淫仙

by TOMOMI


 朝露の雫を浮かべた雪白の芍薬、そっと指ではじく。風が柳の枝を揺らしていた。馥郁と若葉の匂い。
 小さいながらも小川の流れる、緑豊かな庭で、呉青秀は茶を飲んでいた。木陰に設えられた丸い机の上には、幾種類かの菓子と茶器が所狭しと並べられている。
 穏やかな朝だった。
 妻はあちらで花を生けたり、こちらで皿の数を数えたりと忙しそう。しかしひどく楽しそうだ。今日は結婚して以来初めて義妹が遊びに来る。久方ぶりに会う妹の為に思い付く限りの出迎えの準備をしているようだ。
 
 薫子は理想的な妻だと思う。
 美しい。ふっくらとした頬は薄く桃色。小さな唇はぽってりと丸く、目も眉もすっきりと細い。ふんわりとした笑顔で私の為に茶を入れる。宮廷で暮らした日々の長かった所為か、ゆったりとした動作は優雅で品がある。白く細い指で家のあちらこちらを整えている。
 この家は、こじんまりとした箱庭のよう。
 庭には花々が咲き、鳥が歌う。
 朝に池の辺の小枝に果物を刺しておいてやるのは、いつの間にやら私の日課になっていた。
 穏やかな日々、とても優しい日々。
 六年間の長い放浪生活に疲れた私には、今の生活は一時の午睡のようなものだ。あの六年の旅の間は辛い事もあったけれども、思い返してみれば変化に満ちた冒険でもあった。様々な場所で美しい風景を見、そして絵筆を動かした。玄宗皇帝唯一人の為に。私の絵は天子の為のもの。美しい絵を描き、天子の御心を和ませる、それだけが私に与えられた天命だった。
 今も私は何不自由なく、ただ絵を描いてくらしている。ただあの頃のような日々の変化がないだけだ。胸踊るような事もない。もう一度旅に出たいと思う事もある。しかしこの生活を手放す事は出来ないだろう。
 絵を描きそして褒美を頂戴する。この家も玄宗皇帝から頂戴した。そしてこの美しい妻も。
 私は人生に満足していた。
 
 「あなた、芬子が着きましたわ。」
 はしゃぐ妻に私はそっと微笑みかけた。
 
 久しぶりに会った妹に、妻は嬉々として話し掛けている。
 何てことのない日々の事。
 日常。
 しかし宮廷に暮らす芬子にはそれもまた珍しい話になるのかもしれない。私は義妹の横顔をそっと見る。妻と同じ顔をした妻と双子の義妹の顔。装いは違ってもつい見間違えそうになる。
 しかし表面上は同じでも、わずか数ヶ月でも夫人としての物腰と艶の出た薫子と宮廷で暮らす未婚の芬子には、やはり醸し出す雰囲気に違いが出てきている。
 面白いものだと青秀はゆったりと見比べる。
 薫子にはもう、始めての出会いのときの初々しさはない。落ち着きと安心感、包み込むような優しさ。
 ふと母を思い出させる。
 芬子を見る。化粧も装いも、まだ少女のものだ。時々不安げにこちらを見やるのも、熱心に語る姉の言葉に時々首をかしげながらも、ただ微笑んで頷いているのもかわいらしい。そう、あの頃の薫子と同じように。
 結婚とはこんなにも女を変えるものなのか。
 
 
 どんな女でも女同士の話は尽きないものだ。いつまでも話し続ける二人の姉妹に一言ことわって席をたった。青秀にとっては気を利かせたつもりもあったが、それとは別に自身で心悩ます事があった。一人になる時間が欲しかったのだ。
 
 
 「貴妃様も随分寂しがっておいでよ。」
 「まぁお懐かしいわ。」
 久しぶりに姉妹二人で語り尽くした。頬を火照らせひたすら話し続ける姉に、芬子はただうなずいて、微笑んでいた。姉が結婚する前、二人して宮廷にいた頃は同じ話題で盛り上がれたのに、生活の違ってしまった今となっては当然話題がずれてくる。
 座る位置も落着かない。二人だけで話すとき、二人は寄り添い手を繋ぎ合って話したものだ。今は二人卓を挟んで向かい合う。変わってゆくのだ。私も姉様も。
 
 「そうだ、貴方の為に小川で桃を冷やしておいたの。いま取ってくるわね。待っていて。」
 
 
 
