冥府魔道の過ごしかた、あるいは明るい地獄計画

by DRKSYD



 「次は三途の川前、さ〜ん〜ず〜の〜か〜わ〜ま〜え〜」
 電車独特の車内アナウンスが赤鬼平太の降車すべき駅名を告げる。肝心の平太は杖をついたお年寄りを目の前に、優先席に座り夢うつつである。どうやら本日も会社に遅刻するつもりらしい平太の見ている夢は、平素の如く、あの日あの時、人生のターニングポイントについてだ。

 姓は赤鬼、名は平太。元々は地獄の大企業、統合魂魄管理局のエリートであった彼だが、ろくすっぽな知識も、また勉強もせずに手を出した魂魄取引きにて全財産を失い、慌てふためきながら会社の金にまで手を出し、挙げ句の果てに統合魂魄管理局をクビになった哀れな赤鬼である。
 はてさて、彼の転落の経緯はこうだ。
 どんなに陳腐な魂魄であっても、買った翌日には倍また倍の3倍満の価格がつく地獄のバブル期、働き盛りの怠け者である平太は人生の大勝負に打って出た訳である。そう、精神異常者や人格破綻者など、将来、連続殺人犯になるべくして生まれてきた人間たちの魂魄先物買い。
 第二次魔界大戦後、押し寄せる西洋文化の波にあっさりと飲み込まれたこの地獄に於いて、死んだ悪人の魂魄こそが万物の源であり、イコール金なのだ。先物買いで手に入れた精神異常者やら人格破綻者やらは人間界に於いて、次々と殺人事件を引き起し、その魂魄は高値で取引きされた。
 平太は買いに買った。小遣い全てを注ぎ込み、給料全てを注ぎ込み、ボーナス全てを注ぎ込み、果ては妻のヘソクリ全てを注ぎ込み、鬼は鬼らしく息子の学費を全てを注ぎ込みまでして、買いに買った。
 平太は買いに買った。女を買った、美食を買った、金を金で買った、周りの人間の反感を買った、世界の全てを買ったつもりになっていた。平太の堕落と崩落のために消費された魂魄はあたかも塵に等しかった。一見、平太の大勝負は成功を納めたかに思えた。そう、あの日までは…。
 そして魂魄の存在価値は塵と等しくなった。
 後に、地獄経済界で「ブラック・フライデイ・ザ・サーティーンス」と呼ばれることになる、言わば地獄バブルの弾け飛んだ、要約すると、大した理由、もとい何の理由もなく簡単に人を殺める人間の急増により、魂魄の価格がデフレ崩壊を起こした恐怖の一日である。
 エリートと言っても、勉強しか脳のないエリートである平太には、当然のことながら実力というものが伴っていなかった。この時期、彼の同僚、真のエリート達は、膨らみ続けた実体のないバブル魂魄経済の破綻を確信していた訳だが、平太にはまったく予想が付いていなかったのだ。
 言うまでもなく平太の持つ魂魄の大半は焦げ付き、あっという間に一文無しといった案配。先に記述した通り、会社の金に手を出し、統合魂魄管理局をクビになり、残ったのは生命保険でもカバーしきれない額の借金と、統合魂魄管理局の下請け会社、初心者死人のガイドを生業とするリバティ三途の川で死ぬまでタダ働きの人生。

 「ぎゃはは〜。マヌケじゃん」
 キンキンと耳障りな声に平太は重い目蓋を開いた。
 どうやら、ブレザー姿の若い娘鬼が携帯電話で話しをしているようだった。
 「ぎゃはは〜。超ウケる!」
 まったく。優先席の目の前で携帯なんぞ使いおってからに。親の顔が見てみたいもんだ。まあ、ろくでもない親に違いないだろうがな!
 そんな事を思いながら、平太は鼻糞を穿っている。
 「キモーい。死ねばいいのに…。ぎゃはは〜」
 「うむ、どうやら寝過ごしてしまったようだな。さっさと下りの電車に乗り換えねば。まったく、わしがいないと部下達は何もできんし、急がねばなるまい」
 若い娘鬼の嫌悪の声を無視し、一路、会社へと向かう平太であった。本日も1時間ほどの遅刻である。

