第一話 破壊への序曲

by Zappie

  世紀末、西方の某大国で、前代未聞の恐るべき快楽の計画が実行にうつされようとしていた。それは過去におこなわれたあらゆる凌辱と残虐をも凌ぐ、巨大な悪徳の精神に支配された悪魔の大饗宴である。
  これにかろうじて匹敵する歴史上の事件をひとつあげるとすると、いまから250年ほど前、かのヨーロッパ・フランスの「黒い森」と呼ばれる隔絶の地で行われた120日に渡る、神をも恐れぬ糞尿と男色と殺戮に彩られたあの同種類の饗宴があげられるであろう。しかし社会のシステムやメディア、科学の発達により、複雑と混乱と物質にあふれかえった現代文明の下におこなわれたこの度の饗宴には、中世のヨーロッパ人達の堕落した想像力がいかに秀でたものであったとしても、足元にも及ばないに違いない。
  この饗宴を考えだした4人の主役達は、表面的には理性的にも常識的にも申し分のない、そして間違いなく世界の動向に絶大な影響力をもつ男達であった。
  その中のひとりであるアンチナチュル大統領は、この計画の立案者であり4人のなかの中心人物である。56歳、その容貌は極めて紳士的であり、その姿を一目見れば彼がこの「大統領」という地位につき、国内はもちろん全世界の人々の人望を一身にあつめている事実を不自然に思うものは誰もいないであろう。しかしその裏ではこの上ない異常性欲と残虐性をあわせもち、人の生命を奪うことなど蚊を潰すことほどにしか思わない邪悪な精神をもっていた。
  「大統領、ご承認を」
  アンチナチュルの向かいに座っているフトルディオ大司教は、一枚の書類をさしだした。「この度の”総会”の概要でございます。」
  今年53歳になるフトルディオは、世界的な支配力をもつ宗教の総本山の高位にある聖職者であったが、実生活ではその権力的立場から利用できる限りの豪奢な放蕩生活を展開していた。その人間性は二重人格の極みという以外に言葉はなく、いうなれば普段、自らが全生命をかけて愛していてしかるべき神の偶像の目前で、神を罵倒する言葉を吐き散らしながら、日々ありとあらゆる犯罪行為に明け暮れているのだった。
  小柄な体格だけにやや小心者のきらいがあったが、その分理屈っぽく細かい性格を買われ、この総会の実務的な進行係を任されている。
  いま4人の主役達は、明日から開催される饗宴---4人のあいだでは”総会”と呼ばれている---の具体的な内容についての最終確認をしている最中だった。舞台となるのは、このアンチナチュルの豪邸から800kmあまり離れた周囲数十キロ四方は蟻の巣ひとつ見つからぬ、死の荒野である。その100メートル地下に建設されたシェルタータイプの秘密基地「ソドムの宮殿」には、すでに100名の犠牲者と半年分の食料、そして快楽を増幅させるために有効なあらゆる種類の薬物や道具が用意されている。これらはもちろん必要に応じて常時、補給される手はずになっていた。
  アンチナチュルは書類に眼を通すと、スーツの下から鉄のような一物を突起させ、沸き上がってくる残虐の炎を燃えあがらせた。

●毎月一月の内の七日間、ソドムの宮殿に集まり、残虐と陵辱の限りを尽くすことがこの「総会」の主たる目的である。
●そこでは己の快楽の追求のみを目的とし、犠牲者の命は尊重すべからず。
●但し、邪悪なる想像力を増進させる過程での犠牲者の生命の一時の延長はこの限りではない。
●常に好奇心を重視し、犠牲者の内部に興味を抱きては即、解剖すべし。
●常に想像力を働かせ、既存の自らの趣味、趣向を応用・発展させ、ひとつの形態にとどまることをよしとせず。
●新たなる趣向を考案しせる場合、犠牲者のみと別所にて試行し、極力の演出をもってこれを発表すべし。
●.........(以下32項目)

  アンチナチュルは高らかに笑いながらその書面にサインをし、隣に回した。
  それを受け取った男は身の丈が2メートル23センチ、体重も200キロ近くある大男で分厚い口髭をはやしており、隆々ともりあがった筋肉の塊のような体格が制服の上からはっきりと見てとれる。
  アンチナチュルの無二の親友であり表向きの行政だけでなく、裏の道楽のつきあいでもお互い一役買っている、ブラスハイム警視総監42歳であった。
  「総監、最終的な犠牲者の調達は大丈夫かな。」
  「ぬかりありません、大統領。すでに全地球上で考えられる限り上質の11〜17歳までのオブジェクトを厳選して、全国の収容所に分散して保管してあります。いつでも補給体制は整っております。」
  そう言い、ブラスハイムは書類にサインをした。
  ブラスハイムは、普段からアンチナチュルの残虐性を満たす犠牲者達を提供していた。それらのソースは主に国内に多発する誘拐・失踪事件に端を発しているが、今回の大計画の際には今までと比較にならない大量の犠牲者が必要となり、その触手を全世界にまで伸ばしていた。
  半年にも及ぶ極秘の調達活動の結果、現在ではブラスハイムの息のかかっている全国の収容施設に1,000名余りの犠牲者が収容されている。
  それらの「調達活動」の機動力に多大な人力を提供したのが彼の向かいの席に座し、愛用の長く鋭いサーベルを先ほどから見つめている、マサクレ大将軍であった。
  マサクレは45歳、東洋の極小の島国では絶大な権力を誇る政治家である。根っからの軍人気質の凶暴な男であり、その底知れぬ狂気を内に秘めた性格は、4人の中でも最強の筋力と心臓を所有するブラスハイムさえも、そばにいるときは神経を張りつめなければならないほどだった。無口で快楽を追求する時も決して感情を表にあわらさず、その無表情の顔にひときわ目立つ吊りあがった眼ににらまれると、誰もが今にもその妖しく光るサーベルの餌食にされるか解らないような恐怖を感じさせる。
  事実、彼は自分が交わった人間は誰でも絶頂に達する瞬間、その首を切り落とさなければ気がすまない性癖をもっていた。お互い男色のつながりもある彼等のなか、その冷酷ぶりの度を越した異常性ゆえに唯一孤立した存在であるといえる。
  マサクレは回ってきた書類にサインをすると、またサーベルに視線を戻した。
  地球という小さな星に繁栄をほしいままにし、人類の文明の片隅で「富」と「権力」と「快楽」により固く結ばれているこの4人の権力者たちは、表面的な政治経済上でも最良の国際関係を保っていた。
  「我々はこれだけ世界平和に貢献しているのだ。」
  アンチナチュルは、最愛のブラスハイムの肩を叩いて言った。「私のこのボタンを押す人さし指が今だ滅多なことをしでかさないのも、その裏で我々の邪悪な精神が均衡を保っていればこそではないか」
  「まったくです、大統領。我々のおかげで世界の65億人の命が平和を謳歌しているのです。その内の1000人や2000人、快楽の肥やしの為に自由にしようと何のバチがあたりましょう。・・・そうですな、大司教」
  「いやいや、この地球上すべての生命の血を流させたとしても、バチなどあたる訳がありません。この果てしない宇宙の法則からしたら、我々のささやかな犯罪行為など、とるにたらないものです。ビッグ・バン以来、常に拡張し続けているこの宇宙のなかで、今まで何億、何兆、何京の星々が生まれては消えていったことか。それに比べたら、我々はささやかな欲望を満たす度に、たかが数人の人間の命を奪うだけのことです。”犯罪”や”背徳”という言葉は私を燃え上がらせますが、それも天地宇宙万物の定理の前では空しいばかり。私はたったこれっぽっちの罪しか犯していないのかと、がっかりします。しょせん人間の欲望など、単純で微々たるものなのですな。我々はせめて、この地球上のできるだけ多くの生命を好きに玩ぶだけのことで、その鬱憤をはらしてやろうではありませんか。」
  フトルディオはそう言って笑うと、4つのグラスにワインをそそぎ、仲間に配った。
  「この次は犠牲者の血で」
  「乾杯!」
  残虐性を帯びた眼光とともに、4人は真っ赤なワインを飲み干すのだった。
  4人はその夜10時間以上の睡眠をとり、翌日の昼過ぎこの計画のために用意された専用飛行機で”ソドムの宮殿”へと向かった。
  これから毎月7日間行われることになる”総会”のあいだの行政上の進行は、彼等の影武者が行う手はずになっている。それらは現代最高の科学技術をもって生産された、クローン人間達だった。
  到着するまでの数時間の間に同乗していた8人のスチュワーデスのうちの2人の首が、マサクレの刀によって落とされた。それを見て3人の仲間達はこれから始まる快楽への期待感とともに、背筋にゾッとする心地よい恐怖を味わうのだった。

  「総会」第1日目。
  その夜のディナーはこの饗宴の初回を飾るに相応しい、壮大な量の美味がテーブルの上に並べられた。一流の専用シェフによって料理された特上の小羊、豚の丸焼き、牛ロースのステーキなど、オリーブオイルとガーリックをたっぷり使った肉料理を中心に、珍しい海鮮料理や東洋の珍味などが、果物をくりぬいた容器や丸焼きになった動物の腑に色とりどりに並べられ、巨大なテーブルを飾っている。今日空の上で殺された哀れな女たちの骨付き肉のスープもあった。
  そして、これから始まる乱痴気騒ぎの犠牲者となる美少年美少女達がとりあえず30人ばかり鎖に繋がれたまま、ギリシャ風の薄絹のドレスを着てまわりを取り囲むように並んでいた。
  部屋は中世のヨーロッパに見立てられた豪華な装飾で、四方にはルノアール、ゴッホ、セザンヌ、ダ・ビンチ、ミケランジェロなどの世界中の名画や彫刻が飾られている。アンチナチュルとブラスハイムはその雰囲気にあわせて中世の貴族の格好をしていたが、マサクレはいつもの軍服姿、フトルディオは宗教服をまとっていた。
  「いつもの糞ったれに仕えるときの服装が一番私を燃え上がらせるのです」
  フトルディオは胃の中に、肉をワインで流し込みながら言った。
  4人の中でも一番の酒豪であるブラスハイムは、すでにボトル5本のウォッカを飲み干し、すっかり出来上っている状態にあった。
  他の者たちも十分に酔っ払うほどには飲んでおり、同時に多種のドラッグの効果も脳神経を駆けめぐっている状態だったため、止めどない凶暴な精神はすでに暴走の段階に達している。
  残酷絵巻の口火を切ったのはブラスハイムからだった。
  ブラスハイムは犠牲者達のなかからひとりの若い美少女を捕まえ、繋がれている鎖を素手で引きちぎり、テーブルの上にほうり投げた。皿やグラスがばりばりと砕け、肉やワインが飛び散り、豪華に調整されたテーブルの一部が一瞬にして汚らしく散乱する。
  女は東洋風の顔立ちで、勿論この場に選出されたオブジェクトにふさわしく完璧な肉体と美貌をかねそなえていた。悪魔のような笑みを浮かべて今にも襲いかかろうとしているブラスハイムを脅えた表情で見すえながら、「Help me...」の二文字を何度もくりかえしている。
  「わっはっは! もっと自分の不幸な境遇を嘆くがいい。お前等が涙を流せば流すほど、我々の精神は異常な喜びを感じる仕組みになっているのだ。お前等の白々しい美徳に満ちた表情が悲しみに崩れ、苦痛に歪み、やがて虫けらのように死んでゆくのは何とも言えないいい気分だよ。言っておくが我々は、250年前に先人達が行った饗宴の最大の残虐行為でさえ足元にも及ばないような行為以外は何一つやらないつもりだ。それにお前はこの”総会”の名誉ある最初の犠牲者だ。・・・お前のような女を片手でひねり殺すなど容易いことだが、たっぷりと時間をかけて、出来るだけ苦痛を長引かせ、最後の血の一滴まで苦しめてやろう」
  ブラスハイムは再び女の脚を掴むと卓上から引き摺り下ろし、女が唯一身につけていた薄絹を剥ぎとった。そして自らの一物に腕時計でフォークを括りつけると、女の玉門に一気に刺しこんだ。
  「そうれ、私の特製の一物の味はどうだ」
  警視総監の怪力にしっかりと押さえられ、激痛にのたうちまわることさえ出来ない哀れな娘は、股間からおびただしい血を吹き出させた。
  「ワッハッハ、この女を知っておるぞ」
  フトルディオが横から口を挟んだ。「マサクレ、こいつはお前の国で歌手をやっていた女であろう。雑誌で見たことがある。よく調達してきたな、こんなもの」
  そういうと、フトルディオは女の左の乳房を踏みつけた。
  「ほお、それではテレビを通して、今まで何十万、何百万の男達をたぶらかしてきたわけだな。どれ、私がマサクレに代わって、国家の制裁を加えてやろう。」
  ブラスハイムはオブジェクトを裏返すと、女の尻の穴を両手で押し開き、その特製の一物を一瞬にして根元まで突き刺した。犠牲者の地獄まで響くような悲鳴があがった。
  フトルディオはその手にフォークをつかみ、
  「この糞女、いつも馬鹿な平民どもをたぶらかしている得意の歌でも歌ってみろ!」
  と言って、女の片目に深く刺しこんだ。
  また悲鳴があがる。
  「けっ、何だそれが歌か。曲名はなんだ。とても音楽には聴こえんぞ。」
  フトルディオはせせら笑いながら思いきりフォークを引き抜いた。勢いで眼球がとびだし、神経の糸をひいて顎の下にぶらさがる。
  女が気違いのように首をふって叫んだ。もう発狂しているかもしれない。
  目玉をささえていた神経の糸がちぎれ、目玉が足元にころがった。フトルディオはそれを拾って口にいれ、気持ち良さそうにくちゃくちゃと味わった。
  一方でマサクレは、15歳の処女を後ろから犯しながら、抜き身の刀を頭上に振りかざし、肩越しに恐怖の目で哀願の声を発する少女を無表情の眼差しで睨んでいる。
  フトルディオはズボンを下ろすと、空っぽになった女の眼孔に一物を突っんだ。それを見て、ブラスハイムは女の尻を叩いて喜び、
  「大司教様、そこの感触はいかがですかな!」
  と聞く。
  「ごつごつしていてなかなかのものです。先っぽが脳髄の一端に触れている感じがたまりませんわい」
  フトルディオは満足そうに言った。
  「なるほど。では私も次に試してみましょう」
  「ワッハッハ、それはぜひ見物したいものですな。総監のことですから、オブジェクトの脳みそもめちゃくちゃに引っ掻き回してしまうでしょう!」
  二人は大声で笑いあった。暫くして、女がぐったりと動かなくなった。
  「やっ、ショック死してしまったようだぞ」
  ブラスハイムが残念そうに舌を鳴らす。
  「丁度いいでしょう、まだ気を遣るには早すぎます。オブジェクトの数はたっぷりあるのですから。今度はチョイと、時間をかけていたぶってみましょう」
  フトルディオはべとべとになった下半身から脳漿をしたたらせ、舌なめずりをする。
  「馬鹿な、俺はこの糞女を最低一時間はいたぶってやるつもりでいたのだ」
  ブラスハイムは不満をあらわにして、死体をテーブルの上に叩きつけた。「おのれ、こんな簡単に死におって!!」
  ブラスハイムは奮起して席に着くと、目の前に横たわる死体に一瞥もくれず、食べ残しの豚肉に噛みつき、飛び散った血で真っ赤に染まっているスープをずるずると音をたててすすりだした。
  既にフトルディオは次の「趣向」に走っていた。2メートル近くもある長い槍を何本も用意させ、次から次へとオブジェクトの身体に突き通している。股間の穴から挿入し、切っ先の行方を慎重にあやつりながら、肩の辺りへ突き出す。何をやっているかというと、致命傷になる心臓や肺を巧みに除けながら、何人まで殺さずに人間を串刺しにできるかゲームをしているのである。
  「よおし、これで5人目」
  13歳の美少年の肛門に槍を突き立てているフトルディオの表情は、真剣そのものだ。   綺麗に並べられた四体の串刺し少年少女達は、みな身動きできずピクピク手足を痙攣させていた。皆まるで別世界の異物を見るような不思議な眼で、自分の肩から突きだしている槍の先を見つめている。少しでも声を発したり動いたりするだけで身体中に激痛が走るとみえ、泣くことももがくこともできないようだ。
  「大統領は何もされないのですか。さっきから何もせずに、ずっと黙って見ているだけのようですが」
 むしゃむしゃと血のしたたる肉を食いながら、ブラスハイムがアンチナチュルに話しか ける。大統領は赤鬼のような顔でカッカッカと笑い、ポケットからリモコンを取りだした。
  「いやいや、今夜はちょっとした大掛かりな”見せ物”を用意しておったのですが、それが余りにも楽しみなので何もする気がおきなかったのです」
  「ほう、それは楽しみですな。早く見たいものです」
  アンチナチュルは壁の大時計をちらりと見やった。
  「よろしい。そろそろ時間です。ご覧にいれましょう」
  アンチナチュルがそういってリモコンのスイッチを押すと、中世のロココ調の壁が音をたてて二つに裂け、中から場違いにも近代的なスクリーンが現れた。
  「皆さん、お楽しみの途中ですが、しばしこちらをご覧下さい。本日は、この総会のオープニングを飾るに相応しい、最高のアトラクションをご用意しました」
  ブラスハイムはアンチナチュルの演出に注目する。
  フトルディオは7人目の犠牲者である11歳の美少女に、胃の辺りまで槍を刺しこんだまま、興味津々とモニターを見つめだした。
  マサクレもすでに血糊のこびりついたサーベルを、冷たくなった少女の尻の皮で拭っている。
  巨大なデジタル・スクリーンには、何処か南の島のような美しい光景が映っていた。
  カメラは誰もいない海岸から青い空へとなめるように動いた後、一直線にパーンダウンして、ヤシの木のひとつをとらえた。
  そこには全裸の美少女が虚ろな目で、木の幹に縄で縛りつけられていた。
  酷いものもらいのように赤くはれた瞳は、まだ生への執着が残っていた時の泣き叫んだ様子を物語っており、肌に深く食い込んでいる縄は、身をよじってもがいては何時間となく続けられたであろう抵抗の跡をはっきり焼きつけていた。しかし今では死の恐怖も通り過ぎて、自らの不幸な境遇に黙って身を委ねているという感じである。
  マサクレの目がきらりと光った。
  「あれは・・・、先月誘拐されたはずの、貴方の娘さんのジュスティーヌですな」
  「その通りです、大将軍。昨日からこの南太平洋の無人島に、監禁しております。これから我々の邪悪な想像力を最高値にまで高める、現代科学の極地を利用した素晴らしい”処刑ショー”をお目に掛けようと言う寸法です。」
  アンチナチュルがリモコンを操作すると、デジタル・スクリーンの画面表示が左右に分かれ、右にジュスティーヌ、左の画面には核ミサイルが映った。その弾頭は今まさに発射せんとハッチが開けられ、天に向かって大統領の号令を待機している状態だった。
  「おお!」
  三人の間にどよめきが上がる。
  「なるほど、大統領、こりゃあいい。貴方が今日を核実験の日に選んだのはこのためでありましたか! 私にも秘密にしていたとは憎らしい。」
  ブラスハイムは飲んでいたウォッカを吹きだし、大笑いした。「この画像はどうやって撮影しているのですか?」
  「超高性能のデジタル・ビデオを人工衛星でリモコン操作しております。彼女のこの24時間の苦悩の様子は、ご希望でしたら後ほどVTRでご覧にいれましょう。彼女の来るべき運命は、ビデオ・カメラに設置しておいたスピーカーで数時間前に告知しておきました。勿論、私の声でです。何不自由なく育ってきた箱入り娘の、死刑宣告の瞬間というのもなかなかの余興でありましょう。私はこの日のために娘を大事に育ててきたようなものです、わはははは!」
  4人は宮殿中に響き渡るような声で笑いだした。
  「それにしても今思いだしてみると白々しいですな、あの誘拐事件についての涙の会見!」
  フトルディオは興奮のあまり、11歳の美少女に半分まで挿入していた槍を握ると、少女の体内をめちゃめちゃに刺しまくった。少女は身体のあちこちから槍の切っ先を出没させ、血ヘドを吐いてすぐ死んだ。折角のスコアも7つ止まりだが、返り血を浴びてみるみる朱に染まってゆくその姿は、本当に楽しそうにみえた。
  普段、全く感情を表に出さないマサクレもさすがに他の三人につられて顔を興奮に痙らせ、バットのように刀を振り回す。後ろに立っていた数人の美少年達の首がボールのように宙に舞い、デジタルスクリーンの前を弧を描いて横切った。これがマサクレの精一杯の感情表現なのである。
  ブラスハイムは、怪力で目前の屍の手足を粘土細工のように千切っては画面に投げつけ、まるで行儀の悪いスポーツ観戦のように振る舞っている。そして足を一本だけ残してテーブルの上をバンバン叩きながら歓喜の声をあげていた。
  アンチナチュルも我慢できずに、足元に転がっている今し方マサクレが打ったホームランボールを拾いあげて口の部分を一物に被せ、髪の毛を鷲掴みにして上下に動かしはじめた。
  興奮の雄たけびをあげながら、アンチナチュルは片手でリモコンの中央に赤く光る大きなボタンを押した。
  デジタル・スクリーンには煙と音をたて、ミサイルの発射される光景が映る。
  大統領の上ずった声が響いた。
  「核は20分後に、我が娘に直撃する予定です。ぶぁはははは!」
  4人は堪えきれずに、各々の趣向に興じながら、爆笑した。
  終わることのない破壊の世紀末を象徴するかのように、彼らの笑い声はいつまでもソドムの宮殿にこだましていた。



