by Nero Padrone
「……聞いた事はあるだろう? 悪い人間が死ぬと、そのたびに一匹以上の悪魔がこの世に這い昇ってきてそいつに告げるんだ。ハァーイ。ハジメマシテ。ヨウコソ地獄へってね。そしてその死んだゴミクズ以下の人間以外をねじくれた鈎爪を生やした両腕で抱きかかえ、とんがった嘴の生えた顎で首を啄み、逆刺の付いた長く黒い尻尾をめり込む様に巻き付けて、クソみたいなその人間の魂を抱えたままに旅をする。黒くグロく巨大なコウモリの様の羽根なんかを広げ大きく羽ばたかせてね。で、先ずはその人間のクズでしかない魂の持ち主の思い出の場所へと。幸福だったりうれしい記憶の場所へと向うんだ。何の為かって? それは、ま、役得と報酬……。いや、自分達悪魔のドクマ、つまりナラワシってってヤツなんだ。自分の言ってる事わかるかな? ドグマってのは教義,教理、教条,独断など意味があるけど、ま、キマリって意味だ。それと見極めって意味もある。幸せだった過去を見せてやって後悔するかしないかって。地獄の住人にもピンからキリまである。悪い椅子に無理矢理に座わらせられるただの無為なただのゴミなのか、ハラくくってよりマシな椅子にケツをすえる事ができるかもしれないトビッキリのワルかって…ま、イロイロなのさ」
こんなふうに、あるときゴキブリに似たその悪魔はひとりの死んだクソガキの魂を抱きかかえて地獄へ引っ立てながら話しました。
するとそのクソガキは、背後から伸びた鈎爪にその魂と言う身体をからめとられたままに、それでも背後へ首を回し上目使いに睨め上げ、敵や獲物に毒を吐き散らすコブラように唾を飛ばし、エズキ、仮面の様な嘲笑を浮かべて持てる知識の中のありとあらゆる罵詈雑言をその悪魔に浴びせかけ続けます。
そんな声は無視するかのように悪魔は真っ赤な洞窟の中を落下する石の様にクソガキの魂を抱えて飛び続けます。
白熱した溶岩の流れと硫黄の煙がクソガキの肌を焦がし、髪の毛を縮れさせます。
そして遠く何処からともなく聞こえてくる悶え苦しむモノたちが絶叫する声も聞こえてきます。
ですが、こうして地獄の底へと堕ちるあいだじゅう、クソガキは焼かれ焦げる苦痛の悲鳴をあげたりする事はありませんでした。
そのかわりクソガキの嘲笑の仮面と罵詈雑言だけが続きます。
こうして悪魔は、そのクソガキが暮らし育った世界が覗き見える夢現の穴の前で墜落とも堕落とも呼べるその魔の飛翔を一時停止するのでした。
地獄の熱気と悪魔が放つ腐臭の中。
目の前には真っ赤な壁。
それは焼け爛れながらも脈打ち蠢き麝香臭を放つ熱い粘液に濡れ光っています。
悪魔はクソガキを捕らえた鈎爪の一本を伸ばすと、その真っ赤な壁から生えた小さな突起を引っ掛けるように押しました。
すると真っ赤な壁は身悶えするかのようにうち震えながら一筋の裂け目が出来ます。
そして、その裂け目は細い楕円から真円へと広がり一つの肉色の窓となりました。
「さて、まずはここ」と、悪魔は抱え込んだクソガキに言います。
窓の中には血に染まった大形カッターナイフを握ったままのクソガキが声変わり前のカン高い声で笑い転げながら立っているのが見えます。
さも、可笑しそうに。
うれしくて、うれしくて、本当に仕方のない狂気の喜びに憑かれたように。
その足元には喉元から大量の血とやがては弾けて消えてしまう血の泡を噴きながら半裸で床に転がる少女の死体がありました。
重く血に染まり刃物で中身ごと切り刻まれた衣服の残骸が華奢な少女の体にまとわりついてます。