 「赤鬼くん」
 会社に到着するなり上司に声を掛けられた。
 「なんでしょう、部長?」
 「なんでしょう、じゃあないだろ、赤鬼くん。いったい何時だと思っているんだね?」
 低学歴のクセしやがって。本当なら僕のようなエリートには声すら掛けることができないんだぞ、この能無し上司めが。
 「はあ…、10時を回ったころですねえ」
 「10時を回ったころですねえ、じゃあないだろ、赤鬼くん。君もいい歳なのだから、もう少ししっかりとしたまえ!」
 「すみません。家内が体調を崩したもので、病院まで付き添ってまいりました、はあ」
 「いったい君の奥方は週のうち何回、体調を崩すのかね。ふん、まあいい。さっさと仕事につきたまえ」
 「かしこまりました」この能無しが!
 心の中で一言付けたし、平太は自分の机へと歩き始めた。

 会社での平太は、小学生の頃、席替えとなると級友を殴り倒してでも窓側の席を強奪するという獰猛な性格が幸いし、再就職先でも晴れて窓側の席に座り続け10年という幸福な赤鬼である。 同僚達からは新卒の若手に道を譲る、縁の下の力持ち的存在だと揶揄されている彼は異常なほどに嫉妬深く、長年、喰い縛りすぎた奥歯はガタガタで、好物の地獄名物オニせんべいを噛み砕けないのが密かな悩みだ。
 そんな彼にも愛すべき家族がいる。幼少の頃から持っていた、画家になる夢を捨て、幼少の頃から窓側の椅子を温め続けているのは、家族の為である。穿った鼻糞を口に入れたい衝動を抑え、今日も電車の窓に綺麗な円を描いてみせるのは、遠き日にみた夢への冷めやらぬ心の成せるわざ。故に周りの目など気にも掛けない。

 どうでも良いことだが、彼は残業を一切しない。本日も定時通りに帰宅した彼は、会社とは別人のような生き生きとした表情で玄関の扉を開け、愛する家族たちに「ただいまぁ〜パパいま帰ったよぉ!」と己が帰宅を知らしめた。その刹那!!!
 ゴォオオオオオッという轟音を伴なった黒い物体が、彼の顔面に向かって急接近してきた!

 ラリアットである。

 目にも止まらぬ早業で、彼の体は玄関から外へと、3回転半アクセルターンをしながら転げ出ていた。着地はイナバウアー。帰りの電車で穿ったばかりの鼻から一筋の血が流れ出た。しかし、彼は驚いた様子もなく、そそくさと立ち上がり背広に付いたホコリを払った。
 再び、何事もなかったかのように玄関へと舞い戻った彼は「おお、貞光!今日も元気があっていいな!」と当年きって29歳になる息子に声を掛ける。10年連続で受験を失敗している息子は最近ますますキレやすくなっていて、親としては心配な限りだ。
 貞光は「ウゼぇええんだよっ!!!」と一言発すると、すぐに踵を返し部屋へと戻っていった。息子の後姿を見つめながら、お前の喋り方もなかなかにウザいぞ貞光、と心の中だけで息子に言葉を返す平太であった。 余談だが、親として一度だけ息子の喋り方について注意をした事がある。その時はパイルドライバーをかけられ、脳天から血を流しつつ「腕白でも元気に育ってくれてパパは嬉しいぞ、貞光!」とお茶を濁したのはつい先週の出来事。
 とりあえず、街頭で配られていたポケットティッシュを鼻につめ、キッチンまでやってきた彼は、「いま帰ったよ満子」と虚空に向かって話し始めた。 何を隠そう、お見合いで結婚した妻の満子は娘を連れて実家へ帰省中なのである。そして、先日、郵送されてきた離婚届は彼の心の奥底にしまわれている。そんな事実を気にするでもなく、虚空へと話し続ける。
 「いや〜今日は大変だったよ。また大きなプロジェクトのリーダーにされちゃってさ。はは」
 無論のこと、彼にプロジェクト・リーダーを任せるほど彼の会社の役員たちは耄碌していない。耄碌していないどころか、彼をプロジェクトに参加させない見事な采配まで揮っている。
 家族の前では虚勢を張りたい欲求すら満たされない哀れな彼は、自ら買って来たコンビニのおにぎり(オカカ)をビニール袋から取り出し、「おっ?今日は豪勢だね〜。君の手料理があるから毎日、つらい仕事も頑張れるんだよね」と悲しい独り芝居を続ける。
 40年ローンにして欠陥住宅である平太の邸宅は壁が薄く、家中どこにいようとも話し声が聞こえてくる。部屋に引篭もりながらも、父親が家にいる間中、延々と繰り広げられる独り芝居を聞かされる貞光は気が狂いそうな勢いである。
 夜半過ぎ。寝支度を整えた平太が隣の寝室へと入ってゆく物音が聞こえてから暫らくして、再び独り芝居が始まるのを、苦虫を噛み潰すような思いで貞光は認識した。
 「ん?満子どうした?」
 「おいおい。はっはっはっ」
 「もう若くもないんだから。ん?いやいや、君は今でも、とても魅力的だよ」
 「ああ。愛している。誰よりも君を愛しているよ」
 「む?はっはっはっ。君も意外と大胆だな!」
 「ああ。僕だって、まだまだ若い者には負けないよ」
 「み、満子…!」
 「み、みつこぉおおおーーーーー!!!!!」
 その瞬間、貞光の中で何かが音を立て崩れ去った。ふらりと、まるで幽鬼が如く立ち上がり、音も無く部屋をあとにした貞光の顔は、月夜に青白く浮かび、まるで生首のよう。その手にはギラリと光る何かを携えている。何も知らず、何も知ろうとしない平太は独り芝居を続けている…。