第二話 サンドフィッシュ作戦

by ヘルカッツェ

 「こんな砂漠にも生き物が存在してるんだなあ。」カール・グロースヴァルト少佐は夜明けの砂漠に動くものを認め、感慨深げにそうつぶやいた。
 「どうかなされましたか、少佐。」部下のひとりが振り返って尋ねた。
 「少佐じゃない。エール大学の生物学者ヴァルト助教授だ。」彼は部下を叱咤した。
  動いたものはサンドフィッシュと呼ばれるとかげの一種で、手足がちょこっと生えているさかなみたいなとかげだ。砂の中を泳ぐようにして移動するのに適応した種だ。
 サンドフィッシュだけではない。砂漠の生き物はたいてい夜に行動する。昼間は岩陰や砂の中で眠っている。そして彼らエール大学の生物学研究チーム、助教授を先頭に四十名ほどの男たち−−−本当は軍の特殊部隊であるが−−−もまた夜間に行動していた。
 砂漠の野生動物を観察するように見せかけ、彼らは“ソドム宮殿”のすぐ近くまで接近していた。夜明けに彼らはジープを降り、今日の夜営地ならぬ昼営地を設営していた。
 夜間に行動することにはもうひとつのメリットがあった。それは、アンチナチュル大統領とその三人の仲間たちの蛮行の最中に踏み込める、ということだ。
 大統領の陰の面を暴くのだ。
 自分たちが本物の大統領を捕らえ蛮行の現場を押さえたあと、軍が大統領府で執務を行っているクローン・アンチナチュルに対してクーデターを起こすことになっていた。
 あのような男どもを野放しにしておくわけにはいかないのでな。
 昇る太陽が砂漠を黄金色に染めていた。若い少佐は秀麗な眉目をまぶしさにすがめながらも、大きな日輪を見た。
 これが非常に難しい任務であることは十分に承知していた。もし失敗すれば、自分たちは非常に不名誉に処刑されることは明らかだし、また計画に加わっている者すべてに処刑の手が伸びるであろう。さらにこのソドム宮殿に捕らえられている多くの−−−おそらく百名は下らない−−−子供たちの生命を救うこともできなくなる。
 ひょっとしたら、太陽を見るのもこれで最後かもしれないな。
 そう考えても不思議に不安ではなかった。軍人というものは、不本意な任務でも命令で行わなくてはならないのである。自らが進んで遂行できる仕事が与えられたことだけで十分に幸せだった。
 「おい、アーバスノット軍曹」少佐は、さっき自分に話しかけた部下を呼んだ。
 「眠る前に皆をテントに集めてくれ。最後の打ち合わせだ。」
 「いよいよ今夜ですね。」呼ばれた男も不安のかけらもない笑顔で答えた。
 「そうだ。この打ち合わせが終わったら良く眠っておけよ。眠るのも仕事のうちだ。いざというとき力が出なくては困る。」少佐も笑って言った。
 「眠るのも<サンドフィッシュ作戦>のうちですか。あはは。」
 だが表面の明るさとは裏腹に、少佐と軍曹のふたりともこの任務がいかに困難であるかを良く知っていた。それはこの<サンドフィッシュ作戦>を知らされた時から、そして自分がそれに志願した時から、良く分かっていることだった。

 グロースヴァルト少佐がフォン・ザイヒターフェルト元帥に内密に呼ばれたのは、一週間ほど前のことであった。
 元帥の邸宅に招かれたのは初めてで、少佐は屋敷をぐるりと眺めた。全体にゆったりした採光と通風のよい家で、地位ある人間の家にありがちな値段ばかり高い「名画」などないのがこの家の持ち主の性格を表している。
 とりわけ元帥の書斎には関心させられた。書棚が壁一面を覆い、文学や歴史から軍事関係、科学技術方面の本までがぎっしりと並び、ほとんどの本がよく読まれていた。
 大きなデスクの上はきちんと片づいていたが、大きなパソコンと書類がたくさん載ったトレーそれに実用的なデスクライトを見れば、元帥が実際この机で毎日仕事をしていることがわかる。家にも仕事を持ち帰るこの仕事熱心な上司を、少佐は好ましく思った。
 しかもこの部屋は一見なにげなかったが、ドアと窓はかなりしっかりとした防弾素材を使っているようであった。また至る所に監視カメラや抜け道、隠し武器などが仕掛けられているに違いない。
 こんな部屋に呼ばれたからには、何か重大なことだろう、と少佐は思った。
 そのとき、おそらく元帥の私室から続いているのだろう、少佐の通ったドアとは反対側にある扉が開き、元帥が現れた。
 「待たせてすまなかった。こちらに来たまえ、グロースヴァルト少佐。」
 「これは、軍としての正規の任務でのお呼びではないですね。」少佐は元帥の勧めた椅子にかけてから言った。
 「さよう。まずこれを読んでくれたまえ。」元帥の顔はいつにない厳しい顔であった。
 渡された資料を読み進めていくうちに、少佐の顔もこわばってきた。
 「こんなことが許されるのですか?!たしかに大統領にはうなずけない部分が多数あることはわかってましたが……」
 「ここまでの犯罪をよくも今まで隠しとおし、今度はそれ以上の犯罪を犯そうなどと、と思うだろう?しかし、ジュスティーヌ殿が協力して下さらなければここまで暴くことができなかったのだ。」
 「えっ、ジュスティーヌ殿が?!」
 ジュスティーヌ・アンチナチュルは、十九歳のまだ若い女性であったが、美しく賢く淑やかで、人権活動や環境保護活動などに尽力する、まさに国民的美少女であった。
 「ジュスティーヌ殿は、わしの娘キルシェの親友でな。その縁でわしに自分の父親が今まで行った犯罪を、知っている範囲ですべて打ち明けて下さったのだ。」
 「では……ジュスティーヌ殿が誘拐された、というのは……?」
 「いや、わしらに打ち明けたことで誘拐されたのではない。それならもう事件から二週間だ、とっくにわしらにも何らかの手が及んでおる。おそらくジュスティーヌ殿は、自分もまた大統領の餌食になることを見越して先手を打ったのだろう。」
 「信じられない!自分の娘までこのような汚れた情欲と暴力の対象とするとは!」
 「……それがわしが大統領を倒そうと決意した理由だ。」
 しばらく少佐は、ことの重大さに圧倒されてことばもなかった。
 「クローンとは考えたものだな。だがその日が分かればクーデターにはもってこいだ。」元帥は反応を窺うように少佐をながめて言った。
 「では、“総会”がいつ行われるかも教えて下さったのですね、ジュスティーヌ殿は。」
 「そうだ。ちょうど一週間後だ。」
 「その宴会が行われているときに“ソドム宮殿”に潜入するのが私の任務、ですね?」
 「さすがは少佐。飲み込みが早いな。それは承知の返事だと思っていいのだね。」元帥は、やはりこの男に頼んで良かった、と言うように笑った。
 「はい、元帥。情報と装備と人員をそろえていただけますなら」
 「君の任務が一番重要だ。知っての通りアンチナチュルは今まで人望を保ってきた。軍や政府関係者には彼を嫌う者が多いが、まだ国民の多くは彼の真の姿を知らない。いきなりクーデターを起こしても我々が悪者になるだけだ。大統領と三人の友人の蛮行をぜひ現行犯で捕らえてもらいたい。君のためには精鋭を揃えるよ。」
 「しかしクーデターを起こすとしても、大統領のクローンが行政府にいるとなると?」
 「大丈夫だ。かなりの人数が加わっている。それに、大統領府にいるのはクローンだ。本物ほど判断力がいいとは思わない。」
 「そうでしょうか?大統領は、人間性はともかく、狡猾で賢しく、また政治的な手腕もあります。そのクローンならかなり手こずると思いますが。」
 「考えてもみたまえ。クローン、ということは双子も同然だ。もし性格や能力まで全く同じなら、身代わりとして行政府にいる間に本物を殺し、自分が本物の大統領になりすますはずだ。おそらくそうならない仕掛け、たぶんロボトミー手術か何か、自発的な意志が働かないようにしてあるに違いない。」元帥は続けた。
 「ルーチンワークならこなせても、軍がクーデターを起こすなどという非常事態には対応できない可能性が高い。だから、やつらの“総会”はたった一週間なのだ。それ以上留守にすれば当然ボロがでる。」
 「なるほど。わかりました。ではもうひとつおたずねしたいのですが、ジュスティーヌ殿はこのソドム宮殿の中に捕らえられているのでしょうか?早く救ってさしあげたいと思うのですが……。」
 「……ジュスティーヌ殿は、そこにはおられない。」
 「では、どこにおられるのですか?……知っていらっしゃるのですね?!」
 「どこに拉致されたのか、調べた。しかし……」元帥の目には涙が浮かんでいた。
 「どこにおられるのかがわかっているのに、助けて差し上げることができんのだ。ジュスティーヌ殿は、南太平洋のある岩礁に隔離されておる。そこは、一週間後、核実験が行われる予定地となっている。」
 「ええっ?!」少佐は絶句した。
 「今そこに出向いて救出するのは簡単なことだ。だがそうすれば、ジュスティーヌ殿の行方をなぜ知っていたのかが露見する。そうなればクーデターグループは一網打尽だ。」
 「では、核実験を中止できませんか?」
 「二度提言してみたが、大統領が言下に却下した。……ちょうどその日はソドムの宴の初日だ。たぶん自分の娘を核実験で殺すのを宴会のこけら落としにするつもりなのだろう。これ以上言えばやはり疑いを招く。」
 「ミサイルの進路を変えることは?」
 「それも考えた。しかしプログラムを書き換にも、全部書き換える時間がない。一部を変更して、もし多くの人のいるところに落ちたらそれこそ大問題となる。」
 重苦しい沈黙が二人の間を流れた。
 「ジュスティーヌ殿は自らおっしゃっていたのだ。もし自分が父大統領に捕まることがあったら、救出しないように、と。そうすればせっかくのクーデターが台無しになる、そうなればさらに多くの人が犠牲になるのだから、と。」元帥は目頭を押さえた。
 ユニセフの親善大使であり、人種差別撤廃のための運動やアフリカの飢餓を救う運動の中心であった彼女らしい言い方であった。
 「まさに『美徳の不幸』ですね。」少佐はため息をついて言った。

 「と、いうわけで、我々はジュスティーヌ殿の遺志を無駄にしてはならぬのだ。」
 テントの中で、グロースヴァルト少佐は部下たちに言った。テントとはいっても、言うなればモンゴルの遊牧民が使っているパオを軽くて強靱なカーボンファイバーで再現したもので、組立が簡単でかつ四十人近い男たちを収容できる広さがあった。
 「ジュスティーヌ殿の“遺志”?!」誰かがけげんそうに言った。
 「そうだ。一昨日の連絡で、核実験が予定どおり行われ、無事成功したと伝えられた……」少佐は、こみあげてくるものを押さえるために、少しだけ言葉に詰まった。
 「だから、我々は失敗できんのだ。」
 一同はしばし無言になったが、グロースヴァルト少佐はさらに言葉を続けた。
 「また、四人は予定通りソドム宮殿に入った模様。彼らを乗せて、表向きには核シェルターであるソドム宮殿に向かった飛行機は、“視察”を終えた四人を乗せて帰還したが、この四名はクローンだと思われる。」
 「クローンは通常ソドム宮殿に住んでるのですね?」とパク少尉が言った。この男とその部下たちはコンピューターの専門家集団だ。
 「そうだ。ソドム宮殿は核シェルターとして半年ぶんの食料を備蓄しているが、それはふだんクローンたちを住まわせるための食料なのだろう。またあのような贅沢な男どもが保存食料で一週間を過ごすはずもない。」
 「その補給の際に侵入するのですね?」小隊長ブランシェ中尉がそう言った。
 「そうだ。調査の結果、ごく少人数だが毎日決まった時刻に人の出入りがあることが分かった。朝十時にここから二百キロ離れた街から直行便がやってくる。運ばれるのは数人のシェフと使用人と、新鮮で高価な食材だ。」
 「そのときを襲うのですか?」
 「いや、朝ではだめだ。証拠が押さえられん。その飛行機は夕方五時すぎに飛び立つのだ。夜の蛮行を見られたくないのだろう。そこを襲うのだ。それをブランシェ中尉、君の部隊にお願いする。」
 「わかりました少佐。その飛行機はどのくらい警護されているのでしょうか?」
 「おそらく警護はないはずだ。重要なことは、ドアの暗証番号を知っている者をすみやかに探すことと、大統領に連絡させないことだ。」
 少佐はソドム宮殿の見取り図を広げた。
 「残りの部隊は二手に分かれ、すぐ近くで待機だ。私が率いる部隊は中尉とともに突入だ。警備兵はゼロで、警備ロボットはいるが、知っての通りロボットは意外にバカで訓練された人間にはかなわない。」少佐は注意を引くように一同を眺めわたしてから続けた。
 「ただし軍が把握しているだけでも数々の仕掛けがある。たぶんやつは仕掛けを増やしている。それにひっかかるな。」
 「つまりソドム宮殿は、攻めの力はほとんどないが守りが非常に堅固である、ということですね、少佐?」部隊の副官であるイトウ大尉がつけくわえた。
 「そうだ。もしわなにかかって捕らえられたら、奴らの“オブジェクト”にされるかもしれんぞ。気をつけろ。」少佐は皮肉っぽい笑いを浮かべて言った。
 「こんな大規模な施設に、本当に警護兵がいないのでしょうか?」とパク少尉が質問した。
 「やつの最大の弱点は、裏でこのようなことをしているくせに、誰にも知られないようにしようとすることだ。まあもし警護兵がいたら、大統領の蛮行にすぐ反乱が起こるだろう。それでほとんどすべての機構をコンピューター制御にしているのだ。」
 「なるほど、わかりました。」
 「イトウ大尉の部隊はここ、貯蔵室である第三層へ通ずるこの出口を固めろ。やつらに逃げられんようにな。パク少尉の部隊がコンピューター室を占拠し、ドアを開けたら突入せよ。三十分たって開かなければ、爆破して強行突入だ。私が率いる部隊はこの大広間に直行する。」
 少佐は図面を指さしながら言った。
 「最悪のケースは、やつが皆を道連れにすることだ。地上に戻る出口を破壊されたら地下百メートルだ、もう戻れん。そうされないためにはなによりも迅速さが大切だ。それを忘れるな。」

 アンチナチュルは早起きである。通常の、大統領としての責務を果たしている間は朝六時には目を覚ましている。それはこの男の唯一の美徳であった。当人は、自分に美徳がひとつでも存在することが気に入らないのだが、大統領の地位を保つためにはやむをえないのである。
 そしてこのソドム宮殿でも、四人のうちで最も早起きなのだ。ちょうど昼十二時きっかりにアンチナチュルは起床した。これは、日の昇る直前まで酒池肉林の騒ぎをしていたにしては確かに早く、次に早いマサクレが起き出すまであと三時間四十六分もあった。
 ちなみに酒豪のブラスハイムの脳みそからアルコール分が抜け、また酒を求めて起き出すまでに五時間七分、フトルディオが目覚め再び神を冒涜する言葉を吐き散らすまでに六時間十二分、といったところだ。
 目覚めてすぐベッド脇のボタンをいくつか押した。シャワーを浴びたあと、ころあいに壁の一部が開き、そこに朝食があった。そこが小さなエレベーターになっているのだ。
 朝食を食べ終わり食器をそのエレベーターに入れると、また自動的に下がり、再び上がってきた。するとそこにはアイロンがかけられた今日の服があった。
 昼の間だけ、一番近い大都市から腕の良いコックと使用人数名がやってくる。彼らが料理など機械ではできないことを昼間のうちにやってくれるのだ。食事や服を所定の場所に置いておくと、こちらではボタンひとつで、誰にも会わずに利用できる。
 人間嫌いでテクノロジー信奉者のアンチナチュルは、料理やアイロンがけさえも自動化したかったのだが、こういうものはどうしても機械ではこなせないものである。
 「あいつらはこの便利な設備を使っておらんようだ。馬鹿な奴らめ。」
 大統領はふふふ、と含み笑いをすると、「友人たち」の悪口を考えていた。表面上はどれほど仲がよいように見えても、悪人同士の友情などこのようなものである。
 実は、不潔好きで聖職に就いてから一度も体を洗ったことのないフトルディオは、「毎朝シャワーを浴びるなど、アンチナチュルは何と愚かな男だ。」と言っていた。
 また、乳離れ以来酒と肉以外を口にしたことのないブラスハイムは、「朝食をとりしかも野菜など喰うとは大統領も狂っている。」などと言っているのである。
 マサクレはマサクレで、人を殺せる体力を維持するために毎日一時間ほど体操と剣の練習をしていたが、特別な運動をしないアンチナチュルを内心あざ笑っているのだ。
 要するに、この四人は、非常に似たもの同士だというわけである。
 それからアンチナチュルはソドム宮殿の内部を歩いた。
 彼ら四人が居住しているのは、ソドム宮殿の最上部にある“神の城”であった。そこは清潔で(ただし大司教の部屋の内部はそうではないが)豪勢な居住区となっており、悪徳や退廃の感じはなかった。
 そこからエスカレーターで一階下がると、第一層のコンピューター室がある。このソドム宮殿を、すべて自動管理している。
 その下が第二層、調理室や洗濯室などがあって、今はコックたちが働いている。その他、空気換気システム・水浄化システムなどの実用的な、これも無人の施設が入っている。エネルギー源は砂漠の表面に置いた太陽電池パネルだ。石油もかなり備蓄している。
 その下が、設計上は三層にまたがって貯蔵室ということになっているが、実際の貯蔵室はいちばん上の第三層だけで、そのまた下、第四層が宴会の開かれる大広間だ。ここへは“神の城”から直通エレベーターがある。
 その下の階、最下層は……“オブジェクト”たちが収容されている。
 オブジェクトたちが収容されているのは、かろうじて男女別にはなっているものの、仕切もないコンクリートの打ちっ放しの空間で、その中に一週間の間に「消費」される分が詰め込まれていた。
 毎日食事と水が与えられるものの、それは家畜に餌をあたえるように、樋に流されるだけで、犠牲者たちはそれを手づかみで飲み食いしなければならなかった。
 天井にはカメラが取りつけられており、四人の悪人どもは自分の部屋で犠牲者の窮状を眺め、楽しむことができた。
 宴会の前になると銃を構えたヒューマノイド型ロボットが、選ばれた犠牲者に無理矢理シャワーをつかわせ、衣装を着けさせ、大広間へと連れ出していくのだった。
 この四台のロボットは、先人が「黒い森」で行った偉業に敬意を表して「四人の老婆」と呼ばれていた。
 ソドム宮殿の設計図には、外の砂漠に作られた空港から入る入り口と、第三層に直結している補給路の出入り口との二種類だけしかなかったはずだが、大統領は、秘密裏に、最下層に直結する入り口を作ったのである。ブラスハイムの手下がそこに、捕らえた“オブジェクト”を投げ込むのだ。
 アンチナチュルは、宴会が行われていない昼間の大広間に行ってみた。
 食べたあとの食器などはない。ここにもご自慢のテクノロジーが使われている。
 シェフたちが昼の間にこのテーブルの上にご馳走を盛りつけておくと、大広間のボタンをひとつ押すだけで自動的に天井から降りてくるのである。
 また後かたづけも不要だった。宴会が果てたのち、食器をテーブルの上に置いておきさえすれば、自動的にテーブルが動き、そこから調理室の食器洗い機に運ばれる。
 掃除ロボットが五台、床や壁を動き回っていた。そのうちの二台は、ドラム缶の底にタイヤとブラシがついたような形で、動き回るだけで床がきれいに磨かれた。一台は壁と天井を磨くロボットだ。床から天井までの長さの一面に柔らかい毛の生えた細長い円筒で、回転しながら壁を磨いてゆく。
 もう二台は、おおきな箱にクレーンがついている。家具や絵などあらかじめ形を登録しておいた以外のものを「ゴミ」と認識し、クレーンでつまみあげ箱に入れる。つまり、宴の後、残されたおびただしい「ゴミ」を集め、捨ててくれるのである。
 集められたゴミは外に捨てられた。このソドム宮殿は、砂漠に露出した岩盤のクレバスを利用して作られている。ここはもともと地上何百メートルの高さがあった岩山だったろうが、何百万年もの歳月ですっかり砂に埋もれ地下になっているのである。
 宮殿は約地下百メートルのところに作られていたが、クレバスはさらに奥深く、地下何百メートルにもわたって続いていた。ここに投げ込んでしまえば、ゴミは−−−紙屑であろうと人間の死体であろうと−−−二度と太陽の光を浴びることはない。
 アンチナチュルが大広間に足を踏み入れた時、「ゴミ」はもうひとつもなかった。おそらく最後にゴミ捨て場に向かうのだろう、ロボットがこちらの方へやってきた。
 <ぴーぴーぴー、ドウゾオタチノキクダサイ。ぴーぴーぴー、ドウゾオタ……>
 むろん、脈も体温もある物体を「ゴミ」などと認識はしない。アンチナチュルが立ち退かなかったので、ロボットはコの字型によけ、ドアから出ていった。
 「このロボットどもは、わしらが帰った後も重要な働きをしてくれる。オブジェクトが空になった最下層をきれいに掃除してくれるのでな。」と大統領はほくそ笑んだ。
 壁磨きロボットが、ちょうど壁にかけられた一枚の絵のところまでさしかかった。
 「絵にガラスをかぶせていて良かった。」
 その絵は、ボッチチェルリの『春』で、本当はフィレンツェのウフィッツィ美術館にあるべきものだ。一九九三年に美術館に爆弾をしかけ、その混乱に乗じ何枚かの名画を精巧なレプリカとすり替えて盗んだものだ。
 昨日の宴会でマサクレがオブジェクトの首をはねたとき、頸動脈から吹き出した血がちょうどこの絵を直撃したのだ。
 それを見てフトルディオは、「どうせならそこのダ・ヴィンチの『受胎告知』を汚せば良かったのに」と言った。むろんそれも盗品である。次はルーブルからコレクションがもたらされるであろう。
 ガラスには茶色く変色した血がこびりついていたが、ロボットがころがり去ったあとはまたぴかぴかになっていた。アンチナチュルはこの宮殿に使用されているテクノロジーに感激せずにはおられなかった。
 豪奢な美術品を眺めながら、大統領はこの二日間の饗宴のことを思いめぐらせていた。
 初日は・・・
 ・・・我が娘と多額の費用をかけたわりには、“殺人ショー”は大がかりすぎて少し興ざめであった。それよりは、マサクレが行きの飛行機の中で首をはねたスチュワーデスの精肉の方が良かった。
 珍しくあの大広間ではなく第四層の調理室に四人が集まった。そこには、牛でも豚でも、生きたまま放り込めば自動的に屠殺し、血抜きし、精肉する機械があった。
 残念ながら生きたままではなかったが、それでも人間が豚のように精肉されるさまは、四人の、多少のことではもう反応しない精神にもかなりの刺激を与えた。
 何よりも人間とは違って機械はペースを止めないのである。一定のペースで体を半分に割り、あばら骨をとり、湯につけて皮をべろりと剥ぐと手足を切断し、どんどん精肉していくのであった・・・
 「今晩の宴会の前にオブジェクトをひとつ生きたまま放り込んでやろうか。」
 アンチナチュルは、またひとつ新たな「趣向」を考えついたのでにたりと笑った。
 二日目は・・・
 ・・・オブジェクトの美少年のうちひときわ綺麗なのがいた。その少年は、不潔で醜いフトルディオに犯されることを嫌がってひどく泣いたので、大司教は言った。
 「じゃあ、わしので犯すのはやめてやろう。」
 それから大司教は少年のかわいらしい一物をひどく刺激し、勃起した根本をきつく縛り血止めをして切り落とした。そしてさらにそれを、少年の若気に差し込んだ。
 「ひひひ、自分自身に犯されるというのは、どういう気持ちかい?」
 「気絶するのはまだ早いよ。」マサクレは相変わらずの無表情で近寄ると、ほとんど気を失っている少年の前の方に回り、今度は睾丸を切り落とし、
 「これじゃあもう男の子じゃないね。幸い顔がかわいいから、女の子にしてあげよう。」と言うとマサクレは、サーベルで股間を深く切り裂き、その即席玉門を犯した。
 そのときブラスハイムは少女の体を裂いていた。さきほどまでその娘を犯していたのだが、舌を噛んで自殺しようとしたのを見て言ったのである。
 「オブジェクトには自分の意志で死ぬ権利などない!! はははっ!!」
 そう叫ぶと少女を殴り倒し、持っていた銃を膣の中に差し込み引き金を引いた。弾丸は少女の体内をずぶずぶと芋刺しにして最後に頭のてっぺんから飛び出し、砕けた頭から血と脳漿が飛び散った。
 そこで弾丸がどのように内臓を貫いていったのかを調べるため解剖していたのだ。
 「警視総監。いいことを考えたのだが。」大統領は友人を呼んだ。
 大統領は、壁に鎖でつながれ、これまでの狂気の宴を目の当たりにして放心している子供たちの群を値踏みするように眺めていたが、そばに寄ってきたブラスハイムにそっと耳打ちをした。それを聞いて警視総監は残忍な笑いを浮かべると、
 「それならできるだけ若いのがいいだろう。」と言い、犠牲者たちを一瞥した。子供たちは縮み上がり、本能的に後ずさりした。
 「わははははっ、そんなことをしても無駄だ。おまえたちはどうせ、遅い早いの差はあっても全員、今夜中には死ぬのだ。早いうちに死ぬ奴の方があのような光景を少しでも見ないで済むだけ果報者ということだ。」
 そう言うと小柄で華奢な十一歳くらいの少女を選び、鎖から外した。少女は泣き叫んだが、むろん二人の悪人がやめるはずもない。ブラスハイムは直径十センチ、長さ四十センチの超巨大な一物を、小さな未開拓の穴にあてがい、痛がるのも構わず貫いた。
 「ほうれ、根本まで入った。」ブラスハイムがそう卑猥につぶやくと、
 「今度はうしろのほうも使ってあげるね。前と後ろを同時に水揚げしてもらえる女の子って、有史以来君が初めてかもしれないね。」とアンチナチュルは残忍な猫なで声でそう言い、友人よりはやや劣るものの、それでも直径八センチ長さ三十六センチの一物を少女の若気に無理矢理さしこんだ。
 二人の男が激しく腰を動かすうちに、びりりとくぐもった変な音がし、少女の股間から血がぼたぼた落ちてきた。それは処女を奪われた出血ではなく、直腸と膣が裂けた出血に違いない。気絶した少女を犯しながら、大統領は大将軍と大司教のほうを見た。
 フトルディオは血のしたたる少年の生首を持ち、首のない少年の尻を舐めさせていた。 少年の脳はまだ生きているのか、目玉が動いておのれの肛門を舐める恐怖と嫌悪を浮かべ、マサクレはいつもの無表情でサーベルを拭っていた・・・・
 アンチナチュルは、昨夜の宴会を思い出して笑い、今夜はどうやってそれ以上の宴会ができるだろうか、と考えていた。