 笑顔を残し姉は席をたった。一人取り残された私はため息を吐いた。
 何故そんなに幸せそうなの?
 私と離れるのは嫌だと泣いた貴方が・・・。
 
 花清宮で侍女として仕え、主な仕事は楊貴妃の身の回りの世話。すでに親はなく、天に二人だけ姉妹であったけれど、それなりに楽しい毎日であった。
 宮廷に漂う牽制の空気も二人には他人事。出世も権力もどうでもいい。二人一緒にいられればそれだけで幸せだった。幼い頃よりこの宮中で育ち、天子の寵愛を廻る様々な駆け引きの間で、それを風のように流し、手を取り合って漂ってきた。
 向かい合わせた鏡のように瓜二つの双子。揃いの着物に、揃いの髪飾り。いつまでも幼さの抜けない薫子と芬子は並べた対の人形のように貴妃のお気に入りとして可愛がられた。二人の仕える楊貴妃は天子の寵愛を一身に受け、大輪の花を咲かせていた。それだけに周りに敵も多いもの。時々はらはらさせられはするものの、二人に対しては特別に気を使ってくれた。宮中の人は皆、邪気のない二人をに対しては笑顔を向けた。
 
 視線。振り向くと背後に兄が立っていた。私はびくりと身を引いた。
 この人が私から姉様を取ったのだ。憎らしい人。この人がいなければ、私達は楽しく過ごせたのに。小さな家と小さな庭。幸せな家庭。遠い昔は私も持っていた。父様も母様もいたあの頃。今、私だけがそれを持っていない。幸せそうな姉様の顔が浮かぶ。悔しい。
 「お兄様、姉様を愛していて?」
 「もちろんですよ。薫子は良い妻です。」
 「私もそんな風に愛されてみたいわ。」
 にっこりと微笑んで、兄を見つめてやった。
 「姉様、お幸せそう。身体付きまで変わってきたみたい。胸の辺りもふっくらとしてきて。私なんてまだまだ子供ですわねぇ。」
 そっと自分の胸に手をあてる。兄の頬が染まった。気まずそうに視線を外す。
 「ねぇ、お兄様。」
 じっと見詰めてやると、兄は額に汗を掻いている。
 「私最近思いますの。お姉様とは同じ時に生まれ、片時も離れず一緒に育ってきましたわ。私、お兄様以外の男の方は苦手でしたから女ばかりの宮廷での暮らしは楽しゅうございました。でもね、親を早くに亡くした私は、ずっと家庭というものに憧れていましたの。小さな家と優しい家族。お兄様に初めてお見かけしたときに、ああ、こんな方が旦那様だったら幸せだろうなぁと考えておりましたのよ。それなのにお姉様が貴方様に嫁ぎ、ずっとお慕いしていた私が残ってしまうなんて。本当に人生はままならないものですわ。」
 「君が・・・私を?」
 
 男というのはどうしてこうも単純なのだろう。
 こんな取ってつけたような告白を信じてしまうんだろう。姉の夫たる男にこんな事を言う女など軽蔑した目で見ればいいのに、この男は喜んでいる。私のこの見を抱きしめようとその両手が疼いているではないか。馬鹿馬鹿しい。姉様でなくてもいいんだ。
 こんな男でも姉様は幸せなんだ。
 ねぇ、お姉様、私とお姉様は小さな頃から何でも二人で分け合ってきましたわよね。髪飾りもお菓子も食べ物も。
 ならば私にもその幸福、分けてくださっても良いわよね。
 