 何時間が経過したのだろうか。恋女房と妄想内での日課を終了し、安らかな寝息をたてる平太の枕元に、貞光は立ち尽くしている。その虚ろな瞳は何も写さず、その虚ろな口は何も紡がず、その虚ろな耳は何も響かず、そして、その虚ろな思考は何も巡らず、ただただ立ち尽くしている。平太の寝息だけが静かなる騒音として存在するのみ。
 「み…、っ…、こ…」
 静寂の中でなお聞き取れるかどうかの寝言が響く。
 「むふん」
 静寂の中であれ聞き取る意志さえあれば聞き取れる寝言が響く。
 「そ…、う…、か…、そ…、ん…、な…、に…、イ…、イ…、の…、か…、み…、つ…、こ…!」
 静寂の中にあり静寂を乱す寝言が響く。
 その寝言を耳にした貞光は手に携えた何かを両手で握りしめ、己が頭上に掲げあげ、そして、そして渾身の力を込めて振りおろした。
 パカン、ポコン、ポクン。貞光が恋いこがれていた壮絶悲壮なノイズとは似ても似つかない軽薄なリズムが薄暗い部屋に響き渡る。しかし、そんな些事には構わず、貞光はリズムを刻む、一心不乱に刻み続ける。
 パカン、ポッコン、ポコ。ポン。ポク。ポクン。ぐしゃり…!
 しばらくして、貞光は自分が恋いこがれていたノイズを耳にした。だが、そのノイズの意味するところは、貞光の思い描いていたそれとは掛け離れていた。
 「な、なに?」貞光は呻くように口を開いた。
 「おお貞光。野球か? パパ野球は得意中の得意だぞ。じゃあ、勝負するか!」
 おもむろに立ち上がった平太の頭部からは、鼓動に合わせ、チープな水芸よろしく先端が二股に別れた血液が吹き出している。貞光の手にしている金属バットで額を無残に割られた事に気付いているのか、気付いていないのか、どちらとも取れない口調で、困惑する息子に語り掛ける。
 「投げれば三球三振、打てば満塁ホームラン、赤鬼平太とは、あいや、わしのことなりぃ〜!」
 な、なに言ってんだよ、お前?! 意味解んないよ! お、俺はお前を殺したいだけなんだよ!
 「そう簡単にはパパをアウトにはできんぞ貞光」
 半分潰れた顔面に不敵な笑みが浮かべた平太は、腰を落とし身構える。
 そ、そうかよ。簡単だろうが難しかろうが、絶対に殺してやるよ!
 思うが早いか、平太の横腹に狙いを定め、手にした金属バットをフルスイングするが、バフっと風を斬る音だけが響く。平時には考えられないことだが、平太はその攻撃をまるで軽業師の如く、後ろ飛びでかわすと素早く身体をひねり、左前方45度方向へと跳躍、その時点で右手に立ち尽くす貞光に後ろ回し蹴りを見舞った。
 ミシリと、数本の肋骨がひしゃげる。
 「ぐあ!!!」
 あまりの激痛に前のめりに倒れそうになる身体を金属バットで支えた貞光は、その目に平太を捕らえようと試みるが、そこで右足に激震が奔る。貞光の背後に回り込んだ平太は、貞光の重心を支えていた右足の膝裏、厳密にはふくらはぎ部分を上から踏み付ける形でアキレス腱を断絶したのだ。