第三話 さあ石になろうぜ
    暇だしどう?

by ASURA

 おれ有田成男、23歳。そこそこいろんなことやっていまの自分のことはまあ気に入ってる。いまは金がなくて仕事を探してる。おれが思うに金を儲けるのなんか簡単だ。奴隷になれば金はすぐにもらえる。これをやれと言われ、それをやれば金がもらえる。単純なことだ。問題なのは時間についてだ。一年に一日だけ恥を受ければ好きに生かしてやろうというならおれもそうだだをこねまい。だがそうじゃないんだろ? 旦那。
 無論おれには悩みがある。オートマティックないまの地球について考える余裕はほとんどない。いま考えるのはおれの自由と正直さについてだ……退屈だ。楽しくない。
 口笛が聞こえて玄関を開ける。もちろん静香──「スモークしない?」と髪をかき上げて耳に挟んだジョイントを見せる。もちろんO.K.さっそくもらって火をつけ思いきり吸い込む。準備万端、さあ石になろうぜ──「これ花かい?」──「秋ね」と静香──「退屈なんでしょうと思って」──「ああつまんねえや」と俺は彼女にジョイントを返した。
 静香は黙って吸う。静香も暇そうだ。彼女は仕事があるがいい仕事じゃない。やめたがってるのがわかる。でも息を止めるその顔は楽しそうだし、おれの家に遊びにきたんだからまだ元気なようだ……利いてきた。さてなにしよう?
 「ねえ成男、あなたのスクラップ見せて」──二重瞼になった静香が笑いかけてくる。彼女は利くと二重になる。俺は寝ころんだまま体を伸ばしてノートを渡した。
 「これ楽しいわ」と静香……「そうかい?」──このノートにはミケランジェロのアカデミーの絵がはってある。土壌からの化学物質の許容範囲表と、中国人へのアンケートの記事と、アボリジニのインタヴューが含まれている。また墓の広告と、中古車情報と、建築様式と、簡潔な易の表がある。たしかに世界はここにある。
 「でももう飽きたよ。調べれば調べるほど世の中よくない」
 「そうね」……静香は笑う。「あなたどうするの?」
 知らないや、って言ってやろうと思ったけどジョイントがうれしかったんでやめた。
 「そうだな、働くんだろうな」
 「でもやる気なさそうね」
 「まあね」
 「すぐやめるんでしょうね」
 「そうかもな」
 静香は黙って一度消えたジョイントにもう一度火をつけ吸う。息を止めながらおれに渡してくれた。気の進まない話をしてくれるもんだ。気づいたらしく静香は黙った。おれは遠慮なく吸った。どこかへ行こうかな……
 TVに流れているのは総理大臣の表明だ──「この国だってそんなに悪い国でもないじゃないか!」──O.K.さあけつをまくろう、クレゾール石鹸を用意しようじゃないか。軍手にエプロン、安全靴にヘルメットはいらんかね? 畜生め。あんまりおれをなめるなよ……
 「ふふ」と突然静香は笑った。「元気そうじゃない。その顔。安心したわ」
 「まあね」
 とおれも静香に笑いかけた。そうだ、おれ有田成男。まだまだ元気みたい。
 それからしばらく静香と一通り遊んだ。静香はおれにDJをやってくれとせがみ、おれは30分ほど回してみた。ジャズのムードとクラヴのムードが欲しかった。フロアじゃないんで静香は軽く踊ってた。楽しそうだった。おれも少しだけ楽しかった。
 飽きると今度は一緒に油絵をやりだした。ふたりともあまり気が乗らなくてすぐやめた。あとかたずけは放っておくことにした。
 最後の一服を吸っていつどこでだれがどうしたのゲームをやった。ひとつ不思議なものができた。
 ふたりがこれからのことを考える
 たんぽぽの綿帽子がとぶ丘
 一匹の兎が
 笛の音を聴いていた
 よくできたのでスクラップノートに貼った……でもこれにも飽きてきた。
 そのとき静香は言うのだ──「暇ね」──「うん。つまらん」
 ……おれたちはほとんど同時に突拍子もないことを考えついた、おれはそれを言ってみた。
 「暇だしどう? ファックしようか」
 「うん、いいわよ」
 静香は言うとかったるそうにすりよってきた。おれたちは抱き合ってはじめてキスをし、服を脱いでファックした。なかなか楽しかった。

   電子メール。蛭田徹からだ。

 成男、知らせたいことがあって書いている。ちと長くなるが我慢しろ。なかなかおもしろい情報だからな。
 あの例のポマードジャンキー、そうツーピースの王様、アンチナチュルの野郎な、あの野郎やっぱり胸にいちもつ持っていやがった。俺の研究所でやったシェルターがあるんだが、そこでひっちゃかめっちゃかのどんちゃんさわぎをやらかしていやがる。もちろんマサクレも一緒にだ。どんなさわぎかって? 詳しくは知らんが要するに強姦と殺人だ。極秘裏にやってるらしいが俺にも伝わるくらいだからかなり広まってる。げんに軍は動いててクーデターが近い。やつらよほど暇らしいぜ、暇人同士の猟奇ゲームと戦争ゲームだ。やつらにはモノポリーでもやらせておくのがいい。
 だが成男、こりゃあチャンスだ。俺の上司はそのシェルターのコンピュータルームのパスを知ってた。俺は金をやってパスを聞き出した。おれはこのルームの設計を手伝ったからなにができるかよく知ってる。落とし穴、高電圧ナノケーブル、スーパーバイオパトロール。ここはコンピュータルームを直接コントロールすればなんでもできるんだ。近く軍の突入がある。俺は急いでハミロフに連絡し手を回してもらった。5人のロシア人と軍の内通者が数名いる。君は知らんだろうが軍側のコンピュータルームを抑える部隊のパク少尉のブリーフは赤いんだぜ。
 一通りの武器と、十分な資金も預かった。後はこれをさっさと片づけて俺とおまえと静香が集まってむかし話した通り好きにやろうぜ。クーデターが起きたところでなにが変わる? 結局またやつらは言うのさ──「そこそこ楽しい人生を提供しているじゃないか」ってね。ふざけるなよ、ビールっ腹野郎。クローンにも劣るトイレの金勘定野郎どもめ。そろそろやつらに思い知らせてやろうぜ。俺たちがいまやらないならムーサも泣くだろうさ。すぐに日本を発て。
 人間万歳。宇宙万歳。                蛭田

    追伸 できたらスピードを持ってきてくれ。それから静香ともうファックしたか?

 O.K.いいだろう、どう言い訳してもおれも静香も行き詰まってる。死にそうだ……もしそれが うまくいったら少しは楽しそうだ、徹。もし今日も静香が遊びにきたら俺たちは死んでたかもしれなかった、それよりは楽しそうだな……徹。
 おれは考えるうちにどんどん楽しくなってきて静香に電話した。
 「なに? いまから遊ぶ?」
 「いやいまから飛行機に乗らないか」
 「あははは!」
 静香は思いきり笑った。
 「乗る乗る! 行くわ!」
 「よし親に金を借りるんだ、おれも出来るだけかき集める。君が好きだよ」
 おれは電話を切る。
 おれ、有田成男。まだまだ元気だ。



第四話 愛と快楽主義者

by 夜長

  一義を終えた後、ほほを紅潮させうっすらと前髪の生えぎわを汗ばませ横たわる女。息づく白い胸。黒い髪の、延べられたなめらかな流れ。
  私はその髪をわしづかみにして荒々しく引きよせる。・・・そう、この香りだ。行為を終えて女の髪に顔を埋める時、いつもこの香りがする。日なたのような、湿った香り。
  女たちはいつも私に子供の時に飼っていた小鳥を思い出させる。
  手に取ったときに伝わってくる、激しい胸の上下運動。痛いほどの鼓動。私の中におさまってしまうような小さい生き物・・・顔をそっと近づけると、暖かい日なたに似た香りがしたものだった。私はその鳥を本当に愛しかわいがっていた・・・しかし・・・なぜだろう。ある日あまりの愛しさに胸がしめつけられ、夢中で目を閉じ、歯をくいしばり、その感覚に耐え、気がついたときには・・・その首は強く折られ、小鳥は息絶えていたのだった。
  女の髪の中は温かな匂いがする、湿った黒い森だ。強く引っ張ると白いみずみずしい粒のついた一房が抜ける。森の恵みを私は口にふくむ。『空想の森の中で、私はたった一人だ。』
  遠くで苦痛を訴える声がする。目を閉じ茂みをめちゃくちゃに掻きまわす。ああ、すべてを忘れさせる暗いざわめき、香り。私は森に迷い混乱する。
  そしてふと我に返る。いつもこうだ。女は首をしめられ、こと切れていた。あんなに愛し、すべてを交わしたのに・・・胸の中でたくさんの炭酸の気泡が生まれ、はじけてゆく。目を閉じ、しぼるように身をよじらなくては耐えられないような、たくさんの小さな痛み。
  しばらくして目を開け、いつの間にか胸の前できつく握り締めていた指をほどく。からまっている髪の束。それはもはやあの美しい流れではなく、汚らしいただのゴミだ。ベッドに横たわっている女は、もはや魂のない醜いただの死体。さっきまでの想いは、メンソールの煙草を吸ったような深く空虚なためいきがひとつ終わるころには、すっかり冷めきっていた。
  私は愛していない者とは寝ない。金や力だけで自由になるきれいなだけの男女は興冷めだ。私だけを愛し、私を想い、夜ごと私に焦がれ身もだえるような者。その体の中でフォアグラのように愛を肥大させ開腹の時を待っている者。その中で更に私の愛を勝ち得た者のみが、私の溜め息とベッドの秘密を知ることができるのだ。
  私はあらゆる喜びを知っている。男も、女も、愛することも、愛されることも。あらゆる方法の愛し方を知っている。私の目の前に立ち、潤んだ瞳で私をみつめるものをどうしたらよいのかを。そしてその終わりはいつも・・・
  白いローヴをはおり浴室に向かう。シャワーを浴び終わるころには、あの女の死体はきれいに片付いているだろう。そして私のベッドはそこでささやかれた愛の秘密も、情事の跡も何もなかったようにきれいでしわひとつない、ただの白い家具に戻っているだろう。

  仕事にとりかかると今日も頭の痛い問題が待っていた。目をつけていた美少女がまた失踪したのだ。これで何人目だろう。もちろん顧客のこともあるが、私の愛を受けるに足る子だったかもしれないと思うと、そちらの方が気持を萎えさせる。
  世界規模で考えればとるに足らない数かもしれないが、月日をかけて少しづつ、でも確実に、あらゆる場所から私の審美眼に叶うような美しい男女が消えている。しかもある一定の年令の幅の中で。私のような情報網を持つ、かなり大きな組織が動いているのは間違いない。優秀なスタッフに追跡調査は任せてあるが、なかなか出ない結果にいらいらする。こんな事では表向きの仕事に身が入らない。客はきっと少しの動揺も見抜くだろう。開演までには「優雅で残酷な女主人」の顔にならなくてはならない。

  バスローヴをはおりくつろいでいると、諜報室から電話が入る。取引についての良い話かと受話器を取ると、それは予想を超えた内容だった。一度電話を切り、備えてあるコンピューターに暗号で情報の内容を送るように言う。アルフに今日の子を待たせるように言わなくては・・・。

  送られてきた内容を読むと、体の中が熱くなり異常な興奮に襲われた。
  某国変態大統領のアンチナチュルが、砂漠の中にシェルターを作ったことなんかはとっくに知っている。私財を投じていようが、国庫から掠め取った公財で作っていようが、そんなことは政府の恩恵などほとんど受けない温暖な小さな私有の島に住んでいる私にとって興味はなかった。政府なんてどこの国のものでもやっていることは諜報室に日々入ってくる。戦争をしないでいてくれさえいればいい存在だ。
  しかしそこで行われている事が問題だ。そこでは四人の要職にある男により、殺戮と、蛮行がなされているというのだ。しかもその犠牲者の何割かこそは、私が目をつけていたにもかかわらず失踪してしまった美しい子供達だったのだ。
  隠しきれない性向が私にも伝わっているやつらのことだ、きっと嫌がる子供達を傷つけひどいことをしているのだろう。
  ああ、私が品定めをしてから売った子たちならともかく、この手に取ることさえできなかった、可能性を秘めた、それだけの美しい子たちがさらわれ、集められていたなんて・・・。
  すぐに、シェルターとそれにまつわる情報を集めるように指示する。
  しばらくは悔しさのあまり我にも無く室内をうろうろとしたり、頭を抱えたりしていたが、こんな事をしていても仕方がない。自分のスタッフを信じようと思い直し、アルフに連絡を取る。


*****************************************************************



 

  この子とはずいぶん長く過ごしてしまった。切れないはさみを生き物のように蛇行させ、じらすようにゆっくりと時間をかけて服を切っていったり、頬を赤らめていやいやをするのを、わざと恥ずかしい言葉を言わせたり。激しく愛撫している途中で喜びが高まってくると、わざと背を向けてワインを飲んだり。叩いたり、優しくしたり。そのたびに、結局その子は潤んだ、熱のこもった長いまつげにふちどられた瞳をそっと伏せて、私の前にすべてを投げだそうとする。そうされるほどに、私は我を忘れてその子にさほど苦痛を与えないほどの悪戯を仕掛けてしまう。
  それは日が変わっても、窓辺でも、浴室でも、開け放たれたベランダでも、終わることがないように繰り返された。今までの子ももちろん素晴らしかったが、この子は特にその時の私の気分にぴったりだった。しなやかな体と神秘的なアーモンドのような形の瞳を持った、インドの混血の少女サアナ。サアナ、サアナ、不思議な響きのその名前を私は何度呼んだだろう。私の寝室にうつむきながら入ってきたかわいい娘。瞳で誘い、うっとりと全身を預けてきたところにくちづけをして・・・。
  今、幸せそうなほほえみを口元にたたえ冷たくなっている彼女は、私にみいだされるまで信じ難いような貧しい暮しをしていたという。私が与えた豪華な暮しに最後まで戸惑い、私に心からの愛と忠誠を誓っていたという。アルフから呼び出され私のもとに来るまで、そそうのないように無邪気に何度も手鏡をのぞいていたという。彼女は知っていたのだろうか、私が抱いたものの運命を。

  私は愛に倦んだことがない。毎日の快楽と殺人の中で、私は日々変わってゆく。愛なんて甘ったるいまやかしも、日々握り潰し生まれてゆくなら、いつもこうして新鮮で私の胸を刺激する。きっと愛を信じないものは、そこに美しいものを期待しすぎているのだ。退屈な永続性とか、変わらないでいてほしいのに腐りすえてゆくその質に怯えているのだ。愛はそんなものではない、激しく、ある一時だけ本当に胸を打つ美しい感情。私にとって愛は情事と、その終わりのために不可欠なもの。愛しているものを殺したときのほんの少しの、でも深い後悔が最高のフィナーレだ。そして瞬きをするような瞬間にそれは終わる。
  一つとして同じ形の愛はなかった。そして、一つとしてこの手で葬れなかった愛もなかった

『さようなら、サアナ』




 