窓の中のクソガキはそれをカッターナイフを握ったままに曲げ伸ばした人さし指でその殺したての少女の遺体を指差しながら狂った様に笑い転げています。
「ケッ。ホント笑えるぜっ! こんなモン見せてョ。この俺が後悔するとでも? くだらないモノ見せやがってっ! 泡で固めてその後ガスレンジで跡形もなく燃やしてやろうか! このクソゴキブリがっ!」
そこでゴキブリに似た悪魔はクソガキ耳元を齧り取るように密着させて囁きます。
「面白いな。ヒトゴロシだゾ。どんな悪党でも普通はもう少しマトモな思い出の窓が開くモノなのに……。ミ・ロード様の玉座の前にてかしずける資質がお前にあるって事なのかな。では、最初の見極め。これはお前が死ぬ前の体験。これを地獄の底まで持って行くつもりなのかな?」と。
「持ってゆくだと? そりゃどう言う意味だョ。このクソ虫がッ!!」
「文字通りの意味。ま、ミ・ロード様への手土産だとでも思うんだね」
「手土産だと! 俺が知るかよ。そんな事。……いや、いらねぇな。こんなモンはョ。このスベタは俺をナメやがったんだ。鼻の下にあるケツの穴で所構わずブーブー臭い鳴き声あげて俺をサツにチクって売りやがったんだ。俺をコケにしやがったんだ。つまり、こーなったのは必然っヤツでテメーで勝手にクタバリやがったって事だ。わかるか? テメーで勝手にクタバッて、メスブタの分際で自ら望んで食肉なもなれねぇ産廃レベルの生ゴミへ変身しやがったって事だ。オマケにのこのコロシおかげで俺はサツに完全に目をつけられるハメとなったんだ。えれぇ迷惑だったぜ。まったくョ」
「ほう? でも、これはお前の幸福だったりうれしい記憶の場所なんだろう?」
「ケッ。つまらねぇ。ならもっと気の利いてて面白く刺激的なモノを見せてな。
虫けらョ」
「では、不要と」
そう言うと、ゴキブリに似た悪魔は別の鈎爪を伸ばします。
今度は長く。
長く。
長く伸ばし続けます。
真っ赤な洞窟に開いた窓の中へとそれを差し入れます。
そして、床に転がる少女の死体とカッターナイフを握りしめて高笑いするクソガキを次々にその鈎爪でまとめて引っ掛けて引き寄せてしまうとシャクシャクと言う咀嚼音だけを残しアッと言う間に欠片さえも残さずに食べてしまいました。
「ふむ。驕りに憤怒に高慢。憎悪にトッピングされた肉欲の隠し味がなんとも……」
そんな事をゴキブリに似た悪魔がボソっと言い残すと真っ赤な洞窟の壁に開いた窓は閉じてしまいます。
「おい。ゴキ公。今のはいったい何のマネだ?」とクソガキは尋ねます。
「ゴミを片付けただけだ」
「ゴミだと?」
「ゴミ。お前はいらないと言った。だからゴミだ」
そう言うと再びゴキブリに似た悪魔とクソガキの魂は落ち続ける魔の飛翔を続けます。
そして何処に目印があるのかはわかりません。
ですが、めざとく悪魔はそれを見つけ出すと幾度もその飛翔を止めて洞窟の壁の前で一時停止し窓を開き続けるのでした。
「これも不要か?」と、悪魔は窓の中を覗き見るクソガキに言いました。
そこには月明かりが差す路地が見えます。
そして男が頭から血を流して倒れていました。
倒れたままの男の頭部のまわりではジワジワと黒い血の水たまりが広がり続けます。
クソガキは手にもった鉄パイプを音を立てぬように静かに捨てさると倒れた男の腕時計を奪いポケットを丹念に探って行きます。
そして財布を見つけ出すとホクホクと満足気な笑みを浮かべ中身を全部抜き取ると倒れたままの男の背中に投げ捨てます。