 「姉様が生きている限り無理。私、お兄様には指一本触れ合う事さえできませんわね。」
 芬子は喉の奥で笑った。
 「そうそう、私知っているんですのよ。お兄様がご依頼を受けた絵の事。あら、そんな恐い顔をなさっては嫌ですわ。貴妃様がこっそり教えてくだすったの。だってもとは楊貴妃様のお強請りなんですもの。でもね、死んだ女の絵を描くなんて、まさかお姉様を使って御描きになる何てことはないんでしょう?それだけは勘弁してくださいましね。私の大切なお姉様なんですもの。」
 青秀の顎からぽたりと汗が滴った。それこそが青秀が抱えていた悩みだった。
 「私も楽しみにしていますわね。それは美しい死美人を描いてくださいな。美しくなくては駄目よ。天子様も満足なさるような美しい、美しい女でなくては。ねぇ、そうでしょう?でもそんな美しい方を探すのは大変だわ。お姉様と良く似た私なら・・・そう、私ならお兄様の為にこの命、お捧げしてもよろしいんですのよ。愛してもらえぬこの身なら、せめてお兄様のお役に立ちたいの。」
 泣き出した芬子を、青秀はそっと抱きしめた。愛しげに髪を撫でる。
 顔を袖で隠し、芬子は声を殺して笑った。こんな馬鹿げた話を信じてる。なんて単純で可愛らしいのだろう。押し殺した笑いで肩が震える。青秀の手に力がこもる。なんて熱い手だろう。男の腕に抱かれるというのは結構気持ちが良いものなのね。お姉様は毎日この腕に抱かれて眠るのだろうな。
 でも、もう駄目よ。この男は女を捜すだろう。美しい女を捜してまわり、手当たり次第に声をかける。きっとお姉様は呆れるわ。泣くかもしれない。そしてお兄様は女を殺すわ。殺してその絵を描く。お姉様は堪えられるかしら。あの潔癖症の姉様が、女を殺したその腕に抱かれる事に我慢できるかしら。ふふふ・・・自分だけ幸せになるなんて駄目よ、お姉様。

 薫子が桃を抱えて戻ると辺りの空気が変わっていた。なんだか緊張感をはらんでいる。私がいない間に何があったというのか。
 妹の悲しげな様子。夫の紅潮した頬。
 嫌だ、私ったら何を考えているのかしら。
 夫は私に気付くと、何やら気まずそうに部屋を出ていった。
 
 
 
 その後の夕食は私が一人で喋っていたような気がする。芬子は何か考えているようだったし、夫は芬子を盗み見ていた。
 嫌な感じ。
 なぜそんな目で芬子を見るの?
 あの時何かがあったのだろうか。
 夕食の後芬子の部屋へ行ってみた。何かがあったのならば、私には話してくれるはずだ。たった二人の姉妹なのだもの。昔から私には何でも話してくれた。
 なのに芬子は何も言わない。ただ黙って窓の外を見つめていた。
 
 薫子が上の空で戻ると青秀は卓の上に頬杖を突いてしきりに何か考え事をしていた。背中越に夫の手元を見ると、卓の上には一枚の絵が広げてあった。
 私だ。
 そう、結婚してすぐに夫が書いてくれた私の姿絵だ。
 姿形だけなら私達は同じ物。
 ならばこれは芬子なのか。私を通して芬子を見ているのか?
 心に沸き上がる疑惑は簡単には消せはしない。そんな筈はないと思って見ても、何処かで疑う気持ちが残る。
 夫は寂しげな顔で私を見つめた。
 「薫子、旅行に行こうか。実は別荘を作ったんだ。山奥の小さな家なのだけれど、そこでまたお前を描かせてくれないか?」
 
 
 
 部屋の空気は冷たかった。
 山奥の一軒家に訪れる客はいない。もとよりこの場所は親しい友人にも秘密に建てた。
 青秀は寝台の上の薫子に馬乗りになり、ゆっくりとその白い首を絞め上げていった。いっきに力をこめる。せめて薫子が少しでも苦しまないように。 
 白く細いその首に、指がめり込む。
 瞼がひくんと動いた。一瞬躊躇したが、青秀は目を閉じ力の限り首を絞めた。
 ぽくんと骨の外れるような音がした。
 
 青秀は薫子の衣装をゆっくりと剥ぎ取る。真っ白な肌。抱きしめると首が後ろにかくんと曲がった。胸に耳を当てる。鼓動は聞こえない。こんなに暖かいのに、彼女はもう死んでいるのだ。なんとあっけない事だ。
 