  情報を集めるようにと指示したときから一日と半分。公演の中休みはあと一日。サアナとの愛が終わり身ぎれいにし、揺りイスにゆられている時にその知らせはあった。シェルターのほぼ完璧な設計図。各階の機能。そして軍が突入間近かだという情報。更には日本人のスタッフの中のハッキングマニアが偶然にも遊びで日本中の情報を覗いていたときに、見逃せないメールを見つけたという。そこには今回の事とあまりにも一致する事が書かれていたらしい。「こんな事を個人宛とはいえ、普通のメールで送るなんて狂気のさたですよ。きっといつか消されますね。」それが彼の弁。
  クーデターまであと三日だという。スタッフさえ潜り込ませれば、後は進行していることは手に取るように伝わってくる。しかし私が鑑定するはずだった宝石達を横から奪い、しかも醜いものにするような仕打をしていることを考えると・・・

  「キリエムです。」
  「はい、キリエム様、ベアリュです。何かございましたでしょうか。」
  「すべてのコンピューターには、必ず侵入経路がある。あなたたちはいつもそういっているわね。」
  「はい。」
  「先程シェルターの情報を受け取りました。そこのコンピューターに侵入してちょうだい。」
  「・・・期限はございますでしょうか。」
  「三日後、軍の突入があります。その時に合わせて。」
  「三日後・・・でございますね・・・」
  「ええ、そして、そうね、軍に神の奇跡を見せてあげて。」
  「とおっしゃいますと?」
  「その時々に指示しますが、例えば、軍が侵入しようとすると、自然に入り口のハッチが開くとか・・・」
  「情報を解析し侵入してしまえば、たいていのご指示には従えると思います。」
  「では三日後。」

  きっと権力にしがみつくような小心者たちだ。コンピューターの守りは万全だろう。ベアリュたちは、果たして何重のロックを解除しなければならないのだろう。真の優秀な技術者のよいところは、余計なことは何も言わずに涼しい顔で結果を出すところだ。
  三日後、軍の人間たちは、自分たちを歓迎するような数々の奇跡にさぞ驚くだろう。私のちょっとした悪戯で、アンチナチュルたちの破滅は確実になるわけだ。一瞬でお膳立てをするだけしたら、軍の人間がコンピュータールームにたどり着く前に情報を壊せば、そう、だれも私たちの仕業だなんて気づかないだろう。

  今回のショーは一流の劇場で行なわれたものだった。幕が下りた後の割れるような拍手。叫ばれる賛辞。背筋を熱いものが昇り、落ちてゆく。興奮に体がふわふわとする。いつものように助手に抱き抱えられ舞台を下りる。ああ早くだれか、この高揚した気持ちを・・・
  控え室に着く間に、助手のアルフレッドの盛り上がった腕の筋肉は、興奮した私に引っかかれ、噛み裂かれて血まみれになっていた。しかし彼は、多くの助手の中で唯一、私を抱き上げる名誉を与えられたからなのか、傷つけられた興奮にか、うっとりと頬を上気させている。
  扉を開けると、控え室には花の香りでむせ返らんばかりだ。ソファーにそっと降ろされる。今日の相手を指名し滞在している部屋に連れてくるように言うと、とりあえず気持ちをおさめるために奉仕させる。この男は確かに美しく有能だが何か欠けているものがある気がして、抱くまでには至っていない。そのおかげで死ななくて済んでいるのだが、本人はそれをどう思っているのだろうか。もう何度も繰り返された奉仕に生来の勘もあって、私をその指と、口で歓ばせるのはとてもうまい。この美貌だ、一歩外に出れば女たちがほおっておかないだろうに、そのやり方にはいつもあふれるような愛情と優しさと必要なだけの荒々しさがあり、荒れた性生活を送っていないのがよく分かりいつも私を満足させる。
  何度目かの痙攣が少し落ち着くと飲み物を持ってこさせ、アルフを下がらせる。いいショーができた後は歓びも深い。鏡を見ると、残酷に切り揃えられた前髪の幾筋かは汗によられ、紐のようになっていた。もうすでに、この公演の間に味わおうと思っている男女はこの国に呼んである。アルフが今日の子を用意するのに、さほど時間はかからないだろう。
  飾られてある花のひとつを抜いて口元に寄せる。美しい物はやはりいい。私の好みを知っている客たちは、決して陳腐な花は贈ってこない。高価なだけでも、派手なだけでもない美しい花花。
  生国日本の花は、可憐で、一見つまらなく見える形の中に色彩の不思議が詰め込まれていて、まるで珍しい蝶のように私をいたく感動させたものだった。

  私は世界中の美しい物を知らなくては気が済まない。絵画、音楽、宝石、そして・・・
  裏で、いつの間にか世界を飛び回る表の職業を隠れ蓑に「あらゆる」芸術品の密売をしている私。もちろん、オブジェのように美しい男女の人身売買も。今の贅沢な生活を保つためには莫大な収入がいるのは確か。でもこんな仕事に手を染めているのは、世界中の美しい物をこの手に取りたいから。もちろん気に入った物は手元に置くけれども、大抵は目で、手で抱きしめた後は満足してしまって何の未練もなく商品にしてしまう。その割り切りが利益を生み、今では密売の情報収集のために設置した諜報室が、ただでさえ裏情報が入りやすい世界の上、財源と優秀なスタッフにも恵まれちょっとした国家の諜報機関並になっている。
  踊り子として世界を飛び回っていたスパイ「マタハリ」。エンターテイメントを追及し、ショーの合間にはダンスも披露する私。踊りと舞台をなりわいとする者は、その陶酔とスリルを現実世界に持込み、普通には生きられない魔性を心の中に育ててしまうのだろうか。
  ホテルに戻り、贈られてきたシャンパンを持ってこさせ、ゆっくりと浴槽の中でくつろぐ。よいシャンパンだったのでふざけながら飲む。半分は口にふくみ、半分は持ち上げた顎の先を伝わり、喉元、そして胸まで・・・。温まった体のうえを、冷たい液体が流れてゆくのは心地よい。腕を伸べそこにも流してみる。湯に流れた分は体のすべてで味わうのだ。浴槽にはクレオパトラも愛したという、香草のマートルが浮かべてある。そのうえにシャンパンが流れ、葉が浮きつ沈みつするのも面白い。目を閉じてうっとりと香りに酔う。



第五話 鎖の果て

by TOMOMI

  日差しはとても暖かで、大地の喜びは風になり、神への祈りを込めて遠くまでそよいでいく。
  遠くで聞こえるのは雲雀かしら。
  見上げれば空は青く、何処までも青く、時折白い雲が流れていく。
  こんな穏やかな午後、ぼくは広い中庭の中央で現実感をなくしていく。
  広い広い中庭の、その真ん中におかれた鉄の鳥かご。
  絡まる蔦の装飾の施された、美しい鳥かご。僕の鳥かご。
  そしてその中には、僕が居る。
  僕を取り囲む鉄の檻。

  暖かな日差しの中、僕は悪夢を見続ける。目覚めることのない、白昼夢。連日の悪夢。ついさっきまで、自分の隣にいたものが、次の瞬間には驚愕の表情で冷たくなっていく。次は自分の番かもしれない。必死に神に祈っても、聞いてくれる神はここにはいない。打ち砕かれる信仰心。ふと隣を見れば、異国の少女が力一杯瞼を閉じて、彼女の神に祈っている。彼女の神も、ここにはいないらしい。彼女はその数分後、手足をもがれて、芋虫のようになってしまった。
  芋虫の少女。その時彼女はもう、人間なんかには見えなかった。真っ赤な芋虫。美しかったその顔を、恐怖と苦痛にゆがめながら、のたりのたりと逃れようとする。手も、足もなく、それでも、残った全身を使って這っていく姿は恐ろしかった。逃れようとして、逃れられるはずもなく、すさまじい悲鳴と男たちの笑い声の中、血塗れの彼女に馬乗りになった男と、その手に握られていた、大きなナイフ。
  終わらない責め苦。切り刻まれ、一塊の肉片になってもなお・・・。

  こんなに明るい日差しの中でさえ、色あせることのない記憶。耳に残って離れない悲鳴も、すがるように僕に向けられた見開いた瞳も、血の臭いも、無理矢理押し込まれ、喉の奥を通っていった、生暖かい肉の味も、何もかも。

  ここに連れてこられてから、いったい何日が過ぎたのだろう。
  最初あんなにたくさんいた仲間達が、今ではもう、半分以下になってしまった。
  今ではもう、みんな、神に祈るのも疲れてしまった。壊れた人形のように、うつろな瞳で、自分の順番を待っている。
  先に死んでいった奴等は幸せだ。いつ来るかも分からない自分の死に、ただおびえて日々を過ごしていくことの辛さを知らずにすんだのだから。獣のような悲鳴を聞きながら、その苦痛を想像するだけ。ただそれだけの毎日が、どんなに気が狂いそうになることか。だから、ぼくは死んでいった奴等に同情はしない。発狂していった奴等の事も。
  正気のまま、生き残っている僕らの方が、きっと不幸だ。

  突然僕の鳥かごは、大きな音を立てて横倒しになり、その衝撃で痺れるほど肩を打ちつけた。
 「この鳥はちっとも鳴かないね。」
  見上げれば、大きな男が脂ぎった顔を近づけて、にやにやと笑っている。
 「ほら、鳴いてみなよ、美しい声で。ほら、ほら、ほら。」
  ガシャガシャと、大きな音を立てて、かごを揺さぶる。僕は悲鳴を上げようとするけれど、喉の奥に何かが詰まっているように、かすれたような、空気の漏れるような声しか出ない。
 「これこれ、あまり無茶をしてはいけませんなぁ。」
  穏やかな声で、大男の乱暴を制したその男も、紳士然としてはいるが、よく見れば、あの少女の上に馬乗りになっていた男だ。
 「どうだね、このまま火の上にかけるというのは。きっと愉快なダンスを見せてくれるだろうよ。底の方から徐々に熱くなり、かご全体が真赤になるほど熱せられる。その時こそ、軽やかにくるくると踊ってくれるさ。美しい悲鳴をあげて、火ぶくれに醜くなる身体でね。」
  その話を聞いているだけで、僕はもう、失神寸前になっていた。彼らなら、何の躊躇もなくそれをやる。
 「いやいや、この子はもうしばらくこのまま飼っておいてやることにしているのですよ。」
 「それはまたどうしてですかな?貴方らしくもない。」
 「この子はおもしろい逸材ですぞ。豚の中に混じり混んだ子羊ですわ。」
  そう言いながら、手に持った杖をかごの中に突き入れて、僕の足の間にゆっくりと滑らせる。僕の震えがかごに伝わり、かご全体がガタガタと小刻みに振動する。
 「そうやって、恐怖に震えてみせるくせに、ほれ、見てみなさい、あの眼を。脅えながら、期待ににらきらと輝いていく。そしてこれも堅くなっていく。」
  杖で僕の物をつつきながら、楽しげに舌なめずりをする。
 「まぁ、かわいらしい物ですがね。」
  じっと黙ってみていた大男の方が、ふと思いついたように芝生に膝を付き、かごをのぞき込んだ。杖で押さえつけられ、身動きのとれなくなっている僕に手を伸ばす。
  しかし、男の腕は太すぎて、かごの隙間も通らない。
 「ちょっと、出してもよろしいかな?これではわしは触ることもできない。」
 「あまり大きな傷をつけるのでなければどうぞ」
  かごの扉は開かれ、僕は抵抗する間もなく引きずり出された。
 「なんと、細い腕だ。そして、この首も、折ってくれと言っているようですぞ。」
  大男の腕が僕の首を締め上げる。ゆっくりと、少しずつ力を込めていく。僕は苦しくて目眩を起こしかける。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなってくる。僕はこのまま殺されるのだろうか。あの少女のように切り刻まれるよりはましかもしれない。このまま首を折られた方が、一瞬で死ねるかもしれない。僕は男の手に力のこもるのをかすかに望んだ。それなのに、真っ白になっていく頭の中で、何か違う物が生まれてくる感じがした。それは少し甘い感覚。誰かが僕の頭の中でささやく声がする。
 (もっと、もっと強く・・・)

  不意に大男のもう片方の手が、僕の足を割って入ってくるのを感じた。
 「こいつ、首をしめられて、喜んでやがる。」
  突然首を締め付けていた大男の手の力が緩んだかと思うと僕を芝生の上に放り出した。僕は涙を流しながらせき込み、かすむ眼で男を見た。
 「ふん、こいつで何をする気ですかな?」
  大男は僕の身体を踏みつけて、一別をくれるとすぐにもう一人の男のほうに向きなおる。
 「まぁ、それは追々考えようと・・・ね。最近はちょっとお楽しみがすぎて、豚達の数も一気に減ってしまったし、ここらでちょっと趣向を変えるのもいいかと思いましてね。アンチナチュル殿のように派手なショーもいいが、あれではあっけなさすぎる。」
 「あの演出には、私は十分楽しませてもらったがね。貴公のお気には召さなかったようですな。」
  男の靴底の冷たさを感じながら、意識が薄れていった。全身の痛みと、かすかに残る、甘い痺れを感じたまま。

  徐々に意識を取り戻し、最初に感じたのは微かな大地の揺れ、そして、遠くから聞こえてくる爆発音。何かが起きたことはわかったものの、こんな鉄の鳥かごに入った僕にできることと言えば、耳をすまして、そっと様子をうかがうこと。それだけだ。
  僕は膝を抱え、あたりの物音に注意していたが、最初の爆発音がしてから、何も起こらなかった。僕はふと、肌寒さを感じて自分の肩を抱いた。昼間は暖かなこの季節で も、日が翳ればやはり肌寒い。衣類を何も着ていないのだから、なおのことだ。僕はそっと鉄柵にもたれかかった。鉄の冷たさが直に背中に伝わってくる。
  カチッ・・・
  乾いた金属音がして、鳥かごの扉は僕の背後で開いた。僕はバランスを失い、扉ごと、後ろに倒れ込んだ。したたか背中を打ちつけたものの、気がつくと、僕の髪は外の芝生と絡み合い、頬を草が撫でた。
  僕は外にいる。鳥かごの外にいる。そして回りには誰も居ない。
  ただそれだけの現実を、信じられないで呆然としていた。
  二度目の爆発音で我に返った僕は、ゆっくりと立ち上がり、屋敷の方へ歩き出した。
  振り返ると、遠くに黒い森が見えた。針葉樹が血のように赤い夕日を突き刺しているところだった。

 「何でうまく行かないんだ。これでいいはずなのに、どうして解除できない。」
  蛭田は噛み契った自分の爪の欠片を吐き捨てると、イライラと歩き出した。
  軍の夜襲に乗じて、すばやく屋敷に入り込み、誰よりも早くこのコンピュータールームにたどり着いた。それだけで、蛭田はもう、自分の勝利だと感じていた。ここのコンピューターをコントロールするべきは自分なんだ。
  だがしかし、彼は今、眉間にしわを寄せながら、成すすべもなく、ただイライラと歩き回るだけだった。
  これでいいはずなんだ、何たって、俺はすべて計算してきたんだからな。プログラムの内部に入り込み、ほとんどの設定を解除した。でも、それではまだ完璧じゃない。肝心の部分、一番の深層部分にたどり着けない。誰かが後から書き換えたんだ。そうでなければ自分に解除できないはずはない。時間がないんだ。早くやってしまわなければ・・・
  大きく息を吸い込み、もう一度モニターに向き合う。蛭田がキーに指を伸ばした瞬間、背後でカチリと言う音が聞こえた。
  蛭田は息を飲み、側のデスクの影に身を隠した。
  ゆっくりとドアが開き、そこに現れたシルエットは、どう見ても軍の奴等ではない。かといって、あのいけ好かない爺達でもなかった。それは、ほっそりとした体つきの、まだ12、3才くらいの少年だった。しかも、彼は何も着ておらず、身体には、無数の痣が浮いていた。おそらくは、殺されるために連れてこられた子供達の一人だろう。
  蛭田は心持ち安心して、落ちかけていた眼鏡をかけなおし、息を殺して少年の背後に回った。
  少年はおどおどとあたりを見回し、椅子の上にかけてあった毛布を手にとるとゆっくりと身体にまとい、小さくため息をついた。蛭田はそっとドアの取っ手に手を伸ばし、音をたてないように閉めた。それでも、廊下から漏れていた明かりが細くなっていく事に気づき、少年は振り返り、蛭田の姿を見て目を見開いた。
  とっさに少年の口をふさいだ。今ここで悲鳴でもあげられたら、今までの苦労が水の泡だ。
 「大丈夫、何もしやしないよ。」
  口を塞いだ手から少年の震えが伝わってくる。
 「俺はあの爺達とはちがうからな。おまえがおとなしくしてくれるなら、別にどうこうするつもりはないさ。ここから連れ出してやってもいい。俺の言葉、わかるな。」
  少年は目に涙をためたまま小さくうなずいた。
 「それよりお前、どうしてここに?地下の収容所には軍の奴等が子供達を助けに行ったはずだ。お前だけがどうして?」
 「わからない。僕ずっと、庭の鳥かごの中に入れられていたんだ。でも、突然鍵が開いて、それで・・・」
  しゃくりあげながら、しまいには泣き出して要領を得ない話を聞きながら、蛭田は焦っていた。俺はこんな事をしている暇はないんだ。急がなければ、軍の奴等もここまで来てしまう。外に待たせたままの成男と静香のことも心配だ。
  ふと見ると、涙を拭う少年の手に、小さなカードが握られていることに気がついた。
 「それはどうしたんだ?」
  泣き止まない少年の手から奪い取ったカードは、蛭田が探していた物。ジョーカー、そして切り札。
 「これさえあれば、もう、用はねぇ。」
  蛭田は笑いをこらえたまま、少年を突き放した。
  少年は訳もわからず戸惑ったまま、涙のながれるにまかせて呆然としていた。
 「これはもらってもいいな?おい、お前、ここでじっとしていりゃぁ、軍人さん達が助けてくれるさ。」
  そう言う成り立ちあがった蛭田の足に、少年は必死の顔でしがみついた。
 「いやだ、一人にしないで。僕も連れてってよ。助けてくれるっていったじゃないか。」
  涙を浮かべて必死にすがりつく少年の姿には一瞬躊躇させられる物があったが、今はそんな感情に流されているときではない。蛭田は少年を振り払うと、扉の外に駆け出していった。

 「そんな・・・一人にしないでよ・・・」
  僕は勢いよく閉じられたドアを見つめ、呆然としていた。
  助かったと思ったのに、これでもう、大丈夫だと思ったのに。あっけなく男は去っていってしまった。
  僕は足下に落ちた毛布を拾い上げ、それで裸の身体を包み込んだ。
  目の前には巨大なスクリーン。そして、見たこともないような機械が小さな光を点滅させている。
  突然、目の前のスクリーンが眩しい光を発したかと思うと、そこには一人の美しい少女が映っていた。僕は呆気にとられて、そのスクリーンを見つめていた。
  悲しそうなその少女の瞳はまっすぐに僕を見ていた。ゆっくりとその唇が動き出す。
 「聞こえますか?私の声が聞こえますか?」
  僕は目を見開いたまま大きくうなずいた。美しい声だった。緩やかなウェーブを描いて揺れる金の髪。
 「ああ、貴方、怪我をしていますね。なんて・・・。」
  潤んだ瞳で僕を見つめ、彼女は声をふるわせながら胸の前で組んだ両手を堅く握りしめていた。
 「貴方、今其方はどうなっているのですか?何故貴方はそこにいるのですか?」
 「ここで待っていれば、軍の人が助けてくれるからって、だから此処にいろっていわれて・・・それで・・・」
 「軍の人?それでは、クーデターは始まったのですね?良かった。」
 「貴方は、誰なの?」
  突然画像が乱れ、少女の顔が大きく揺れた。
 「貴方、軍の人に会ったら、私は無事だと伝えて下さいますか?」
  酷くなるノイズ。揺らぎ続けるモニターの少女。
 「貴方は誰なんですか?」
 「私は・・・私はジュスティーヌ。ジュスティーヌ・アンチナチュル。私は無事だと伝えて下さい・・私は・・・・ああ、父が・・・ごめ・・さ・・」
  大きなモニターいっぱいのノイズ。もう、そこに少女の姿はなかった。



第六話 天使降臨

by 静夜

シーン1:ソドムの宮殿

  夕日の赤と炎の赤が、西の空の夕闇と黒い煙に交じり合い、どす黒い血の色を作り出す。
  少しずつ風は強まり、砂が宙に舞い上がる。
  砂漠の真ん中では無意味な、贅を尽くした宮殿は半ばまでが損壊し、あるいは炎と煙をまとい、無残な姿をさらしている。

  グロースヴァルト少佐は焦りを覚え始めていた。
  作戦開始から30分、彼ら『サンドフィッシュ作戦』の精鋭たちは難無く『ソドムの宮殿』地上部分を制圧、地下シェルター部の第3層までは辿り着いたものの、第4層以下へ進むことができなくなっていた。
  地上部分と第3層までは何の抵抗もなく、オートロックは解除され、戦闘用ロボットは停止し、トラップもすべて停止していた。不思議な事に、パク少尉らのコンピューター部隊はその時点でコンピューター室に辿り着いてはいなかったのだが。
  しかし、第3層から第4層へ向かう全ての経路は防衛システムが生きており、部隊のうち3名がトラップで死亡、さらにロボットの攻撃により少佐の部隊は防戦一方に陥っていた。
  この作戦の最大の目的はアンチナチュルたちの悪行の証拠を掴むことにあるが、グロースヴァルト自身は一人でも多く、捕らわれの少年少女たちを救出したいと考えていた。
  「しかし、このままでは・・・・・」
  少年少女たちの身柄はもちろん、彼ら自身の退路を断たれる危険性もあった。
  機関銃の弾ける音と、榴弾の爆音がさらに彼をいらだたせる。