流血で作られる黒い水たまりは大きく広がり続けます。
その水面には水鏡に写った様にクッキリと月の姿が映し出されていました。
その月の虚像をクソガキは踏み潰し血の足跡を残しその路地の向こうへと消えようとします。
毒を吐き疲れたのかクソガキは比較的に落ち着いた声で尋ねました。
「いらねぇって言ったらまた喰うのかョ? バクバクとシリからシリへとマルゴメ喰って喰って喰いまくりやがって、俺の思い出ってのを跡形もなくゼーンブ喰っちまいやがって……で、聞くんだが何故にあんなモノを飽きもせず喰いまくるんだ?」と。
「今度はケチなオヤジ狩りと。それに言っただろう。ゴミ処理だ。自分は純粋なワルそのモノの魂だけをミ・ロード様の玉座の前へ連れて行いけば良いのだ」
「……なんかテメー、俺をだまそうとしてるだろ!?」
「だます? 何を? 言ってみたら? それに少しは自らも学べき。お前は自分達の眷属になるんだよ。つまりは悪魔だ。神様や天使のパロディみたいなモノ。結局は何もしないのに、祈りさえすれば願いを叶えるなんて最大の騙り屋の神様の側の者じゃなくその反対側の者。心から願いさえすれば中途半端なりにもその願いを叶えてやる事に奮闘するのが自分達の存在なんだ。で、残すのか? 残す事をお前は願うのか? いや、心から願うんだね?」と、ゴキブリに似た悪魔はそう尋ねます。
「……い、いや、いい。いらねえ。いらねえョ」
「わかった」
そう言うと鈎爪を伸ばした悪魔は路地に倒れた男と路地の向こうに消えようとするクソガキを釣り上げるように引き寄せるとまた食べてしまいました。
「ふむ。ふむ。憤怒に嫉妬……。それに強欲。その強欲の中にさり気なく隠された大食。ちょっと美味。それとダシとなってるてっとり早く楽して金を手に入れようって怠惰の味がまたなかなか……」
また、そんな事をゴキブリに似た悪魔がボソボソっと呟くとクソガキを抱えたままに飛び立ちます。
真っ赤な洞窟の壁に開いた肉色の窓が閉じ切るのを待たずに……。
「ここで最後だ」とゴキブリに似た悪魔はクソガキに言いました。
真っ赤な洞窟の底の底。
人の言う踝まで溜まった血の床の上に鈎爪を沈めゴキブリに似た悪魔は立っています。
その悪魔に抱えられたままのクソガキ。
溶岩の熱と煙で髪の毛と耳はほとんどなくなり上半身の皮膚は焼け落ち、焦げて剥げ落ちた所には剥き出しの肉が見えてます。
「最後だと? はっ! ホントに全部喰っちまいやがんの。どうせココも残さず喰うんだろうよ。無駄だよ。どうせ何を見せたって俺には何も残りャしねぇってョ。さもなきゃこんなトコに俺がいるハズがねぇだろ……」と、カラカラに乾きひび割れた唇から血の飛沫を飛ばしながらクソガキは言葉を放ち続けます。
「……あ、まさか、あのバカが出てくるんじゃなかろうな。あのクソお巡り。人をドブ鼠みたいに追い回しあげく……。あのバカが白バイで割り込んで俺の前で左にハンドルさえ切ったりしなけりゃ、キッチリと逃げ切って、いまだに幸せを絵に書いたようにのほほんとして暮らしてるバカどもを殺して殺して殺しまくってるのに……」と、クソガキは言葉を切りそして続けます。
「そういや、あのお巡りはどうなった。あのバカもここにきてるのか?」
「いいえ」と、ゴキブリに似た悪魔。
「なら、天国か?」とクソガキ。
「天国の事は自分にはわからない。ここじゃない事は確かだから生きてるのかもしれない」
「それはそれでお巡りとしてケッコウ地獄かもな。未成年のガキを追い回して事故らせて死なせたんだからな」
