by TOMOMI
霧雨が降り続いている。
ひっそりと、世界中を静寂で包み込むかのような霧雨が。
雨は人々の心を陰鬱な気分にし、誰もが家の中で悲しみに暮れていた。その日、国中が重く打ち沈んでいた。どのテレビ局も同じニュースを一日中流し、誰もが飽きることなくそのニュースを見続けていた。誰からも愛され、尊敬されてきた大統領の葬儀はその人柄を表すようにつつましく、かえって人々の涙を誘った。
「おかわいそうに、テロリストに殺されたんだってさ・・・」
廃墟と化したバベルの塔に風が吹き抜ける。
その瓦礫の中でも一番高い場所に腰をかけ、フォウは一つため息をついた。その手には、未だ血を流し続ける年老いた首が驚愕の表情を張り付けて3つぶら下がっていた。フォウの力を持ってしてもこの3人を見つけだすのに長い時間がかかった。この首を持っていけばマザーは喜んでくれる、そう思い、半年間探し続けた。
フォウは満足感に浸りながら、風の中からマザーの気配を探していた。
どんなに離れていても、彼女の温もりを感じとることが出来た。そしてその温もりをたどり此処まで来た。しかし、マザーが見つからない。もう此処にはいないのだろうか。
「見つけたわ」
振り向くとそこには長い黒髪を風になびかせ、すらりと立つ美しい女の姿があった。
「見つけたわよ、フォウ。美しい・・・なんて美しいの・・・お前は私のものよ。誰にも渡すもんですか。モニターからお前の姿を見たとき、くらくらしたわ。純白の私の小鳥。さぁ、こっちへいらっしゃい。」
フォウはつまらなさそうにちらりと瞳だけを動かし、極上の微笑みを浮かべ、ゆっくりと唇を動かした。
「醜い女・・・。」
キリエムはその美しい頬をぴくりとさせて、唇をかみしめた。
「なんですって・・・私が・・・醜いですって。」
「そうさ、そんなお前が僕を欲しいなどと、身の程を知るが良い。」
怒りに震えるキリエムが口を開こうとしたその瞬間、風が唸った。あたりの砂と埃を巻き上げながら、風は右へ巻き、左へ巻きながら荒れ狂う。男達の断末魔が辺りに響いた。
キリエムが振り返るとそこは血の海だった。切り裂かれ、元の姿さえ判別出来なくなった肉片が転がっていた。
キリエムは震えた。それは彼女にとって初めての恐怖だった。今、自分を守ってくれるものは誰もいなくなった。
キリエムも裏世界で女王然としてきた女である。どんなことだってしてきた。自分の身くらい自分で守れる自信はあった。しかし、それは相手が人間である場合だけである。今自分の前に立っているのは人ではない。
フォウがただの人間ではないことくらいわかっていた。その殺戮姿もモニター越しとはいえ見ていたのだから。だから今日は自分の親衛隊の中でもより抜きのものたちをつれてきたのだ。それが、どうしたことだ? 一瞬で血の海だ。予想をはるかに上回っていた。
次は自分なのか。これで終わりなのか。
「さぁ、お前の番だよ。お前の罪を裁いてあげよう。」
天使はゆっくりと右手をあげた。
「さぁ、何処からがいい? 右手? 左手?」
フォウの白く細い手が微風のようにキリエムの肩をそっと抱く。手のひらは優しくその肩を撫で、少しずつ下がっていく。程良く鍛えられた筋肉を確かめるように少年の細い指がなぞる。
キリエムは思いがけぬ感触に恍惚の溜息をもらした。先程までの危機感も恐怖心も忘れ、そっと両腕を捕まれた事の意味と、先程のフォウの言葉との間にあるものも考えなかった。目の前の薄く桃色に染まった女の瞼に侮蔑の表情を浮かべ、フォウは一気に両手の力を込めた。
「ぎゃっ!」
フォウの両手は血に染まり、その指の間からミンチ状になったキリエムの腕の肉がはみ出し、すでに掴んでいる感触は堅い骨の感触。さらに力を込めるとゴキッっという音と共に骨すらも砕け、そのままキリエムの腕は鈍い音をたてて地面に落ちた。