  その頃、コンピューター室の近くでは、蛭田がパク少尉の部隊と鉢合わせし、捕らえられていた。両腕の間接を決められたまま、通路にはいつくばっている。
  「貴様、民間人か? こんなところで何をしている?」
  パク少尉が小銃を蛭田の眉間に突き付けた。しかし蛭田は「にっ」と笑い顔を作り軽口をたたいた。
  「へへっ・・・つまらねぇ事になっちまったなぁ」
  次の瞬間、パクの軍靴のつま先が蛭田の鼻にたたき込まれた。
  「ぶはっ!」
  蛭田は鼻血を流していた。鼻骨が折れたらしい。
  「我々には遊んでいる暇は無いんだ! ん?貴様、手に持っているのは何だ?」
  パクは蛭田が握っていたカード―ジョーカーに目をとめた。パクが目配せすると、部下の一人がカードを奪い、パクに手渡した。
  「くそっ!」
  蛭田は痛みと憤りで呪詛の言葉を発してみたが、それは声音にはならなかった。
  「これは・・・!」
  パクはカードを見て驚愕した。
  それはアンチナチュルの全権委任カードであった。コンピューターの管理はもとより財産管理、核ミサイルの管理、そして『ソドムの宮殿』の全システムの管理を可能とするカードである。
  パクは蛭田からこのカードの出所を聞こうと思ったが現在、作戦は一刻の猶予もない状態であることを考え、詰問は作戦終了後に行うことにした。
  つい5分ほど前の極短波通信では本隊が足止めされて、作戦続行に支障が出ているということだった。
  「このカードがあれば全防衛システムを止められる。おい、その男に手錠をかけて連れてこい。あとで少佐から尋問していただく」
  パクは部下に命じ、蛭田を伴ったままコンピューター室へ向かった。

シーン2:キリエムの部屋

  「解除できない? どういうことです」
  キリエムはわずかに眉をひそませ、モニターの中のベアリュに問うた。
  「はい、誠に残念ですがシステムの最深部に外部との通信回線を持たないコンピューターが使用されている模様です」
  「では、肝心なところには外部から侵入できない・・・と?」
  「申し訳ございません。現在、軍の情報部隊が『ソドムの宮殿』のコンピューター室を使用している様子で、あとは彼らが自力で解除するのを待つしかありません」
  キリエムはここまで憔悴したベアリュの顔を見るのは初めてだった。
  「仕方がありません。現在ハッキングに成功している部分をフル活用し、捕らわれている宝石たちが軍に保護されるよう、手を打って下さい」
  「最善を尽くします」
  ベアリュの顔が消え、モニターがグレーに戻った。
  「宝石たちが無事なら、それぞれの生活に戻ってから集め直せばよいこと・・・」
  キリエムはひとりごちた。
  (ああ、いったいいくつの宝石があのいまいましき下賎の者共に壊されてしまったのだろう)
  あまりの憂鬱さにため息をつき、ベルベットのソファに横たわる。
  そしてサイドテーブルのグラスを手に取ると、飲みかけていたワインを一息に飲み干した。
  軽い心地よさがキリエムを包み、まどろみへ落ちていこうとしたその時、またモニターに通信のコールが点滅した。
  キリエムは緩慢に立ち上がり、スイッチを入れた。
  「キリエムです」
 「お休みのところ、失礼致します」
  モニターに写ったのはアルフレッドだった。
  「先般ご所望の新たな宝石が2つ、ただ今入荷いたしました」
  「そうですか・・・名は?」
 「ハイドとスイレイです」
  キリエムの脳裏を、1週間前に見たファイルの中から選んだ少年・少女がよぎった。
  「分かりました。今日はよく休ませておいて下さい。明日から私の許に連れてくるように」
  「かしこまりました」
  再び、モニターはなにも写さなくなった。
  キリエムは『ソドムの宮殿』の事は意識の片隅に追いやり、新しい宝石たちとの戯れの日々に想いを馳せながら眠りに落ちていった。

シーン3:再び『ソドムの宮殿』

  パクたちコンピューター部隊が蛭田を連れたままコンピューター室に踏み込むと、そこにはジョーカーのカードを持っていた少年が、膝を抱えてうずくまっていた。
  パクはその少年の美貌や全裸であること、白い肌のそこかしこについた擦り傷や打撲の跡から、少年がアンチナチュルの犠牲者であることを即座に悟った。
  蛭田は気まずさから、少年の方を見ることもせず、少年がジョーカーを持っていたことも告げなかった。
  「アンスバッハ伍長、この少年に着るものを! 他の者は直ちにプロテクトの解除。メインコンピューターは私がやる」
  少年は即座に野営用の防寒シートにくるまれ、震える肩は兵士の力強い手が抱きとめられた。
  パクと部下たちは室内のコンピューター端末に取り付き、パクがジョーカーをリーダーに通した次の瞬間には尋常ならざる速度で最終2階層プロテクトが解除され始めた。
  パクの十指も泳ぐようにキーボードの上を動き回り、コンピューターの最深部へと潜り込んでいた。
  そのデーター解析の速度には蛭田も驚きを隠せなかった。
  (しかし、俺が本気出せば・・・)
  蛭田は悔しげな目でパクたちの作業を見つめていた。
  監視モニターに写るグロースヴァルト少佐の部隊は既に第4層に突入し、残り2つの階層へと侵攻しはじめていた。
  パクは自軍の勝利を確信しつつ最後のプロテクトの解除にかかった。しかし・・・
  「・・・!?」
  モニターに大きく表示された『ANGEL』の文字。
  既に、全ての防衛システムのロックは解除してある。しかし、1番最後に残されたこのプログラム『ANGEL』が解除はおろか、内容も分からずにいた。世界最高峰を自負するパクのコンピューター部隊総掛かりにも拘らず・・・。
  パクは焦燥感から血の気が引いて行くのを感じた。防衛システムは全て解除したはずだが、もしこの最後のプログラムがアンチナチュルの切り札だったら・・・。
  「少尉!」
  部下の一人が指示を求める目でパクを呼んだ。
  「総員、もう一度アタックだ。これが解除できないと・・・」
  「ちょい待ち!」
  パクが振り返ると、手錠をかけられたまま銃を突き付けられていた蛭田が、鼻血だらけの顔で不適な笑みを浮かべていた。
  「そいつの解除方なら知ってるぜ」
  貴様、適当な事を言ってるとこの場で銃殺するぞ!」
  パクが軍人らしい恫喝の声を発しても、蛭田は意に介さないように続けた。
  「その『ANGEL』とかってプログラム、内容までは知らないがプロテクトの解除法なら前にあんたらの国の大統領府にハッキングした時、見たことがある」
  「少尉、本隊が最終層に突入します!」
  「くっ・・・!」
  部下の叫びに、パクは最後の賭けに出た。
  「貴様、本当に解除できるんだな?」
  パクは蛭田の目を凝視した。
  蛭田はにやつきながらも、真剣な眼差しでそれを受け止め、うなづいた。
  「おい、手錠を外せ」
  パクは部下に命令し、自分の席を空けた。
  手錠を外された蛭田はパクの操作していた端末にかじりつくと、パク以上のスピードでキーボードをたたき始めた。
  (ほう・・・)パクは『ANGEL』の解除方に驚くと同時に、蛭田の手腕に舌を巻いていた。(この男、チンピラ、ハッカーをやらせておくには惜しい腕だな)
  そんなパクの思いを知る由もなく、蛭田はプロテクトを解除していった。
  「これで、どうだっ!」
  掛け声と共に蛭田が最後のリターンキーを押した。
  一瞬、モニターが暗転。
  続いて、モニターにメッセージが映し出された。真っ赤な文字で。

  《警告。『ANGEL』プロテクト解除。『ANGEL』封印除去コマンド送信中。『ANGEL』覚醒します。100%機能回復まで10,007分。》

 「何だ、これは? 意味が分からんぞ」
  しかし、パクの言葉はかん高いスパーク音でかき消された。
  部屋にいる全員が、その音を振り返った。その全ての視線の先には青白いプラズマがほとばしっていた。
  その発生源は、少年の、耳。
  「こ・・・これは・・・?」
  少年は意識を失っている様子で、力無く横たわるその顔には何の反応もない。
  一同が驚愕の表情で見守る中、
  ばちっ!
 「あーっっっ!」
  一際激しく弾ける音と少年の叫び声が響き渡り、少年の耳から、豆粒のような物が飛び出した。
  それは床に落ちると同時に弾け飛び、非常に微細な、無数の金属片と化した。

  静寂が訪れた。

 「・・・・・・おい・・・・・・・」
  少年の1番近くにいた兵士が恐る恐る少年に声をかけた。
  それに次いでパクも正気を取り戻し、床に散らばる金属片に駆け寄る。しかし、それはもはや判別不能なほどばらばらになっており、どんな機能の機械だったかすら分からなかった。
  「君、大丈夫か?」
  兵士が少年の肩を揺すった。
  少年がうっすらと目を開ける。しかし、その目にはまだ意志の光はなかった。
  一同の間に僅かに安堵感が広がり、誰かが口を開こうとした瞬間―

  ぶつっ

 「ぎゃーっ!」
  何かがちぎれる音と断末魔の絶叫が耳をつんざき、室内は再び凍りついた。
  しかし今度はパクをはじめ、数人の兵士がその方向に銃口を向けたのは厳しい訓練の賜物であろうか。
  とにかく、一同が凝視した先には、あまりにも予想しがたい光景が展開されていた。
  うずくまる兵士と、上半身を起こした少年。そして少年の手に握られているのは・・・
  「な・・・・!?」
  パクはまたしても絶句した。少年がその手に握っていたのは、人間の腕とおぼしき物であった。うずくまる兵士に視線を移すと、無残にも、引きちぎられた腕の付け根から骨肉が露出し、激しい血流が水たまりのように床に広がりつつあった。
  くすっ、と無邪気な笑い声を発し少年は―パクが知る限り―初めて口を開いた。
  「このおじさんがいけないんだよ、汚い手でボクに触るから」
  そう言いながら視線を上げた少年の瞳は、さっきまで裸で震えていた少年のそれとは全く異質な、別の存在と化していた。パクが本能的な恐怖を感じ、咄嗟に拳銃の引き金を引いたのは見事と言っていいだろう。
  破裂音と共に、パラベラムが少年の眉間に小さな穴を穿った。
  その衝撃で少年の頭は僅かに後方へ揺らいだが、それだけだった。
  「・・・・・・・・・・・!!!????」
  パクは今度こそ全く声が出なかった。
  少年は数回瞬きをすると、涼しい顔で自らの額の弾痕を手でさすっているのだ。
  「あーあ、ひどいなあ、おじさん。ボク、まだ目覚めたばっかりで直りが遅いんだから」
  言いながら、少年は血だまりの中に立ち上がった。
  「打ちかたっ!」
  パクがヒステリックに号令を発する。その場にいる兵士全員が理由の分からないまま、手持ちの銃器を少年に向けた。
  ただ一人、蛭田だけが呆然としてパクと少年を見比べていた。
  「きっ、貴様、何者だ? アンチナチュルの工作員か?」
  パクが自らの理性を総動員して少年に詰問した。しかし得体の知れない絶望感が体の芯から湧きだし、パクは体を震わせていた。軍人として鍛えられた生存本能が、不可避の死を予感しているのだ。
  「アンチナチュル? やだなあ、あんなのの仲間扱いしないでよ」少年は少しだけ不愉快そうな表情を見せた「ボクはフォウ。《ANGEL》のフォウ」
  「《ANGEL》だと?」
  それは、先刻まで彼らが解除するのに全霊を傾けていたプログラムの名であった。そして、まさに天使そのもののように美しい目の前の少年も自らを《ANGEL》だと言っている・・・・・。
  「そう、おじさんたちがプロテクトを解除してくれたおかげで目覚めたんだ。一応、お礼言っとくね。ありがとう」
  そう言ってフォウは、まさに天使のような微笑みを見せた。パクたちも蛭田もその微笑みに心奪われ、しばし我を忘れた。
  「でもね」フォウの次の言葉に一同は我に帰った「おじさんたち、みんな悪い人や醜い人ばっかりだから・・・」一息おいて少年の唇が愉しげに歪んだ「破壊するね」
  全員が凍りつき、恐怖に顔が歪んだ。

  グロースヴァルトは決定的な敗北感を味わっていた。
  パクのプログラム解除が功を奏し、最終階層まで辿り着いた彼らが見たものは、最新鋭の弾道輸送機のカタパルトだけであった。まだ、燃料の燃えた臭いの残るカタパルトデッキには輸送機はおろか、アンチナチュルたちの姿もなかった。
  バカな・・・どうやって・・・いつの間に・・・」
  グロースヴァルトの呻きは部隊全員の気持ちを代弁していた。一体いつ、どうやって、地下の最下層にこれほどの設備を作り上げたのか・・・。
  呆然とするグロースヴァルトの許に、後方の捜索をしていた5人の兵士がかけよってきた。
  「少佐、生存者はどこにもいません。どの部屋ももぬけの殻か、死体があるかだけです」
  ぎりっ!
  グロースヴァルトは周囲に聞こえるほど大きな音で奥歯を噛み締めた。
  (してやられた! ヤツら、こういう事態を予想してたんだ!)
  この場でアンチナチュルを押さえられなかった以上、本国で決行されているクーデターは国民や諸外国から単なる軍事クーデターの烙印を押され、首謀者のザイヒターフェルト元帥は悪の権化という汚名を着せられてしまうだろう。
  「アンチナチュルの思うツボだ・・・」
  逃亡したアンチナチュルが何食わぬ顔で帰国すれば国民は英雄としてアンチナチュルを迎えるだろう。恐らく、本国のクローンが生きていてもいなくても、アンチナチュルが「非常用の影武者だった」と言えば、疑う者はいないだろう。

  ばさっ

  大きな羽ばたきの音がひとつ。
  その場の全員が振り返る。そして、全員があまりの光景に息を飲んだ。
  全裸の少年―その姿形は触れただけで崩れそうなほど繊細でありながらも神々しいまでに美しく、あどけなさを残す顔は少年期特有の中性的な美しさをたたえている。うっすらと微笑むその表情は春の日差しのように暖かく、湧水のごとき純粋さを思わせた。
  その人間離れした美しさだけでも充分グロースヴァルトたちを茫然自失させることができただろう。
  しかし、驚くべき点は他にあった。

  ばさっ

  白い羽に覆われた翼が、収まり具合を直すように少しだけ開き、閉じた。
  その一対の翼は、少年の背中から生えている。
  「君は・・・・」
  グロースヴァルトはやっとの思いでそれだけを口にした。
  少年はにっこり微笑むとパンフルートの音のような声で答えた。
  「ボクは《ANGEL》のフォウ。おじさんがグロースヴァルトって人だね?」
  「《ANGEL》のフォウ? なぜ俺の名を?」
  グロースヴァルトは自分の名を呼ばれたことで自分を取り戻した。
  「ボクねえ、人間の思考が読めるんだ。それにこの人が最後に会いたがったのがグロースヴァルトって言う名前だったから」
  「!?」グロースヴァルトはフォウが何かを持っていることに気づいた「パ・・・パク少尉!?」
  「そうそう、この人」
  そう言ったフォウの手が吊り下げていたのはパクの生首だった。
  その目は恐怖に見開かれ、断末魔の叫びをあげたままの口を開き、硬直していた。
  「最後までグロースヴァルトおじさんに会わなきゃ、って考えてたから連れて来てあげたんだよ」
  フォウはくすっ、と笑った。先刻、パクに撃たれた跡は完全に消えている。
  「まさか貴様・・・・」
  「だからぁ、アンチナチュルの仲間じゃないってば」
  フォウは頬を膨らませた。
  「!」
  グロースヴァルトは悪寒が走るのを感じた。
  (こいつ、人の考えが読める・・・?)
  「・・・そうだよ」
  フォウは事もなげにグロースヴァルトの思考に答えた。
  「こうやって心を読んで、醜い心や不純な心を持ってる人にはいなくなってもらうんだ。そうすると《マザー》が喜ぶんだよ!」
   (?!)
  グロースヴァルトにはフォウの言っている事の意味が全く分からなかった。そして、分かる事は永遠になかった。なぜなら次のフォウの言葉が、その場にいた全員が最期に聞いた言葉になったからである。
  「おじさんたちも全員、不純だね。見た目も美しくないし」

シーン4:大統領官邸

  サンドフィッシュ作戦と時を同じくして発動したザイヒターフェルトの軍事クーデターはこれ以上ないほど順調に進行した。
  事前工作が功を奏して国防軍同士の衝突は皆無、一部警察機関やアンチナチュルの親衛隊との小競り合いはあったものの死者8人、重軽傷者33人は軍事クーデターとしては上出来だろう。
  しかし最後の最後に、ザイヒターフェルトの目の前でアンチナチュルのクローンが自殺したことにより、このクーデターの半分は失敗となってしまった。事実はどうあれ、クーデターの首謀者の眼前で大統領が―ましてや国民から好かれているアンチナチュルが―死んだとなればザイヒターフェルトが権力欲しさにアンチナチュルを殺害したと思われることは必定だったからである。
  その上グロースヴァルトの部隊は音信不通、サンドフィッシュ作戦は最悪の結果に終わったかと思われた。その結果、アンチナチュルの悪事も暴けず、捕らえることも叶わなかったこのクーデターは国の内外から『私利私欲による軍事独裁クーデター』と非難を浴びていた。
  連日、世界各国からの非難声明、国民の抗議デモなどが相次ぎ、ザイヒターフェルトはほとんど眠る時間もないまま、それらの対応に追われていた。

  クーデターから4日目、ザイヒターフェルトは情報部員の報告に耳を傾けていた。グロースヴァルトの部隊が消息を絶ってすぐに『ソドムの宮殿』に向かった調査部隊の報告である。
  「『ソドムの宮殿』調査隊からの報告です。『ソドムの宮殿』はほぼ壊滅状態でしたが、サンドフィッシュ作戦参加者は全員の死亡が『ANGEL』1体を稼働状態で目撃した、との情報が入りました」
  「『ANGEL』? あの、アンチナチュルの『ANGEL』か?」
  ザイヒターフェルトは思わず机に両手をたたきつけ、椅子から立ち上がった。その顔には―おそらく彼の生涯でも最高級の―驚愕がはりついていた。
  「『ANGEL』は全て廃棄処分にしたはずじゃなかったのか!?」
  「頭脳に直接封印を施し、人間として隠蔽していたと思われます。それが、一昨日の《サンドフィッシュ作戦》時に何らかのアクシデントで封印が解け、活動を開始した模様です。実際に稼働した『ANGEL』の戦闘力・自己再生能力については実測データがありませんので正確な事は申し上げられませんが、スペックからのシュミレーションでは・・・」
  軍服の言葉を遮り、大統領が呟くように言った。
  「あのバケモノのシュミレーションは、1度見たら忘れられんよ」ため息をつき、椅子に腰を下ろす「で、ヤツの現在地は確認できているのか?」
  尋ねながらも、ザイヒターフェルトは全てが手遅れになっているのではないかという絶望感から、全身が小刻みに震えているのを感じていた。
  「残念ながら・・・・・。しかし、『ANGEL』開発に携った科学者チームの予測によれば、制御がはずれた『ANGEL』は『マザー』を目指す可能性が高いと思われます」



第七話 1999 進化の記憶

by 雅 珍公

  月光が冴えている。遠くで、何やらけたたましく、物音や怒号が響いてくる。暗い部屋の中で、テラスに抜ける三メートルは在ろうかというガラスをはめたドアの前で、二人の男は、対峙している。彼らは、月光を受けて、影がその存在を表していた。この場感の異質さは、椅子に座った初老の男の額に、鋭く赤いレーザーポインターが、マークされていることである。迷彩服を着た左腕のない男が、口火を切った。
  「何故、人類の進化にあんな不必要な化け物を作った?」
  「まさか、あの覚醒の大虐殺を生き残った者がいるとはな。」
  椅子の男が、話を飲み込まずに答えた。
  「俺は、この半年間お前の計画とやらを調べ尽くした。親愛なる友と愛する女を奪ったお前に復讐する為に。お前の計画は終わりだ。」
  「今の人類は、生きるために不必要な価値観で生きている。すべてを始めからやり直す必要がある。」
  椅子の男は、ただ淡々に口を開く。
  「人類の最大の感情、それを無くした人類に、生きる権利などない。私は妻を無くした時に、全てを知った。人類は生まれ変わらなくては、いけない。」
  「人類の最大の感情・・・・・?」
  赤いレーザーポインターが揺れる。
  「お前のやった饗宴は、そんな事、微塵も感じないぜ。」
  椅子の男の唇に、不気味な笑みが、浮かぶ。
  「だから、私は快感を貪った。骨に染みるまでの快感をだ。無くした感情を埋めるために。ヒトが、ヒトに求め、与え、支え合い、奪い合う幾つものカタチの在る感情、ヒトは他人のこの感情を理解しきれない。」
  椅子の男の目に、冷めた青い光が、宿る。それは月の光なのか、それとも、この男のカリスマの光なのか。どちらにせよ見下ろす男には、不気味なそして、巨大なプレッシャーの波がうねり襲ってきた。
  「愛というもののカタチを私、アンチナチェル風に、解釈すれば『ソドムの饗宴』に至るわけだ。あと72時間後には、貴様にも解る。我々が選択した未来のヒトの愛のカタチが何なのであるか、そして行き着くす所に何があるのか。」
  「お前に、愛を語られたら、死んでいった奴等が、浮かばれねぇぜ。」
  月明かりの中銃声とともに、閃光がきらめく。額からドス黒い血を噴き出し、床に崩れ落ちる初老の男。
  「徹 静香、カタキは取ったぜ。」
  1999年7月28日23時30分 元合衆国大統領 暗殺事件勃発