「ま、そうかもしれないね」と、ゴキブリに似た悪魔はそう言います。
そしてまた鈎爪を伸ばして洞窟の窓を開けたのでした。
真夜中。
天窓に分厚いカーテンがかかった地下室。
ベットの横に置かれた古い車椅子。
天井の角の蜘蛛の巣の中で蜘蛛を敵にまわして蠢き動き暴れるゴキブリが見えます。
ベッドの上のこの部屋の主人はただそれを見つめていました。
顔半分に斜に巻かれた包帯の下にポッカリと開いた二つの双瞳で無為にそれを見つめ続けます。
そしてもう一人。
それはクソガキでした。
この部屋の主である若い女の腰を強く折り曲げ股間を割り、その両膝を自分の肩に乗せ、柔らかなその身体を抱きしめ、懸命に腰を突き上げる運動を何度も何度もクソガキは繰り返し続けます。
そしてクソガキが腰を深く突き上げる度にベッドが軋む音が聞こえます。
やがて達したのかクソガキは包帯を巻かれたミイラの様な女の胸の膨らみに顔を埋めて動かなくなります。
そして身を起こしたクソガキはベッドの上の女を見つめます。
見下ろし続けます。
その視線を感じたのか天井の角を見つめていた若い女の目がクソガキに向けられます。
そして若い女の口が動きます
「や、約束通りに殺して…、約束通りに…」と。
「こいつはちょっとびっくりだ」と、高熱で顔の凹凸がほぼ消えたクソガキは呟きます。
「ほう。驚いたか。何を驚いたのかな」と、ゴキブリに似た悪魔。
「俺の最初のコロシだぜ」
「ほう。それで?」
「この後、また何度も何度もハメ狂いながらこの女を殺した……。未練を残しまくりのままに絞め殺したんだ……。そうだな。このコロシがなけりゃぁもう少しは俺もマトモな人生を歩んでたかもしれないな」
「そうかもな。で、これはどうする?」とゴキブリに似た悪魔。
「ケッ。喰いたいんだろ。どうでもいいさ。テメーにやるよ。残さず喰っちまいな」とクソガキ。
「これも不要と」
そう言うとまた鈎爪を窓の中に伸ばしで女とクソガキを引っ掛けるとゴキブリに似た悪魔はまた食べてしまいました。
「ほう。これは…。面白い。マトモだ。ひたすらにマトモで純粋な肉欲の中に渦巻く凄まじい感情。フィラ(親愛)にフィシケー(思いやり)にヘイタリケー(友愛)にエロティーケー(性愛)にアフロス(情愛)にストルゲー(同情)にカリス(感謝愛)の嵐……」
「何だぁ? 今言ったその横文字はョ? それとその喰った後のボソボソ呟くクセ。一体、なんなんだ?」と、クソガキは呟くように尋ねます。
「……そ、そうか。そうなのか。思い出した。なる程。そう言うカラクリ。流石。流石に地獄だ……いや、神か? 神の罰の方か…? いや、ちょっと驚いた」とゴキブリに似た悪魔はその問いを無視するかのように呟きを続けます。
ゴキブリに似た悪魔はクソガキを連れて今度は横に向けて飛び立ちます。
そしてゴキブリに似た悪魔はクソガキにまた話し出しはじめました。
「先の質問。お前の楽しい思い出を喰ってボソボソ呟く件なんだが……。一言で言えば報酬なのだ……。ちょっとばかり込み入っている。どう説明どう言えば良いのか……。そうだな。お前は自分達の眷属、悪魔と呼ばれる者になりつつある。これはどう言う事か。それをまず説明しよう。簡単に言えば自分では何も感じなくなる事なんだ。地獄の底でも呼ばれて這い上がった地上でもね。快楽も苦痛も喜びも憎悪も希望も絶望も何も感じない。有りはするが他は何もない薄っぺらな存在になる事だ。で、今のお前の姿。地獄の炎や煙で焼けこげててボロボロの消し炭みたいだ。が、熱いか? 苦しいか?」