(私の・・・腕)
自分の腕が地面に落ちている。数々の美しいものたちを抱いた白い腕。数々の命を奪ってきた私の腕。それが今、血にまみれ、泥にまみれて地面に転がっている。
どういうことだ? 呆然と地面を見つめるキリエムの背後にふと目を止め、フォウはにんまりとすると、ステップを踏むような足どりで歩み出す。
かつてその巨体と怪力を誇った男の残骸の中から、一振りの巨大な斧を見つける。フォウの身体ほどの大きさのある鉄の固まり。古い貴族の屋敷にでも飾れば、さぞかし見栄えがするであろう。それを軽々と持ち上げ、同じように軽いステップで戻ってくる。
キリエムが振り返ったとき、スローモーションのように鉈を振り上げるフォウの後ろに大きな満月が見えた。その刹那、キリエムの中で何かがプツンと切れた音がした。
脚に燃えるような激痛が走り、世界はぐらりと横に流れていった。
血黙りのなかにぐしゃっと投げ出された時、キリエムの頭の中には、はやくシャワーを浴びたいということだけだった。
きっと今自分は血と泥にまみれ酷く汚れてしまったことだろう。熱いシャワーを浴びて、絹のガウンに袖を通したい。あの柔らかな感触。ああ、でももう、通す腕もないのだけれど。
頬に冷たい血の感触を感じながら意識の遠くに痛みを感じた。もう体を起こす腕もなければ脚もない。死というものをぼんやりと思った。他者の死は数多く見てきた。もちろん、その多くは自ら与えた死であった。しかし、自分の死を想像したことなどなかった。私は強かった。何者にも負けなかった。
だが、死ぬのか・・・私も。こんなところで、こんな姿で。こんな姿で・・・脚もない。腕もない。泥にまみれた芋虫のような姿。キリエムは大きく目を見開いた。満月を背にした美しい少年と、醜い芋虫と化した自分。醜い・・・醜い・・・。
「嫌あぁぁぁぁぁ!」
キリエムは絶叫した。死という恐怖に対してではなく、美しいものの前で醜悪な姿をした自分という事実に対して、心の底から絶叫した。
フォウはその姿をうんざりとした顔で見おろしていた。
「いやぁぁ・・・ひぃ・・ひゃ・・ひっぅ」
血と泥と涙にまみれ、笑いとも悲鳴ともつかない声を発しながら身を捩るキリエムを、フォウはそのまましばらく眺めていた。その悲鳴を聞きながら何処かでこんな姿を見たと思った。
あたりに転がる肉の塊たち。そして赤い芋虫。あの醜悪な大広間でそれを脅えて見つめていた自分。あの場にいた老人たちは全て殺した。ただ一人を除いて。どうしても見つからないアンチナチュル。そしてどうしても見つからないマザー。
フォウは肥大した月を見上げ、背中の翼を力一杯広げた。そして、それをアンテナに、辺り一面に信号を発した。マザー、何処にいるの? マザー、僕は此処だよ。それに答えるかのように、月の光が強まったような気がした。
その時、マザーの気配が一瞬強まった。脈打つように強まり弱まるマザーの気配。
近い。マザーは近くにいる。そう確信したフォウは翼をはためかせ空へ舞い上がった。廃墟を一望できる位に上昇する。瓦礫の山の中で一カ所、月の光を反射するかのように、弱々しく、そして優しく光を放つ場所があった。フォウの瞳に涙が溢れた。
見つけた。ああ、見つけたよ。フォウはその場所へ急降下していった。
瓦礫の隙間に、その光はあった。倒れた柱や、石の固まり、それらをゆっくりと、一つ一つ丁寧に取り除いていくとそれはあった。
それは優しく光を放ち脈打つ羽毛で覆われた球体だった。そっと手で触れると暖かく、柔らかだった。
フォウは頬を寄せ、小さな声で呟いた。
マザー・・・
球体は身を震わせるようにかすかに動き、そして蕾が花開くように、ゆっくりと開いていった。
そして、その蕾の中には、長い金の髪に包まれて美しい少女が眠っていた。
「マザー」