ソドム1999 あるいは悪徳の世紀末


  青い空間の中、何故か気分は悪い。落ち着かない、向こうで父がたくさんの白い服の人に囲まれている。写真で見た母が、病院のベットの上で、科学者達に、体内をいじくられている。暖かい血が辺り一面に広がり、子宮を手にした科学者が、薄笑いをしている。

  「やめてーー!!」

  ハッと、とび起きる。目の前が、いつもの情景とは違う。それどころか、私は無人島に監禁されていたはずでは? 当たりをそっと見渡す。ドアの所に17、8位の女の子が立っていた。
  「あら、何か叫び声がしたと思って来たら、やっとお目覚めな訳なのね。」
  起きたばかりらしいが、どうもまだ目が、まだうまく起動していないらしい。目の前にいる彼女は自分にそっくりなのだ。
  「気分はどうジュスティーヌ?」
  差し出された水を受け取る。飲まずにいると、
  「そんなに警戒することはないわよ。毒なんか盛ってないから。」
  慌てて、
  「そんなこと考えてないわ。私は今、飲みたくないだけ。」
  と、取り繕った。
  「そんなこと言わなくてもいいわ。私には、解るわ。ジュスティーヌの目の前の私は現実にいるわ。そんなに怖がることはないわ。」
  ジュスティーヌは、今度は注意深く当たりを見渡した。
  絶え間なく聞こえる波の音、小振りな窓はどうやら開くようには、できてないらしい。船? しかも、かなり大きい、揺れが、ほとんど無い。ジュスティーヌは、そう推理した。そして彼女の方に向き直った。
  「ここはどこ? あなたはだれ? 何故、私はここにいるの? と、質問したいのね。」
  ジュスティーヌは、しゃべりかけるタイミングを見逃した。一瞬目が合い、二人の顔にうっすらと、笑みが表れる。
  「私はジュリエット。ここは、ノアと呼ばれる船の中。ある特殊な機関の船よ。」
  ジュリエットは、ベットの脇の椅子に座り、さらに続けた。
  「この船は、今『バベルの塔』と呼ばれるフトルディオの要塞に向かっているわ。」
  「フトルディオ?!」
  クーデターの標的である男の名前が、ジュリエットの口から出て、ジュスティーヌは、慌てた。続けて、言葉が出た。
  「私は、どのくらい意識がなかったの?」
  ジュリエットは目をつぶり、一呼吸ついて、ジュスティーヌを見つめて、
  「あなたは二日間、意識がなかったわ。無理もないわ、私も結構、辛かったもの。」
  ジュスティーヌは、自分が無人島にとらわれていた日数、そしてクーデターの日付をすぐさま計算した。飲まず食わずの三日間の恐怖、悪魔のような父の所業、一瞬憎悪に近い感情が沸き上がる。そして、確信した。熱い意思を込めて、ジュリエットを見る。
  「彼は、今そこにはいないわ。フトルディオなら、今頃、ソドムの宮殿にいるわ。」
  ジュリエットはそっと視線を窓の外の青い海原に移した。
  「知っているわ。だから、フトルディオのいない間に、『バベルの塔』を破壊するの。」
  ジュリエットは、憎悪の炎を瞳の中に宿らせた、しかし、なぜなのか、唇には、冷たい笑みが溢れていた。
  「私達が生まれ落ちた故郷、そして、悪夢の始まりの場所。『バベルの塔』はヒトが、神の領域にふれた懺悔の塔。だから、ヒトではない私達が、壊すの。」
  ジュスティーヌの背筋に、闇に引きずられるような戦慄が訪れた。ジュリエットの額にジワリと汗がにじむ。
  「今、私達って言ったわね。この船の人たちね。その人たちは、軍の人なのね。あなたは、」
  「知るはずないわね。ジュスティーヌ。人は何故、この地球で生き長らえていると思う。」
  ジュスティーヌは、面食らう。ジュリエットには、会話が先読みされてしまう。何故、今、心で推理する全てが読まれるのか?
  「解らない? 私は、ジュスティーヌの心が、聞こえるわ。あなたにも聞こえる筈よ。だから私の質問も解るわね。」
  思い当たる。ジュスティーヌが、考え推理するたびに、聞こえる声。渡された水には、青酸カリが含まれていること、小振りな窓で船だと思うこと、そして質問する前に、答えが返ってきたこと。何か、声が聞こえる。
  ジュスティーヌの、後頭部の脳の中で、何かスイッチの様な音が微かに聞こえた。それは、ジュスティーヌの中で何かが変わる予感のスイッチ。
  「ジュリエット達は、軍の人間ではないわね。何故か解るわ。しかし、クーデターのことを知っている。私が、軍に父の悪行をバラした事も知っている。あなた達は、何者なの。」
  ジュスティーヌは、ジワリジワリ来るプレッシャーに、業を煮やした。
  「ANGEL計画。聞いた事ある? 進化の限界に来たとされる現在の地球人。私達は『現行人種』と、呼ぶわ。進化の速度を追い越したオーバーテクノロジーを持つ不安定な『現行人種』。そのギャップに、精神的にも肉体的にも、限界が訪れようとしている。いずれ『現行人種』は、地球を嬲り尽くしてしまう。」
  ジュスティーヌの脳裏に、またカチリとスイッチの様な音が聞こえた。今度は、さっきの時よりも、近くで聞こえたみたいな感じだった。それを横目で見て、ジュリエットは話を進める。
  「それを危機と思い立ち上がった科学者達がいたわ。そして、彼らは、ある場所に呼び集められた。」
  「その場所が、バベルの塔ね。」
  「そうよ。だけど、『バベルの塔』は後からついた名、最初科学者達が集まった時は、『未来の塔』と呼ばれていたわ。」
  ジュスティーヌの思考に音が聞こえた。今度はハッキリと、よく聞こえた。それは、カチリという音ではなかった。カチカチと鳴る集合音だった。
  「『未来の塔』での研究は、『現行人種』の人為的進化だったわ。オーバーテクノロジーを使いこなせる人種『先行人種』を造り出す事だったの。その計画の事を科学者達は、未来に希望を託す為、『ANGEL計画』と、呼んだわ。」
  刹那、ジュスティーヌを強烈な電撃が襲う。そしてベットの上から落ちて、頭を抱えて床の上を激しく転がりまくった。


ANGEL 01    
Error       
再起動開始       
SYSTEM Error
心拍数 上昇      
生命維持SYSTEM異常
特異能力 制限付開放  
SYSTEM再構築   
再起動開始       



 

  学校に続く緩やかな坂道をテクテク登っている。坂の下の方から、女の子の声が聞こえる。だんだん近づいて来て、その声の主が、キルシェだと気付く。
  「待ってよう、ジュスティーヌ。いつも、久しぶりに会うときは、決まってこの坂ね。どうしてたの、みんな心配してたんだから。」
  走って来たらしく、呼吸が乱れて、言葉が途切れ途切れになっている。
  「おはようキルシェ。久しぶりね、元気だった? 暑くなってきたから、もうすぐ夏ね。夏休み、どこへ行こうか?」
  キルシェが不思議そうな眼でジュスティーヌを見る。そして、
  「どうしたの? 北極でも行ってきたの? 時差ボケじゃないの? しっかりしてよ、お嬢さま。」
  と、クスクス笑い出した。その、無邪気に笑うキルシェには、微塵の嘘や、冗談が見えてこない。ジュスティーヌは辺りを見渡す。ふと、気付く、何かがおかしい。記憶の欠落? それにしては、変、しっくりしない。
  私はいつからこの坂を登っているの? 確か、登り始めたときの記憶は、『雪が、降っていた』。ジュスティーヌの昨日の記憶は、『もうすぐ、クリスマスだね。今日、プレゼントを買いに行かなくちゃ』とキルシェと話をしていたところまでだ。
  斑の異様な記憶の断片が、ジュスティーヌの脳裏を駆け巡る。そして、何かを掴んだ。それは、大統領である父の記憶。しかし、悪に染まった父の所業の記憶。三日三晩、父に犯され続けた記憶。大勢の科学者の前で、恥骨と恥骨がゴツゴツと激しくぶつかるSEXをした記憶。膣の中が父の精液で満たされ、さらにバイブレーターで掻き回された記憶。そして、その先の記憶は、、、、
  ジュスティーヌは、頭を抱えて座り込んでいたが、不意に立ち上がりキルシェの方に、向き直った。その眼には、怒りの炎が揺らいでいた。
  「キルシェのお父さんは、確か国防省の長官だったわね。力になって欲しいの。」


サンドフイッシュ作戦の一週間前の記憶

ヒトの退化に必要なのは、博愛    
ヒトの進化に必要なのは、犠牲愛   
愛とは自分の精神の奥では、正義である

アンチナチェル大統領

  ジュスティーヌはジュリエットの金色の髪をなでながら、この子から聞いた事を思い出していた。



第八話 ジュスティーヌ

by Zappie

  全ては暗闇に包まれていた。何もない空間の中、ジュスティーヌは自分の手足はおろか、自らの呼吸さえ体感することができない。全ての感覚から解き放たれ、純粋な意識体として、そこに存在していた。
  ---ここは・・・・どこ?・・・・
  自分の身に何が起っているのか。また、自分の身に何がおこったのか、思い出せない。記憶は一秒ごとに更新される感覚に押し流され、思考は次々と深い闇の中に沈んでゆく。深く思考を巡らすことができない。意識が届かない遥か奥底の深層心理では、漠然とした死の不安がとぐろを巻き、自分の存在を支える宇宙の全てが闇の中に引きずり込まれるような恐怖を味わっている。しかしそれをオブラートで包むように、奇妙な心地よさが表面の意識を支配していた。
  その心地よさは、「快感」とは別種の感覚だった。何もない肉体から、内蔵だけがずるずると引きずり出され、奈落の底にこぼれ落ちてゆく感じ。或は、失禁する感覚を全身で味わっているような、虚脱感。肉体の感覚なくして、身体の内部に物体が通り抜けてゆく、そして全ては裏返り、露見し、自分の内側が宇宙全体にさらけ出されているようだった。
  そして全てが闇の底に吸い込まれると、再び虚無が訪れた。代わって、今まで深層心理の奧に沈んでいた不安と恐怖が全面に満たされ、それと共に、クリアな意識が自分に戻ってくるのが解った。
  頭の中に、一筋の光が走った。そして人の声が聞こえる。自分を呼ぶ声。
  ---ジュスティーヌ---
  それは、自分の声だった。
  ---ジュスティーヌ、ジュスティーヌ---
  自分の名前が連呼される毎に、ひとつひとつ肉体の感覚が戻ってくる。それは割れるような頭痛と、筋肉の痛み、内蔵のむかつきとして・・・・あらゆる苦痛の感覚として、甦った。
  ---ジュスティーヌ---
  「・・・・やめて!!」
  ジュスティーヌは頭を抱えて叫んだ。両手の感覚を取り戻したことを自覚する暇もなく、爪で頭皮を掻毟った。髪の毛が指に絡まって抜け落ち、胸から込み上げてきた熱いものが、口から流れ出た。目を開く。一瞬のうちに、闇の中から光の世界に引き戻された彼女は、自らの吐瀉物の上に転げ落ちた。
  「ジュスティーヌ!!」
  誰かが叫んだ。苦痛の渦の中で何とか理性を振り絞り、状況を把握しようと務める。見上げると、青い空。そして数メートル先からこちらに向かって走り寄ってくるボンヤリとした人影は、ジュリエットに違いない。
  「ジュスティーヌ、しっかりして。さあ、大きく深呼吸をするの」
  ジュリエットは、ジュスティーヌの両肩を抱きかかえ、上下にさすった。
  「あなたはずっと意識を失っていたのよ。それが突然、ベッドから飛び起きて、ここまで走ってきたの。びっくりしたわ、海に飛び込むんじゃないかと思って・・・・。また発作が始まったのね」
  ジュスティーヌは辺りを見回した。ここは船の甲板、そして自分は手すりにもたれて座っている。すぐ後ろには、海。相変わらず全身の痛みは続いているが、幾らかは意識を冷静に保てるまで落ち着いていた。
  「わ、わたしの身体に何が・・・・」
  ジュリエットは目をつぶった。ジュスティーヌの問いに、ジュリエットは答えたくないかのように、口を閉ざした。代わりに、心の声が響く。
  ---あなたは今、『ANGEL』として覚醒しようとしている。何故、今この時、この場所でなのかは解らないけど・・・・多分、どこかでフォウが・・・・だとしたら、きっと、アンチナチュルの仕業・・・・
  「『ANGEL』!?」
  ジュスティーヌはジュリエットの脳波を声に出して反復した。『ANGEL計画』、それは昨日、彼女の口から聞かされていた。何か、新人類の誕生として、『バベルの塔』に集まった科学者達が開発した超人類達だという。それを、父、アンチナチュルが利用したということも聞いている。そう、我々は今、この「ノア」という船で、バベルの塔を破壊しに向かっているのだ。しかし、フォウとは・・・・。そして、自分が・・・・!?
  ジュリエットはジュスティーヌの長い髪にこびり着いた吐瀉物を指で拭いながら、愛しそうに彼女の顔をみつめた。その目が、目の前の苦悩する同じ顔の美少女に語りかけようとしていた。しかし今度は彼女の名を呼ばず、「マザー」としてだった。
  ---『マザー』、あなたはわたし達の母体。あなたは『ANGEL計画』の最初の犠牲者。そして、全ての『ANGEL』は、あなたの遺伝子を摘出して創造されたの。・・・・わたしやフォウにとって、あなたは『マザー』なのよ。・・・・フォウが覚醒したらしいわ。この世界のどこかにいるわたしの唯一の兄弟。そしてあなたの子供・・・・。わたしはこの通り、できそこないの『ANGEL』だけどね。でも、あなたを無人島から救出するには十分な力はあったし。
  ジュリエットは着ていた衣服の胸のボタンを外しはじめた。
  「・・・・いや、計画の最初の犠牲者は、あなたのお母さんかもね」
  上半身の衣服がめくれ、白い肩が露見する。半分さらけだされた背中に、二つの白い突起物が認められた。
  「いやっ! やめて!!」
  ジュスティーヌは目をつぶり、両手で耳を塞いだ。眼に映るもの、耳に聞こえるもの全てを否定するかのように、再び闇の中に心を閉ざす。
  しかし、闇の中に、うっすらとジュリエットの顔がボンヤリと浮かび、水面鏡のようにユラユラと揺れた。ジュスティーヌは悲鳴をあげ、目の前の映像を掻き回した。ジュリエットの、或は自分の顔が、四方にはじけとぶ。
  ---ジュスティーヌ・・・・ジュスティーヌ・・・・
  遠くで自分の名を叫ぶ声がする。その声は、次第に遠ざかっていった。
  乱れた水面が元に戻ってゆくように、一度バラバラになった映像が、再びひとつの対象物を写しだした。今度はジュリエットや自分ではなく、一人の見知らぬ少年だった。どこかで見たことがある。そう、一昨日、「ノア」の連絡室のモニターで見た、あの少年だ。
  クーデターグループの軍の誰かに連絡を取ろうとして、ソドムの宮殿のコンピューター・ルームへ接続してもらったのだ。しかし宮殿から送り込まれた映像は、クーデターグループでも大統領の一味でもない、一人の少年だった。
  少年はモニターの中から不思議そうな顔をしてジュスティーヌを見詰めている。そして、フッと微笑んだ。
  モニターが柔らかく波打ち、盛りあがる。少年が両手をかざして、画面からこちら側の世界に出ようとしていた。
  「・・・・マザー、僕だよ。フォウだよ。マザー、今、そっちへ行くからね・・・・」
  ジュスティーヌは首を左右に振りながら、後ずさった。水がパンパンに入ったビニール袋のように、モニターの画面が膨れ上がり、少年の指がプスリと、穴を空けた。
  一気に、羊水の様な半粘着質の液体が吹きだした。勢いで、全裸の少年が投げ出される。投げ出されたまま、死んだように動かない。

  ・・・・その時、ジュスティーヌの脳裏に、眩いフラッシュバックの閃光が走ったかと思うと、ひとつの映像が映し出され、それは目の前に倒れた少年の姿と重なった。
  少年が倒れている。檻の中に。檻、といっても、それは巨大な鳥篭のよう。その回りに、四人の男達が、立っていた。四人とも見慣れた顔だが、その中の一人は特に、自分の「よく知っている」人物だった。その男が、背広の内ポケットから一枚の黒いカードを取り出し、少年の手に握らせた。少年は気を失っているらしい。
  「私の置き土産だ」
  「大統領殿、バケモノを復活させて、後に残されたものを皆殺しにするお積もりですか」
  「フッ、軍の奴等め。眼に物見せてくれるわ。・・・・」
  四人は笑いながら、去ってゆく。闇夜の向こうに、四人は姿を消した。ややあって、ドアを閉める音、そして、軽いエンジン音がして、風が吹いた。その風は、天然のものではない。何か、プロペラのようなもので、人工的に吹いたもののようだった。
  後に残された少年はまだ、気を失い、そこに倒れている。
  ふいに少年の身体が光を放ち、それが二度目のフラッシュバックにつながった。

  ・・・・少年が倒れている。
  少年の背中には、ジュリエットと同じ、しかしはるかに大きく完全な形ではあったが、白い突起物があった。ヌルヌルとした液体のなかで、身体を小さく折り曲げ、小刻みに奮えだす。背中の突起物がアコーデオンのように両側に向かって広がり、それは少年の全身を覆うばかりの大きな羽になった。ゆっくりと少年が立ち上がる。その立派な翼とは対象的に、生まれたばかりの小鳥のように、奮えていた。
  ジュスティーヌは反射的に、少年に近づいてゆく。弱々しく立ち上がる少年は、今にも崩れ落ちてしまいそうに見えた。しかしその身体をささえようと手をさし伸ばしたとき、少年の両手が一瞬の早さでジュスティーヌの両腕を掴み、恐ろしい握力で握りはじめた。その顔は、さっきまでの無垢な笑顔とは懸け離れた、小悪魔のような笑みを浮かべている。
  ---マザー・・・・
  ---やめて! わたしはマザーなんかじゃない!
  ジュスティーヌは両手を振りほどき、闇の中を走りだした。
  まだ数メートルも走り進まない内に、何かに足を踏み外し、落下する。闇の中の逃亡、そしてどこまでも続く無重力の闇の世界へ。それは、先ほどまで漂っていた虚無の空間への逆戻りであった。
  もうジュリエットの声は聞こえない。


  *****************************************************



 

