by 夜長
蜻蛉が腕にとまったんです。
道端で可憐な花を見つけたのでしゃがんで摘もうとしたときに、ついっと蜻蛉が飛んできてわたしの腕にとまったんです。
一瞬はっとしてよく見ると、わたしの腕の上でのんきに食事をしているんです。
そう・・・なにかの羽虫を前足に抱えて頭からバリバリと食べていたんです。
飛んでいて餌を捕まえたときに、ちょうどいい止まり木があったとでも思ったのかしら。
わたし、小さな花を摘もうとしていたのでとても低い姿勢だったんですが、蜻蛉を驚かさ ないようにそっと息を潜めて我慢してそのまま動かないようにしたんです。
そんな姿勢でいると、地面が近くて、露に濡れた草と土が太陽で温められてむっと匂って くるんです。
なんだかその暖かい空気が男の人の高い体温で暖められた体臭みたいで、急に、地面の匂 いにフェロモンを感じてしまったんです。そうしたら・・・なんだか変な気持ちになって しまったんです。蜻蛉の食事が終わるまで、じらされているみたいにその匂いを嗅ぎ続け て、わたし・・・変になりそうでした。
・・・ううん。違うんです。本当は。
その前に、蜻蛉が旺盛な食欲で小虫を頭から食べているのを見たときから、わたし、きっ と欲情していたんだと思うんです。
わたし、蜻蛉が食事をしているのを見るの、子供のころからとても好きだったんです。昆 虫で肉食っていうと蟷螂が人気だけど、顎が細くて、蟷螂の食事ってあまり豪快じゃないんです。地面に縛られて高く飛べないのもつまらないし。
でも、蜻蛉はあの丸い顔の下部分が大きな顎になっていて、その顎をぱかっと横に開いて食事するんです。その迫力が好きなんです。
その日・・・わたし、たまらなくなって、急いで家に帰って一人で・・・。
蜻蛉、本当にとても好きなんです。小虫を食べている姿を繰り返し繰り返し思い出して、わたし なんどもなんども達してしまったんです。
わたし・・・多分、蜻蛉なんです。とっても餌を選ぶんですけど。
そう、その人に会った日も蜻蛉が飛んでいました。
見知らぬ町の待ち合わせ場所に早く着きすぎて散歩していたときに、甘いような悲しいよ うなオレンジの夕焼けの中を蜻蛉が飛んでいたんです。
あ、蜻蛉。
しばらく立ち止まっていると、そのうちたくさんの蜻蛉が周りを飛び回り始めたんです。
大好きな蜻蛉の数がどんどん増えるのが面白くて、しばらくその、おそろいの黒い衣装を 着ているみたいな、逆光の中を音もなく飛び回る姿をずっと眺めていたんですけど、
あ、待ち合わせに遅れてしまう。
はっと思い出して、待ち合わせ場所の駅に向かったんです。なんだかいい予感を胸に抱い て。
その日は、友人に招かれていったパーティーだったんですけど、結局知らない人ばかりで 、わたし、取り立てて面白くも面白くなくもなくて、たくさん笑ったけど、たくさん黙っていて、
いい予感は外れたのかもしれない。
と思ってそのまま事もなく終わると思ったんです。けれど、終わりごろにしゃべった人が思いのほか話が合って、
ああ、すごくうれしいこともなかったけど、楽しい会だった。
と最後に思ったんです。
そうしたら、そのあと、偶然が重なって2人で食事をすることになって・・・その時に初めてちゃんと向き合って話をしていて、わたし、その人にとても興味が湧いたんです。
この人、もしかしたら蜻蛉かしら。って。
だから、敬意を表して、何度目かに会ったときには、黒い服を着ていったんです。
黒くてぴったりした黒い服はわたしの外骨格。わたしを際立たせる衣装なんです。
その日、ホテルの部屋で、窓から射すまぶしい夕日を背に、後ろ手にカーテンを閉めたわ たしは、出会う前に見たあの日の細くて黒いシルエットの蜻蛉のようだったに違いありません。
そして、そのそのあと、初めて肌を合わせて、どちらのものかわからないくらいに混ざり合った汗の中で、その汗が全然不快ではなくて、全身水浴びでもしたかのように心地よく感じたとき、
ああ、わたし達、似ているのかもしれない。
そう思ったんです。
そして・・・そのあとなんどか肌を合わせたんです。でも、いつも、いつも、最後に
この人を見たい。この人が捕食する様を見たい。蜻蛉ならその食事を見てみたい。
という思いが残って、それがいつか気になって気になって、それにばかり支配されるようになったんです。
そんなある日・・・わたし、計画通りに正体がなくなるまでその人を酔わせて、ホテルに運び込み、やっと探し当てたわたしによく似た背格好、声の女をあてがったんです。
酔い過ぎで動けなくなることや、酔いが冷めてしまってわたしと違う女だということがわかってしまうのが心配だったんですけど、女の働きもあって、わたしは念願の、その人が能動的に女を愛す様子をしっかりと見ることができたんです。
その人が動くと、両生類が水遊びをしているような音が小さく鳴ります。
ああ、あの指はこうして動くんだ。あの唇は、いつも、こうしてわたしの体をなぞるんだ。
あんな風にわたしの名前を呼ぶんだ・・・。
綺麗だわ。人間の体は滑稽で、昆虫のように、生まれたときからそうであるような一体になって交わることは決してないけれど、だけど、愛しい気持ちで動く様子はなんて人を感動させるんだろう。そう思ったんです。
もしも私の目が複眼だったら、万華鏡のようにきらきらとその痴態が無数に写ったに違いありません。
わたしは、その姿を見たとき心から感動し、初めてその人の愛をひしひしと感じ、やっと半分自分のものになった。そう思ったんです。
でも・・・それだけでは彼の全てはわからないんです。
あとはもう一つ・・・しなくてはいけないことがあるんです。
今日、わたしは、いくつかの道具を用意しました。
その人はなにも知らずに気持ちよく食事とお酒を楽しんでいます。
今日は特に綺麗に見えるよ。どうしたんだろう。
その人がいう言葉にわたしは頬を染めます。
そして、心の中で思うんです。
ああ、それはきっと、早くあなたの全てが見たいからなんです。
わたし、あなたがわたしに縛られて、目隠しをされて、わたしの思うままにされている様子を早く見たいんです。
だから、わたしの体が我慢できなくて、全身であなたを誘ってい
るんだわ・・・。
わたし、あなたが食べる様子も食べられる様子も知りたいんです。
どっちの才能があるか知りたいんです。
だってわたし、多分、蜻蛉なんですもの。
あなた本当に蜻蛉?それとも・・・。
早く知りたいんです。だって、わたしが我慢しようと思っても羽がむずむずしちゃうし、退屈するといつの間にか食い殺しちゃうんですもの。
色々試しちゃうけど・・・ごめんなさいね。了