フォウはそっと名を呼んだ。ゆっくりと瞼が開き、菫色の瞳がフォウの姿を映す。
「私は・・・どうして? あなたは・・・フォウですね。」
初めて名を呼ばれ身を堅くして言葉を探している少年をよそに、少女は再び瞳を閉じ苦悩の表情を浮かべた。
「私は、覚醒してしまったのですね。とうとう・・・」
身を捩り、体を起こす少女の白い肩に、金の長い髪がさらさらと揺れる。
「長い夢を見ていました。いろんな夢を。」
ジュスティーヌは立ち上がり自らの変化を確認した。髪・・・いつの間にこんなに延びて・・・それだけ時間がたったという事なのか。手も、脚も何も変わってはいない。しかし・・・
背中に意識を集中させると、翼が大きく広がりひとつ羽ばたいた。フォウよりも大きな翼。たぶんどのエンジェルよりも大きく純白の翼。ジュスティーヌは羽根を一つ抜き取った。細かな痛みが走る。確かに自分の身体の一部なのだと感じた。一つ、また一つと羽根を抜いていく。涙を流しながら。
翼こそエンジェルのあかし。翼こそ、エンジェルの力の源。それはジュリエットの教えてくれたこと。
「私は出来そこないだから・・・無いのだけれど・・・」
そう、寂しげに微笑んだジュリエットは何処に行ったのだろう。何処にもいない。私の側にはいない。私の側には誰もいない。側にいるのはこの少年だけ。フォウ・・・MOTHERとして覚醒した記憶が知っている。私から作られたエンジェル。私の息子。私はMOTHER。全てのエンジェルたちの母。様々な映像が津波のように押し寄せる。そう、これは覚醒の最後の段階。そしてそれは、私は私でなくなってしまう瞬間。
そんなのは嫌だ!!
翼を握りしめ、ジュスティーヌは渾身の力を込めた。メキメキと鈍い音をきしませて右の翼が軋む。皮膚の裂け目から血が溢れだし、喉元まで来た悲鳴をぐっと押し止める。ジュスティーヌの額に汗がにじむ。歯を食いしばり、一気に力を振り絞った。ベキッと大きな音と共に、翼は血飛沫をあげてもぎ取られた。
「ぐっ・・・・あぁぁ・・・うぁ・・・」
気が遠くなるような激痛。生々しい切断面を見せて、真っ赤に染まった巨大な翼が地面に転がった。
汗が涙と共に顎を伝い滴り落ちる。膝をつき、痛みに震える肩を抱く。力を込めすぎた爪が両肩に食い込む。
マザー・・・
フォウは驚愕のまま身動きもとれず、その光景を見つめていた。
自らの翼をもぎ取り、苦痛に眉をひそめ、自らの血にまみれた片翼の女神はあまりにも美しかった。
ジュスティーヌの唇が激痛に震えた。
「私は・・・翼なんて・・・いらない・・の。MOTHERでも・・・ANGELでもないのよ。」
震える指先が、もう片方の翼を握りしめる。背中の傷口が炎に炙られるように熱い。でも、エンジェルになるのは嫌だ。あの男の、アンチナチュルの思惑通りになるのなんて絶対に嫌だ!! 今ジュスティーヌを支えているのはアンチナチュルに対する憎しみだけだった。私から全てを奪っていった男。そして今もその手の中で踊らされている。
こんな物があるから・・・こんな物さえなければ・・・
ジュスティーヌは歯を食いしばり翼を握りしめる。痛みで頭がおかしくなりそうだ。覚醒の初期段階。あの時の苦痛が甦る。頭の中でアンチナチュルの下卑た笑い声が反響した。
「やめ・・・て・・・う、うああああああああああ!!」
絶叫と共に最後の翼は投げ出され、ジュスティーヌの背中から止めどもなく鮮血が溢れる。そして、ふらりと立ち上がるとそのまま、気を失ってその場に倒れた。
そのまま1週間、ジュスティーヌは立ち上がることすら出来なかった。翼をもぎ取った痛みと、激しい高熱のためか、身を捩り、フォウが何処からかみつけてきた毛布もビリビリに引き裂いた。眠りについてはうなされ続け、ジュスティーヌは日々、衰弱していくようだった。