  遠くでカモメが鳴いていた。
  ジュスティーヌは目を開けようとして、顔をしかめた。瞼のすきまから、光の洪水が流れ込んでくる。潮の香りが漂うそよ風に、焼けた頬がヒリリと滲みた。顔に触ろうとしても、両手は縛られ、身動きが出来ない。あまりの窮屈さに足元をモゾモゾ動かすと、爪の間に食い込んだ砂粒が痛かった。
  ふいに胸に死ぬような圧迫感を感じて、咳き込んだ。思わず喘ぎ声が漏れる。頭を振って正気を取り戻すと、ようやく視界を取り戻し、目の前に巨大な海が広がった。そして今、自分は一糸まとわぬ姿で、海岸に立ち並ぶ椰子の木のひとつに、グルグル巻きに縛りつけられていることを思いだした。
  ジュスティーヌは舌を出して、息をつぎながら、自分の運命を呪った。自分をこんな目にあわせたのは誰か解っている。そして向こうの砂浜に蠢く大きな法螺貝が、さっきから自分を見詰めていることも、ちゃんと知っていた。
  それにしても喉が渇いた。みずみずしかった肌は、照り付ける太陽光線と潮風によって、すっかりボロボロになっていた。口内は微かに潤いが残ってはいたが、それはネバネバと糊のように舌にまとわりつくだけで、焼けるような喉の渇きは時とともに酷くなってゆく。
  ---ジュスティーヌ・・・・
  また自分を呼ぶ声がした。今度は男の声だ。しかも、よく聞き覚えのあるあの声だった。
  ---ジュスティーヌや・・・・
  ジュスティーヌは耳を塞いでしまいたかったが、生憎、それは叶わない。歯を食いしばり、精一杯の力を振り絞ってもがいた。しかしそんなことをしても、縄が弱った肌に食い込むだけ。全身にバラバラになるような激痛を感じて、思わず悲鳴をあげた。
  そして、恨めしそうに、法螺貝を横目で見やる。法螺貝は先程よりも倍の大きさになっているようだった。
  「ジュスティーヌ、聞こえるかい? 私だよ」
  ジュスティーヌは勿論、答える気はない。
  「どうしたんだい、いつものように返事しておくれ。『お父さん』てな」
  「やめてください!!」
  有らん限りの力で叫び、そして、ふいに涙がこぼれる。それは彼女の渇ききった身体からは、奇跡の現象だと言えた。彼女にとって、最期の最期まで忘れることのない、崇高なる美徳の欠片だった。
  「ジュスティーヌ、今のお前は美しいよ。さすが私が育てた一人娘だ。お前の晴れ姿をこうして見守ることが出来て、私は本当に幸せものだよ。シャンパンが一段と旨く感じるね。この日のためにとっておいた、『マルキ・ド・サド・ブリュレット』だ」
  カチン、と、グラスを鳴らす音が聞こえた。
  「お前はいつも『世界平和』を望んでいたっけね。今にその理想を叶えてあげるよ」
  プッと、吹きだす声が聞こえる。
  「まもなく、・・・・今から5時間後ぐらいかな、お前が今いるその島で、核ミサイルの爆破実験を行うんだ。なに、心配はいらないよ。一度コンピューターでシュミレーションさえとってしまえば、もう二度と行う必要はない。これは我が国の未来の為に、そして世界平和の為に、重要な政策なんだ。解ってくれるよな」
  暫く笑い声があって、
  「どうだ、人生最期の最期に、世界平和に役立てて満足だろう。お前からの実験結果の報告は・・・・ま、あの世に行ってからじっくり聞かせて貰うよ。ははっ。大丈夫さ、地獄から這い上がって、お前に遇いにゆくからな。お前の言う通り、美徳に生きて、不幸に一生を終えた愚か者を報いるという、天国などというものが本当にあればの話しだがな」
  そして、いつまで続くとも解らない、笑い声が、海岸に響き渡った。
  ジュスティーヌは顔をクシャクシャにして、嗚咽した。今すぐ、死んでしまいたかった。身体全身の苦痛、そして心の激痛。発狂しないのが不思議なぐらいであった。
  この時ばかりは、彼女は、自分の屈強な精神を呪わずにはいられなかった。

  「ジュスティーヌ様ぁ!!」
  どこかで、大勢の人が自分の名前を呼ぶ声がする。
  「ジュスティーヌ様万歳!!」
  それは、大いなる尊敬と、愛着に満ちた声。
  「ジュスティーヌ! ジュスティーヌ!」
  自分を必要としている人類の雄叫び。
  「ジュスティーヌ様、世界に平和を・・・・」
  しかしその声は、段々と遠くなり、やがて聞こえなくなった。

  頭上で、恐ろしい轟音が鳴り響いた。
  辺りはもう薄暗く、風が強い。しかしジュスティーヌの弱り切った肌は、寒ささえ既に感じることがなかった。
  ジュスティーヌは、フラフラと頭を挙げる。薄目を開けると、小鳥たちが遠くの空に向かって飛んでゆくのが見えた。死神はもうそこまで来ているのだ。
  轟音が次第に大きくなってくる。見上げると、幾千もの蛇がうねるように、雲が蠢いていた。ジュスティーヌの全身が、ゼンマイ仕掛けの人形のように、ガタガタと震えだした。
  耳をつんざくような轟音。
  波の動きが止まり、周囲の空気が固まる。
  ジュスティーヌの両目が見開かれた。血が出るほど歯を食いしばり、天空を凝視する。
  その時だった。雲がまっぷたつに割けたかと思うと、そこから、黒く、恐ろしく巨大な悪魔のペニスが顔を出し、ジュスティーヌの目にはそれが、まるでスローモーションのように、こちらに落下してくるのが見えた。
  ジュスティーヌは、言葉にならない叫び声を挙げた。
  その時、眩しい光がジュスティーヌを包みこんだ。


  *****************************************************



 

  ジュリエットは、焼け崩れた鉄の塊の上に腰を降ろし、海を見ていた。
  全ては終った。海の上に佇む巨大な要塞の最期を見届け、ひとり、感傷に浸っている。まだやることは沢山残っているのだ。束の間の休息、そしてこれから自分を待ち受けている運命を思い返し、志気を奮い立たす時だった。
  そして、最終的に自分を待つものは、死。或は、この世からの消滅。それは構わない。最初から常人とは懸け離れた化け物としてこの世に生を受けた以上、それは必然の運命だった。しかし、あの子は・・・・
  思えば、自分が出来損ないの『ANGEL』として、ずっと半覚醒状態のまま、生きていることは幸運だった。お陰で一応にも、人間としての理性と美徳を持ちながら、世のために『ANGEL』としての能力を行使することが出来たのだ。
  「・・・・まあ、ずいぶんと派手にやってくれたものだな」
  ふいに、すぐ後ろに男の足音と声がして、振り向いた。
  「あ、あなたは・・・・!」
  ジュリエットは驚いて、文字どおり飛び上がり、男から数メートル離れた位置に着地した。人間では考えられない跳躍力だった。男は知らぬ顔で、ポケットに手を突っ込み、辺りを見回している。
  「・・・・フトルディオの奴に任すとこの通りだ。たった一隻の船に崩壊するような弱体な防衛力など。テクノロジーというものを解っとらんよ」
  男は足元の鉄片を蹴飛ばした。
  「いつの間に、どうやって、ここへ来たの?」
  「私の可愛い娘はどうした?」
  男はジュリエットの言葉には答えず、逆に問い掛けた。
  「ジュスティーヌなら寝てるわ。この一週間意識不明よ。ずっとうなされてるの。過去の記憶に、苦しんでいるようね」
  ジュリエットは恨めしそうに、男を睨んだ。
  「まだ覚醒しとらんのか。遅いな。フォウのプロテクトが解除されたと同時に、あいつにも影響を及ぼすはずなのだが。・・・・それにしても、こいつ、余計なことをしおって。あの娘は私がこの手で処刑したつもりだったのに・・・・まあ、いい。殺人マシーンと化した、正義と博愛の国民的美少女という余興も、面白かろう」
  「そう巧くいくかしら?」
  ジュリエットは含み笑いをした。「彼女がなかなか覚醒しないのは、あの子の強固な『意志』が邪魔しているからよ。・・・・そんなことより、我が身の心配をしたらどうなの?」
  ジュリエットは身構えた。『ANGEL』としての能力は半人前だが、目の前の生身の人間を数秒で確実に殺すことなど、容易いことだった。しかし、男は不敵に笑う。
  「そう急ぐな。私の話しを聞け。お前は、私と一緒に来るんだよ。お前の仕事は半年後に残っている。私の理想の良きアシスタントとしてね」
  「・・・・!」
  何を馬鹿なことを、その一言が口から飛び出す前に、ジュリエットの五体は固まった。
  アンチナチュルが静かに近づいてくる。その眼は、ジュリエットの瞳を一直線に見詰めていた。そしてその眼光に見据えられながら、ジュリエットの身体は、意志に反して、完全にその動きを封じられている。
  「・・・・新人類の誕生。それは画期的な発明だった。私は喜んで、自分の娘をその実験第一号に選んだ。そして彼女の遺伝子から、フォウを創造した。全ては大成功だった。只、或る一点の誤算を除いては・・・・」
  ひと呼吸おいて、アンチナチュルが静かに口を開く。「・・・・その誤算とは、ジュスティーヌの美徳だよ。フォウは、母体から、殺戮マシーンとしては酷く余計な判断基準を受け継いでしまった。だから私は、自分の遺伝子から、新たな『ANGEL』を創造した。・・・・それが、お前だ」
  ジュリエットの眼が、かっと見開かれた。肉体は動かなくとも、耳は聞こえている。
  「解ったか。お前の顔は、整形技術でジュスティーヌに似せてあるだけなのだよ。お前の気付かない心の奥底では、私と同じ、悪徳の炎が燃えさかっているんだ。・・・・今、その証拠を見せてやる」
  言うと、アンチナチュルは大きな手をかざし、ジュリエットの顔を撫でるように、上から下へとゆっくりと振りおろした。
  ジュリエットの驚愕も束の間。その視界がアンチナチュルの掌に一瞬、遮られたと思うと、彼女の今までの意識はどこかへ消し飛んだ。変って、別の人格が宿ったかのように、彼女の表情は暗く陰湿なものへと豹変する。
  アンチナチュルは、自分の娘と同じ顔の美少女の、長い髪を掻き上げると、その唇に接吻した。ジュリエットは直にトロリと目を閉じ、男の身体を抱きしめ返した。いつの間にか肉体は開放されている。新しく甦った、邪悪な魂に。
  「・・・・お父さん。わたしは・・・・あなたの・・・・娘です」
  「そうだ。それでいい」
  アンチナチュルはニヤリと笑うと、ジュリエットの胸を力強く握り締め、千切れんばかりに弄くり回した。ジュリエットは痛がりもせず、アンチナチュルの胸に頭を垂れ、催眠術にかかったように身を委ねている。
  「さあいくぞ。半年ばかりの間、ちょっと隠れていなけりゃならん。お前を完全な『ANGEL』にしてやらないといけないしな」
  「・・・・ジュスティーヌは?」
  「あいつはほっとけば、時期に面白いことになろう。いつまでも覚醒を逃れて苦しんでいる訳にはいかんさ。発狂死したら、それはそれでよし」
  アンチナチュルは、歩きだした。下僕のように、ジュリエットがその後につづく。その向こうには、軍事用へリが一台、エンジンをかけたままの状態で留っていた。
  遠くで微かに、ジュスティーヌの絶叫が聞こえたが、バベルの塔の廃虚にはもう、誰一人その声を聞くものは残っていなかった。



最終話 MOTHER, FOREVER

by TOMOMI

  霧雨が降り続いている。
  ひっそりと、世界中を静寂で包み込むかのような霧雨が。
  雨は人々の心を陰鬱な気分にし、誰もが家の中で悲しみに暮れていた。その日、国中が重く打ち沈んでいた。どのテレビ局も同じニュースを一日中流し、誰もが飽きることなくそのニュースを見続けていた。誰からも愛され、尊敬されてきた大統領の葬儀はその人柄を表すようにつつましく、かえって人々の涙を誘った。
「おかわいそうに、テロリストに殺されたんだってさ・・・」

  廃墟と化したバベルの塔に風が吹き抜ける。
  その瓦礫の中でも一番高い場所に腰をかけ、フォウは一つため息をついた。その手には、未だ血を流し続ける年老いた首が驚愕の表情を張り付けて3つぶら下がっていた。フォウの力を持ってしてもこの3人を見つけだすのに長い時間がかかった。この首を持っていけばマザーは喜んでくれる、そう思い、半年間探し続けた。
  フォウは満足感に浸りながら、風の中からマザーの気配を探していた。
  どんなに離れていても、彼女の温もりを感じとることが出来た。そしてその温もりをたどり此処まで来た。しかし、マザーが見つからない。もう此処にはいないのだろうか。

 「見つけたわ」
  振り向くとそこには長い黒髪を風になびかせ、すらりと立つ美しい女の姿があった。
 「見つけたわよ、フォウ。美しい・・・なんて美しいの・・・お前は私のものよ。誰にも渡すもんですか。モニターからお前の姿を見たとき、くらくらしたわ。純白の私の小鳥。さぁ、こっちへいらっしゃい。」
  フォウはつまらなさそうにちらりと瞳だけを動かし、極上の微笑みを浮かべ、ゆっくりと唇を動かした。
 「醜い女・・・。」
  キリエムはその美しい頬をぴくりとさせて、唇をかみしめた。
 「なんですって・・・私が・・・醜いですって。」
 「そうさ、そんなお前が僕を欲しいなどと、身の程を知るが良い。」
  怒りに震えるキリエムが口を開こうとしたその瞬間、風が唸った。あたりの砂と埃を巻き上げながら、風は右へ巻き、左へ巻きながら荒れ狂う。男達の断末魔が辺りに響いた。
  キリエムが振り返るとそこは血の海だった。切り裂かれ、元の姿さえ判別出来なくなった肉片が転がっていた。
  キリエムは震えた。それは彼女にとって初めての恐怖だった。今、自分を守ってくれるものは誰もいなくなった。
  キリエムも裏世界で女王然としてきた女である。どんなことだってしてきた。自分の身くらい自分で守れる自信はあった。しかし、それは相手が人間である場合だけである。今自分の前に立っているのは人ではない。
  フォウがただの人間ではないことくらいわかっていた。その殺戮姿もモニター越しとはいえ見ていたのだから。だから今日は自分の親衛隊の中でもより抜きのものたちをつれてきたのだ。それが、どうしたことだ? 一瞬で血の海だ。予想をはるかに上回っていた。
  次は自分なのか。これで終わりなのか。
 「さぁ、お前の番だよ。お前の罪を裁いてあげよう。」
  天使はゆっくりと右手をあげた。
 「さぁ、何処からがいい? 右手? 左手?」
  フォウの白く細い手が微風のようにキリエムの肩をそっと抱く。手のひらは優しくその肩を撫で、少しずつ下がっていく。程良く鍛えられた筋肉を確かめるように少年の細い指がなぞる。
  キリエムは思いがけぬ感触に恍惚の溜息をもらした。先程までの危機感も恐怖心も忘れ、そっと両腕を捕まれた事の意味と、先程のフォウの言葉との間にあるものも考えなかった。目の前の薄く桃色に染まった女の瞼に侮蔑の表情を浮かべ、フォウは一気に両手の力を込めた。
 「ぎゃっ!」
  フォウの両手は血に染まり、その指の間からミンチ状になったキリエムの腕の肉がはみ出し、すでに掴んでいる感触は堅い骨の感触。さらに力を込めるとゴキッっという音と共に骨すらも砕け、そのままキリエムの腕は鈍い音をたてて地面に落ちた。
 (私の・・・腕)
  自分の腕が地面に落ちている。数々の美しいものたちを抱いた白い腕。数々の命を奪ってきた私の腕。それが今、血にまみれ、泥にまみれて地面に転がっている。
  どういうことだ? 呆然と地面を見つめるキリエムの背後にふと目を止め、フォウはにんまりとすると、ステップを踏むような足どりで歩み出す。
  かつてその巨体と怪力を誇った男の残骸の中から、一振りの巨大な斧を見つける。フォウの身体ほどの大きさのある鉄の固まり。古い貴族の屋敷にでも飾れば、さぞかし見栄えがするであろう。それを軽々と持ち上げ、同じように軽いステップで戻ってくる。
  キリエムが振り返ったとき、スローモーションのように鉈を振り上げるフォウの後ろに大きな満月が見えた。その刹那、キリエムの中で何かがプツンと切れた音がした。
  脚に燃えるような激痛が走り、世界はぐらりと横に流れていった。
  血黙りのなかにぐしゃっと投げ出された時、キリエムの頭の中には、はやくシャワーを浴びたいということだけだった。
  きっと今自分は血と泥にまみれ酷く汚れてしまったことだろう。熱いシャワーを浴びて、絹のガウンに袖を通したい。あの柔らかな感触。ああ、でももう、通す腕もないのだけれど。
  頬に冷たい血の感触を感じながら意識の遠くに痛みを感じた。もう体を起こす腕もなければ脚もない。死というものをぼんやりと思った。他者の死は数多く見てきた。もちろん、その多くは自ら与えた死であった。しかし、自分の死を想像したことなどなかった。私は強かった。何者にも負けなかった。
  だが、死ぬのか・・・私も。こんなところで、こんな姿で。こんな姿で・・・脚もない。腕もない。泥にまみれた芋虫のような姿。キリエムは大きく目を見開いた。満月を背にした美しい少年と、醜い芋虫と化した自分。醜い・・・醜い・・・。
 「嫌あぁぁぁぁぁ!」
  キリエムは絶叫した。死という恐怖に対してではなく、美しいものの前で醜悪な姿をした自分という事実に対して、心の底から絶叫した。
  フォウはその姿をうんざりとした顔で見おろしていた。
 「いやぁぁ・・・ひぃ・・ひゃ・・ひっぅ」
  血と泥と涙にまみれ、笑いとも悲鳴ともつかない声を発しながら身を捩るキリエムを、フォウはそのまましばらく眺めていた。その悲鳴を聞きながら何処かでこんな姿を見たと思った。
  あたりに転がる肉の塊たち。そして赤い芋虫。あの醜悪な大広間でそれを脅えて見つめていた自分。あの場にいた老人たちは全て殺した。ただ一人を除いて。どうしても見つからないアンチナチュル。そしてどうしても見つからないマザー。
  フォウは肥大した月を見上げ、背中の翼を力一杯広げた。そして、それをアンテナに、辺り一面に信号を発した。マザー、何処にいるの? マザー、僕は此処だよ。それに答えるかのように、月の光が強まったような気がした。
  その時、マザーの気配が一瞬強まった。脈打つように強まり弱まるマザーの気配。
  近い。マザーは近くにいる。そう確信したフォウは翼をはためかせ空へ舞い上がった。廃墟を一望できる位に上昇する。瓦礫の山の中で一カ所、月の光を反射するかのように、弱々しく、そして優しく光を放つ場所があった。フォウの瞳に涙が溢れた。
  見つけた。ああ、見つけたよ。フォウはその場所へ急降下していった。

  瓦礫の隙間に、その光はあった。倒れた柱や、石の固まり、それらをゆっくりと、一つ一つ丁寧に取り除いていくとそれはあった。
  それは優しく光を放ち脈打つ羽毛で覆われた球体だった。そっと手で触れると暖かく、柔らかだった。
フォウは頬を寄せ、小さな声で呟いた。
  マザー・・・
  球体は身を震わせるようにかすかに動き、そして蕾が花開くように、ゆっくりと開いていった。
  そして、その蕾の中には、長い金の髪に包まれて美しい少女が眠っていた。
 「マザー」
  フォウはそっと名を呼んだ。ゆっくりと瞼が開き、菫色の瞳がフォウの姿を映す。
 「私は・・・どうして? あなたは・・・フォウですね。」
  初めて名を呼ばれ身を堅くして言葉を探している少年をよそに、少女は再び瞳を閉じ苦悩の表情を浮かべた。
 「私は、覚醒してしまったのですね。とうとう・・・」
  身を捩り、体を起こす少女の白い肩に、金の長い髪がさらさらと揺れる。
 「長い夢を見ていました。いろんな夢を。」
  ジュスティーヌは立ち上がり自らの変化を確認した。髪・・・いつの間にこんなに延びて・・・それだけ時間がたったという事なのか。手も、脚も何も変わってはいない。しかし・・・
  背中に意識を集中させると、翼が大きく広がりひとつ羽ばたいた。フォウよりも大きな翼。たぶんどのエンジェルよりも大きく純白の翼。ジュスティーヌは羽根を一つ抜き取った。細かな痛みが走る。確かに自分の身体の一部なのだと感じた。一つ、また一つと羽根を抜いていく。涙を流しながら。
  翼こそエンジェルのあかし。翼こそ、エンジェルの力の源。それはジュリエットの教えてくれたこと。
 「私は出来そこないだから・・・無いのだけれど・・・」
  そう、寂しげに微笑んだジュリエットは何処に行ったのだろう。何処にもいない。私の側にはいない。私の側には誰もいない。側にいるのはこの少年だけ。フォウ・・・MOTHERとして覚醒した記憶が知っている。私から作られたエンジェル。私の息子。私はMOTHER。全てのエンジェルたちの母。様々な映像が津波のように押し寄せる。そう、これは覚醒の最後の段階。そしてそれは、私は私でなくなってしまう瞬間。
  そんなのは嫌だ!!
  翼を握りしめ、ジュスティーヌは渾身の力を込めた。メキメキと鈍い音をきしませて右の翼が軋む。皮膚の裂け目から血が溢れだし、喉元まで来た悲鳴をぐっと押し止める。ジュスティーヌの額に汗がにじむ。歯を食いしばり、一気に力を振り絞った。ベキッと大きな音と共に、翼は血飛沫をあげてもぎ取られた。
 「ぐっ・・・・あぁぁ・・・うぁ・・・」
  気が遠くなるような激痛。生々しい切断面を見せて、真っ赤に染まった巨大な翼が地面に転がった。
  汗が涙と共に顎を伝い滴り落ちる。膝をつき、痛みに震える肩を抱く。力を込めすぎた爪が両肩に食い込む。
  マザー・・・
  フォウは驚愕のまま身動きもとれず、その光景を見つめていた。
  自らの翼をもぎ取り、苦痛に眉をひそめ、自らの血にまみれた片翼の女神はあまりにも美しかった。
  ジュスティーヌの唇が激痛に震えた。
 「私は・・・翼なんて・・・いらない・・の。MOTHERでも・・・ANGELでもないのよ。」
  震える指先が、もう片方の翼を握りしめる。背中の傷口が炎に炙られるように熱い。でも、エンジェルになるのは嫌だ。あの男の、アンチナチュルの思惑通りになるのなんて絶対に嫌だ!! 今ジュスティーヌを支えているのはアンチナチュルに対する憎しみだけだった。私から全てを奪っていった男。そして今もその手の中で踊らされている。
  こんな物があるから・・・こんな物さえなければ・・・
  ジュスティーヌは歯を食いしばり翼を握りしめる。痛みで頭がおかしくなりそうだ。覚醒の初期段階。あの時の苦痛が甦る。頭の中でアンチナチュルの下卑た笑い声が反響した。
 「やめ・・・て・・・う、うああああああああああ!!」
  絶叫と共に最後の翼は投げ出され、ジュスティーヌの背中から止めどもなく鮮血が溢れる。そして、ふらりと立ち上がるとそのまま、気を失ってその場に倒れた。