 「……………………っ!!!」
 アキレス腱断絶の痛みは、痛みの中でも最上級の部類に入る。言葉にも、悲鳴にすらならない無言無音の絶叫を上げた貞光は、手にした金属バットを投げ出し、平太の布団の上を失禁しながら転げ回る。
 「野球は楽しいな、楽しいよな貞光!」
 ドカ、ダク、グキ…。涙と吐瀉物にまみれた貞光の顔面を蹴り飛ばしながら平太は話し続ける。
 「楽しんでるか貞光? パパはとっても楽しいぞ!」
 ミシャ、キシャ、コシャ…。貞光の砕けた肋骨を気に掛け、患部を念入りに踏み付ける。
 平太の執拗な攻撃により細かく砕けた肋骨は、まるで貞光の肺をむしろに見立てたかのように突き刺さってゆく。無数に開いた穴のためか肺の収縮運動は支障をきたし、まともに息ができない。酸素が欠乏した貞光の双眸は充血し、その眼球の半分ほどが眼窩より飛び出ている。苦しくて、苦しくて、苦しくて、貞光は自身の首元を掻きむしる。
 勢いをつけるためだろうか、三歩ほどさがった平太は、布団の上で悶絶する貞光の後頭部に狙いを定め駆け出し、世界にも通用するエースストライカーを思わせる颯爽美麗なシュートフォームを以って思う様、我が子を蹴り飛ばした。
 バキン。痛烈な破壊音を伴い、もはやボロ布のような貞光の体は月面宙返りをしながら壁際まで跳ね飛ばされる。着地はワンハンド・ビールマンスピン。
 「ゴール!ゴール!ゴール!ゴール!ゴール! 平太選手、ハットトリック達成です!」
 恨めしそうに平太を見上げる貞光と視線が交差する。
 や、野球じゃ、なかったの、かよ…。
 「野球は楽しいぞ、貞光!」
 潰れた顔面に、無邪気な子供のような笑みがこの異常な状況をより一層異常にする。
 「や、野球で、あ、足なんか、使うな、よ…」
 やっとの思いで掠れた声を発する。この後に於いて、それは無意味な恨み言。
 「野球で足は使うな、か。そうか。野球で足は使ったらダメなのか、貞光。だがな、貞光」
 いったん言葉を切った平太は続ける。
 「ぐへへ。うほ。そうかそうか。そんなにイイのか満子! ん? ああ、僕だってまだまだ若いぞ。それそれ、これでどうだ。んむ。ハアハアハア…、はははっ、あひゃひゃ、イイかイイのか、み…、み、み! 満子ぉおおお!!!」平太の頭部より吹き出ていた血液は、この時、最高潮を迎えた。辺りを覆う紅い霧が、窓からそそぐ月光で神々しく輝いた。
 「うわあああああああああっ!」
 破壊の限りを尽くされたはずの貞光の身体が、ゼンマイで動くオートマタよろしく直立したかと思えば、脳の制御から解放された本能のラリアットが平太の顔面に炸裂した!
 破裂した頭蓋骨は眼球を突き抜け、脳髄を掻き混ぜ、頭上に開いた傷口から汚物のような噴水が立ちのぼる。平太の命の灯火は尽き果て、その幸せな一生は幕を閉じた。
 血の池地獄と化した平太の寝室は、夜の静寂を取り戻し、とても、そう、とても幻想的であった。