此処には傷を洗う水もなく、埃にまみれた布しかない。清潔な布と水を求めて、フォウは毎日島中を飛びまわった。その間、ジュスティーヌを一人にすることは不安だった。ある日、泉を見つけてそこにジュスティーヌを移したころにはもう背中の血も止まり、静かな寝息も聞こえるようになっていた。
フォウの運ぶ新鮮な果物を食べ、ジュスティーヌは徐々に回復していった。しかし、獣の肉は決して口にしようとはしなかった。
フォウが泉に映る月を眺めていると、ジュスティーヌがそっと隣に腰を下ろした。
「アンチナチュル・・・世間ではあの男が死んだと言う。でもそんなこと信じられない。そんなに簡単に殺されるなんて信じることが出来ない。きっと何処かで生きている。そんな気がするの。フォウ、貴方はある意味『ANGEL』としての完全体なのかもしれない。私は、貴方のように躊躇いもなくすべてを破壊していくことは出来ません。だからこそ、私にはフォウが必要なのです。」
ジュスティーヌはフォウの髪を撫でながらゆっくりと言った。瞳が悲しげに潤んでいる。
「私は私の復讐心の為に、只それだけで動いているのかもしれません。それでも私は悪魔になんかならない。あの男と同じになんてならない。私と一緒に、行ってくれますか?」
フォウの目から涙があふれ握りしめた拳に滴り落ちる。回路はただ一つの答えを出した。
「僕の望みはマザーに喜んでもらうこと。」
(ジュスティーヌ、もう一人の私。)
ジュリエットはその側まで来ているジュスティーヌの気配を感じていた。もうすぐここに現れる。しかし彼女にはそれが嬉しいのか、悲しいのかわからなかった。
「どうした? ジュリエット。何を考えている?」
「あの女がここ来ます。」
ジュリエットは男の膝に身をすり寄せ、その黄金の髪への愛撫にうっとりと目を閉じた。
「私は貴方の僕。私は貴方の喜びのためにあり、破壊と快楽のためには何も惜しまなくてよ。だから、私があの女を殺してさしあげますわ。この世でもっとも残忍なやり方で。貴方様のために。」
男は髪を掴むとそのままジュリエットを床に投げ出した。打ちつけられた背中に痛みが走る。それすらも、今のジュリエットには心地よい。男はそのままジュリエットに馬乗りになった。片手でブラウスのボタンを引きちぎり、もう片方の手でスカートをたくし上げた。男の骨ばった大きな手が脚の間をまさぐり乱暴に茂みに分け入ってくる。その痛みと喜びに震えながらジュリエットは気づきたくなかったことに気づいてしまっていた。
ジュリエットは喘ぎながら囁いた。
「一つだけ、お伺いしたいことが御座います。何故、私をジュスティーヌと同じ姿形におつくりになったんですの?」
声が震えるのを感じた。知りたい。でも、知りたくない。涙が頬を伝うのを感じた。
男は一呼吸置いて呟くように答えた。
「ただの・・・気まぐれにすぎんよ。」
ジュスティーヌはフォウに抱き抱えられたまま、空の上からそれを見つけた。魂の双子として、ジュスティーヌにはジュリエットの居場所を感じとることなど訳もなかった。しかし、今では遠く離れた場所からでは彼女の心を感じとることが出来なくなっていた。ジュリエットに何があったのか。それがなんだかとても不安だった。
果てしなく砂の海が続いていた。どこまで行っても何もない。しかし、確かにこの向こうにジュリエットはいる。
砂漠の中にぽつんと浮かぶ丸い大理石のステージ。
その中央にしつらえられた玉座には男が座っていた。そして、その男の上にいるのは・・・。
慈愛のほほえみを浮かべた悪魔の腰から生えたその真っ白な肢体。その真っ白な翼。足を絡ませ、腕を絡ませ、腰をくねらせながら快楽に頬を紅潮させたあの姿は鏡の中の私の姿。
フォウと共にその冷たい床に降り立ち、ジュスティーヌは言葉を失った。
ジュリエット・・・何故・・・?