「……何も感じねぇな」と、クソガキ。
「お前のような人間は人の世の悪の世界でも異端だ。制御するものがない。そしていろいろな物事を憎悪して生きてきた。そう。憎悪する物事をひたすら探し求めてひたすら憎悪する事で生き続けた。おしまいには憎悪する物がわからなくなる程に増え続けた憎悪に潰されて、自滅やら自殺したりするタイプの人間だ。そのまわりにある物を巻き添えにしてね。そして死ねば地獄で極め付きの悪魔となる。で、また尋ねるが、今、お前は何かを憎悪してるのか?」
「……感じない。おかしな事にムカツキもしねぇし、ハラもたたねぇ。エズいて吐き捨てるセリフすらキミョーにもいつもの様に頭に浮かんでこねぇ」
「本来ならば人の持つ最強の負の感情。憎悪や絶望すらも感じなくなりつつあるって事だ。そう言う事なんだ。それはお前の思い出を自分が喰ったからではない。悪魔になると言うのはそう言う事なんだ。悪魔とはそういう者だからだ。地獄と言う物がそう言う物だからだ。自分の存在を有ると感じる事はできる。が、その他は何も感じ取れない。何も感じず何のなく孤独である事すら感じられない。そして神様とか言う代物がリセットボタンを押すまで生きる事も死ぬ事も消える事もできない。出来るのは自分達を呼び乞い願う声を聞き取り、地上に這い上がり、その人間の声を聞き、その願いを中途半端にでもかなえてカシを作り、後はその耳元に蠱惑的で魅力的な悪徳を囁く事だけ。ひたすら地上の人間を地獄へ堕とす為に囁く。全ての人間の耳に囁き続けて神様がリセットボタンを押したくなるまで永遠に囁き続ける。それが悪魔でそれが地獄。先の自分の様にちょっと驚く事なんて滅多にない事なんだ」
「ほう。では、たぶん焼かれてるのだと思うんだが聞こえてくるあの声はなんだ? それと何に驚いたんだ? いや、どうでもいい事だけどな……」とクソガキ。
「徐々に、そのもうどうでもいいって感情すらも消えてなくなるだろう。あの声は天にも登れず悪魔にもなれない薄汚れてるだけの魂だよ。うらやましい事に自分達とは違って苦痛だけは感じる事が出来る。神様の慈悲ってヤツかもしれないな」
「で?」
「それでも自分達は元は人間だからちょっとでも何かを感じてみたい。無理なのだがそれでもなんとかして人間みたいに感じてみたいという思いが自分達の中に微かに残っている。これも神の慈悲なのかもしれない。いや、地獄を作りし神の呪縛で罰なのかもしれない。だから地獄に堕ちる者の思い出を喰う。他人の物でも疑似的な物でも構いはしない。喰ってただ感じてみたい。だからそれは自分たちにとっての唯一の報酬なのだ」
「で、喰ってる。それだけか?」
「そう。喰ってみて味わい感じる。それだけだ……」
その後、何故かしばらく沈黙が続きました。
地獄の底をゴキブリに似た悪魔に抱きすくめられたクソガキは飛び続けます。
地獄の奥に向けての飛翔が続き飛翔の後には、地獄の底の血だまりにクソガキから焼け落ちた破片で水面に波紋を残します。
やがて元は唇であった物が破片なってゴソっと落ちるとクソガキの口だった物が動きます。
「おい。なんだか遠くにそれらしいゴツイ門が見えてきたぞ。それと、どうでもいいが忘れてねぇか? テメーは何にちょっと驚いたんだ?」と。
するとゴキブリに似た悪魔は言います。
「憶えていたのか。我々の眷属化が進んで感覚が消え始めてもうどうでもよくなって忘れてしまってると思ったが…」