 天子からの要請は美しい女の死体を描く事。
 極秘密裏に受けた依頼だ。
 最初は冗談かと思った。何の為にこんなものを欲するのか。
 絵の女は生きてはいない。ならばあえて死んでいる必要はないのではないのか。
 しかし青秀は天子の望む絵を書き続けてきたのだ。今回も断るという気持ちだけはなかった。どうせ描くなら最上の死美人を描きたかった。ならば美しい女を。芬子もそう言っていたではないか。美しい女を描けと。しかし青秀の一番身近な美人といえば夫人の薫子しかいなかった。薫子以上の女を町で捜すのは難しい。もとより女に声をかけてまわるなどという事のできる青秀ではなかった。もとより望んで得た妻ではなかった。絵の報酬に得た妻だ。惜しむ気持ちも多少はあるが、天子の為だ。
 「すまない・・・な。」
 薫子を寝台に横たえ、髪を整える。目を閉じた薫子の上に芬子の顔がダブる。優しい芬子。私の為に命も投げ出すと言ってくれた。優しく、しかし何処か掴み所のない女だ。儚げな少女のようでいて、何か企んでいるようでもある。時折恐ろしい目をして見せる。白一色の薫子に比べ、芬子は万華鏡のようだ。くるくると色を変える。この大業を成し遂げたら芬子と呼ぼう。天子様にもお願いして見よう。
 
 薫子を見詰める目が、次第に「モノ」を見る目に変わっていく。美しいモノ。白く、忌まわしく、美しい風景。
 薫子を失っても、芬子がいる。変わりがあるという気持ちがこの仕事をやりやすくさせた。これも天の配慮なのか。やはり神は私にこの仕事をせよとおっしゃっているのだ。
 そして青秀は紙をひろげ、絵筆を執った。
 筆は止まらなかった。緻密な描写で死美人は書き移されていく。取り付かれたように青秀は書き続けた。青秀にとって、天子の命は神よりの命にも等しかった。
 閉じた瞼、赤い唇。確かに美しい。美しい死体だ。しかし、美しい寝姿とどう違うのだろうか。悩みながらも筆は進む。
 寒い。
 筆先が小刻みに震える。
 青秀は堪らずに薪をくべた。筆が凍っては絵が描けぬ。筆先が震えては絵が歪む。
 そして再び筆を動かす。
 天子の為に最高の死美人を。白い肌、うっすら開いた赤い唇。豊かな黒髪をふんわりと結わえ、眠っているかのような美しい死体。
 数日語、1枚の絵が完成した。
 どう見ても眠っている女だ。これが死美人と呼べるのだろうか。本当にこれでいいのか?しかし今更書き直す事など出来ない。どうにも納得がゆかぬまま、青秀は横になった。疲れた。そのまま青秀は夢のない眠りへと落ちていった。
 
 目が覚めると、辺りは闇の中。手探りで蝋燭を探し火をつける。蝋燭の炎のなか、一瞬視界に入った薫子の死体は薄闇の中で不気味な変貌を見せた。驚いて蝋燭を取り落としそうになった。大きく息を吸い、あらためて薫子を見やると何やら様子が変わっている。顔が浮腫んでいる。皮膚の色、肌の張り、不機嫌そうな死者の顔になにやら背筋がゾーッとした。青秀は死体なぞ見るのは初めてであった。死体が膿み腐れていく事など何も考えていなかった。完成した絵と並べてみる。青秀はもう一枚描く事にした。次々に変化するその身体は、描き切る前に次の変化が訪れる。後はもう無我夢中だった。寝食を惜しんでの作業となった。
 これが自分の妻であるという認識はとうに消えていた。
 ただ、目の前で起こる変化を描きとめる事に必死だった。
 
 これが死なのだ。
 この変化こそが死というものなのだ。
 死んですぐの肉体というものは、直に触れ、感じなければ眠っている姿と何も変わらない。最初の絵などはただの眠っている女だ。しかし、これは目で見てすぐに分かる死体だ。これこそが私が描かなければならない”死んだ女の絵姿”なのだ。
 漂いはじめた腐臭の為に私は香の量を増やした。部屋中に死が充満している。死とは何と凄まじいものか。人はこうして崩れ土にかえるのか。これがあの美しかった薫子か?清楚な白い花のようだった薫子が今こうしてジュクジュクとした液体にまみれ、暗紫色の顔からだらりと舌をたらし、蛙のように膨らんだ腹を見せている。身体のあちこちで白い小さな蛆がヒクヒクと蠢いている。薫子、お前は今どんな気持ちだ?お前の自慢の美しさは何処へ行ったのだ?柳のようにたおやかに、風に吹かれて唄っていたお前。白い首も細いその指先も、つややかな頬ももう跡形もなく腐敗に蹂躪されてしまった。
 青秀は絵筆を握り締め大声で笑った。涙を流しながらいつまでもいつまでも笑っていた。
 