やめて、思い出させないで。私の罪を。地獄に堕とされたあの悪夢の日を。
---本当は、嬉しかったんだろう---
違う、そんなことない。あんな、汚らわしい・・・おぞましい・・・
---大好きな“お父様”に抱かれて、嬉しかったくせに---
違う違う。
---ずっと、望んでいたことのくせに---
やめてぇぇぇぇ!!
耳を押さえて絶叫した。直接脳に響いてくる言葉に、耳をふさいでも無駄なことはわかっていた。いつまでも頭の中でこだまするけたたましい笑い声。
ジュリエット!! もう止めて!! やめて、私と同じ顔をしてそんなことをするのは止めて。
涙が止まらなかった。翼をもぎ取った後の傷が酷く痛んだ。
「とうとう此処まで来たね。どうしたね、儂が生きているのがそんなに驚きかね。儂は死なんよ。そろそろ大統領なんてものも飽きてきたのでね、人形を代わりにおいてきたが、できが悪かったようだな。あっさり壊されおって」
ジュスティーヌの姿を眺めながら、アンチナチュルはふと、眉を動かした。
「ふん、翼はどうしたのだね。お前には特別大きなものをつけてやったはずだが・・・。」
ジュリエットが肩越しに振り返る。ジュスティーヌを一瞥するとアンチナチュルの上から降り、その足下にしなだれた。一糸纏わぬ姿でアンチナテュルに寄り添い、これ見よがしに身をくねらせる。
「昔のように、お父様とは呼んでくれないのかね。」
ジュスティーヌはかつて父であった男を睨みつけた。
「誰が・・・」
「まぁ、いいさ。お前がどんなにあがこうが、この私と血がつながっていることは生涯変えることの出来ぬもの。私と、あの性悪女の娘なのだよ。お前は。」
アンチナチュルは愛しげに娘を眺めた。ジュスティーヌの脳裏に、写真でしか知らぬ母の姿が浮かんだ。小さな頃、床に並べた母の写真を飽きることなく眺め続けた。物心つかぬうちに帰らぬ人となってしまった母。父は滅多に家には帰ってこずに、殆ど家政婦に育てられた子供時代。母の写真を見ていると、不思議と寂しさは薄らいだ。どの写真も優しい笑顔で自分を見つめ返している。大切な思い出。大切な人。
「お前も知っているだろう。かつては私も人々の『よき隣人』であったのだよ。穏やかな笑顔と、愛情あふれた心を持った、国民の望む理想的な大統領であったさ。しかしね、ある日私は知ったのさ。自分の本質をね。
おまえの母であり、我が妻であった女はそれは美しい女だった。いつも笑顔を絶やさず、穏やかな物腰で・・・。
しかしね、本当は違っていた。本当のあいつはただの淫売でしかなかった。それも天才的なね。大統領夫人という表の顔を巧妙に隠して、裏の世界では評判の娼婦だった。何百人という男をくわえ込んだものかしれないね。今の俺と同じ、果てしない肉欲に憑かれて、ありとあらゆる行為をしていたよ。しどけない姿で男を誘うあいつの姿は、それはもう、芸術的に美しかったね。
おまえの母とは、そういう女さ。お前とて、本当に儂の子かどうか怪しいものだがね。」
ジュスティーヌの噛みしめた唇から、一筋の血が流れた。その目は一層憎しみに燃えあがった。そんな娘の姿を満足そうに眺めると、ゆっくりと葉巻に火をつけた。白い煙がゆらゆらと上っていく。
「お前はわかってはいないかもしれないが、儂は今でも愛に溢れているさ。ジュスティーヌよ。お前は愛というものを薄汚い偽善という上に成り立っているなどと思っているのではないだろうな。愛とはね、ただの欲望でしかないのだよ。欲望こそが人間の本質なのさ。そのために人は生き、そして死んでいくのだ。物欲、食欲、肉欲、こんなにも数限りない欲望を抱えているのは人間だけではないのかね。素直にそれを認め、それのみに生きていくものが何より人間らしいとは思わないか。
