであるが、それも同上の理由で省略させて頂いた。この断片全体としては恣意的な悪行を称揚し、人間の良心を否定する内容となっている。
ちなみに『地獄的な夢』というのは私が付けた仮題で、私が手に入れた断片訳のうちで比較的毒のない部分を選んだつもりだが、それでもこの未来の書物群は言語を絶する。私はこれを読み返すたびに荒廃しきった未来像を胸に描いてひどく暗い気持ちになってしまうのである。
なぜならばこの『エゼキエル偽書』は一連の書物群の中で比較的早い時期に記述されたものだと言われるが、話題として出ている内容や比喩などから、今の時代からそう遠くない未来に著されたもののように推測されるからである。
 そこで今回、警世の意味であえて公にすることを決意するものである。

柊 修一




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