 その日、第一級殺人罪に問われていた赤鬼貞光の死刑が確定した。
 地獄界に於いての親殺しは無論のこと重罪であり、刑の執行には学者達の人間生態研究により開発された苛烈な拷問が施される。近年では、地獄の鬼達が恐れるほどの苛烈を極める拷問の効果が発揮され、重大な犯罪を犯す者は激減していた。しかし、貞光は一秒でも早くこの拷問を受けたいと、そして一秒でも早くこの地獄から解放されたいと、そう願って止まない。渇望していると言ってもいい。
 動物的な本能を剥き出しにした現代に生きる人間と比較すれば温和に見える鬼達も、鬼と言われるだけあって元来は残酷な生き物である。楽しい記憶は何もない、辛く苦しい絶望の記憶に悶絶し、死を渇望する貞光は、この後29年という月日を捨ておかれる事になる。いや、それこそが、人間の幼年期集団生活を研究した結果に開発された拷問法だったのだ。絶望の記憶を忘却の彼方へと押しやることのできる物質的な痛みは最後まで与えられず、精神的な苦痛に満ち満ち、もはや理性の瓦解した貞光の死刑は、まったくの無痛、薬物投与であっさりと処理されてしまった。



 ようこそ地獄へ、これがほんとの生き地獄。くけけ。



 「・・・・・さん、か、さん、あ・・・か・・さん、赤木さん!」
 まるで水の中にでもいるような、くぐもった声が聞こえてきた。次いで、鼻孔をくすぐるような消毒液の匂いに意識が覚醒してゆく。
 「ううう、むう?」
 目を開くと、そこは薄暗い廊下に設置された黒い長椅子の上だった。一瞬、自分が何処にいるのか、まったく見当がつかず、寝起きの霞掛かった頭を左右に回転させ、状況を把握しようと努めたが、自分が眠い事しか理解できない。頭を振っているだけでは間がもたなくなってきたので、左腕の時計に目をやる。午前2時、丑三つ時だ。
 「赤木さん?」
 すぐ隣にたたずんでいた白い服の女性に声を掛けられ、ようやく状況を理解し始めた。そう、ここは深夜の病院。しかし、とくに体調を崩してはいないし、怪我だってしていない。自分は、ただ、その時を、人生に於ける最も輝かしい瞬間を待っていたに過ぎない。こんな大事な時に寝入ってしまうとは不覚だなと思いながらも、じつはあまり気にしていない。
 気にしたふりを装いつつ、「そろそろですか?」と白い服の女性、この病院の看護婦に訪ねると、柔らかい笑みを浮かべ、落ち着いた口調で「お生まれになりましたよ。元気な男の子です」という答えが返ってきた。看護婦の言葉が過牛に伝わるや否や、妻の待つ病室へ向かって駆け出していた。
 「でかした! でかしたぞ、満子!」
 病室に駆け込んでくるなり、夫は周りの迷惑をまったく無視した大声を張り上げた。産後の疲れ切った妻の顔には心底、迷惑そうな表情が張り付いていた。正直な話し、子供という楔が打たれた事に後悔していたところである。そんな妻の心情を知る由もなく、生まれたばかりの赤子を抱きかかえた担当の看護婦の周りを跳ね回る夫の姿はひどく滑稽だ。
 「名前。そう名前を考えたただ!」
 興奮しているのだろう、ここぞというときに勝負弱い夫らしく、舌がもつれている。
 「そう。アナタがもう子供の名前を考えていただなんて、驚きだわ」
 鈍感な夫に皮肉は通じないと解ってはいても、言わずにはいられない。なんでこんな男と結婚してしまったのか。自分自身の過ちを悔やみつつ、適当な相槌を打つ。
 「で、なんて名前なのかしら?」
 生まれたばかりの我が子を、看護婦の手から強引にひったくり、その皺くちゃの顔をまじまじと覗き込んだかと思えば、おもむろに、首のすわっていない赤子を両手で頭上に掲げあげ、声高らかに、夫はこう宣言した。

 「お前の名前は貞光だ! 生まれてきてくれてパパは嬉しいぞ、貞光!」

 今まで安らかな寝顔をたたえていた赤子の表情は見る影もなく崩れ去り、あたかも生を謳歌するかの如く、元気のよい泣声をあげた。




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