私はこの日のために力を蓄えてきたのだよ。地位、金、権力、すべて私が私の力で手にしてきたのだ。
そして、力のないものは、力あるものに食われるのは人が動物であったときから変わらない地球上の理だ。
私はかつて死の広野に小さなソドムを築いてみた。しかし、あれはただの余興に過すぎないのだよ。私はね、この地球上を丸ごとソドムに変えるのだ。
あの女の腹から、ありとあらゆる罪の子をつくり、その子供たちがこの地球上を埋め尽くすのさ。この地は罪の子供たちであふれ、罪と欲と血で染まるだろう。同じ母を持つ子供らは兄は妹と、姉は弟と、弟は兄と、妹は姉たちと犯しあい、殺しあい、血を飲み、肉を食らうのさ。愉快じゃないか。」
ジュスティーヌの周りで風が渦を巻いた。怒りと憎しみが放電し、風に舞って弾けた。
「私は貴方とは違うわ。貴方のように悪と欲望に身をゆだねた生き方なんて理解できない。私は人として生きるの。」
「人としてだって? はっ、くだらない。実にくだらないね。人間というのは。人は進化しすぎた。同じ形のまま、短時間で進化の最終まで来てしまった。後はもう、滅びを待つしかないのではないのか? その最後のラッパを儂が吹いてやろうというのだよ。虫けらどもなど、涙を流して喜ぶがいいさ。」
「貴方になど愛を語る資格などないわ。」
甲高い笑いと共にジュリエットは優雅な仕草で立ち上がると髪を掻き上げ顔を上げた。
「貴方にならあるというの? ジュスティーヌ。お笑いね、まったく。」
ジュリエットの瞳はジュスティーヌ一人を見据えていた。狂気を含んだ嫉妬の瞳で。左手に剣を握りしめ、ゆっくりと歩み寄る。
「近寄るな。」
フォウのはなった疾風がジュリエットを取りまいた。ジュリエットの髪が風に舞う。
「お黙り、お前などに用はないわ。」
ジュリエットの左手に握られた長剣が唸りをあげて振り下ろされた。フォウは風を巻いて壁をつくり、それを防いだ。
ゆっくりと、一歩ずつ近づくジュリエットに、ジュスティーヌは身じろぎ一つしなかった。
「あの方の愛はおまえ一人に向けられている。そんなこと、許せることではなくってよ。」
あの頃の二人ではない。お互いに変わってしまった。それでもジュリエットの心にはあの日と同じようにジュスティーヌの心が流れ込んでくる。心の中を渦巻くのは憎しみ、憎悪、怒り、そして悲しみ、憤り。瞼の裏で色とりどりの光がスパークした。
ジュリエットの冷たい手がジュスティーヌの頬に触れた。
「私はお前のコピー。私は私じゃぁない。でも、お前が死ねば、私は私になれるのよ。この顔も、この身体も、所詮は偽物。あの方の愛だって・・・」
地響きと共に床に亀裂が走った。
「だから、死になさいな。」
ジュリエットの髪が波打ち、蠢いた。ぞろぞろとジュスティーヌの身体を這い回り、徐々に締め上げていった。身動きのとれないジュスティーヌの身体は軽々と持ち上げられた。一本一本が細い針金となり、もがけばもがくほど、ぎりぎりと皮膚に食い込む。
「ジュリエット・・・」
ジュリエットを殺すことなど出来ない。しかし、このまま殺されるわけにはいかない。ジュスティーヌは溢れそうになる涙をこらえ、ジュリエットから顔を背け、フォウの名を叫んだ。
すでにジュリエットの背後で身構えていたフォウは、その呼び声を合図に翼を広げた。
左右に大きくひらかれた翼から、風が唸りをあげてジュリエットの背中めがけて押し寄せる。風は刃となり、ジュリエットの皮膚を切裂き、鮮血が霧のように飛び散った。
鋭い風刀の余波は、ジュスティーヌの身体にも、無数に浅い切傷をつくってゆく。
それに反して、ジュリエットの皮膚は切裂かれたそばから、次々ともとの肌に再生していった。これではきりがない。
「ちっ」
いたずらにマザーの肉体を傷つけるだけだと悟ったフォウは、風を止め、ジュリエットの背後に飛びついた。そしてその怪力で、羽交い締めにする。