「へっ。どうでもいい事だケド忘れちゃいねぇョ」とクソガキ。
そしてゴキブリに似た悪魔は話し出します。
「と、ある屋敷の屋敷の地下に不幸な女が住んでいました。ヒドイ車の事故で夫と子供を一度になくし、その女も全身に火傷を負った為でした。その地下室の上でただ生きて寝るだけの生活を続ける女の心にあるのは絶望だけでした。生涯の伴侶と自分の未来への形を一度に亡くし、自分が一人が野垂れ死にする方がはるかにマシに思えるような深い絶望にかられる毎日が続くのですから。そこへ火傷の傷痕をだけ残し体の傷が癒えた頃に女の前に一人の少年が真夜中に現れます。そして少年は、
『アンタたちが乗った車の前に飛び出して事故らせたのは俺だ』と言うのでした。
その少年はその屋敷の主人の遠い親戚とかいった理由で引き取られ養われている男の子で何かといろいろな場所で問題を起こし続けるまったく可愛気のない少年でした。
そんな告白を聞かされた女は息を飲みました。
そして混乱します。
本当の事なのか?
何故にそんな告白を今するのか?
こんな姿になって生き延びている自分を嘲笑うため?
それとも良心に、罪の意識にかられての心からの告白なのか?
それとも?
それとも?
それとも?
それとも?
幾つもの疑問が女の頭の中に並びます。
また、それらの疑問の隣には幾つもの、いえ、違います。
無数の憎悪と怨嗟の言葉となって女の頭の中に渦巻きます。
でも、それらの言葉は長続きしませんでした。
その女の心の中で大きくなり過ぎた絶望に比べれはそんな言葉や思いは餓えた豹の群れの中に投げこまれた一匹の小羊のような物です。
あっと言う間に絶望と言う豹の群れに噛み裂かれて跡形もなく消えてしまいます。
『い、今さら…。な、何しにきたの?』とベッドから少し身を起こした女は問います。
『わからない』と少年は答えました。
『では、何をしたいの? 何をして欲しいの?』と再び女は問います。
『………』と、少年は女を見つめたままに沈黙してしまいました。
『許されたいの? 私に許して欲しいの?』と女。
『……か、かもしれない』と少年。
『許してあげいもいい。かわりに私も殺してっ!』と女は言います。
『えっ?』
『貴方は私の夫と子供を殺したのよっ! 二人殺すも三人殺すのも同じでしょうっ! 私に本当に許してもらいたいのならば私も殺してよっ!!』
『ど、どうして?』
『私は死にたいの。どうしても死にたいの。でも自分では死ねない。だから貴方の手で殺して欲しい。その方がマシ。はるかにマシ。絶対にマシよっ! だから殺してっ!!』
こうしてその女の『殺して』と言う言葉が続きます。
哀願の言葉で、慈悲を乞う言葉で、少年の憐憫の情を掻きむしりと自己嫌悪を誘う呪詛のような女の願いの言葉が繰り返し続けられました。
そして女は最後には少年に取り引きを持ちかけます。
『お金が欲しいのね? 殺してくれるのなら私の持ってるお金を全部あげるわ』と。
それでも少年は黙ってただ女を見つめるだけでした。
『何が欲しいの? 何を上げれば私を殺してくれるのよっ! こ、これ以上、私から何を取り上げれば気がすむのっ!!』
するとやっと少年は口を開きました。
『ア、アンタ(貴方)が欲しい』と……」
「ほう。俺の最初の殺しの事を良く知ってるな。俺の思い出を喰ったからか?」と、クソガキはしゃべる事を止めたゴキブリに似た悪魔に問いかけます。
それは地獄の王が住む城塞の見上げるような巨大な扉の前の事でした。
その扉の前にゴキブリに似た悪魔と原形を保ってないクソガキは立っていました。