  そのまま1週間、ジュスティーヌは立ち上がることすら出来なかった。翼をもぎ取った痛みと、激しい高熱のためか、身を捩り、フォウが何処からかみつけてきた毛布もビリビリに引き裂いた。眠りについてはうなされ続け、ジュスティーヌは日々、衰弱していくようだった。
  此処には傷を洗う水もなく、埃にまみれた布しかない。清潔な布と水を求めて、フォウは毎日島中を飛びまわった。その間、ジュスティーヌを一人にすることは不安だった。ある日、泉を見つけてそこにジュスティーヌを移したころにはもう背中の血も止まり、静かな寝息も聞こえるようになっていた。
  フォウの運ぶ新鮮な果物を食べ、ジュスティーヌは徐々に回復していった。しかし、獣の肉は決して口にしようとはしなかった。

  フォウが泉に映る月を眺めていると、ジュスティーヌがそっと隣に腰を下ろした。
 「アンチナチュル・・・世間ではあの男が死んだと言う。でもそんなこと信じられない。そんなに簡単に殺されるなんて信じることが出来ない。きっと何処かで生きている。そんな気がするの。フォウ、貴方はある意味『ANGEL』としての完全体なのかもしれない。私は、貴方のように躊躇いもなくすべてを破壊していくことは出来ません。だからこそ、私にはフォウが必要なのです。」
  ジュスティーヌはフォウの髪を撫でながらゆっくりと言った。瞳が悲しげに潤んでいる。
 「私は私の復讐心の為に、只それだけで動いているのかもしれません。それでも私は悪魔になんかならない。あの男と同じになんてならない。私と一緒に、行ってくれますか?」
  フォウの目から涙があふれ握りしめた拳に滴り落ちる。回路はただ一つの答えを出した。
 「僕の望みはマザーに喜んでもらうこと。」

 (ジュスティーヌ、もう一人の私。)
ジュリエットはその側まで来ているジュスティーヌの気配を感じていた。もうすぐここに現れる。しかし彼女にはそれが嬉しいのか、悲しいのかわからなかった。
 「どうした? ジュリエット。何を考えている?」
 「あの女がここ来ます。」
ジュリエットは男の膝に身をすり寄せ、その黄金の髪への愛撫にうっとりと目を閉じた。
 「私は貴方の僕。私は貴方の喜びのためにあり、破壊と快楽のためには何も惜しまなくてよ。だから、私があの女を殺してさしあげますわ。この世でもっとも残忍なやり方で。貴方様のために。」
  男は髪を掴むとそのままジュリエットを床に投げ出した。打ちつけられた背中に痛みが走る。それすらも、今のジュリエットには心地よい。男はそのままジュリエットに馬乗りになった。片手でブラウスのボタンを引きちぎり、もう片方の手でスカートをたくし上げた。男の骨ばった大きな手が脚の間をまさぐり乱暴に茂みに分け入ってくる。その痛みと喜びに震えながらジュリエットは気づきたくなかったことに気づいてしまっていた。
  ジュリエットは喘ぎながら囁いた。
 「一つだけ、お伺いしたいことが御座います。何故、私をジュスティーヌと同じ姿形におつくりになったんですの?」
  声が震えるのを感じた。知りたい。でも、知りたくない。涙が頬を伝うのを感じた。
  男は一呼吸置いて呟くように答えた。
 「ただの・・・気まぐれにすぎんよ。」

  ジュスティーヌはフォウに抱き抱えられたまま、空の上からそれを見つけた。魂の双子として、ジュスティーヌにはジュリエットの居場所を感じとることなど訳もなかった。しかし、今では遠く離れた場所からでは彼女の心を感じとることが出来なくなっていた。ジュリエットに何があったのか。それがなんだかとても不安だった。
  果てしなく砂の海が続いていた。どこまで行っても何もない。しかし、確かにこの向こうにジュリエットはいる。

  砂漠の中にぽつんと浮かぶ丸い大理石のステージ。
  その中央にしつらえられた玉座には男が座っていた。そして、その男の上にいるのは・・・。
  慈愛のほほえみを浮かべた悪魔の腰から生えたその真っ白な肢体。その真っ白な翼。足を絡ませ、腕を絡ませ、腰をくねらせながら快楽に頬を紅潮させたあの姿は鏡の中の私の姿。
  フォウと共にその冷たい床に降り立ち、ジュスティーヌは言葉を失った。
  ジュリエット・・・何故・・・?
  やめて、思い出させないで。私の罪を。地獄に堕とされたあの悪夢の日を。
 ---本当は、嬉しかったんだろう---
  違う、そんなことない。あんな、汚らわしい・・・おぞましい・・・
 ---大好きな“お父様”に抱かれて、嬉しかったくせに---
  違う違う。
 ---ずっと、望んでいたことのくせに---
  やめてぇぇぇぇ!!
  耳を押さえて絶叫した。直接脳に響いてくる言葉に、耳をふさいでも無駄なことはわかっていた。いつまでも頭の中でこだまするけたたましい笑い声。
  ジュリエット!! もう止めて!! やめて、私と同じ顔をしてそんなことをするのは止めて。
  涙が止まらなかった。翼をもぎ取った後の傷が酷く痛んだ。

 「とうとう此処まで来たね。どうしたね、儂が生きているのがそんなに驚きかね。儂は死なんよ。そろそろ大統領なんてものも飽きてきたのでね、人形を代わりにおいてきたが、できが悪かったようだな。あっさり壊されおって」
  ジュスティーヌの姿を眺めながら、アンチナチュルはふと、眉を動かした。
 「ふん、翼はどうしたのだね。お前には特別大きなものをつけてやったはずだが・・・。」
  ジュリエットが肩越しに振り返る。ジュスティーヌを一瞥するとアンチナチュルの上から降り、その足下にしなだれた。一糸纏わぬ姿でアンチナテュルに寄り添い、これ見よがしに身をくねらせる。
 「昔のように、お父様とは呼んでくれないのかね。」
  ジュスティーヌはかつて父であった男を睨みつけた。
 「誰が・・・」
 「まぁ、いいさ。お前がどんなにあがこうが、この私と血がつながっていることは生涯変えることの出来ぬもの。私と、あの性悪女の娘なのだよ。お前は。」
  アンチナチュルは愛しげに娘を眺めた。ジュスティーヌの脳裏に、写真でしか知らぬ母の姿が浮かんだ。小さな頃、床に並べた母の写真を飽きることなく眺め続けた。物心つかぬうちに帰らぬ人となってしまった母。父は滅多に家には帰ってこずに、殆ど家政婦に育てられた子供時代。母の写真を見ていると、不思議と寂しさは薄らいだ。どの写真も優しい笑顔で自分を見つめ返している。大切な思い出。大切な人。
 「お前も知っているだろう。かつては私も人々の『よき隣人』であったのだよ。穏やかな笑顔と、愛情あふれた心を持った、国民の望む理想的な大統領であったさ。しかしね、ある日私は知ったのさ。自分の本質をね。
  おまえの母であり、我が妻であった女はそれは美しい女だった。いつも笑顔を絶やさず、穏やかな物腰で・・・。
  しかしね、本当は違っていた。本当のあいつはただの淫売でしかなかった。それも天才的なね。大統領夫人という表の顔を巧妙に隠して、裏の世界では評判の娼婦だった。何百人という男をくわえ込んだものかしれないね。今の俺と同じ、果てしない肉欲に憑かれて、ありとあらゆる行為をしていたよ。しどけない姿で男を誘うあいつの姿は、それはもう、芸術的に美しかったね。
  おまえの母とは、そういう女さ。お前とて、本当に儂の子かどうか怪しいものだがね。」
  ジュスティーヌの噛みしめた唇から、一筋の血が流れた。その目は一層憎しみに燃えあがった。そんな娘の姿を満足そうに眺めると、ゆっくりと葉巻に火をつけた。白い煙がゆらゆらと上っていく。
 「お前はわかってはいないかもしれないが、儂は今でも愛に溢れているさ。ジュスティーヌよ。お前は愛というものを薄汚い偽善という上に成り立っているなどと思っているのではないだろうな。愛とはね、ただの欲望でしかないのだよ。欲望こそが人間の本質なのさ。そのために人は生き、そして死んでいくのだ。物欲、食欲、肉欲、こんなにも数限りない欲望を抱えているのは人間だけではないのかね。素直にそれを認め、それのみに生きていくものが何より人間らしいとは思わないか。
  私はこの日のために力を蓄えてきたのだよ。地位、金、権力、すべて私が私の力で手にしてきたのだ。
  そして、力のないものは、力あるものに食われるのは人が動物であったときから変わらない地球上の理だ。
  私はかつて死の広野に小さなソドムを築いてみた。しかし、あれはただの余興に過すぎないのだよ。私はね、この地球上を丸ごとソドムに変えるのだ。
  あの女の腹から、ありとあらゆる罪の子をつくり、その子供たちがこの地球上を埋め尽くすのさ。この地は罪の子供たちであふれ、罪と欲と血で染まるだろう。同じ母を持つ子供らは兄は妹と、姉は弟と、弟は兄と、妹は姉たちと犯しあい、殺しあい、血を飲み、肉を食らうのさ。愉快じゃないか。」
  ジュスティーヌの周りで風が渦を巻いた。怒りと憎しみが放電し、風に舞って弾けた。
 「私は貴方とは違うわ。貴方のように悪と欲望に身をゆだねた生き方なんて理解できない。私は人として生きるの。」
 「人としてだって? はっ、くだらない。実にくだらないね。人間というのは。人は進化しすぎた。同じ形のまま、短時間で進化の最終まで来てしまった。後はもう、滅びを待つしかないのではないのか? その最後のラッパを儂が吹いてやろうというのだよ。虫けらどもなど、涙を流して喜ぶがいいさ。」
 「貴方になど愛を語る資格などないわ。」
  甲高い笑いと共にジュリエットは優雅な仕草で立ち上がると髪を掻き上げ顔を上げた。
 「貴方にならあるというの? ジュスティーヌ。お笑いね、まったく。」
  ジュリエットの瞳はジュスティーヌ一人を見据えていた。狂気を含んだ嫉妬の瞳で。左手に剣を握りしめ、ゆっくりと歩み寄る。
 「近寄るな。」
  フォウのはなった疾風がジュリエットを取りまいた。ジュリエットの髪が風に舞う。
 「お黙り、お前などに用はないわ。」
  ジュリエットの左手に握られた長剣が唸りをあげて振り下ろされた。フォウは風を巻いて壁をつくり、それを防いだ。
  ゆっくりと、一歩ずつ近づくジュリエットに、ジュスティーヌは身じろぎ一つしなかった。
 「あの方の愛はおまえ一人に向けられている。そんなこと、許せることではなくってよ。」
  あの頃の二人ではない。お互いに変わってしまった。それでもジュリエットの心にはあの日と同じようにジュスティーヌの心が流れ込んでくる。心の中を渦巻くのは憎しみ、憎悪、怒り、そして悲しみ、憤り。瞼の裏で色とりどりの光がスパークした。
  ジュリエットの冷たい手がジュスティーヌの頬に触れた。
 「私はお前のコピー。私は私じゃぁない。でも、お前が死ねば、私は私になれるのよ。この顔も、この身体も、所詮は偽物。あの方の愛だって・・・」
  地響きと共に床に亀裂が走った。
 「だから、死になさいな。」
  ジュリエットの髪が波打ち、蠢いた。ぞろぞろとジュスティーヌの身体を這い回り、徐々に締め上げていった。身動きのとれないジュスティーヌの身体は軽々と持ち上げられた。一本一本が細い針金となり、もがけばもがくほど、ぎりぎりと皮膚に食い込む。
 「ジュリエット・・・」
  ジュリエットを殺すことなど出来ない。しかし、このまま殺されるわけにはいかない。ジュスティーヌは溢れそうになる涙をこらえ、ジュリエットから顔を背け、フォウの名を叫んだ。
  すでにジュリエットの背後で身構えていたフォウは、その呼び声を合図に翼を広げた。
  左右に大きくひらかれた翼から、風が唸りをあげてジュリエットの背中めがけて押し寄せる。風は刃となり、ジュリエットの皮膚を切裂き、鮮血が霧のように飛び散った。
  鋭い風刀の余波は、ジュスティーヌの身体にも、無数に浅い切傷をつくってゆく。
  それに反して、ジュリエットの皮膚は切裂かれたそばから、次々ともとの肌に再生していった。これではきりがない。
 「ちっ」
  いたずらにマザーの肉体を傷つけるだけだと悟ったフォウは、風を止め、ジュリエットの背後に飛びついた。そしてその怪力で、羽交い締めにする。
  ジュリエットの腕が、枯れ枝を折るようにあっけなくねじ曲がった。
 「どうしてもお前の相手が先のようね」
  ジュリエットはやはりいとも簡単に腕をもとに戻すと、ジュスティーヌに絡みついた髪をいったんほどいた。ジュスティーヌの身体が無造作に投げ出される。
  そのとき、フォウが笑った。
 「馬鹿め」
  アンチナチュルがぼそりと呟く。その言葉は、ジュリエットの方に向けられているようだ。
  フォウとジュリエットが組みあった。ジュリエットの髪が、液体のようにうねりだしたかと思うと、今度はフォウの身体に絡み付いた。
  だがフォウは姿勢一つ崩すことなく大きく広げられた翼もそのままであった。
 「さっさと死になさい」
  フォウの身体にジュリエットの髪がめりこんでゆく。フォウの全身から血けむりがあがった。
  しかしフォウの表情は、さざ波ひとつたたぬ水面のごとく、冷静だった。
 「?」
  フォウの翼から、再び風が唸り声をあげた。今度はさっきのような皮膚を切裂く程度のものではない。骨まで絶ち切るような轟風だった。
  ジュリエットの身体は瞬く間に切り刻まれ、手足から胴体に到るまで、みるみる肉片と化してゆく。その破壊のスピードに、再生が追い付かない。
  ジュリエットの表情に、明かな恐怖の色が浮かびあがった。相手に絡み付けた髪の毛の為に、かえって逃げる術を失っている。
 「お、お父様、た、たすけて・・・・」
  アンチナチュルはゆっくりと葉巻に火をつけていた。まるでショーでも鑑賞しているかのようだ。
 「お父様ぁぁぁ!!」
  フォウがふん、と力を入れると、翼からそれまでの数倍の轟風が吹き上がり、一瞬にしてジュリエットの首から下は、跡形もなく血の霧となり飛んでいった。
  ジュリエットの首が宙に舞い、アンチナチュルの膝に落ちる。
 「・・・・フォウはANGELの完全体だ、お前とはパワーが違うよ。お前もちょっとは完全体に近づけてはみたが・・・まぁ、ここが限界という訳か。」
  アンチナチュルは、既に物体と化したジュリエットの首に話しかける。
 「ジュスティーヌを手中にしている内は、お前にも勝算はあった。マザーを道連れにしない限り、フォウには10分の一の破壊力も行使できなかったからな。そんなことも解らず、自分の力を過信しおって」
  アンチナチュルはジュリエットの首を無造作に投げ捨てた。
 「所詮、失敗作・・・か。」
  アンチナチュルは、つまらなさそうに葉巻を揉み消した。
 「貴方のために死んでいったジュリエットに対して、それだけなの?」
  傷ついた身を起こしながら、ジュスティーヌが言った。
 「偽善的な台詞はやめることだな。お前等が殺したのではないか。」
 「次はお前の番だ」
  フォウがアンチナチュルを睨みながら、身をかがめる。しかし、その身体は舞い上がることなく、ふいに小刻みに震えだした。
  アンチナチュルの発する眼光が、フォウの全身の動きを封じている。
  フォウは白目を剥いて、そのまま仰向けに地面に倒れた。
 「お母様は何処なの。」
 「ふっ、会いたいか。母の正体をきいてなお、まだ、母を慕えるのか。」
 「お前の言葉など信じるわけないじゃないの!!」
  ほとんど悲鳴に近いジュスティーヌの叫びに、アンチナチュルは目を細め、手元のスイッチを押した。アンチナチュルの背後から強烈な光が放たれ、眩しさに目が眩む。光に網膜が焼かれ視界は白一色となった。
  刹那、その純白の世界に見知らぬイメージが映し出された。
  暗い部屋、隙間なく埋め尽くすチューブと丸いカプセル。ぬらぬらとした壁が、それ自身脈打っているかのように蠢いている。その中央、全てのチューブの先は一人の女に繋がっていた。塗り込められたように、柱と同化している。ゆっくりと上げた顔は焦点の定まらない瞳でニヤニヤと笑っている。
 “お母様?”
  全身の力が抜けたように膝をつき、涙を流す。
  いけない、これは幻覚なのだ。惑わされてはいけない。ジュスティーヌは一際強く瞼を閉じ頭の中のイメージを消し去ろうとした。ゆっくりと目を開ける。目の前には血の色をした瞳のアンチナチュルの顔があった。
 「ジュスティーヌ、幻と思うのか? お前が望んだものだぞ。この砂漠の地下深く、巨大な迷宮の女王となった、お前の母ぞ。
  儂を憎むか? 憎むのか・・・それで良い。そうして、憎しみに燃え、猛り狂うおまえのなんと美しいことか・・・儂は我慢できなくなるぞ。我慢など出来るものか。お前のその真っ白な四肢が傷つき血にまみれる様のなんと美しいことよ。思い出すがいい。儂に抱かれたあの夜を。己が父に愛撫され、貫かれ、悶え苦しんだあの夜を。今一度、抱いてやろうぞ。」
  ジュスティーヌの背中に両腕を回し血を流し続けるその背中の傷をゆっくりとなぜまわす。
 「翼を捨てたか、父の贈り物を捨てたか? ふはははは」
  アンチナチュルは長い爪を立ててその傷口を抉った。ジュスティーヌの絶叫が響きわたる。
 「父殺しの娘よ。その罪は死に値する。さぁ!!」
  アンチナチュルは血に濡れた右手に剣をもち、ジュスティーヌの腹部に深々と突き刺した。
 「ぐふっ・・・」
  ジュスティーヌの口から血が溢れたが、アンチナチュルの頬にかかる。
 「私には・・・解るわ。自然の神は、貴方の野望を許さないでしょう。」
 「馬鹿なことを。神など、存在しないというのが、まだ解らんのか。」
  ジュスティーヌの血に呼ばれたかのように、空は一瞬にして暗雲にかき曇り、雷鳴が轟いた。命を持つもののような稲光が黒雲の隙間で蠢いている。
 「神は・・・この世界がある限り・・・必ず存在します。この・・・何億年のあいだ、地球が・・・繁栄し、多くの・・生き物達・・の夢と希望を育て続けてきたのは何のためだと思う? お前のようなすべてを無に還してしまうような、破壊の権化を生みだすためではなくってよ!」
  アンチナチュルはさらに力を込めた。ぎりぎりと締め上げ得られる。突き刺された剣はなおも食い込む。背骨が砕けるような激痛にジュスティーヌは悲鳴を上げる。
 「これで終わりだよ。」
  ジュスティーヌは朦朧とした意識の中でフォウを探した。
  フォウは血に染まった床の上で目を見開いたまま、全身を痙攣させていた。先程のアンチナチュルの思念波をうけて、まだ幻覚の中にいるのだろう。
 “フォウ、後は頼みました”
  ジュスティーヌは最後の力を振り絞り、ゆるゆると右手をあげた。
  暗雲の隙間から一筋の閃光がきらめいた。次の刹那、稲妻は轟音と共に二人の身体を走り抜け、 そのまま燃え盛る火柱となった。
 「ジュスティーヌ・・・」
  アンチナチュルの最後の囁きも、ジュスティーヌの最後の涙も焼き付くし、炎は揺らめき燃え盛った。二人の身体が炭になり、灰になって風に散るまで1カ月の間燃え続けた。風も雨もこの炎を消すことは出来なかった。
  アンチナチュルの死により意識を取り戻し、ただ一人残されたフォウは涙枯れることなく、硬直したまま、この炎を瞳にうつし続けた。ゆらゆらと、踊るように燃え盛る二人の影。

  どのくらいたったのだろう。気がつけば周りには何もない。ただ、茫漠とした砂漠が広がるばかり。放心状態のフォウを、一陣の風が取りまいた。その風に乗り、マザーの囁きが聞こえた気がした。

  この砂漠の地下深く広がる巨大な迷宮。そこには無数の胎児が眠っている。
  目覚めの時を待ちながら、怠惰な夢を貪っているのだ。産声と共に始まるソドムの饗宴を夢を・・・。

  マザーの望みはまだ果たされてはいないのだ。
  僕はそれを壊さなければいけない。そう。それがマザーの望み。
  フォウは翼を広げ、一つ大きく羽ばたいた。休息の場所を探すために、ソドムの炎が吹き上がるまで。
  そして、空高く飛び立った。





Fin


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