ジュリエットの腕が、枯れ枝を折るようにあっけなくねじ曲がった。
「どうしてもお前の相手が先のようね」
ジュリエットはやはりいとも簡単に腕をもとに戻すと、ジュスティーヌに絡みついた髪をいったんほどいた。ジュスティーヌの身体が無造作に投げ出される。
そのとき、フォウが笑った。
「馬鹿め」
アンチナチュルがぼそりと呟く。その言葉は、ジュリエットの方に向けられているようだ。
フォウとジュリエットが組みあった。ジュリエットの髪が、液体のようにうねりだしたかと思うと、今度はフォウの身体に絡み付いた。
だがフォウは姿勢一つ崩すことなく大きく広げられた翼もそのままであった。
「さっさと死になさい」
フォウの身体にジュリエットの髪がめりこんでゆく。フォウの全身から血けむりがあがった。
しかしフォウの表情は、さざ波ひとつたたぬ水面のごとく、冷静だった。
「?」
フォウの翼から、再び風が唸り声をあげた。今度はさっきのような皮膚を切裂く程度のものではない。骨まで絶ち切るような轟風だった。
ジュリエットの身体は瞬く間に切り刻まれ、手足から胴体に到るまで、みるみる肉片と化してゆく。その破壊のスピードに、再生が追い付かない。
ジュリエットの表情に、明かな恐怖の色が浮かびあがった。相手に絡み付けた髪の毛の為に、かえって逃げる術を失っている。
「お、お父様、た、たすけて・・・・」
アンチナチュルはゆっくりと葉巻に火をつけていた。まるでショーでも鑑賞しているかのようだ。
「お父様ぁぁぁ!!」
フォウがふん、と力を入れると、翼からそれまでの数倍の轟風が吹き上がり、一瞬にしてジュリエットの首から下は、跡形もなく血の霧となり飛んでいった。
ジュリエットの首が宙に舞い、アンチナチュルの膝に落ちる。
「・・・・フォウはANGELの完全体だ、お前とはパワーが違うよ。お前もちょっとは完全体に近づけてはみたが・・・まぁ、ここが限界という訳か。」
アンチナチュルは、既に物体と化したジュリエットの首に話しかける。
「ジュスティーヌを手中にしている内は、お前にも勝算はあった。マザーを道連れにしない限り、フォウには10分の一の破壊力も行使できなかったからな。そんなことも解らず、自分の力を過信しおって」
アンチナチュルはジュリエットの首を無造作に投げ捨てた。
「所詮、失敗作・・・か。」
アンチナチュルは、つまらなさそうに葉巻を揉み消した。
「貴方のために死んでいったジュリエットに対して、それだけなの?」
傷ついた身を起こしながら、ジュスティーヌが言った。
「偽善的な台詞はやめることだな。お前等が殺したのではないか。」
「次はお前の番だ」
フォウがアンチナチュルを睨みながら、身をかがめる。しかし、その身体は舞い上がることなく、ふいに小刻みに震えだした。
アンチナチュルの発する眼光が、フォウの全身の動きを封じている。
フォウは白目を剥いて、そのまま仰向けに地面に倒れた。
「お母様は何処なの。」
「ふっ、会いたいか。母の正体をきいてなお、まだ、母を慕えるのか。」
「お前の言葉など信じるわけないじゃないの!!」
ほとんど悲鳴に近いジュスティーヌの叫びに、アンチナチュルは目を細め、手元のスイッチを押した。アンチナチュルの背後から強烈な光が放たれ、眩しさに目が眩む。光に網膜が焼かれ視界は白一色となった。
刹那、その純白の世界に見知らぬイメージが映し出された。
暗い部屋、隙間なく埋め尽くすチューブと丸いカプセル。ぬらぬらとした壁が、それ自身脈打っているかのように蠢いている。その中央、全てのチューブの先は一人の女に繋がっていた。塗り込められたように、柱と同化している。ゆっくりと上げた顔は焦点の定まらない瞳でニヤニヤと笑っている。
“お母様?”