ゴキブリに似た悪魔はその問いに答えます。
「知ってるんじゃない。お前の思い出を喰って思い出したんだ……」と、言葉をいったん切ってからゴキブリに似た悪魔は言葉を続けます。
「……癒えても消えない火傷の傷を包帯で隠し、あの地下室のベッドの上であの少年、つまり、お前の望むままにその体を開き体を与えた女というのが、この私だったのだからね! すっかりと忘れていた。でも、お前の最後の思い出を喰って私の前世の出来事だと言う事を何故か思い出した。そう。何故かそれを思い出したんだ。だから、ちょっと驚いたんだ」と。
「ほう。でも、その話。ちょっと変だぞ」とクソガキ。
「驚かないのか。地獄は繋がり連鎖するって事を。あるいは神の罰は地獄以上に地獄的であるって事を、お前は? ……それと、自分の話のどこが変なんだ?」とゴキブリに似た悪魔。
「あの女は俺の初めてのヒトだった。誰にもでも優しく優雅でキレイで素敵なヒトだった。そしてこんな俺にも優しくしてくれてたヒトだゾ。ちょっとばかり焦げてはいたが、それでも俺にとっちゃ唯一のテンシサマでメガミサマだった。フツーなら絶対に天国行きだぜ。おまけにアーメン(カトリック)で自殺できないから俺に泣きすがって殺してくれった頼んだんだぜ。そんなヒトがどうして地獄でゴキブリそっくりの悪魔をやってるんだ?」
「知らなかったからね」
「知らないって何を?」
「蚯蚓の固まりに似た悪魔が私を連れて地獄に堕ちる時に耳元で囁くように教えてくれた事だ」
「何だ?」
「あの少年は、お前は、あの女の、つまり自分の父親の隠し子だった。お前と自分は歳の離れた姉弟だった」
「なる程。本人たちはそれ知らない。親の知らぬ間に取り引きとはいえ仲良くキンシンソーカンね。そりゃあ大罪だ。確かに地獄に堕ちるな。皮肉にも俺ごとまとめてな」
「ゴキブリの姿をしてるのは多分、最後に心に残った物だからだと思う。あの時、お前に絞め殺される寸前に蜘蛛の巣の網を喰い破って落ちて逃げるゴキブリを見ていた。それに何故か変に心を動かされてしてしまったからなのだろう……」
「変に心を動かされたから? そんな理由でか?」
「そんな理由だからなんだろうな。多分。門が開く。行こうか」
「そうだな」
そして血でぬかるむ地獄の底を一歩進むとガラガラとクソガキであった物の全て崩れ落ちました。
そして、崩れ落ちた後に残った物は何故かその場に立ち止まります。
そのかつてはクソガキであった物の口が開きます。
「ほう。俺もちょっと驚いちまったぜ。あれを見てみろ。ゴキブリのオネーサマよ」と。
「ほう。まだちょっとでも驚けるのか」とゴキブリに似た悪魔。
クソガキだった物はゆっくりと開こうとする巨大な扉の前を見おろして醜く曲がった爪で指差しています。
そこには何時かに何処かで見た一場面がありました。
それは血で出来た水鏡でした。
クッキリと写し出されていた月の虚像と同じように地獄の底に広がる血で作られた大きな血の水面に浮かぶように写しだされる二匹の悪魔の姿があります。
「だってョ。こんな地獄の底の底でョ。ゴキブリとドブ鼠が肩を並べて仲良く夫婦漫才やってんだぜ。ちょっとばかり驚いてみてもいいんじゃねぇのかな?」
そして、二匹の悪魔はその虚像を踏み潰しながら門の中へと進み始めます。
何故か二匹とも笑い出しながらに。
そう。
本当に面白くもなんともないのに何故か二匹の悪魔たちは笑いながら開き行く門の奥へと歩み進んで行ったのでした。終わり