 
 
 お兄様達がいなくなってから一年が経った。
 私は貴妃様に暇をもらいこの家で待っていた。二人の帰ってくるのを。
 行先は誰も知らなかった。それでもいつかは帰ってくるものと信じ、ひとりこの家で待っていた。お姉様の着物を着、夫人の様に装った。一人ぼっちの夫婦ごっこ。姉様の幸福がわかるかもしれないと思った。でも一人ぼっちでは何も楽しくない。
 いっそ止めてしまおうかとも思ったが、此処より他に行く宛てもない。
 ひたすら一人で遊戯をしていた。
 一人では幸せになぞなれない。お姉様に会いたい。私と一緒に遊びましょう。
 訪れる者もなく、あばら屋の様になった家で幽鬼のように暮らした。
 鏡を見ては姉様に話し掛けた。
 十一月も数日が過ぎ、当所もなくぼうっと過ごしていた芬子の背後に人の気配がした。性も根も尽き果てた、ぼろぼろの死霊のような姿の兄が立っていた。落ち窪んだ目とこけた頬、泥と垢で黒くなった服。あの優男だった兄が何故?
 兄は一人だった。姉様の姿は見当たらない。不安が胸を締め付ける。
 目をギラつかせ、手を伸ばす夫に、薫子は身をかわす。
 「芬子・・・」
 青秀は震える手で巻き物を突き出した。
 紐が解かれ、芬子の前に絵巻物が広がった。
 姉は其処にいた。
 そして其処には自分の姿があった。一糸纏わぬ白い肌。眠るように寝台に横たわる姿。そして二枚目・・・その浮腫んだ顔と紫がかった皮膚の色で何を意味しているのか分かった。三枚目以降は見る事が出来なかった。
 巻き物が手から滑り落ちる。カタンと乾いた音がした。お姉様、私の大事なお姉様、お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様・・・
 
 「芬子、お前の望んでいたものだ。」
 
 「お姉様・・・。」
 男は泣きながら私を抱いた。私は呆然と為すがままになっていた。
 私の思考は止まっていた。初めての痛みも、苦痛も快楽も何もなかった。
 ぼんやりと自分の上で動いている男の事を思った。
 これは何?何故私はこんなことをしているのだろう。
 私は唯ちょっと薫子が羨ましかっただけ。
 私も幸せになってみたかっただけ。
 お姉様・・・死んでしまった。殺されてしまった。この男に。何故?私がそう仕向けた?違うわ。そんなの違う。大好きなお姉様、優しい、立派なお姉様。私の自慢の二人。だからお兄様も立派な人。そうでなくてはいけないの。愛国心に溢れた立派なお兄様。そのために殉死した立派なお姉様。私は立派なお姉様の妹。そんな私がそんなこと企むはずがないじゃない。私はお姉様を愛していたわ。だから私がお姉様を殺すはずがない。そうよ、お姉様を殺したのはこの男だもの。・・・違う、そんなのは駄目。そのお兄様に抱かれてる私。ふしだらな?違う。愛していたから。愛していたから抱かれたの。そうなのよ・・・。
 見栄も虚栄も嫉妬も憎悪も妬みも嫉みも策略もそんなの私は知らない。宮廷の、化粧で塗り固めたあの女達のする事。私は違うもの。だから、そんなの知らない。そんなこと私はしない。違うもの。そんなの駄目だもの。お姉様を殺したのは私じゃないもの。
 「愛していたの・・・。」
 
 
 背後で男は眠っている。
 私は足元の絵を取り上げた。
 一枚め。まだ寝息でも聞こえてきそうな愛する姉の死姿。
 それが6枚の紙に徐々に崩れ去っていく様が克明に記されていた。
 これは本当に薫子なのか、それとも私なのか・・・
 薫子はもう死んだ。
 この男の手にかかり、死んで、腐り果てて白い骨となったのだ。
 薫子は死んだ。呉青秀の妻薫子は死んだのだ。
 
 「どうしてこうなっちゃったのかしらね。」
 
 月明かりにぼんやりと、髪を振り乱し私を指差す女の姿が見える。
 笑っている。
 大きく開いた口は、耳には聞こえぬ呪詛を叫ぶ。
 女の姿が、風に崩れて土と化す。
 香と腐肉の匂いがした。
 「ごめんなさい、お姉様。」  

 -了-


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