全身の力が抜けたように膝をつき、涙を流す。
いけない、これは幻覚なのだ。惑わされてはいけない。ジュスティーヌは一際強く瞼を閉じ頭の中のイメージを消し去ろうとした。ゆっくりと目を開ける。目の前には血の色をした瞳のアンチナチュルの顔があった。
「ジュスティーヌ、幻と思うのか? お前が望んだものだぞ。この砂漠の地下深く、巨大な迷宮の女王となった、お前の母ぞ。
儂を憎むか? 憎むのか・・・それで良い。そうして、憎しみに燃え、猛り狂うおまえのなんと美しいことか・・・儂は我慢できなくなるぞ。我慢など出来るものか。お前のその真っ白な四肢が傷つき血にまみれる様のなんと美しいことよ。思い出すがいい。儂に抱かれたあの夜を。己が父に愛撫され、貫かれ、悶え苦しんだあの夜を。今一度、抱いてやろうぞ。」
ジュスティーヌの背中に両腕を回し血を流し続けるその背中の傷をゆっくりとなぜまわす。
「翼を捨てたか、父の贈り物を捨てたか? ふはははは」
アンチナチュルは長い爪を立ててその傷口を抉った。ジュスティーヌの絶叫が響きわたる。
「父殺しの娘よ。その罪は死に値する。さぁ!!」
アンチナチュルは血に濡れた右手に剣をもち、ジュスティーヌの腹部に深々と突き刺した。
「ぐふっ・・・」
ジュスティーヌの口から血が溢れたが、アンチナチュルの頬にかかる。
「私には・・・解るわ。自然の神は、貴方の野望を許さないでしょう。」
「馬鹿なことを。神など、存在しないというのが、まだ解らんのか。」
ジュスティーヌの血に呼ばれたかのように、空は一瞬にして暗雲にかき曇り、雷鳴が轟いた。命を持つもののような稲光が黒雲の隙間で蠢いている。
「神は・・・この世界がある限り・・・必ず存在します。この・・・何億年のあいだ、地球が・・・繁栄し、多くの・・生き物達・・の夢と希望を育て続けてきたのは何のためだと思う? お前のようなすべてを無に還してしまうような、破壊の権化を生みだすためではなくってよ!」
アンチナチュルはさらに力を込めた。ぎりぎりと締め上げ得られる。突き刺された剣はなおも食い込む。背骨が砕けるような激痛にジュスティーヌは悲鳴を上げる。
「これで終わりだよ。」
ジュスティーヌは朦朧とした意識の中でフォウを探した。
フォウは血に染まった床の上で目を見開いたまま、全身を痙攣させていた。先程のアンチナチュルの思念波をうけて、まだ幻覚の中にいるのだろう。
“フォウ、後は頼みました”
ジュスティーヌは最後の力を振り絞り、ゆるゆると右手をあげた。
暗雲の隙間から一筋の閃光がきらめいた。次の刹那、稲妻は轟音と共に二人の身体を走り抜け、 そのまま燃え盛る火柱となった。
「ジュスティーヌ・・・」
アンチナチュルの最後の囁きも、ジュスティーヌの最後の涙も焼き付くし、炎は揺らめき燃え盛った。二人の身体が炭になり、灰になって風に散るまで1カ月の間燃え続けた。風も雨もこの炎を消すことは出来なかった。
アンチナチュルの死により意識を取り戻し、ただ一人残されたフォウは涙枯れることなく、硬直したまま、この炎を瞳にうつし続けた。ゆらゆらと、踊るように燃え盛る二人の影。
どのくらいたったのだろう。気がつけば周りには何もない。ただ、茫漠とした砂漠が広がるばかり。放心状態のフォウを、一陣の風が取りまいた。その風に乗り、マザーの囁きが聞こえた気がした。
この砂漠の地下深く広がる巨大な迷宮。そこには無数の胎児が眠っている。
目覚めの時を待ちながら、怠惰な夢を貪っているのだ。産声と共に始まるソドムの饗宴を夢を・・・。
マザーの望みはまだ果たされてはいないのだ。
僕はそれを壊さなければいけない。そう。それがマザーの望み。
フォウは翼を広げ、一つ大きく羽ばたいた。休息の場所を探すために、ソドムの炎が吹き上がるまで。
そして、空高く飛び立った。
Fin